All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

「おばあちゃんと……話して……」心愛の身体が凍りついた。恐る恐る振り返ると、祖母・文子の瞳には、かつて見たこともないほどに澄み渡った光が宿っていた。「あの、ペンダントは……」文子は荒い息を吐きながら、縋るように心愛をじっと見つめた。「お前の、ペンダント……まだ、持っているかい?」心愛の心臓が、どくんと深く沈み込む。あのペンダント――桐生家で葵に奪われ、あざ笑うかのように粉々に砕かれた、あの形見のことだ。彼女が言葉に詰まっている間にも、文子は祈るように言葉を重ねた。「大切に……大切に持っておくんだよ……」文子の声に、悲痛なまでの切迫感が混じる。「あれは……お前の出自を証明する、唯一の証拠なのだから。いつか、私がいなくなっても……お前が本当の両親を探し出せるように……」「嫌、嫌よ!」心愛は激しく首を振り、溢れ出す涙で視界を滲ませた。「おばあちゃん、死なないで!私、ずっとそばにいるから!どこにも行かないで……っ!」「馬鹿な子だね……」文子の口元に、慈しみと哀切が入り混じった、消え入りそうなほど淡い微笑が浮かんだ。「人は老いれば、いつか旅立つ日が来るものさ……死ぬこと自体は怖くない。けれど、ただ……お前のことだけが心残りで。……いい子だ、もう泣きなさんな。おばあちゃん、もう力が入らなくて、お前の涙を拭いてやることもできない。これからは、誰よりも自分を大事にするんだよ」文子の視線が、ふと遠い空の向こう側を彷徨った。「俊輔……私の、愛しい俊輔……あの子は昔から、何より真っ直ぐな子だった。あの子が人を殺めるなんて……そんなこと、あるはずがない……」「おばあちゃん!」心愛は、自分の命を分け与えようとするかのように、文子の痩せ細った手を力一杯握りしめた。「安心して。私、誓うわ。俊輔のために、絶対に真実を暴いてみせる。あの子を必ず、助け出してみせるから!」「ああ……良い子だ……」文子の瞳に、最期の光が灯った。彼女は心愛の手を握り返し、残された全生命力を振り絞るようにしてその指先に力を込めた。「深水家には……もう俊輔しか、跡取りは残っていない。心愛、これからは……あの子を、お前の弟を、どうか頼んだよ……」「必ず守るわ!」心愛は文子の手を濡れた頬に押し当て、声を上げて泣いた。「約束するわ、おばあちゃ
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第102話

広々とした廃倉庫の中、心愛は祖母の傍らに膝をつき、糸の切れた真珠のように涙をこぼし続けていた。声も出さず、ただ肩を激しく上下させながら嗚咽を漏らす。喉を強く締めつけられたようで、何ひとつ音を発することができない。どれほどの時間が過ぎたのか。やがて、涙も枯れ果てたようだった。彼女はゆっくりと顔を上げ、手の甲で乱暴に涙を拭う。冷たい雫は埃と混ざり合い、頬に無残な筋を残した。そして静かに祖母を見つめる。そこに横たわる老人の顔からは苦痛の色が消え、口元にはかすかな安らぎすら漂っていた。それは、かつて何度も病院で日光浴に付き添い、祖母がうたた寝に落ちたときに見せていた表情と、まるで同じだった。あまりにも、穏やかだった。ふと、心愛は泣き止む。震える手を伸ばし、そっと布団を引き上げると、すでに冷えきった祖母の手を覆った。「おばあちゃん……」からからに枯れた、掠れたか細い声が漏れる。「おやすみなさい」「私がここで、見守っているから」彼女は膝をついたまま、独り言のようにぽつりぽつりと語り始めた。「私たち……こうして静かに二人で話すなんて、久しぶりだね。いつもは私が話して、おばあちゃんが聞いてくれて。おばあちゃん、雀みたいにピーチクパーチクうるさいって、よく私をからかったけど……でもね、私はおばあちゃんに話すのが大好きだったの。桐生家のことも、貴臣のことも……誰にも言えなくて、おばあちゃんにだけ、こっそり打ち明けていたのよ。