All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

湊は、顔も上げずにそう言った。「はい」と綾は返事をすると、疲れた体を引きずって家に帰った。会社を辞めるわけにはいかない。研究所で学べるチャンスだから、しっかりものにしなきゃ。もし湊を普通に歩けるようにするロボットを開発できれば、和子との約束も果たせる。綾は幸子に、明日の朝食を3人分作って病院に届けてくれるよう頼んだ。それから湊のことで気をつけるべき点も、メッセージで送っておいた。翌日、綾はいつも通り出社した。自分のデスクに着いた途端、杏奈が近寄ってきた。「安西さんがクビになったんです。会社の機密情報を漏らしたらしいですよ。たぶん、あなたと社長のスケジュールを誰かに教えたんですよ、安西さんは。ほんと、キモいですよね!」安西大輝(あんざい だいき)は同じフロアの男性秘書だった。でも綾は入社したばかりで、彼とほとんど接点はなかった。「私が潔白だって、信じてくれるんですか?」杏奈は声を潜めて言った。「ここだけの話だからね、誰にも言っちゃダメですよ」綾は何度も頷き、興味津々で耳を澄ませた。「社長にはね、昔亡くなった初恋の人がいます。今でも独身なのは、その人のことが忘れられないからなんですって。ほんとに一途で、感動的ですね。亡くなった初恋の人のポジションは、誰にも奪えないんですよ」杏奈は話すうちにどんどん興奮してきた。朝の仕事でどんよりしていた目が、キラキラと輝き始めた。綾の頭の中を、閃光が走った。息を呑み、驚きのあまり言葉を失った。樹の初恋の人は、母だったんだ。綾は念花グループについて調べてみた。昔は違う名前だった。社名が変わったのは、母が亡くなった2年後の春のことだった。正式にグループ名を変更したその日は、母の誕生日だった。念花……きっと、「彩花を念う」っていう意味なのね。だから、母の友達にはみんな会ったことがあるのに、樹だけは一度も会ったことがなかったんだ。どうりで樹は母のブローチを、あんな法外な値段で競り落としたんだ。それに、自分の履歴書を拾っただけで採用を決めてくれたんだ。杏奈はコーヒーを一口飲むと、「でしょう?」と同意を求めた。「そうですね」綾は上の空で返事をした。あまりにも衝撃が大きすぎたからだ。それと同時に、感動と切なさがこみ上げてきた。母が亡くなって何年も経
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第22話

会議室のドアがゆっくりと開くと、長いテーブルの向こうに、見覚えのある横顔が目に飛び込んできた。晩秋の日差しがその人を包み込み、彼の周りには淡い金色の光が差しているようだった。金茶色の癖っ毛は、太陽の光よりも柔らかそうだ。盛り上がった眉骨、カラスの羽のように濃いまつ毛が伏せられ、それが目元の彫りを一層深く見せていた。すっと通った鼻筋の下で、薄い唇は自然と口角が上がっている。その笑みは、いつもどおり、優しそうに見えてどこか冷たかった。顎のラインはシャープだけど、きつい印象はない。どのパーツも、完璧なくらいに整っていた。その完璧なパーツのすべてに、綾はかつて、愛情を込めてキスをしたことがある。男の顔立ちはあまり変わっていなかったけれど、雰囲気はずいぶんと変わっていた。かつての無邪気な少年っぽさはすっかり消え、代わりに、大人の男性らしい落ち着きが漂っていた。ただ、生まれ持った気品だけは、昔のままだった。「中野さん、中野さん、どうしたんですか?」すぐそばにいるはずの杏奈の声が、まるでどこか遠くから聞こえてくるようだった。綾ははっと我に返った。片手はまだドアノブにかかったままだ。中の人たちが声に気づいて、こちらに顔を向けた。二人の視線が交わった瞬間、その氷のような青い瞳に、ほんの一瞬、傷ついたような色が浮かんだ。でもすぐに、彼は口の端をゆがめて嘲るように笑うと、何か言いたげな視線をすっと逸らした。綾は胸を押さえた。あまりの痛みに、思わず眉をひそめる。