All Chapters of 夫と愛人に地獄に突き落とされた私を救ってくれたのは「若」と呼ばれる裏の世界の人でした: Chapter 21 - Chapter 30

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21話

「では、私はあちらに控えておりますので。どうぞご自由にお話ください」 「ああ。ありがとう」 看守はそう告げると、伏見から笑顔を向けられてぽうっと見蕩れる。 だが、はっとしたように表情を引き締め、室内の隅にある待機場所へと向かった。 その場に残された音羽が戸惑っていると、伏見は近くのテーブルと椅子に向かって歩いて行き、一脚の椅子を引き出した。 「──どうぞ、座ってください」 「あ、ありがとうございます」 男──伏見が話す度に低く艶やかな声が音羽の耳を撫ぜる。 その感覚にぞわぞわとしつつ、音羽は伏見が用意してくれた椅子に腰を下ろした。 「あ、あの……?」 そして、ちらりと伏見を見上げる音羽。 未だにどうして自分が呼ばれたのか、理解出来なかった。 そんな音羽に笑みを深め、くつりと喉奥で笑った伏見は優雅に足を組み、口を開いた。 「この刑務所に来た時に……たまたまあなたが目に入った。そんなに警戒しないで欲しい」 「しっ、失礼しました……。その、伏見さんは……どうしてこの刑務所の支援を……?」 音羽は、当たり障りの無い言葉を投げかける。 音羽の質問に、伏見は斜め上の虚空を見上げつつ「そうだな……」と呟いた。 「この先、何度も足を運ぶ事になるだろうからな……。自分の職場が、十分に支援が行き届いていなかったら支援もしたくなるものだ」 「……そ、そうなのですか……?それに、職場って……」 音羽には、伏見の考えは良く分からない。 職場の経営状況などを、普通気にするだろうか? 音羽が首を捻っているのを伏見は面白そうに眺めつつ、質問に答えた。 「来月からこの刑務所でカウンセラーとして働く予定だ。受刑者の心のケアを担当させていただく。……君も良かったら利用してくれ」 「カ、カウンセラーの先生だったんですか……!?」 「ああ。何か変か?」 「い、いえ……その、カウンセラーの先生は……温和なお爺さんや、女性を想像していたので……」 伏見のように若く、そして容姿の整った男性がカウンセラーとしてここに働きに来るなんて、と音羽は驚いてしまう。 音羽の驚きは想像していたのだろう。 伏見はくつり、と笑うと「変だろうか?」と首を傾げた。 「い、いえ……!失礼しました、少し驚いてしまっただけです……!」 「そうか、気にしなくていい。驚かれるのは慣
last updateLast Updated : 2026-02-11
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22話

音羽が留置所に戻ると、心配した律子が声をかけてきた。 「あんた、突然呼ばれたけど大丈夫だったのかい?看守は、何の理由で音羽を呼んだんだ?」 「それが、律子さん──」 音羽は、自分を心配してくれる律子にありのままを話した。 何故自分が呼ばれたのかは分からないが、新しくやってきたカウンセラーの目に偶然止まり、少し話をしたいと言われた事。 そして、男性のカウンセラーが来月からこの刑務所にやって来る事。 そのカウンセラーは多分裕福な家の人で、この刑務所の支援者だと言う事を音羽は説明した。 最後に、カウンセラーから教えてもらった名前を律子に告げると、律子はぎょっと目を見開いた。 その律子の様子が、まるで伏見を知っているような態度に見えたため、音羽は首を傾げつつ律子に問う。 「もしかして、律子さんは伏見さんと知り合いですか?何だか、さっきの運動場でも、伏見さんから逃げるような感じでしたよね?」 音羽の質問に、律子は背中にダラダラと変な汗をかきつつ、それでも表情は変えないようにすっとぼけた。 「そうかい?そういう風に見えていただけじゃないかい?私には伏見って名前のカウンセラーは知らないねぇ……」 律子は、嘘は言っていない。 「伏見」なんて名前のカウンセラーなんて知らないのは本当だ。 そもそも、そんな名前のカウンセラーは存在しないのだが、それを音羽に伝える事でもない。 律子は大いに混乱しながら、心の中で叫ぶ。 (若……!一体あなたは何を考えているんだい!?こ、こんな所に組の若頭自らやって来るなんて……!しかも、カウンセラー!?若とは真逆の職業じゃないか!) 律子は混乱しつつ、自分の組の若頭がぶっ飛んだ行動に出た事に、目を回す。 (あ、あいつらは……!あいつらは若の暴走を止めなかったのか……!?いや、だがそもそも若は誰かに止められてもそんな静止を振り切って行動なさる方だ……) どうしたら、どうしたらと考える律子に、音羽は不思議そうに首を傾げる。 音羽は、伏見の話をしてから律子の様子がおかしくなったような気がしてならない。 だけど、律子が話したがらなさそうな気配も感じる。 (律子さんは……きっと話してもいい内容だったら教えてくれると思うし……) きっと、彼女なりに何か考えがあるのだろう。 そう考えた音羽は、気にすることをやめた。
last updateLast Updated : 2026-02-12
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23話