でも今は……もう、話すことなんて何もないわ」彼女は唇を震わせる。「ねえ、おばあちゃん……起きてよ。お願い……」再び、涙がぽたりと落ちた。「貴臣……あなたは葵に弟の弁護をさせて、あの子を刑務所に送った。その上、今は葵のために、おばあちゃんで私を脅して妥協させた……まさか、本当におばあちゃんをこんな場所に捨て去るなんて――」声はかすれ、やがて途切れそうになる。「おばあちゃん……もし過去に戻れるなら、私、絶対に貴臣なんて選ばないわ」数年前、深水家に引き取られた当時。正体不明の養子だと陰口を叩かれ、使用人にさえ軽んじられていた自分。その時、最後に間に入り、自分を深水家の令嬢として認めさせたのは、他ならぬ祖母だった。心愛は祖母を丁重に弔いたいと願い、誰に場所探しを頼めるかと
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第103話

加賀見本社のオフィス。窓の外を見つめる暁の指先には、半分ほど灰になった煙草が挟まれていた。受話口越しにその言葉を聞いた瞬間、スマートフォンを握る指先が白く強張った。叩き壊さんばかりの力が、その薄い端末に込められる。「一体どこで見つけ出してきたんです。これほど年月が経って……加賀見夫人も、さぞかしお喜びでしょう」真輔の弾んだ声が再び響く。「結果は……本当に、間違いはないんだな?」暁の声は張り詰め、本人も気づかぬほどに微かな震えを帯びていた。「間違いありませんとも!」真輔は快活に笑い声を上げた。「おめでとうございます、加賀見さん。ついに見つけ出したんですね。あなたの妹を……!」「鑑定書は、先にファイルに入れておいてくれ。後で昂一を向かわせる」はやる鼓動を抑えきれず、暁は遮るように言い放った。脳裏に浮かぶのは、心愛のあの蒼白で頑なな横顔だ。重なり合った誤解。そして、自分でも持て余していた「身代わり」という残酷な言葉。この二日間、彼の胸には巨大な礫が居座り、呼吸をすることさえままならなかった。弁明したくとも、鑑定という裏付けがない以上、どんな言葉も虚ろに響く。向けた慈しみや執着を、ただ「若い頃の加賀見夫人に似てるから」という身勝手な理由で片付けられたくはなかったのだ。だが、ついに真実が手に入った。ようやく彼女にすべてを明かせる、揺るぎない証を。暁は煙草を灰皿に押し付けると、電話を切り、すぐさま内線ボタンを叩いた。「深水さんは今日、出社しているか?」問いかける声は性急で、隠しようのない焦燥が滲んでいた。「ただちに確認いたします」受話器の向こうで、昂一がただならぬ気配を察して即答する。昂一はデザイン部長の理恵に連絡を取り、数分と待たず暁へ折り返した。再び受話器を取った暁の耳に、昂一の報告が届く。「木村さんの話では、深水さんは今日、高橋さんと共に和井田病院へ向かったとのことです」「和井田病院だと?」暁の眉が不快げに跳ね上がった。連日メディアを賑わせている、忌まわしい社会ニュースが脳裏をかすめる。老人への虐待が明るみに出、食事が豚の餌同然とまで酷評された、あの病院ではないか。「あの二人が、あのような場所で何をしている」低い声に冷徹な響きが混じる。昂一が淀みなく説明を続
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第104話

黒のベントレー・ミュルザンヌが、猛スピードで和井田病院の駐車場へと突っ込んできた。タイヤと地面が擦れ合う鋭い悲鳴のような音が響き渡り、散歩をしていた数人の老人たちが驚いて一斉に振り返る。「バン!」という轟音とともにドアが押し開けられ、暁は長い脚を踏み出して車から降り立った。斜めに停まったままの車には目もくれず、彼はそのまま病院のメイン棟へ向かって大股で歩き出す。歩みの速さが生む風に煽られ、トレンチコートの裾が激しくはためいた。頭の中にあるのは、ただ一つ――心愛。一刻も早く彼女を見つけ出し、すべてを説明しなければならない。院長室。