鼻の奥がつんとして、少しでも気を緩めたら、涙が溢れ出てしまいそうだった。いつの間にかそばに来ていた樹が声をかけた。「まだ体調が万全じゃないのか?今日はもう帰って休みなさい」綾は首を横に振った。「社長、ありがとうございます。大丈夫です」あの人が自分のことを知らないふりをするなら、自分が気にする必要なんてない。綾は背筋を伸ばすと、ハイヒールを鳴らして、毅然と会議室へ入っていった。両社の協力についてはすでに話がまとまっていて、今日は契約書にサインするだけだった。樹は快くサインした。青菊グループとの提携は、念花グループがI国市場へ進出する大きな足がかりになるからだ。「青木社長、これからよろしくお願いします」青木健吾(あおき けんご)はペンを回
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第23話

「ええ」綾は赤い唇をかすかに開き、うなずいた。たかが健吾じゃない。別に命を取られるわけでもない。たとえそうだったとしても、腹を括ればいいだけ。最悪の場合、念花を辞めることになるだけだ。もしこの仕事をやり遂げられれば、念花で自分の地位を確立できる。綾の「ええ」という返事とともに、万年筆のペン先が契約書に下ろされた。そして、優雅な筆致でI国語の名前「フランチェスコ・エステ」が記される。「良いパートナーシップを期待しています」立ち去る前に、健吾は左手を差し出した。節くれのない綺麗な薬指には、精巧な作りのピンクゴールドのダイヤモンドの指輪がはめられていた。綾の視線は、まばゆく光るその指輪をかすめたが、健吾と握手はしなかった。「こちらこそ、よろしくお願いします」綾は口の端を吊り上げて笑うと、すぐに背を向けてその場を離れた。杏奈が追いかけてきた。「中野さん、どうしたんですか?」「すみません、お腹の調子が悪いです」綾は振り向かず、まっすぐトイレに駆け込んだ。ドアを閉めた瞬間、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。綾は腰をかがめ、手で口を覆った。体は極度の緊張で震えている。声を殺した嗚咽は、張りつめていた糸が切れたみたいに、この五年間こらえてきたものを一気に吐き出すように溢れ出た。でも、どれだけ泣いても、胸の奥に積もったものが消えるわけじゃない。綾も、一度泣いたくらいですっきりするわけはなかった。それでも綾は、自分の選択がもたらした結果を全て受け入れてきた。オフィスに戻った時、顔からはもう何も読み取れなかった。杏奈が白湯を淹れてくれた。「大丈夫ですか?」綾はカップを受け取り、お礼を言った。「うん、大丈夫です。たぶん朝食べたものが悪かったのかもしれません。それより、今回の青菊との提携の件、いろいろ教えてほしいんですけど」「もちろんですよ。じゃないと、あなたに引き受けさせたりしませんから」杏奈は提携プロジェクトの関連資料をすべて取り出すと、一つ一つ綾に要点を説明し、注意点を教えた。「心配しないでください。思うに、青木社長はあなたのことが気に入ったのでしょう」「ゲホッ、ゲホッ!」綾は飲んでいたお湯にむせて、ゴミ箱に向かって激しく咳き込んだ。そうだ。健吾は自分のことが「気に入った
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第24話

【明日の午前10時からテレビ会議】綾はスマホをぎゅっと握りしめ、事務的に【承知しました】とだけ返信した。向こうからの返事はなかった。綾は沈黙したままの画面を、目が痛くなるまでじっと見つめていた。かつての二人には、尽きることのない話題があったのに。昼間はべったり一緒にいて、夜はそれぞれの家に帰っても、深夜まで話し込んでいた。どんな些細なことでも、夢中でお互いに話したくなったものだ。あれから時が経ち、今では沈黙だけが残っている。突然、けたたましく電話が鳴り響き、綾は上の空で応答ボタンを押した。「どうして返事をしない?」湊の声は冷たく、明らかな怒気を含んでいた。