そして、あっという間に時間は過ぎた。 伏見がカウンセラーとしてやってくる当日。 音羽は、最近つわりが酷くなって来ており、その日は医務室で暫く休んでいた。 「──失礼する」 「……っ!?」 青い顔で、ベッドに横になっていた音羽の元に、男の声が聞こえたと思ったら、ベッドを仕切るカーテンが声と共に開けられた。 突然の出来事に、音羽が目を見開きカーテンを開けた男──伏見を凝視していると、伏見は悪びれた様子を見せる事なく、音羽の額にぴたり、と手のひらを当てた。 「……っ!?」 「熱は、無さそうだな……。つわりが酷いと聞いている。大丈夫か?」 「へ……っ、あっ、ええ、大丈夫、です」 「そうか、なら良い。何かあれば呼べ」 「──へ!?」 伏見は、カウンセラーの先生ではなかったのだろうか。 音羽がそんな事を考えていると、音羽の考えを読んだのだろう。伏見はちょい、と親指で後ろを示す。 「安心しろ。医者はそこにちゃんと居る」 「そ、そうですか……えっと、今は特に大丈夫、です……」 音羽が途切れ途切れそう告げると、伏見は1度頷いてから再びカーテンを閉めて遠ざかる。 足音が完全に医務室から出て行った事を確認すると、ふうと息を吐き出した。 「な、何だったのかしら……?部屋に戻ったら律子さんに聞いてみようかな……」 だが、音羽がそう考え暫くしてから部屋に戻った時。 そこには律子の姿は無かった。 ◇ 【カウンセリング室】 そう、プレートが下げられた部屋で、律子は今自分の組の若頭である伏見と対面していた。 律子は信じられないものを見るような目で、目の前の伏見を見つめる。 伏見は、カウンセラーらしく白い白衣を着て、どこか面白そうに薄っすらと笑みを浮かべてボールペンをいじっている。 じいっと伏見を見つめていた律子は、口を開いた。 「──若、本当に何を考えているんですか……?」 律子の質問に、伏見はぴくりと眉を動かしおもむろに律子を見返す。 気怠そうに顔を上げた伏見の視線が律子にひたり、と定まり、律子はえもいえない緊張感に包まれた。 自然と背筋がしゃんと伸び、律子の握った拳がじわり、と汗が滲む。 「……別に、大した事は考えてない」 律子の言葉に、伏見がぽつりと低い声で返す。 「それは、本当ですか……?」 それなのに、カウンセラーに扮
last updateLast Updated : 2026-02-12
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24話