碧が院長の誠一郎とロゴデザインの打ち合わせをしていると、突如としてドアが外から激しく押し開けられた。「バン!」あまりの轟音に、二人は飛び上がらんばかりに驚き、揃って入口へと目を向ける。そこに立っていたのは、すらりとした長身に端正な顔立ちを持つ男。しかし、その身に纏う威圧感は、息が詰まるほど重苦しかった。碧はその姿を認めるや否や、手にしていたバインダーを「パサッ」と床に落とし、愕然として口をあんぐりと開けた。「しゃ、社長?どうしてここに……」なぜ暁がこの場所を突き止めたのか、碧には見当もつかなかった。誠一郎は当初、無礼な来客に不快感を示し、一喝しようと口を開きかけた。だが「社長」という言葉を耳にした瞬間、頭の中で思考が一気に回り始める。――社長?この街で、碧がそう呼ぶ相手といえば……加賀見グループの社長、そして法曹界でも絶対的な権力を持つ加賀見暁、その人しかいない。次の瞬間、誠一郎の表情は揉み手でもしそうな卑屈な笑みに変わった。慌ててデスクの裏から回り込み、小走りで近づくと、両手を差し出してへりくだった声を張り上げる。「おやおや!加賀見さん、これはこれは、ようこそお越しくださいました。当院のような場所にわざわざ……お出迎えもできず、誠に失礼いたしました!」だが、暁の視線は誠一郎には一切向けられない。彼を完全に無視し、そのまま真っ直ぐ碧の顔へと突き刺さっていた。暁がわずかに身をかわした瞬間、誠一郎の差し出した手は空を切る。笑みは凍りつき、彼は気まずそうに手を引っ込め、所在なさげに指先を擦り合わせた。「彼女はどこだ」低く、冷たい声が室内に落ちる。その圧に押され、
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第105話

「失礼ですが、深水俊輔のご家族はいらしていますか」暁は刑務所の受付窓口へと歩み寄り、職員に問いかけた。職員は手元の作業を止め、顔を上げて彼を一瞥すると、「いえ、まだ来ていませんよ」と素っ気なく答えた。――まだ来ていない?暁の心臓が、嫌な予感とともにどくんと沈んだ。そんなはずはない。彼の視線は、職員が広げている来客記録簿へと向けられた。俊輔の名が記された欄の右側は、確かに空白のままだった。職員は、彼が食い入るようにその名前を見つめていることに気づくと、値踏みするような視線を何度か走らせ、探るように尋ねてきた。「失礼ですが……あなたが深水俊輔さんのご家族ですか」暁は一瞬の躊躇を見せたが、喉仏を動かし、ようやくその言葉を絞り出した。「……ええ、そうです」「ああ、それならちょうどいい。中に入って彼に会ってやってください」職員は肩の荷が下りたように言った。「あの子ときたら、どうにも強情でしてね」暁の胸中で、不安が澱のように重く沈んでいく。彼は声を低く抑えて尋ねた。「……何があったのですか」「いやあ、聞いてくださいよ」職員は厄介ごとを払うように手を振った。「今朝の検房で、あいつの枕の下から煙草が一箱見つかりましてね。本人は認めず、同室の奴が寝ている間に忍ばせたんだと言い張る。だが相手も認めない。そうこうしているうちに、二人は取っ組み合いの喧嘩になりまして」暁の顔色が、瞬時に氷のように冷たく、昏く沈んだ。「その後の状況は?」「結局、防犯カメラを確認したところ、本当に相手の男が仕込んでいたことが分かりましてね。今は彼を別の部屋に移し、家族に情緒を安定させてもらおうと呼び出したわけです。あの子、今はかなり自暴自棄になっていますから」暁の拳は傍らで固く握りしめられ、指の関節が白く浮き上がるほどに力が籠もっていた。「怪我は……酷いのですか」「命に別状はありませんよ。掠り傷程度です。頭の皮が少し切れたくらいですから」職員は事もなげに言い放った。暁はそれ以上言葉を返さず、促されるまま面会室へと足を進めた。部屋の中では、痩せさらばえた一人の少年が、力なく椅子に座りうなだれていた。その頭部には無造作に厚い包帯が巻かれ、白い布地には点々と鮮血が滲んでいる。その光景はあまりに生々しく、見る者の胸を刺した。これが、職員の言