そこで綾は思い出した。今朝、会社に着いたとき、湊から【なぜ手作りの朝食を病院に届けに来ないんだ】とメッセージが来ていた。その時は忙しくて、返信しなかった。仕事が落ち着いた頃には、そのことはすっかり忘れていた。「忘れてたの」綾は素直に答えた。「忘れた?」病院の病室で、湊の顔がこの上なく険しくなった。自分の耳を疑ったほどだった。これまでずっと、綾は自分のことを何よりも優先してきた。どんな些細なことでも、一度もミスをしたことがない。ましてや、メッセージの返信を忘れるなんてありえなかった。自分は綾の連絡先リストで、唯一のお気に入りであり、常に一番上に表示される相手だったのに。「ごめんなさい」湊の落胆した声を聞いて、綾はいつものように罪悪感を覚えた。「明日の朝、作って持っていくわ」湊は病気の時、自分の手料理しか口にしない。だから放っておくのは、どうしても心配だった。「綾、俺、一日何も食べてないんだ」電話の向こうで、湊の声は低く沈み、どこか弱々しく聞こえた。綾は眉をひそめて時間を確認した。夜の7時だ。「今から作って持っていくわ」綾は電話を切ると、キッチンに駆け込んで調理を始めた。病院に駆けつけた頃には、もうすぐ9時だった。湊は病室の大きな窓の前に座り、ノートパソコンで仕事をしていた。顔色は昨日と比べて良くはなっておらず、相変わらず病的なまでに真っ白だった。綾は何度も、湊に中野グループを辞めて、家でゆっくり療養するようにと勧めてきた。しかし湊は頑固で、会社に残ると言って聞かない。それどころか、精
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第25話

凪が何か言いかけると、湊はそれを遮った。「子供のことを優先してやれ」凪は唇を引き結び、「何かあったら電話してね」と言った。凪は海斗の手を引いて病室を出て行こうとしたが、湊に呼び止められた。「待って。井上さんに車で迎えに来させるから」剛はすぐにやってきて、病室まで迎えに来てくれた。剛が海斗を抱き上げると、湊は昨日、亡くなった人を運んだエレベーターは避けるようにと注意した。「湊、どんどん良い父親になっていくわね」凪は艶然と微笑むと、ちらりと綾に目をやり、すっと背筋を伸ばして出ていった。湊は、食器を片付ける綾をじっと見つめた。綾は無表情で、凪の言葉が聞こえなかったかのような素振りだった。綾は手際よく食器を片付けると、保温バッグを手に取った。「じゃあ、私もこれで帰るね」湊はそんなことを言われるとは思わず、瞳に暗い影が差した。「ここにいてくれ。そばにいてほしい」最近の綾は、どうも様子がおかしい。綾が黙ったままなので、湊は胸騒ぎがして、喉に小骨が刺さったような居心地の悪さを感じた。「綾、もう俺のことはどうでもよくなったのか?」綾は口を開きかけたが、湊の弱々しい瞳と目が合うと、突き放すような言葉はとても言えなかった。「横になって。体を拭いてあげる」「いいよ、昼間に河野が来てやってくれたから」湊が交通事故に遭って以来、体を拭いたりするのは隆の役目だった。綾が手伝おうと何度か申し出たが、いつも断られていた。湊がプライドの高い人で、動かなくなった自分の脚を自分に見せたくないのだと、綾は分かっていた。本当は、全然気にしてなんていないのに。たとえその脚がどんな状態であっても、可哀想だと思うだけで、他に何の感情も湧かなかった。「退職の件はどうなった?違約金の支払いとか、必要なのか?」電気が消されると、暗闇の中から湊の落ち着いた声が聞こえてきた。綾は頭をフル回転させた。もし本当のことを話せば、湊はきっとどんな手を使っても、自分を念花から辞めさせるに違いない。綾は寝たふりをすることに決め、わざとらしく寝返りを打って、すーすーと寝息を立てた。湊はそれ以上何も言わなかった。でも、目は開いたままで、頭は冴えわたっていた。綾と樹のゴシップ、海斗のあどけない顔、そして会社の山積みの仕事……
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第26話

