All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 241 - Chapter 250

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第242話

「おはようございます」柔らかな朝の光が差し込む食堂ホールに、心春と和真の声が重なった。先ほど温泉に入ったばかりの和真と心春は、まだ浴衣姿だった。二人とも朝風呂上がりで頬がほんのり赤く染まり、昨夜までの張り詰めた空気は感じられない。特に心春の表情は明るく、昨日まで泣き腫らしていた姿が嘘のようだった。その様子を見た綾乃は、ほっと胸をなで下ろす。綾乃は自分の椅子を少し横へずらし、自分の横へ心春と和真を座らせた。「ほら、ここに座りなさい」そう優しく促され、心春と和真は並んで腰を下ろす。二人の距離は自然と近く、寄り添うような雰囲気だった。綾乃はそんな二人の顔を見比べると、何の遠慮もなく尋ねた。「二人とも、仲直りはしたの?」あまりにも率直な質問だった。それを聞き、熱いスープを飲んでいた叶翔が思わず吹き出した。「母さん……」口元を押さえながら咳き込み、慌ててテーブルへ顔を向ける。――そんなことを朝一番で聞くか?そう思いながらも言葉にならない。吹き出して飛び散ったスープを、櫻羅が慌てる様子もなくナプキンで丁寧に拭いてくれている。「大丈夫?」「ご、ごめん……」叶翔は櫻羅に任せきりで、自分はまだ咳き込んでいた。その様子に瑛士は苦笑し、玲司も小さく肩を揺らしている。叶翔の失態に心春は一瞬だけ顔を歪めたものの、すぐに綾乃の方へ向き直り、嬉しそうに話し始めた。「昨夜、ちょっと酔って寝ちゃったんだけど、目が覚めたら櫻羅ちゃんじゃなくて和真がいたの」その言葉には、昨夜の出来事を思い出した嬉しさが滲んでいる。話しながら、心春は自然と和真の手へ自分の手を重ねた。和真もその手を優しく包み込み、何も言わず微笑む。その様子は、昨夜二人がしっかりと向き合い、互いの気持ちを確かめ合えたことを物語っていた。横目でその姿を見た叶翔は、渋い顔をして心春を睨んだ。妹が幸せそうなのは嬉しい。だが、兄としては複雑だった。しかし心春は、そんな叶翔のことなど見向きもしなかった。和真と繋いだ手を離そうともせず、穏やかな笑顔を浮かべている。その時だった。瑛士がタイミングよく立ち上がり、バイキングコーナーからトーストとコーヒーを二つずつ持って戻ってきた。「心春、和真さん、これ」そう言いながら、二人の前へ丁寧に置いてくれる。「ありがとう」心春が笑顔で礼を
last updateLast Updated : 2026-08-01
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第243話

神崎グループの中核企業の一つである「神崎グローバルトレーディング」の最上階では、神崎壮真がご機嫌な様子でコーヒーを飲んでいた。最上階に設けられた社長室は、床から天井まで一面ガラス張りになっており、眼下には都心の高層ビル群が広がっている。重厚な木目調のデスクや革張りのソファ、壁に飾られた海外の現代絵画が、この部屋の主の地位を物語っていた。壮真は大きな革張りのチェアにもたれかかり、香り高いコーヒーを一口飲む。昨夜のことを思い返しながら、満足そうに口元を緩めていた。静かな社長室に、コンコンと控えめなノックの音が響く。「どうぞ」壮真が短く答えると、ドアがゆっくりと開き、玲子が静かに顔を覗かせた。玲子は長年の壮真の愛人だったが、壮真の愛人は玲子一人ではなかった。美玲と婚姻関係を続けながら、愛人として玲子を傍らに置き、その関係が続いている中で、またほかの女と関係を築いてしまう。そのたびに騒動になり、別れ話になり、金銭問題や秘密保持の交渉にまで発展することも少なくなかった。妻の美玲は目くじらを立てて怒り狂い、事あるごとにそのことで壮真を責め立てるが、愛人の玲子だけは違っていた。壮真が他の女と関係を持ち、いざ別れようとする段になれば、いつも玲子があとくされの無いように話をつけてくれていた。相手女性への慰謝料の調整から住居の手配、秘密保持契約に至るまで、玲子は感情を表に出すことなく淡々と処理してきた。嫉妬を抱えながらも、それを仕事として割り切る姿勢に、壮真は次第に絶対的な信頼を寄せるようになった。いつしか壮真は、社内でも玲子を第一秘書として置き、マンションを買い与え、絶大なる信頼を置いている。仕事でも私生活でも、壮真の隣にはいつも玲子がいる。そんな関係が何年も続いていた。玲子はドアを閉めると、社長秘書としての表情を浮かべ、壮真へ向かって軽く頭を下げる。「社長、おはようございます」会社では節度を保った挨拶を交わす玲子だったが、男性秘書が書類を置いて部屋を出て行き、ドアが静かに閉まる音を確認した瞬間、その表情は柔らかく変わった。玲子は壮真のもとへ歩み寄ると、そのまま壮真の膝に座って甘えだした。「ねぇ、昨夜は美玲さんと……寝たの?」どこか拗ねたような口調だった。壮真は苦笑しながら玲子の太ももを優しく撫でる。「お前と頑張ってから帰ったのに、美
last updateLast Updated : 2026-08-01
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第244話