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第106話

清夏はすぐに心愛を迎えに行き、祖母を斎場へと送り届けた。それは彼女が祖母のために選び得た、精一杯にして最も立派な送り先だった。費用は貴臣が負担した。皮肉にもそれは、葵に嵌められた心愛に対して、貴臣が抱いたわずかな罪悪感の表れに過ぎなかった。「心愛」背後から清夏の声がした。彼女はパンが入った袋を手に提げ、それを心愛の隣の空いた席にそっと置いた。「パンを買ってきたよ。昨日の夜から何も食べてないんでしょう。少しでもいいから口にして」そう言って、清夏はパンのパックを開ける。「……食べられない」心愛の声は今にも消えてしまいそうなほどか細かった。清夏は小さくため息をつくと、それ以上は無理に勧めず、静かに彼女の隣に腰を下ろした。「手続きは全部終わった?」「うん……全部終わった。葬儀は簡素にするつもり」祖母は生前、他人に迷惑をかけることを何より嫌っていた。今、心愛にできるのは、あの薄汚れた連中に邪魔されることなく、静かに見送ることだけだった。「それならよかった」清夏はそっと彼女の背を撫でる。その手つきは、ひどく優しかった。「残りのことは、私も一緒にやるから」その時、心愛のスマートフォンが鳴った。碧からの着信だった。ずっとマナーモードにしていたせいで、今の今まで気づかなかったのだ。心愛は画面をスワイプして通話を繋ぎ、スマートフォンを耳に当てた。「深水さん、どこにいるんですか?木村部長がずっと探してますよ」碧の声には明らかな焦りが滲んでいた。心愛は目を閉じ、喉の奥に苦いものが込み上げるのを感じた。その瞬間、ようやくすべてを思い出す。「高橋さん……実は……」掠れた声で続ける。「家族に事故があって……木村部長に、数日間お休みをいただけるよう伝えてもらえまないかな」電話の向こうで、碧が言葉を失った。すぐに異変を察したのだろう。「事故って……何があったんですか。声もすごく沈んでるし……深水さん、今どこですか?」「……おばあちゃんが、亡くなったの」その言葉を口にした瞬間、胸の奥から再び悲しみが溢れ出した。電話の向こうは一瞬で静まり返る。数秒の沈黙の後、碧はぎこちなく言葉を紡いだ。「ご、ごめん、深水さん……そんなこととは知らなくて。あまり思い詰めないでくださいね。おばあちゃんのこ
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第107話

いつ帰るかって……?心愛は笑い飛ばしてやりたかった。だが、口角を持ち上げるだけの力さえ残っていないことに気づく。帰る場所など、どこにあるというのか。あの、すでに葵のものとなった新居か。それとも、自分が押し込められていたあの物置部屋か。ふと、この電話をかけたこと自体が、ひどく空虚な茶番のように思えてきた。「貴臣……おばあちゃんの葬儀には、来てくれるの?」その時、受話口の向こうから誰かが彼を呼ぶ声がした。甘く弾む、どこか媚びるような女の声。「貴臣、こっちに来てよ。みんながお酒を飲もうって待ってるわ」葵だ。その声は、はっきりと心愛の耳に届いていた。次の瞬間、貴臣の苛立った声が重なる。「もういい。用があるなら帰ってから聞く。今は忙しいんだ」通話は、容赦なく途切れた。氷のように冷たい静寂が落ちる。心愛の脳裏には、「今は忙しい」という言葉が何度も何度も反響していた。――ああ、そうね。彼は忙しい。あの女と杯を交わし、大勢の祝福を受けることに。おばあちゃんの命よりも、たかが送別会の方が大事だというのか。これが、自分が三年間愛し続けた男の、本当の姿だった。傍らですべてを聞いていた清夏は、怒りに全身を震わせていた。彼女は心愛のスマートフォンをひったくり、今すぐかけ直して怒鳴りつけようとする。「あいつ、正気なの!?それでも人間かよ、貴臣の野郎!」だが心愛は、その手を静かに押さえ、首を振った。「……もういいわ」その声は、驚くほど静かだった。