All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

最近、綾はすごく口が達者になった。きっと明里とばっかり一緒にいるからだ。人をやり込めるようなことばっかり覚えてる。明里は、海斗が自分をにらみつけて、中指を立てているのに気づいた。湊と凪が話しているすきに、明里はさっと海斗の手をつかむと、その中指を彼の口にぐいっと押し込んだ。「おえっ!」海斗は指を引っ込めるのが間に合わず、中指がのどを突いてしまった。えずいて、目に涙を浮かべていた。「次やったら、その指、剣で切り落とすからね」凪は海斗をぐっと抱き寄せると、怒ったように言った。「なんてことするのよ、子供相手に!」「しつけを手伝ってあげただけよ。お礼は要らないわ。『親が親なら子も子』って言うもんね。親がこれじゃあ、子供もかわいそう」明里はちっちっと舌を鳴らしながら、同情するように海斗を見つめた。湊はうんざりしたように眉をひそめ、スタッフを呼んだ。「席を替えてもらえますか」人混みが嫌いだし、フェンシングにも興味はなかった。ここにきたのは凪と海斗に付き合うためだったのに、まさかこんな騒ぎになるとは思っていなかった。一行がいなくなると、明里は空気がすんだような気がして、試合に集中することにした。試合は勝ち抜き戦形式だ。勝者はステージに残り、次の挑戦者を待つ。勝ち残った回数で点数が決まるから、体力も精神力もすごく試される。前の選手たちは、最高でも3回戦までしか勝ち残れなかった。そして、ついに綾の出番がきた。白いマスクをつけているから顔は見えない。でも、明里には綾のオーダーメイドのフェンシングウェアが分かった。審判の合図とともに、5年の時を経て、綾が再び剣を構えた。鮮やかなカウンターで、相手の剣をはじき返した。でも、練習から長く離れていたせいか、綾の動きは少しぎこちなく、すぐに劣勢に立たされた。それでも綾は冷静さを失わなかった。剣さばきは相変わらずしなやかで鋭い。最後は意表をつく技で点数をひっくり返し、ステージに勝ち残った。だけど、残念ながら5回戦を勝ち抜いたところで体力が尽きてしまい、惜しくも負けてしまった。試合が終わるころには、もう夜も遅かった。司会者がステージに上がる。「それでは、上位3名の選手を発表します……」湊は眉間を押さえた。「海斗はもう寝る時間だ」海斗を抱き上げると、自分
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第12話

「どうしたの?」明里は綾の視線を追って、ものすごい人だかりを見た。「なんでもない」綾は首を振って、視線を戻した。最近どういうわけか、幻覚を見ることがよくある。「湊が二宮さんたちを連れて試合を見に来てたよ。でも、表彰式の前に帰っちゃった。あなたが選手だって知らなかったみたい」「湊もずいぶん変わったよね。昔は私が観劇に誘っても、付き合ってくれなかったのに」綾は助手席に座った。久しぶりに運動したせいか、試合に出ただけで手首がひどくだるい。「今夜はうちに泊まっていきなよ」明里が誘った。「私はいいや。フェンシングの道具だけ、持って帰ってくれる?」綾は、湊が和子を言い訳にするのを聞きたくなかった。でも、どうせ同じベッドで寝るわけじゃないし、大きな問題はないだろう。明里は綾を玄関まで送った。「綾、おやすみ!」明里は心の底から綾を気の毒に思った。人生はままならないものだ。「おやすみ。気をつけて帰ってね」綾は明里の車が見えなくなるまで見送ってから家に入った。こんないつも味方でいてくれる親友がいるなんて、自分は幸せ者だ。時には、好きという気持ちよりも、友情がもたらす力の方が心強いものだ。湊は綾を見るなり、開口一番こう言った。「綾、明里には今後、言葉に気をつけるよう言っておけ」綾は聞かなくても分かった。試合を見に来た時に、明里が何か本当のことを言って凪の機嫌を損ねたのだろう。「明里が何を言おうと、彼女の自由よ」湊は苛立ちを隠さなかった。