綾は胸が苦しくなった。湊は、あれほどプライドの高い人だったのに。湊が自嘲するのを聞くたび、彼と同じくらい悲しい気持ちになった。綾は唇を震わせ、力なく口を開いた。「湊、私がそんなふうに思ったことなんて一度もないって、わかってるでしょ」「なら、証明して見せろ」湊は暗い瞳でスマホを手に取った。「ここに残るか、俺と一緒に行くか。選べ。今すぐ明里に電話してやる」「ここに残るわ」綾は折れて、裕也に休みを取ると連絡した。湊の体が回復しさえすれば、それでいい。そうなれば仕事で忙しくなって、自分のことなど気にかけていられなくなるはずだ。湊は満足そうに微笑むと、綾の頭を撫でた。「綾、俺がやっていることは、すべてお前を守るためなんだ」綾は、湊が樹のことを言っているのだとわかった。どんなに説明しても、湊は樹の自分への想いが清いものだとは信じないだろう。5年前のあの交通事故が、本当に憎かった。明るく元気だった湊を、こんなふうに変えてしまったのだから。綾は反論しなかった。今はとにかく、湊に早く回復してもらうことが先決だ。湊は入院中だったが、会社の業務はずっと続けていた。達也の回診が終わると、湊はすぐに仕事モードに切り替わった。綾はその隙に病室を出て、廊下の隅にある椅子に腰を下ろした。10時きっかりに、ビデオ会議が始まった。綾は両社の担当者も参加するものだと思っていたが、画面には健吾一人が映っていた。健吾は自宅のソファらしき場所に座っていた。黒のパーカーを着て、首にはゴールドのネックレスが見える。明るい金茶色の髪は無造作で、気だるげな雰囲気を漂わせている。その瞳は澄んでいて、吸い込まれそうだ。昔、綾は「動物を見る目まで熱烈ね」とからかったことがあった。しかし今、健吾の眼差しはとても冷たい。その冷気は画面越しにさえ伝わってくるほどだ。綾は厄介な相手だと直感した。犬が通りかかったら、蹴飛ばしそうなほど機嫌が悪そうだ。「青木社長、参加者は私たちだけでしょうか?」健吾は唇を歪めて皮肉を言った。「何年も経つのに、まだ俺たちの間に誰かがいるのがお好きなようで?」綾は一瞬固まったが、すぐに笑顔を取り繕った。「今日の会議の議題は何でしょうか?」この世で、借りを作った相手はいない。健吾、ただ一人を除いて
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第27話

「この人知ってる、悪い女!」たどたどしい話し方だった。きっと、健吾が何か話しているのを聞いたのだろう。悪い女、ね。なかなか面白い評価じゃない?綾は、爪が割れそうになるほど強くスマホを握りしめた。健吾はその女性を連れて席を外した。彼が戻ってくると、綾はビデオ会議を切り上げようか提案した。「青木社長、お忙しいようでしたら、また改めましょうか?」健吾の指に光る指輪を思い出し、さっきの女性は彼の妻だろうと察した。健吾の妻があんなに敵意を向けてくるなら、こっちから配慮しないと。なにも、健吾が自ら担当しなくてもいい案件のはずだ。健吾はそれを無視して、ぶっきらぼうに言った。「話を続けろ」「今回の提携における弊社の先行投資は、主に以下の点で……」綾は事前にしっかり準備をしていたので、よどみなく質問に答えていった。「誰と話してる?」答えの途中で、すぐそばから湊の声が聞こえた。ビクッとして、綾はスマホを床に落としてしまった。「しつこい宝石の営業マンよ。でも、素敵な真珠のセットがあったから見てたの。価値もありそうだし」綾は落ち着いてスマホを拾い、笑顔で説明した。我ながら、よくもこんなにすらすらと嘘がつけるものだと驚いてしまう。湊は疑う様子もなく言った。「気に入ったなら買えばいい。お前に渡したカードは使うためのものだ。飾っておくもんじゃないぞ」綾が大学に入学したとき、湊は彼女に限度額のない家族カードを渡していた。和子から十分なお小遣いをもらっていたので、湊のお金を使う気にはなれなかった。だから、そのカードはアルバムに挟んだまま、一度も使ったことがなかった。