清夏は彼女を見つめ、目頭を熱くする。「よくないでしょ!心愛!おばあちゃんが亡くなったのに、あいつは来もしないで、あの不倫女のためにパーティー開いてるのよ!こんなの、いいわけないじゃない!」「……あの人が来ようが来まいが、同じことよ」心愛は顔を上げ、まっすぐ清夏を見つめた。「おばあちゃんの孫娘は、私一人だけ。私がここにいれば、それで十分」そう言い残すと、彼女は立ち上がり、儀式の手続きを進める職員のもとへ歩み寄る。「すみません、始めてください」「……このまま始めてよろしいのですか?他のご家族をお待ちにならずに」職員が確認する。心愛は振り返ることなく、ただ決然とした背中を清夏に見せたまま答えた。「ええ、もう結構です」……
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第108話

暁はアクセルを床まで踏み込み、斎場へと急いだ。心愛が何よりも大切にしていたのは、祖母ではなかったか。その先を思い描くことが、彼には怖かった。祖母の死が、心愛にどれほどの傷を残したのか。名雲市にある斎場を、大小問わず彼は一つひとつ回っていった。一箇所に着くたびに車から飛び降り、厳粛な悲しみに包まれた人々の中を、狂ったように見渡す。見当たらないと分かれば、すぐに車へ戻り、次の場所へ向かう。車内のエアコンは強く効いていたが、それでも彼の背中はすでに汗で濡れていた。そしてついに街の西端にある最後の斎場、その告別式会場の入口で、暁は見つけた。見慣れた、今にも折れてしまいそうな後ろ姿を。心愛は黒い服に身を包み、黒い四角い箱を抱え、静かに立っていた。まるで紙のように痩せ細り、ひとたび風が吹けば、そのまま吹き飛ばされてしまいそうだった。隣には清夏が寄り添い、赤く腫れた目で、彼女が倒れないよう絶えず支えている。暁の足取りが、ふいに鈍った。胸に重くのしかかっていた岩が地に落ちると同時に、鋭い棘へと変わり、内側から彼を突き刺す。彼はゆっくりと歩み寄り、心愛の前で足を止めた。何かを感じ取ったかのように、心愛はゆっくりと顔を上げる。その瞳に涙はなかった。ただ、灰のように沈んだ虚無だけが広がり、見る者を不安にさせるほど空っぽだった。暁の姿を認めた瞬間、その灰の中に、かすかな波紋が広がる。「……加賀見さん?どうしてここに」声は細く、かすれ、喉を無理やり絞り出したようだった。暁は喉を上下させ、込み上げるものを押し殺しながら、できるだけ穏やかな声で答える。「昂一から忌引きを取ったと聞いて……心配で。気づいたら来ていた」「加賀見さん……あなたも来てくれたんですね」清夏は暁を見ると、縋るように目を潤ませ、再び涙をこぼした。彼の瞳に宿る焦りと気遣いは、偽りのないものだった。そして、隣で糸の切れた操り人形のように立ち尽くす心愛を見て、複雑な感情が胸をよぎる。こんな時に、あの貴臣という男はどこにいるのか。それに引き換え、出会って間もない暁は、なりふり構わずここまで探しに来てくれた。清夏は小さく息をつき、暁に向ける眼差しに、わずかな信頼と納得を滲ませた。心愛はその視線に気づいていた。親友が何か
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第109話

暁はその言葉を聞き、わずかに眉をひそめた。葵が親探し?記憶を辿る。数年前、海外留学中だった葵の両親が、わざわざ現地まで彼女を訪ねてきたことがあった。暁もその夫婦に会ったことがあるが、穏やかな顔立ちで、葵をこの上なく慈しんでいた。彼女が養子だなどという話は、一度として耳にしたことがなかった。だが、その疑念は一瞬で霧散した。今の彼にとって、何よりも優先すべきは心愛のことだった。「深水さん、桐生さんの言う通りだ。今は休むべきだ」しかし、その言葉は彼女の耳には届いていなかった。心愛の脳裏には、ただ一つの問いが、鈍い刃のように執拗に神経を削り続けていた。――なぜ。貴臣、どうしてあなたはおばあちゃんを和井田病院に送らせたの?