「お前が凪をいじめるのはもう見たくない。お前が凪をいじめるほど、俺の彼女への負い目は増していくんだ」湊の眉間には疲れの色が滲んでいた。素直だった綾が、なぜ急に変わってしまったのか理解できなかった。いじめる?なるほど。湊から見れば、ずっとこっちが凪をいじめている、ということなのね。綾はソファに腰掛け、華奢な手首を揉んだ。「離婚して凪と結婚すればいいじゃない。そうすれば、もう負い目を感じることもなくなるわ」綾の口調は柔らかく、恨み言ひとつない。むしろ、二人の仲を取り持つ仲人のようだった。その言葉を聞いて、湊の目は氷のように冷たくなり、その奥に冷たい光を宿した。「たかが、凪たちがこの家に住み始めたというだけで、どうしても離婚すると言うのか?」綾は少しだ
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第13話

綾は、凪親子を忘れられないくせに、自分をこんな風に縛り付ける湊が憎かった。いい加減、離れようと決心したのに。湊が弱っている姿を前にすると、どうしても突き放せない自分が憎い。「屋上で、少し星を見ないか」綾は何も言わず、エレベーターは最上階へ直行した。スイッチを押そうとして、湊が明かりを嫌うことを思い出し、手を引っ込めた。綾は車椅子をガラス窓の前まで押すと、自分は少し離れた一人用ソファに腰掛けた。いつも座っている、座り心地の良いソファだ。子供の頃、中野家に来たばかりの時は、綾はまだ慣れなくて両親が恋しかった。同じく両親を亡くした湊は、綾の両親は空の上で星になったんだ、と教えてくれた。それは子供をあやすための嘘だったけど、当時の綾はそれを信じて、毎晩、夜空をただひたすら見上げていた。大人になって、生きることと死ぬことがどういうことか分かっても、星を見る習慣だけは残った。空に星がまたたいているのを見ると、心が落ち着くのだ。和子が亡くなってから、綾と湊はここに引っ越してきた。湊は屋上を展望台として特別に設計してくれた。夜、何もすることがなくて晴れている日には、一緒に星を見に来てくれる。今夜はあいにくの天気で、空にはただ暗い雲が広がっているだけだった。綾は眠くてたまらず、あくびが止まらなかった。「もう寝るわ」「先に休んで。俺はもうしばらくここにいる」ガラス張りの壁の向こうに広がる夜空の下で、湊の姿はどこか頼りなく、小さく見えた。綾は黙って湊を見ていたが、結局何も言わずに一人でその場を去った。もういくら星を眺めても、二人の関係は元には戻れない。翌朝、綾は幸子に起こされた。湊が高熱を出したのだ。綾は驚いて一気に目が覚め、靴も履かずに裸足のまま凪の部屋へ駆け込んだ。湊は体を丸め、熱で意識が朦朧として、うわごとを繰り返していた。「兄さん、兄さん……綾、怖くないよ。俺がここにいる。おばあさん、お願い、どうか……」綾が湊の額に触れると、火傷しそうなほど熱かった。綾は急いで隆に湊を背負わせて車に乗せ、剛はすでにエンジンをかけていた。助手席に座ると、幸子が持ってきてくれた服と靴を急いで身につけた。凪が車のドアに手をかけ、「私が行くわ」と言った。「どいて!」綾は力任せに
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第14話

それから30分後、意識を失った湊は集中治療室へと運ばれた。「どうしてこんなにひどいの?」綾はドアのガラス越しに、たくさんの管に繋がれた湊の姿を見ていた。足に力が入らず、立っているのもやっとだった。「交通事故の後遺症がひどすぎる。あの時、命が助かっただけでも奇跡だったんだ」達也はカルテにびっしりと指示を書き込み、看護師に手渡した。ここは黒崎家が経営する病院で、東都でも指折りの施設だ。達也が院長であり、湊の主治医でもある。その達也が深刻だと言うのなら、状況は決して楽観視できないということだ。「秋になって肌寒くなってきたんだから、もっと注意するべきだったのに。高熱を出すなんて……ここ2年はずっと元気だったじゃないか?」