正蔵の射抜くような視線に、壮真は顔を上げられず、玲子は小さくなって固まっていた。先ほどまで社長室に漂っていた甘い空気は完全に消え去り、重苦しい緊張だけが部屋を支配している。壮真はソファに浅く腰掛けたまま両手を膝の上で握り締め、父である正蔵の顔を見ることさえできなかった。玲子も背筋を伸ばして座ってはいたものの、膝の上で組んだ指先はわずかに震えている。神崎グループを築き上げた男――神崎正蔵。その圧倒的な威圧感は、社長である壮真ですら逆らえないほどだった。「玲子!!」突然、正蔵の怒鳴り声が社長室に響き渡る。壮真も玲子も思わず肩を震わせた。玲子は反射的にサッと顔を上げる。「会長……申し訳ありません。その女性……神山雪乃は、息子の康太を連れて、鷹宮邸へ行かせました。その際、和真の妻の心春にDNA鑑定書を突き付け、認知を要請しました。その後、親子で九条コーポレーション本社へ呼びだされ、九条玲司に会っています」玲子は事実だけを淡々と伝えようとしていた。しかし、正蔵の鋭い眼光を真正面から受けるたびに、喉が渇き、声がわずかに震える。そこまで言って玲子は言葉を切った。正蔵は腕を組んだまま、玲子を射抜くように見つめている。その視線には「まだ終わりではないだろう」という無言の圧力があった。玲子は大きく息を吸い込み、荒れ始めた心臓の鼓動を必死に抑える。そして、覚悟を決めたように続きを話し始めた。「九条玲司は彼女が差し出したDNA鑑定書を信用せず、九条関係の検査機関にもう一度鑑定させると言って、康太のDNAを採取したそうです」その報告を聞いた瞬間だった。正蔵の顔から怒りの感情が消えた。代わりに、ほんの一瞬だけ恐怖にも似た表情が浮かぶ。それは長年財界を渡り歩いてきた男だからこそ見せた、一瞬の計算だった。俯いたままの壮真は、その変化には気づかなかった。しかし正蔵の表情を真正面から見ていた玲子だけは、その顔が一瞬曇ったことを見逃さなかった。――会長が……動揺した?玲子には意外だった。神崎家の絶対的な支配者である正蔵が、感情を表に出すことなど滅多にない。だが、その理由を考える余裕もなく、玲子は再び口を開いた。「その結果が明後日には出るそうです。九条側の人物から、明後日もう一度、九条コーポレーションへ来るようにと雪乃の方へ連絡があったそうです。で
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第245話