綾は唇をきゅっと結んで言った。「それじゃ、遠慮なく使わせてもらうわ」自分が使わなくても、あのお金を使う人は他にいるんだから。今、宝石を買っておけば、それが離婚するときの資金になる。親戚の家にいた半年間を除けば、綾はずっと何不自由なく贅沢に暮らしてきた。離婚したからといって、生活のレベルを落としたくはなかった。湊は綾の手をきゅっと握ると、甘えた声で言った。「俺、腹へった」その瞬間、綾は昔の湊の姿が重なって見えた。少し強引で、だけどどこか憎めない、あの頃の湊が。「何が食べたい?作ってくるわ」健吾が妻のご機嫌を取るように、こっちも
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第28話

健吾ったら、まさか画面を録画していたなんて。綾は悔しくて歯がゆくなった。本当に、会いたくない相手にばかり出くわすものだ。【青木社長、ご用件は何でしょう。なんなりとお申し付けください】健吾がこの動画を送ってきたのは、明らかに脅すためだった。【今夜、いつもの場所で俺とフェンシングをしろ。来ないなら、この動画を御社のグループチャットにばらまく】【ああ、忘れてるかもしれないから、親切に教えてやる。いつもの場所は、東都フェンシング館だ】もちろん、綾はいつもの場所が東都フェンシング館だと知っていた。彼女の剣術はそこで、健吾自らの手ほどきで身につけたものだった。高校時代、綾は気が弱くて、いつもいじめられていた。和子に心配をかけたくなくて、誰にも言わなかった。ある日、路地裏で何人かに囲まれているところを、健吾に助けられた。健吾は綾の気の弱さを見かねて、フェンシング館に連れていき、反撃の仕方を教えた。綾は教わった通りに反撃してみた。でも、返り討ちにあって、顔はあざだらけになってしまった。そのことに気づいた湊は、綾がいじめられていることを知って、いじめっ子たちに、ものすごく怒った。それからというもの、いじめっ子たちは綾を見かけると避けて通るようになり、ましてや、彼女に頭を下げかねないほどだった。あの頃の綾は、健吾に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せっかく反撃したのに、失敗に終わってしまったから。でも、健吾は褒めてくれた。「他人の力を借りてやり返すなんて、大した知恵だ」って。今、健吾がフェンシングに誘ってきたのは、おそらくこの機会に怒りを発散させるつもりなのだろう。綾は【はい】と返信した。樹は自分を信じてくれた。だから、その期待を裏切りたくない。それに、母のためにも、念花で恥をかくわけにはいかない。そこで綾は明里にラインを送って、湊に電話をかけもらい、自分が外出するのを協力してくれるよう頼んだ。最近の湊は気分屋で疑り深くなっていたから、夜に自分が一人で出かけるのを許すはずがない。湊が夕食を済ませ、凪親子とビデオ通話をしていると、明里が病院に乗り込んできた。「湊、これはちょっとひどくない?あなたは隠し子と楽しそうに話してるのに、綾が私と遊びに行くことさえダメだなんて。だから今夜は絶対に綾を
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第29話

健吾は自信満々で、防具をまったく身に着けていなかった。綾は剣を握りしめ、何度か探りを入れてから健吾に突きかかった。でも、彼はそれを軽々とかわした。健吾は身のこなしが素早く、すぐに綾に一撃を返した。綾は避けきれず、剣先が防具に当たった。健吾は力を入れておらず、剣は軽く触れただけで弾かれた。彼は再び仕掛け、綾の剣を弾き飛ばした。「綾、俺を馬鹿にしてるのか?」「ごめんなさい。久しぶりだから、少し腕がなまっちゃって」綾は剣を拾い上げた。健吾の鬱憤晴らしに付き合うために来たのであって、試合をしに来たわけではないからだ。健吾は鼻で笑った。「この前の試合では、ずいぶん威勢が良かったじゃないか?それとも、俺はお前の相手にもならないってことか?」