達也の言葉には、明らかに責めるような響きがあった。達也は湊の友人で、この数年間、綾がずっと湊の面倒を見てきたことを知っていた。「凪親子が家に住み始めてから、湊はずっと付きっきりだったから。たぶん、それで疲れてしまったんだと思うわ」綾は、その濡れ衣を着せられるつもりはなかった。その言葉を聞いて、達也は少し気まずそうにした。「今日の山を越せるかどうかだ。この階に、君のための部屋を用意しておくよ」「ありがとう」綾は頭が真っ白で、ゆっくりと廊下の椅子に腰掛けた。あまりのことに、どうしていいか分からなかった。昨日の夜は、一緒に星を見ていたばかりなのに。まだ、お互いにすねていたのに。大きな恐怖が流砂のように、少しずつ綾を飲み込んでいく。この世界で、自分に残された身内は湊ただ一人だ。この5年間、湊の世話をすることが、生活のすべてであり、当たり前の責任だった。二人の間にはすれ違いや、やりきれない思い、そして憎しみさえあった。でも、湊がどんなにひどい男でも、彼の死なんて一度も考えたことはなかった。達也が戻ってくると、綾が隅でうずくまっていた。壁に額を押し付け、大粒の涙が床に落ちて染みを作っていた。達也はしばらく綾の後ろに立っていたが、何度か口を開きかけては、かける言葉が見つからずに閉じてしまった。病院で人の生死を見慣れている達也でも、親友が死の淵に立たされているのを見ると、胸が締め付けられるようだった。ましてや、綾にはあんな出生の秘密があるのだから……「私って、本当
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第15話

「病院に来てそんなに経ってないのに、どうしてあなたのご実家が知ってるの?」「誰かがお父さんに告げ口したみたい。昨日私が湊をさんざん罵倒したってね」綾はただ事ではないと察して、湊の秘書に電話をかけた。「もし誰かに聞かれたら、湊は私と海外旅行に出かけたと答えて。会社で何か急ぎの用件があれば、直接私に連絡してちょうだい。私が代わりに決断するわ」次に中野家に電話をかけた。電話に出たのは幸子だった。「山下さん、凪に代わって」すぐに電話の向こうから、凪の不機嫌な声が聞こえてきた。「湊はどうなの?」「あなたの目的が何であれ、湊が入院したことは絶対に誰にも言わないでちょうだい。もしこのことが漏れたら、湊が目を覚ましたときに許されるとは思わないで。彼は5年前とは違う。そのことはよく覚えておきなさい」綾の口調は冷たく厳しかった。そして最後に、一言付け加えた。「自分の息子のためだと思って、余計なことは言わないことね」明里は事の重大さに気づき、急いで実家に電話して口止めをした。「じゃあ、うちに告げ口したのは二宮さんだったってこと?」綾はうなずいた。「湊は突然倒れたの。考えられるのは彼女だけよ。井上さんも山下さんも、中野家に長年仕えている人たちだから。言っていいことと悪いことの区別はつくはずだわ」「器が小さい女ね。昨日のことで、こんな大問題を引き起こすなんて。まあ、うちに伝わっただけで済んでよかったけど」明里はふと話題を変え、声をひそめて尋ねた。「会社の株価への影響を心配してるだけじゃないでしょ?何か他に警戒してるの?」綾は深刻な表情になった。「湊はあの体で社長の座に就いたの。どれだけ大変だったか、想像できるでしょ。取締役会の人たちは、みんな腹に一物あるような人たちばかりよ。湊が集中治療室にいるなんて知れたら、この機に乗じて権力を奪おうとするに決まってるわ」明里は考え込むように言った。「でも、湊のお兄さんの誠さんは会長でしょ?自分の弟なんだから、きっと守ってくれるんじゃないの?」「親子の間でさえ計算が働くことがあるのに、兄弟ならなおさらよ。昔から、権力争いのために兄弟が殺し合うなんて話は珍しくないじゃない」綾は誠とあまり接点がなかった。口数が少なく、誰に対しても心を閉ざしている、というのが綾の抱く印象だった。