神崎正蔵が去ったあとの社長室で、壮真と玲子がドサッとソファに崩れ落ちた。重厚なドアが閉まる音が耳に残り、その余韻だけが静まり返った部屋に漂っている。先ほどまで神崎グループ会長・正蔵が放っていた圧倒的な威圧感は姿を消したはずなのに、その空気だけはまだ社長室の隅々にまで染みついているようだった。どちらも口を開かない。静寂の戻った部屋に聞こえるのは壮真と玲子の息遣いだけだった。二人とも肩で息をし、まるで嵐をようやくやり過ごしたかのように力を失っている。壮真はネクタイを緩め、額に浮かんだ汗を手の甲で乱暴に拭った。玲子も胸に手を当て、大きく息を吐き出す。長年、壮真の傍らで数々の修羅場を潜り抜けてきた玲子でさえ、今日ばかりは神経をすり減らしていた。青ざめた顔の壮真がふと顔を上げ、玲子の顔を見た。その目には社長としての威厳などなく、不安だけが色濃く浮かんでいた。「玲子……本当に大丈夫だろうな……」問いかけるような、すがるような、絞り出すような一言だった。玲子も少し青ざめた顔で壮真を見る。いつもなら「大丈夫よ」と即答できる。しかし今回ばかりは、その言葉に確信を持てなかった。玲子は小さく息を吐き出し、言いにくそうに言葉をひねり出した。「たぶん……今の技術では、兄弟のDNAを正確に分けることはできないハズ……」その声は自分自身に言い聞かせるようでもあった。本当にそうなのか。もし違っていたら。その不安が胸の奥で何度も渦巻いていた。玲子のその『ハズ』を聞いた壮真は、目を見開いて怒りを露わにする。ソファから勢いよく身を乗り出し、玲子を睨みつけた。「だから『ハズ』じゃ困ると言っているだろう!!さっき親父も言っていたけれど、ハズでは済まされんのだぞ!!」社長室に壮真の怒鳴り声が響く。怒りというより、追い詰められた人間の悲鳴に近かった。玲子は壮真の恐れと怒りの浮かんだ顔を見て、肩をすくめた。「だって…もう検査には出されちゃったんだもん、結果を待つしかないでしょ」玲子も内心では焦っていた。だが今さら検査を止めることも、結果を書き換えることもできない。できることは、ただ待つだけだった。その無力さが玲子自身を苛立たせていた。壮真は両手で顔を覆うようにしてうつむく。そして再びソファへドサッと背を預けた。革張りのソファが鈍い音を立てる。
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第246話

神山雪乃が康太の手を引き、「神崎グローバルトレーディング」の本社ビルに姿を現したのは、午後もかなり遅い時間になってからだった。ガラス張りの巨大な高層ビルは夕陽を浴びて黄金色に輝き、その威容は初めて訪れる者を圧倒するほどの存在感を放っている。エントランスではスーツ姿の社員たちが忙しそうに行き交い、受付では静かな声で来客対応が続いていた。雪乃はそんな光景を目にしながらも、康太の手をぎゅっと握りしめた。今日は何度目かの訪問だった。しかし、この場所へ足を踏み入れるたび、胸の奥が締め付けられるような緊張を覚える。受付を済ませると、案内係の社員に促され、二人はエレベーターへ乗り込んだ。静かに上昇していくエレベーターの中で、康太は表示される階数を物珍しそうに見つめている。「高いねぇ……」そんな小さなつぶやきにも、雪乃は笑顔を返す余裕がなかった。やがて最上階へ到着する。雪乃は以前、この階には壮大な社長室があるものだと思っていた。だが案内されたのは社長室ではなく、その隣にある会議室のような部屋だった。決して狭くはないものの、応接室のような豪華さはなく、室内には長いテーブルと椅子が整然と並べられているだけで、必要最低限の調度品しか置かれていない。壁には抽象画が一枚飾られているだけで、どこか無機質な空気が漂っていた。部屋へ案内された雪乃と康太は、テーブルとイスだけが並んだ簡素な部屋の入り口で、どこへ座ればいいか戸惑っていた。案内してきた社員も「少々お待ちください」とだけ言い残して出て行ってしまい、広い部屋には二人だけが取り残される。静まり返った空間に空調の音だけが小さく響いていた。すると康太が窓辺へ走って行って、階下を見下ろす大きな窓にへばりつくように手をついた。窓の向こうには、小さなミニチュアのように見える街並みが広がっている。走る車も、歩いている人も豆粒ほどの大きさしかなく、遠くには海まで見えていた。「わぁ、お母さん、すごいよ!!」目を輝かせながら康太が振り返り、嬉しそうな顔で雪乃を見る。その無邪気な笑顔を見た雪乃も一瞬だけ表情を和らげたが、すぐに慌てて康太の元へ歩み寄った。「康太、窓に手の跡がついたら怒られるわよ、手を離しなさい」優しく注意されると、康太は自分の手形がガラスについていることに気付き、恥ずかしそうに肩をすくめた。振り
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第247話