律子はそれ以上伏見に何か意見をする事は出来なかった。 組の頭が決めた事だ。 例え、音羽が利用されようと自分にはそれを止める力は無い──。 だが。 律子は伏見に向かって頭を下げた。 「ただ、頼みます若……。音羽は既に十分傷付いてます……傷を広げるようなやり方を……音羽にはしないでやってください……」 律子の言葉に、くるくるとペンを回して遊んでいた伏見は微かに目を見開いた。 (へぇ……。神田がこんなに他の人間を気にかけるなんて珍しい……。あの玉櫛と言う女が人を手玉に取るのが上手いのか……それとも、本当に善良な女なのか) だが。 伏見はすぐにそう考え直す。 (大企業の妻だ。どんな手を使ってその座についたのかは知らないが……欲の無い人間なんて、この世にはいない。その女も、欲に塗れた俗物だろう) そう考えた伏見は、興味なさげに律子から視線を外し、軽く手を振った。 「分かった、考えておく」 「──本当ですね、若!」 「はいはい」 ひょい、と手を振り律子に退出を促す伏見。 これ以上の同席は不要だ、とばかりの伏見に、律子は溜息を吐いてから席を立った。 「また、何かありましたらお呼びください若」 「分かった」 こくり、と頷いた伏見に、律子は深く頭を下げてからカウンセリング室を退出した。 ◇ 「あ、律子さん。お帰りなさい」 留置所に戻った律子を、音羽が笑顔で迎える。 だが、律子の顔色はどこか青白い。 心配した音羽は、律子に駆け寄った。 「り、律子さん大丈夫ですか?何だか顔色が悪いです。医務室に行きます?」 「ああ……、いや。大丈夫さ、音羽。それより、あんたも大丈夫なのかい?つわりが酷いんだろう?」 「私は大丈夫です。医務室で妊婦でも飲める薬を頂いて、それが効いてきたみたいです」 むん!と握り拳を作って見せる音羽に、律子は苦笑いを浮かべる。 こんな風に辛い中でも笑い、強く生きる音羽を律子は案じた。 (若に……、利用されて欲しくないよ。クズ夫と別れて、腹の子と一緒に2人で強く生きていってほしい……) だが、と律子は考える。 (若があんな事までして、音羽に近付いている……。多分、若なりに玉櫛の事を調べて……音羽が使えそうだから、こうして接触して来たんだ……。若には逆らえないが……この子と腹の子は私が守ってやらないと) せこ
last updateLast Updated : 2026-02-13
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25話

伏見がカウンセラーとしてこの刑務所にやって来てから、ひと月が過ぎた。 ひと月が経過し、音羽のお腹も少しぽっこりと膨らんできている。 運動場。 律子と音羽が笑い合いながら歩いている姿を、伏見はカウンセリング室から眺めていた。 「──玉櫛 音羽、か。短大卒業後、今の夫と出会い、猛烈なアプローチを受けて結婚……。元は一般家庭の出、か……」 伏見は、音羽の情報が記載された書類をぺらり、と捲る。 報告書類に記載されている通り、音羽は一般家庭の出である。 そのため、大した情報は出てこなかった。 だが、その変わりに夫である玉櫛 樹は、玉櫛ホールディングスの跡取り息子であり、今はその会社の社長に就いている。 音羽よりも樹の方が色々と情報を集めやすい。 「まあ……旦那の方は以前から女好きの噂があったからな……悪癖は嫁を迎えても治りはしないようだ」 伏見が視線を落としている書類には、ここ最近の樹の行動が記され、写真まで添付されている。 そこには、音羽と暮らしていた家に秘書の裕衣を連れ込み、毎日好き放題やっている所が写真に撮られていた。 見たくもない男女の性生活を見てしまった伏見は、気色悪いものを見た、とばかりに顔を顰めた。 「こんな男とよく結婚したものだな、あの女も」 伏見は書類から顔を上げて、運動場に居る音羽に視線を向ける。 太陽の日の下で笑う音羽は、明るく活き活きとしている。 伏見がこの刑務所のカウンセラーとして紛れ込んでから、音羽とは何度か話をしていた。 話をした感想は、本当にただの「善良な一般人」だ。 嘘をついているような素振りもなく、演技をしているような素振りも見受けられない。 どこにでもいるような、普通の一般人。 だけど、音羽と話していると不思議と温かい気持ちになるのを伏見は感じていた。 音羽の裏表のない態度や笑顔が、酷く安心する。 「──なるほどな、だからか」 伏見は、どこか腑に落ちた。 樹のような大企業の御曹司は、普段から常に傍には玉の輿を狙っている女達がへばりついている。 だが、短大を卒業したばかりの音羽は、樹の事をあまりよく知らなかった。 樹の持つ肩書きや権力に、媚びへつらう事は無かったのだ。 「玉櫛は、自分に気付いていない音羽が最初は新鮮だったのだろう」 なるほど、とそこで納得した。 最初は珍しいもの
last updateLast Updated : 2026-02-14
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26話

