湊は、顔も上げずにそう言った。「はい」と綾は返事をすると、疲れた体を引きずって家に帰った。会社を辞めるわけにはいかない。研究所で学べるチャンスだから、しっかりものにしなきゃ。もし湊を普通に歩けるようにするロボットを開発できれば、和子との約束も果たせる。綾は幸子に、明日の朝食を3人分作って病院に届けてくれるよう頼んだ。それから湊のことで気をつけるべき点も、メッセージで送っておいた。翌日、綾はいつも通り出社した。自分のデスクに着いた途端、杏奈が近寄ってきた。「安西さんがクビになったんです。会社の機密情報を漏らしたらしいですよ。たぶん、あなたと社長のスケジュールを誰かに教えたんですよ、安西さんは。ほんと、キモいですよね!」安西大輝(あんざい だいき)は同じフロアの男性秘書だった。でも綾は入社したばかりで、彼とほとんど接点はなかった。「私が潔白だって、信じてくれるんですか?」杏奈は声を潜めて言った。「ここだけの話だからね、誰にも言っちゃダメですよ」綾は何度も頷き、興味津々で耳を澄ませた。「社長にはね、昔亡くなった初恋の人がいます。今でも独身なのは、その人のことが忘れられないからなんですって。ほんとに一途で、感動的ですね。亡くなった初恋の人のポジションは、誰にも奪えないんですよ」杏奈は話すうちにどんどん興奮してきた。朝の仕事でどんよりしていた目が、キラキラと輝き始めた。綾の頭の中を、閃光が走った。息を呑み、驚きのあまり言葉を失った。樹の初恋の人は、母だったんだ。綾は念花グループについて調べてみた。昔は違う名前だった。社名が変わったのは、母が亡くなった2年後の春のことだった。正式にグループ名を変更したその日は、母の誕生日だった。念花……きっと、「彩花を念う」っていう意味なのね。だから、母の友達にはみんな会ったことがあるのに、樹だけは一度も会ったことがなかったんだ。どうりで樹は母のブローチを、あんな法外な値段で競り落としたんだ。それに、自分の履歴書を拾っただけで採用を決めてくれたんだ。杏奈はコーヒーを一口飲むと、「でしょう?」と同意を求めた。「そうですね」綾は上の空で返事をした。あまりにも衝撃が大きすぎたからだ。それと同時に、感動と切なさがこみ上げてきた。母が亡くなって何年も経
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