雪乃は、都心の高級ホテルに併設されたラウンジで、友人たちと酒を飲んでいた。天井まで届く大きなガラス窓の向こうには、夜景が宝石を散りばめたように輝いている。店内には落ち着いたジャズが流れ、柔らかな照明がテーブルを照らしていた。ここ最近、雪乃がよく呼ばれるようになった集まりだった。参加しているのは、誰もが名前を知る企業や財閥に関わる御曹司たち。最初は女友達に誘われて軽い気持ちで顔を出しただけだった。「気楽な飲み会だから。」そう言われて付いて行ったのが始まりだった。しかし、何度か参加するうちに、その集まりの本当の目的を雪乃も理解するようになっていた。御曹司たちの狙いは、飲み会そのものではない。飲み会のあとに、それぞれ気に入った女性を連れて帰ること。それが暗黙の了解となっている集まりだった。そうとわかってはいても、やはり「金持ちの御曹司」は魅力的だった。テーブルに並ぶ高級酒は好きなだけ飲める。店員は常に笑顔で接し、誰一人として財布を開くことはない。そんな非日常の世界は、雪乃にとって現実を忘れさせてくれる場所でもあった。女友達たちは全員、夜職。いわばキャバ嬢やいろいろなタイプのコンパニオン。中には風俗嬢も居た。昼間とはまるで違う華やかな化粧を施し、高価なドレスを身にまとい、誰もが男性の視線を集めていた。仕事の悩みや店での出来事を笑い話に変えながらグラスを傾ける姿は、慣れたものだった。雪乃も自然とその輪の中へ溶け込んでいた。ホストクラブに行けば、若い男性と楽しく酒を飲んでいい気分にさせてくれるが、結局支払いはこっち持ちだ。でも、御曹司に「何人か連れてきて」と言われれば、飲み代も、そのあとのホテル代もあちら持ち。そして帰りには、多すぎるくらいのタクシー代をくれる。御曹司の欲望を満たしてやれば、いくらかの小遣いも入る。少しでも気に入られれば、翌日に分かれる前に、ブランド物の時計やバッグなど買ってくれる男までいた。そんな話を女友達が自慢げに語るたび、テーブルは笑い声で包まれる。雪乃もそんな生活を気に入っていた。ちょっと機嫌を取り、一緒にベッドに入ってやれば、いくらかの小遣いと、友人に自慢できる品物が手に入る。高価なバッグや時計を身につければ、周囲から羨ましがられる。そんな優越感も、当時の雪乃には心地良かった。もちろん、そ
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第248話

雪乃はその笑顔に惚け、男性に促されるまま、迎えに来た高級車の後部座席に乗ってしまった。車のドアが静かに閉まり、外の激しい雨音は一気に遠ざかる。室内には上質な革張りシートの香りと、ほのかに漂う落ち着いた香水の匂いが広がっていた。窓ガラスを流れ落ちる雨粒を眺めながら、雪乃は自分でも不思議なくらい警戒心が薄れていることに気付いていた。初対面の男性の車に乗るなど、本来なら絶対にしない。それなのに、この男性には不思議と恐怖を感じなかった。運転席には無駄口を叩かない運転手が静かにハンドルを握り、高級車は雨の夜道を滑るように走り出す。雪乃は膝の上に置いた名刺へ視線を落とした。車に乗ってから名刺をよく見ると、「神崎壮真」とある。その文字を見た瞬間、雪乃の鼓動がわずかに速くなった。雪乃はハッとして、神崎壮真の顔を見た。壮真は笑顔で雪乃を見ていた。穏やかな眼差しには相手を試すような色はなく、ただ自然な優しさだけが感じられる。「ボクの名刺に何か特別なことでも書いてありましたか?」少し冗談めかした口調だった。雪乃は黙って首を振った。しかし胸の中では、「神崎」という姓が引っ掛かっていた。先ほどまでいたラウンジで会った神崎和真。同じ神崎という名字。だが、目の前にいる壮真と、和真が同じ一族とは到底思えなかった。先ほどラウンジで一緒だった「神崎和真」と関係があるとは思えなかった。神崎和真は意地の悪そうな顔で雪乃たちを見下していた。その視線には、人を値踏みするような冷たさしか感じられなかった。一方で、今隣に座っている壮真は、見るからに育ちの良い紳士に見える。言葉遣いも物腰も柔らかく、人の話を聞くときには相手の目を見て微笑む。その余裕ある振る舞いは、これまで雪乃が出会ってきたどの御曹司とも違っていた。壮真に見つめられ、雪乃は耳まで真っ赤になるのを感じていた。慌てて窓の外へ視線を向けても、自分の鼓動はなかなか落ち着いてくれない。そんな雪乃の様子を見ても、壮真はからかうこともなく、小さく笑うだけだった。実際、壮真はそのあとも紳士的だった。壮真がよく行くという、落ち着いた雰囲気のラウンジに行き、少し話をしながら酒を飲んだ。店内には静かなピアノ曲が流れ、照明は柔らかく、ゆったりとした時間が流れている。高級な店でありながら気取った雰囲気はなく、壮
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第249話