◇ ある日の午後。 刑務所内で、ちょっとした騒ぎが起きた。 軽作業中に受刑者達の喧嘩が起きたのだ。 それは些細な言い合いから掴み合いへ発展し、周囲で喧嘩を止めようとした受刑者達をも巻き込んでいった。 そして、運悪く──。 音羽や律子のすぐ傍で、その喧嘩が始まってしまったのだ。 「音羽……!あんたは早くここから離れな!」 「だ、だけど律子さん……っ!律子さんも一緒に離れないと……!」 妊娠している音羽を気遣い、律子が音羽に離れるように告げる。 だが、音羽は律子をこの場に残して自分だけ離れる事を躊躇っている。 ほんの少し、判断が遅くなり離れるのが遅れてしまうだけで、音羽と律子達の周りにはあっという間に野次馬達が集まってしまった。 喧嘩を始めたのは、受刑者の中でも血気盛んな部類の人間で。 その人間は周囲の受刑者達から煙たがられていた。 だからこそ、野次馬達は「やれやれ!」と囃し立てる。 騒ぎに気付き、看守が駆け付けるのが先か。 それとも、野次馬達に閉じ込められてしまうのが先か──。 それは、火を見るより明らかだった。 音羽や律子の周りには、あっという間に野次馬達が集まり、円のようになって喧嘩の張本人達を囲む。 音羽や律子のように、彼女達の近くにいて逃げ遅れた人達も周囲に囲まれてしまい、喧嘩を始めた受刑者に殴られたりし始めた。 「ちくしょう!毎日毎日ストレスが溜まるんだよ!誰でもいいから殴らせろ!」 「──ちっ」 喧嘩を始めた受刑者が、少し離れた場所にいた音羽や律子に視線を向けた。 そして、音羽を庇うように少し前方に立っていた律子に向かって走り出した。 律子は音羽にその受刑者が行ってしまわないよう、自分に受刑者を誘導した。 (多分、看守はもうこちらに向かっているはずだ。それまでの間、音羽には怪我をさせないようにしないと……!) 腹の子に何かあったら。 きっと音羽は心を病んでしまう。 律子が受刑者に備えている時。 ふと、視界の隅に伏見の姿が映ったような気がした。 (──若!?どうして、こんな場所に……!?) 律子が一瞬、伏見に気を取られた瞬間。 隙が出来てしまい、目の前に迫って来ていた受刑者の拳を避けるのに反応が遅れてしまった。 「──ぐぅっ!」 「律子さん!」 律子の頬が、受刑者に殴られてしまう。
last updateLast Updated : 2026-02-14
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27話

(蹴られる──!) そう、悟った音羽は、その瞬間衝撃を覚悟するように強く目を瞑った。 そして、お腹を守ろうと体を丸くして防御態勢を取った。 だが。 音羽が衝撃と痛みがやってくるのを待っていても、いつまで経っても衝撃も、痛みもやって来ない。 「──……?」 あれ、おかしい。 そう思い、音羽が恐る恐る瞼を開くと。 そこには──。 白衣を着た、広い背中が音羽の視界を埋め尽くしていた。 ここ最近、妊婦の音羽を気遣い、刑務所での暮らしが辛くないか。 ストレスが溜まっていないか、と色々気にかけてくれる伏見が、何故か音羽の目の前に立っていて。 音羽を蹴ろうとしていた受刑者の足を、いとも簡単に片手で防いでいた。 「──あなたは、目の前の女性が妊娠していると分かっているのにわざわざお腹を蹴ろうと?」 「……っ、そ、それがどうした!私は全員ぶち殺してやろうと……っ!」 伏見の低く、恐ろしい声が響く。 音羽には背中を向けているから分からないが、伏見の正面にいる受刑者は、先程に比べてあからさまに顔色が悪くなっている。 そして、伏見に掴まれた足を離されると、逃げるように伏見から距離を取った。 先程まで囃し立てていた周囲の受刑者達も、突然の伏見の乱入に混乱していたが、彼の表情を見た野次馬達は、皆一様に口を閉ざし、真っ青になっていた。 その中でも、普段と変わらない様子なのは音羽から離れた場所にいる律子だけ。 「そうか……。こんな場所でそんな発言をしたらどうなるか……分かっていないんだな。残念だ……」 「な、何をブツブツ言って……!私はっ!」 「もう良い。もう、看守が到着した。殺人未遂でお前は刑期が伸びるだろう」 「な──っ、そんな訳……っ!」 刑期が伸びる。 その言葉を聞いた受刑者の顔色が、さらに悪くなる。 受刑者が伏見にまだ何かを話そうとしていたが、伏見本人はくるり、と音羽に振り向いた。 「大丈夫か?怪我は?」 「──えっ、えっ?」 「お腹に異常は?気分は?」 矢継ぎ早に問い掛けてくる伏見に、音羽ははっとしてすぐに首を横に振って「大丈夫」だと答える。 そうこうしている内に、ようやく看守数名がやって来て、この場に集まった野次馬達は叱責を受け、罰を受けた。 音羽と律子。それに、巻き込まれてこの場から離れる事が出来なかった受刑者につ
last updateLast Updated : 2026-02-15
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28話