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第16話

綾は海斗を病室に引き入れ、不満そうに凪を一瞥した。「どうして海斗くんを連れてきたの?」わざとらしくて、みんなに知らせて回りたいみたいじゃない。「この子は湊の子供よ。もし湊に万が一のことがあったら……」「黙りなさい!」綾は凪の言葉を鋭く遮った。「ふん。私の前で得意げな顔をしないで。海斗は湊のたった一人の子供で、中野家の血を引いてるのよ。誰かさんみたいな他人より、ずっと大事な存在なんだから」凪は綾を軽蔑するように睨みつけ、海斗の涙を拭いてあげた。「いい子だから、もう泣かないで。中野おじさんは、きっと大丈夫だからね」綾は凪と口論する気にもなれなかった。下手に外で騒がれるより、ここにいてもらった方がましだ。明里は綾が凪親子に何かされるんじゃないかと心配で、一緒に残ることにした。騒がしい一日が終わり、夜の帳が下りた。綾は落ち着かず、集中治療室の外で夜を明かした。湊はまだ昏睡状態で、モニターのアラームが何度か鳴り響いた。その間、達也がもう一度、緊急処置を行った。明里はソファにもたれてうとうとしていたが、目を覚まして時間を見ると、午前2時だった。凪親子はベッドでぐっすり眠っている。明里は呆れた様子で、綾を探しに外へ出た。「綾、少し休んだら?」「眠くないの」綾は気が気ではなかった。こんな時間になっても、湊が目を覚ます気配はまったくない。目の下に濃いクマを作った達也が、慌ただしくやって来た。綾に軽く挨拶をすると、医療用ガウンを羽織って集中治療室の中へ入っていった。湊のバイタルサインをチェックすると、重い表情でため息をついた。「君が目を覚まさなかったら、綾はどうなるんだ?湊、君が綾にしたことは、一生かかっても償えないぞ」昔、主治医として、達也は湊が半身不随だと偽のカルテを作成した。まさか湊がそれを口実に綾と結婚するなんて、思ってもみなかった。幼なじみとして、湊の数々の行動には肝を冷やされてきた。達也が出てくるのを待って、綾はすぐに容態を尋ねた。「待つしかない。ひたすら待つんだ」達也は椅子にどさりと腰を下ろし、目を閉じた。ひどく疲れているようだった。明里が綾の腕を引き、隣に座らせた。綾は明里の肩に頭を預けた。どれくらい経っただろうか。うつらうつらしていると、誰かが自
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第17話

樹はニコニコしながら綾の顔を見て言った。「『おじさん』と呼んでくれればいいよ。これからグループに新しくできた研究所を見に行くんだが、一緒に来てくれないか」「はい」綾は自分のデスクに戻って、簡単にお化粧を直した。家を出るとき急いでいたから、お化粧をする時間がなかったのだ。綾はもともと肌が白くて綺麗なので、お化粧をしてもしなくても、実はあまり変わらない。ただ、昨晩はあまり眠れなかったので、疲れを隠す必要があった。元気そうに見えれば、相手にもっと良い印象を与えられるからだ。裕也は別の用事があるらしく、樹は綾だけを連れて行った。綾は少し緊張していた。綾が助手席のドアを開けると、樹は後ろに一緒に座るように言った。気まずい空気を和らげるため、綾は母が残した写真の話を切り出した。「杉本おじさん、写真で拝見した時と同じで、今もとても素敵ですね」樹はからからと笑った。「もう年寄りだよ」車が一つの大きな門をくぐると、綾は樹に続いて車を降りた。すると、ラフな格好の若い男性が出迎えてくれた。「叔父さん」「綾さん、彼は甥の杉本颯太(すぎもと そうた)だ。この研究所の責任者で、君より二つ年上だよ」綾は手を差し出した。「はじめまして、中野綾です。杉本おじさんの秘書をしております」「颯太と呼んでください。叔父さんから聞いてますよ。障がい者向けのスマートアシスト機器に、とても詳しいそうですね」颯太は雰囲気と同じ、性格も気さくで、まるでお隣のお兄ちゃんのようだった。職員に案内されながら、一行は研究所を見学した。綾はすっかり目を奪われた。