綾は少し驚いた。「試合、見てたの?」健吾は、あんなアマチュアの試合なんて時間の無駄だと言って、今まで一度も見たことがなかった。「たまたま通りかかって、少しだけ見たんだ。お前が出るとは知らなかった。本気を出せ。さもなきゃ、湊の役立たずのところへ帰れ」健吾の顔は険しく、その眼差しは鋭かった。「健吾!湊のことをそんな風に言わないで!」そう言ううちに、綾の目には涙が溢れてきた。マスク越しなので、手で涙を拭うこともできない。「フン、気に食わないなら実力で俺と戦え!」健吾は冷たく鼻を鳴らすと、その目に憤りの色を浮かべた。綾は剣が風を切る音を聞き、ぼやける視界も構わず、剣を突き出した。涙で目がかすんで、うまく避けられない。綾は立て続けに二度突かれたが、その一撃一撃は決して軽くなかった。「あの役立たずと5年も一緒にいて、お前まで鈍くなったのか?」健吾は言葉で綾を刺激し続けた。悲しみと怒りがこみ上げ、綾は歯を食いしばった。綾は両手で剣を握り、かつて健吾から教わった必殺技を繰り出した。剣を突き出した瞬間、健吾が息を呑むのが聞こえた。「健吾!」綾は剣を捨て、マスクを乱暴に引き剥がして地面に投げつけ、目から涙を拭った。健吾の白い顔に、赤く細い切り傷が痛々しく浮かんでいた。鮮血がじわじわと流れ出し、頬から首筋を伝って、あっという間に襟を赤く染めた。綾はすっかり慌ててしまい、何も言えずに更衣室へ駆け込み、救急箱を持ってきた。「手当てするから、ま
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第30話

綾は起き上がろうとせず、そのまま後ろに倒れ込み、冷たい床に横になった。過去の出来事が、次々と頭に浮かぶ。健吾にフェンシングを教わったこと、彼におぶってもらい山を登ったこと、そしてひざまずいてプロポーズされたこと……あのエンゲージリングのことも覚えている。あれは高校生の時、雑誌で見た個人コレクションで、自分が「すごくきれい」と呟いたものだった。健吾がどれだけ苦労して、あの指輪を手に入れてくれたのか、想像もつかない。結局、健吾の純粋な想いを裏切ったのは、自分だったのだ……11時近くになって、綾は一人で東都フェンシング館を出て、タクシーで病院へ戻った。車の中で、健吾とのラインの画面を開いた。健吾のアイコンは変わっていなかった。大学生の時に、自分が設定してあげた海の写真のままだった。どこまでも青く澄みきっていて、まるで健吾の瞳のようだった。【青木社長、申し訳ありません。お怪我の具合はいかがですか?ひどいですか?】そこまで打ったものの、綾はなかなか送信ボタンを押せなかった。健吾には妻がいる。元カノである自分が、心配するようなメッセージを送るのは、果たして適切なのだろうか?たしかに二人は仕事上の取引関係にあるし、そもそも怪我をさせたのは自分だ。でも冷静に考えて、自分の気持ちは決して純粋なものではないと、綾は分かっていた。ひとしきり葛藤した末、メッセージをすべて消去し、ラインの画面を閉じた。病院の病室では、達也がすべての検査結果が正常であることを示す報告書を手に、湊にいつ退院するつもりか尋ねていた。「急ぐことはない。ここ数日のうちだ」湊が持つタブレットには名前のリストが表示されていて、そのうちのいくつかにバツ印を付けていた。湊が入院している間に、印を付けた部下たちが怪しい動きを見せていたのだ。達也はからかうように言った。「綾は君が危篤の時に情報を隠し、君は治った後でわざと重病だという噂を流す。嘘と本当を上手く使い分けてる、君たち夫婦には誰も敵わないよ」湊は何も言わずに笑みを浮かべ、その鋭い目つきが少し和らいだ。綾とはそういう人間だった。自分が多くを語らなくても、彼女はどうすべきかを察してくれる。この阿吽の呼吸は、幼い頃から共に過ごす中で、ゆっくりと育まれてきたものだった。それからほどなくし
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