律子達が医務室で手当てを受けている間。 音羽は、カウンセリング室で伏見のカウンセリングを受けていた。 「気分は?気持ちが不安定になっていたりはしないか?」 「だ、大丈夫です伏見先生。びっくりはしましたが……」 「それなら、良い。……ここから軽作業場が良く見える。いきなりあんな騒ぎが起きて驚いた」 音羽の言葉に、伏見は緩く口元を笑みの形に変えた後、表情を引き締め、そう続けた。 「この部屋から見えたんですね。だからあんなに早く駆けつけて……!だ、だけど伏見先生!いくら先生が男性で、力が強くとも、あんな風に暴れている人に近付いたら危ないです!女性だからと言って、その……ここは、刑務所ですから……。罪を犯して服役している以上、一般の人より危ないです……」 伏見は、まさか自分の身を案じられるとは思わなかった。 普段、自分がどんな事をしているのか。それを、音羽は知らないのだから当然だ。 女性がいくら暴れようとも、伏見に取ってはそれを御するなど赤子の手をひねる程に容易い。 目をつぶっていたって簡単に出来るくらいだ。 その証拠に、伏見が輪の中に入ってきた瞬間、律子は「助かった」と言わんばかりにほっとしていたのだから。 だが、何も知らない音羽からしたら、伏見を心配するのは当然で。 自分の身を案じられた事など、ほとんどなかった伏見は若干気恥ずかしそうに目を逸らした。 「俺なら、大丈夫だ……。その、体なら鍛えているし、職場がここだろう?武道の心得は、勤務する際に必須だ」 「え!そうだったんですか?でも、確かに伏見先生の仰る通りかもしれません。何が起きるか分からないですよね、だから自分の身を自分で守れる事は、大事です」 「……あんただってそうだ。腹の子を危険に晒さない方がいい。慌てて転倒したら、元も子もない」 「ふふ、確かに先生の仰る通りですね。今後は、気をつけます」 困ったように笑う音羽に、伏見は一瞬見惚れる。 (また、だ──) 音羽の笑顔が、ある人の笑顔と重なる。 伏見が幼い頃に見た、笑顔。 その笑顔と、今目の前にいる音羽の笑顔が重なり、伏見は言葉に詰まった。 「伏見先生?」 突然黙り込んでしまった伏見に、音羽は不思議そうに尋ねる。 何か、先生に失礼な事を言ってしまっただろうか──。 そう心配して、音羽は伏見に話しかけるが、伏見は
last updateLast Updated : 2026-02-15
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29話