この建物にある実験設備はどれも世界最先端のものばかりだった。その多くはネットでしか見たことがなく、初めて目にするものもあった。一通り見て回った後、一行は颯太のオフィスでお茶を飲みながら休憩した。「綾さん、これから毎日ここに顔を出すといい。君の部署異動のための準備だよ」その言葉に、綾は嬉しい反面、少し戸惑ってしまった。「でも、私は秘書ですので、本来の仕事がおろそかになってしまうかと……」もし本来の仕事すらちゃんとできなければ、念花にいられなくなってしまう。「秘書部は人手が足りてるから心配いらない。君をいきなり技術部に入れると、あらぬ噂を立てられるだろう。だから、一見遠回りに
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第18話

「綾は?」湊が一般病棟に移ってから、最初に口にしたのがその言葉だった。病室を見渡したが、そこにいたのは凪親子だけだった。「何か用事があったみたいで、朝早くに帰ったわよ」凪はお粥をレンゲですくい、ふーふーと息を吹きかけ、湊の口元へ運んだ。「黒崎先生が、なにか消化にいいものを食べるようにって」湊は一口食べたが、眉をひそめた。「お店の味は苦手だ。綾に家で作って持ってきてもらってくれ」病気になるたび、いつも綾が体にいい手料理を作ってくれていたから、すっかりその味に慣れてしまっていたのだ。「これ、私が作ったの」凪は気まずそうにレンゲを引っ込めた。「ごめんなさい、私、料理が下手で」「いや、食欲がないだけだ。冷ましてからまた食べるよ」「私、綾みたいに器用じゃないから。彼女がいてくれたらよかったのに」凪はがっかりした様子でお椀を置くと、口を手で覆ってあくびをした。湊はイライラして視線をそらすと、ソファで眠っている海斗に目を向けた。「昨日の夜、寝てないのか?」凪は湊の肩のあたりに顔を寄せた。「あなたが大変な時なのに、眠れるわけないじゃない。海斗もあなたに会いたいって駄々をこねるし」話していると、ドアの外から足音が聞こえてきた。湊はそちらに顔を向けたが、やって来たのが達也だとわかると、失望の色を浮かべた。「いくつか注意点を伝えに来たんだ」湊はうんざりしたように窓の外を見た。「綾に言ってくれればいい。会社のこともあるんだ、そんなことを覚えている余裕はない」これまでこういったことは全て綾がやってくれていた。薬を飲むときでさえ、彼女が水と錠剤を目の前まで持ってきてくれていたのだ。何を食べて、何を食べたらいけないかなんて、こっちが気にする必要はなかった。綾が詳しい献立まで考えてくれていたからだ。達也は仕方なく言った。「綾にラインしたんだが、返事がなくてね。忙しいみたいだから、自分で聞いてくれ」「綾が何をそんなに忙しがることがあるんだ」「仕事中なんじゃないのか?」湊が全く気にも留めない様子なのを見て、達也は複雑な心境になった。「綾が仕事してるって、知らなかったのか?」湊はお椀を手に取ると、眉をひそめながらお粥を一口食べた。「あいつに仕事が見つかるはずがない」「君が何か邪魔をしたのか?」
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第19話

湊の険しい表情が、ようやく少し和らいだ。「退院したら、海斗のために海外の信託口座を開設するよ。これでお前たち親子の生活も安心だろ」凪は、隠しきれない喜びを目に浮かべた。「湊、あなただけよ。私たちにこんなによくしてくれるのは」湊は息子に微笑みかけた。この世で自分と最も血の繋がりの濃い、小さな存在。海斗は一人でタブレットに夢中だったが、画面を下にスライドさせると、何かをじっと見つめた。「中野おばさんだ。中野おばさんがいるよ」その言葉を聞いて、湊は海斗からタブレットをひったくった。【謎多き独身貴族・杉本樹、恋人と堂々デート】という太字の見出しが目に飛び込んできた。【念花グループ会長の杉本樹さんに、ついに結婚の噂が。