あの場所が、名雲市で有名な「地獄」だということを、あなたは知らなかったの?いいえ、知っていたはずよ。知っていて、あえてあそこに送ったのね。自分の目で確かめなければならない。あの男の口から、その残酷な心の在りかを、直接聞き出さなければ。「……帰らなきゃ」心愛は清夏の手を振り払った。声は小さかったが、拒絶を許さぬ強い決意がそこに宿っていた。二人の制止を振り切り、彼女はタクシーを拾うと、かつて「我が家」だと信じていたあの住所を告げた。……桐生邸には、煌々と明かりが灯っていた。心愛が重厚な扉を押し開けた瞬間、目の前の光景が鋭く網膜に焼き付き、思わず目頭が熱くなる。部屋中を彩るリボンと風船。リビングの中央には巨大な祝花が飾られ、華やかな書体でこう記されていた。『祝・明石葵様の輝かしい門出を』心愛の口元が、かすかに歪んだ。その笑みは、涙よりもなお痛々しい。おばあちゃんの葬儀が行われているその裏で、別の場所では、これほどまでに華やかな祝宴が開かれている。リビングには食い散らかされた皿やグラスが散乱し、宴がつい先ほどまで続いていたことを物語っていた。貴臣は一人、ソファに深く身を沈めている。緩んだネクタイ、外されたシャツのボタン、そして顔には酒に酔った者特有の、わずかな高揚が浮かんでいた。ドアの音に気づき、彼はおぼつかない足取りで顔を上げる。そこに立っているのが心愛だと認めた瞬間、その表情に「失ったものを取り戻した」かのような、無邪気な驚きと喜びが弾けた。「心愛?帰ってきたのか
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第110話

「葵はそんなことをする人間じゃない」「ええ、そうね。彼女は違うわ」心愛は静かに頷いた。「彼女は天使で、女神様よ。悪いのは私。私が彼女を陥れているの。心が醜くて、恩知らずなだけ。これで満足?」貴臣の眉間の皺はさらに深く刻まれた。彼は心愛のこの皮肉に満ちた態度が、何よりも気に入らなかった。「心愛、いい加減にしろ」彼はずきずきと痛むこめかみを押さえた。酔いも回り、忍耐は限界に近づいている。「お前のおばあさんは病院で元気にしている。葵がすべて手配したんだ。これ以上、何を望む」「何を望むか、ですって?」心愛は、この世で最も滑稽な冗談を聞いたかのように笑った。「貴臣、私にそれを聞くの?だったら自分で見に行きなさいよ。あの病院へ行って、その目で確かめてきなさい」一拍置き、彼女は冷たく言い切った。「でも、あなたには無理ね」貴臣の返答を待つことなく、心愛は自ら結論を突きつけた。彼女は彼の胸元を指差す。「だって、おばあちゃんが死のうが生きようが、あなたにはどうでもいいもの。あなたが気にしているのは、葵が不機嫌になるかどうか、それだけでしょう?」突きつけられた指に、貴臣は胸の奥が不意に締め付けられるのを感じた。ただ本能的に、葵を信じる――それだけを選び続けてきた。「……話にならん」結局、彼にできたのは、自分に言い聞かせるようにその一言を絞り出すことだけだった。「貴臣……」心愛は、もはや自分とは無関係な出来事を語るかのように、淡々と告げた。「今日ここに来たのは、おばあちゃんの遺品を引き取りたかっただけ。もう目的は果たしたわ。――行くね」言い終えると、彼女は一切の未練を残さず踵を返した。「待て!」貴臣は無意識に叫んでいた。数歩で追いつくと、その手首を強引に掴む。――細い。驚くほどに、折れてしまいそうなほど細かった。「戻ってきたというのに、なぜまた出ていく」彼は心愛の背を睨みつける。心愛は振り返らない。「出ていく?」力なく笑みをこぼす。「貴臣、勘違いしないで。ここはもう、私の家じゃない。ただ……通りすがっただけよ」静かに言い切る。「こんな場所、二度と戻らない」そうして彼女は、一度も振り返ることなく部屋を、そしてこの邸を去った。――バタン。重い扉の閉まる音が響く
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