「お、おいあんた──」 伏見が驚きつつ、音羽に話しかけようとした所で。 伏見が言葉を言い終えるより早く、音羽が口を開いた。 「……両親は既に亡くなっていて、身内は夫のみです」 両親が亡くなっている──。 その言葉を聞いた伏見は、気まずそうに音羽から目を逸らして謝罪の言葉を口にした。 「そう、か……悪かった。……じゃあ、あんたの夫にこの事は報告する」 「はい、お手数おかけしますが、よろしくお願いします」 頭を下げ、カウンセリング室を去って行く音羽を見送った伏見は、音羽が完全に去ってから舌打ちをした。 「──くそっ、玉櫛 音羽の両親が既に亡くなってる……?なぜ報告書にはその情報が無かった!重要な情報だろうが!」 音羽が、自分のせいで嫌な気持ちになっていたら。 これから、自分と会う事が嫌になったら。 音羽と会った時に、嫌な顔をされたら──。 そんな事を考えていた伏見は、はっとした。 「待て、どうして俺があの女の事をこんなに気にしなければならない!?それに、別にあの女に嫌われたって──」 構わないはずだ。 それなのに「音羽に嫌われる」と想像した瞬間、伏見の胸はぎしり、と痛んだ。 「くそっ」 伏見は、苛立ちを表すように髪の毛をかいた。 ◇ 「律子さん……!」 「──音羽?あんた、若──いや、あのカウンセラーの先生に連れてかれてたけど、無事かい!?何もされていないかい!?」 カウンセリング室を後にした音羽は、律子が手当を受けている医務室に急いで向かった。 律子は丁度手当を受け終えたのだろう。 医務室を出た所の律子と丁度鉢合わせした音羽は、心配そうに律子に声をかけた。 だが、受刑者に殴られ、大変な思いをしたのは律子だと言うのに、律子は音羽を見るなり慌てたように駆け寄り、音羽の肩を掴んでそう問いかける。 「ふ、伏見先生ですか?」 律子の剣幕に押され、音羽がきょとんとしつつそう言葉を返す。 音羽の態度を見るに、伏見に何かをされた訳じゃない、と分かった律子はほっと胸を撫で下ろした。 物凄い勢いで音羽をカウンセリング室に攫って行った伏見。 伏見のそんなに慌てた姿を見た事の無かった律子は、大層心配したのだ。 (若は、いつだって冷静沈着……。慌てる姿なんて見た事が無かった) それどころか、抗争の中でも、伏見は常に薄っすらと笑
last updateLast Updated : 2026-02-16
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30話

刑務所で、ちょっとした諍いが起きてから数日が経った。 数日が経ったにも関わらず、音羽の元に夫・樹からの連絡は一切来なかった。 ◇ ひと月、ふた月、とあっという間に時間が過ぎて行く。 時間が経過するに伴い、音羽のお腹はどんどんと膨らんで行く。 音羽は、律子以外にも仲の良い受刑者が出来た。 そして、カウンセラーの伏見との会話も、最早日常となってきた頃。 それは、突然やって来た。 その日も、いつものように朝食を食べ、音羽が出来る範囲の軽作業を行っている時。 看守に音羽は呼ばれた。 「568番。面会希望だ」 「──へ?私に、ですか?」 「ああ」 こくり、と頷いた看守は戸惑う音羽を早く来るようにと促している。 「音羽、こっちは気にせず行きな」 「そうそう。音羽の作業は終わらせておくよ!」 律子を始め、同じグループで軽作業をしていた仲良くなった受刑者が、笑顔で見送ってくれる。 音羽は申し訳ない、と思いつつ、その言葉に有難く甘えさせてもらい、その場を離れた。 看守に着いて歩きながら、音羽は面会室に到着した。 面会室に来るまで、音羽は誰が会いに来たのか、全く想像が出来なかった。 あれだけ音羽が連絡をしても。 少し前に受刑者同士の諍いが起きて、音羽が巻き込まれたと言う連絡を受けても。 夫、樹は一切顔を見せなかった。 だから、今日面会に来たのは樹ではない。 じゃあ、一体誰が──。 そう思いつつ、面会室の扉を開けた音羽の目に、思いもしなかった人物が飛び込んで来た。 「──お久しぶりですね、音羽さん」 高く、澄んだ声。 その声を聞くのは、いつぶりだろうか──。 まさか、彼女がこんな所に来るとは思っていなかった音羽は、扉を開けた格好のまま、固まってしまった。 「──崎山、裕衣……?」 音羽が何とか声を振り絞って、彼女の名前を呟く。 すると、裕衣──樹の秘書である彼女は、真っ赤な唇をにんまりと弓なりに持ち上げて音羽を蔑むように見返した。
last updateLast Updated : 2026-02-16
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