若く美しい恋人と街を歩く姿は、まるで本当のカップルのように親密で……】湊は下品な記事を読み飛ばし、下に並んだ数枚の写真に目をやった。写真の中では、樹が女性と抱き合っていたり、車に乗った後で女性の顔を撫でていたりした。写真の女性の顔ははっきりと写ってはいなかった。でも、綾を知る人なら、一目で彼女だとわかっただろう。特に、彼女が着ていたワンピースは、湊がプレゼントしたものだったからだ。凪は驚いた表情を見せた。「オークションで綾にブローチを贈った人、確か社長からって言ってなかったかしら?もしかして、念花グループの社長なの?」湊はこめかみがズキズキと痛むのを感じた。まだ血の気の引いた顔は、真っ青だった。タブレットが「ドン」と音を立てて床に落ちた。湊は胸を押さえ、苦痛に眉をひそめた。凪は恐怖で声も出せず、慌てて病室の外へ人を呼びに走った。「黒崎先生!早く黒崎先生を呼んできてください!」そこへ、ちょうど仕事終わりの綾がやってきた。凪のただならぬ叫び声を聞き、すぐに達也の後を追って病室へ駆け込んだ。「湊、どうした?」達也は湊を一目見るなり、顔色を変えた。「他の人は外に出ててくれ!」綾は病室の外に出された。今朝、達也から大したことはないと連絡があったばかりなのに。目の前の状況は、どう見ても大丈夫そうではなかった。ドアの小窓から中を覗くと、達也が慌ただしく動いている。モニターの波形が激しく乱れているのを見て、綾の心臓は締め付けられるようだった。「どうして湊の病気がまたひどくなったの?」
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第20話

綾はおそるおそるドアを開け、ベッドのそばへと歩み寄った。湊の肌は、病的なまでに真っ白だった。細く長い指を布団の上で組み、手の甲の青い血管が薄い皮膚の下に透けて見える。「体は大丈夫なの?」綾は机に置かれたお粥に手を伸ばしたが、すっかり冷めていた。「温め直してくるね」「なぜだ?」湊は鋭い目つきで、綾を見ようともしない。血の気のない薄い唇を、きつく引き結んでいた。「あのニュースのことなら、ちゃんと説明できるから」綾はお椀を置くと、椅子をベッドのそばまで引き寄せた。「杉本おじさんは母の友人で、『薔薇の心』をくれた人なの」綾はスマホの写真フォルダを開くと、樹と母が写っている数枚の写真を湊に見せた。「こっちが母で、こっちが杉本おじさん。小さい頃、あなたにもこの写真見せたことあるでしょ?」綾は湊の機嫌を損ねないように、優しい口調でそう説明した。「母親の友達だからって、なれなれしく体に触れていいのか?あいつの手が、お前の体に触れていただろう!」湊は綾の着ているワンピースに、意地の悪い視線を向けた。「お前が離婚したいなんて騒いでいるのも、結局はあいつのためなんだろ?」綾はぐっと息を飲み、湊を怒らせちゃだめだと自分に言い聞かせた。「離婚したい理由はもう何度も言ったわ。同じことを繰り返したくない。あなたほど頭のいい人なら、この写真がわざとそう見えるように撮られたものだって、わかるんじゃない?」幸い、綾は普段から穏やかな話し方をする。だから今、腹が立っていても、それがあまり表に出ることはなかった。短い沈黙の後、湊は綾の手を握った。「男のことは、俺の方がよくわかる。これからはあいつに近づくな。今回はお前が騙されたんだと信じてやる。だが、他の男とお前が一緒に写っている写真は二度と見たくない」綾は見た目がよく、人を疑うことを知らない。だから樹みたいな男にとって、格好のターゲットになりやすいのだ。知り合いにも、表向きは立派な人ぶっていても、裏では愛人を囲っている男がたくさんいる。中には数人囲っているやつもいた。綾は自分が大事に育てすぎたせいで、ああいう連中の魂胆なんてわかるはずもなかった。綾は眉をひそめた。「私は念花グループで働いてるの。それに、杉本おじさんは絶対にそんな人じゃない」「辞めろ
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