玲子は閉めたドアの前に立ちふさがったまま、腕組みをして雪乃と康太を睨みつけている。部屋の中には重苦しい沈黙が流れていた。先ほどまで聞こえていた廊下の話し声も、防音性の高い部屋の中ではほとんど届かない。テーブルの上には人数分のグラスが用意されていたが、誰一人として手をつけようとはしなかった。玲子の鋭い視線は、まるで獲物を逃がさない猛禽類のように雪乃を捉えている。その圧迫感に、部屋の空気まで張り詰めていた。雪乃は慌てて立ち上がり、小さく頭を下げた。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」そんな言葉さえ飲み込んでしまうほど、玲子の表情は険しかった。雪乃は頭を下げたまま、小さく息を整える。康太は雪乃のそばへ駆け寄ってきて、雪乃の背中に隠れて玲子を見ていた。幼いながらにも、この女性が怒っていることだけは理解できる。母の服をぎゅっと握り締め、不安そうに玲子の顔を見つめていた。玲子は冷たい視線を落としたまま、「座ってくれるかしら」そう言い、自分も雪乃たち親子の反対側に腰を下ろした。ゆっくりと椅子へ腰掛けるその動作にも、相手を威圧するような余裕が感じられる。雪乃は康太を促して自分の隣に座らせると、玲子の顔を見た。康太は椅子へ座っても落ち着かず、小さな両手を膝の上で握り締めている。母と玲子の顔を何度も見比べながら、何か悪いことが起きようとしていることだけは感じ取っていた。玲子も雪乃と康太が座るのを待ってから、呼び出した要件を伝える。「あなたたちに来てもらったのは、もう一度約束してもらうことがあるの」そう言い、手に持っていた書類を雪乃の方へ滑らせた。白い封筒から取り出された数枚の書類は、テーブルの上を静かに滑り、雪乃の前で止まる。その紙切れ一枚で、今後の人生が大きく変わるかもしれない。そんな重みが雪乃には感じられた。雪乃はその書類を手に取り、内容に目を走らせる。一文字一文字を見落とさないよう慎重に読み進めていく。読み進めるほど、雪乃の表情から笑みが消えていった。その書類にはこう書いてあった。・神山雪乃と神崎壮真には何の関係も無く、康太という息子について、何の保証も求めない・神山雪乃の出産した神山康太について、父親は「神崎和真」である・今後、いかなる追及があった時も、上記の条項を順守する書類には法的な文言が並び
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第250話

雪乃の揺るぎない瞳を見て、玲子は一瞬動くことができずに雪乃たち親子がドアから出て行こうとするのを見ていた。先ほどまで強気に言葉を浴びせていた自分とは思えないほど、体が思うように動かなかった。雪乃の目には怒りとも憎しみとも違う、底知れない静けさが宿っていた。その静けさが、かえって玲子の心を強く揺さぶる。部屋には二人の靴音だけが小さく響き、雪乃は何事もなかったかのように康太の手を引いて出口へ向かって歩いていく。しかしハッとすると、ドアを手で押さえて雪乃の動きを止めた。開きかけたドアが玲子の手で押さえられ、部屋に再び張り詰めた空気が戻る。雪乃が玲子の顔を見る。玲子も雪乃の目つきに怯えたような顔になったが、雪乃が康太の頭に手を乗せた。その手つきは先ほどまでと変わらず優しく、母親そのものだった。「康太、ちょっと廊下で待っててくれる?」突然名前を呼ばれた康太は少し驚いたように雪乃を見上げる。母の表情を見つめると、不安そうな顔をしながらも、その瞳には「大丈夫だから」という安心させるような微笑みが浮かんでいた。康太が雪乃を見上げて頷く。「うん。」小さく返事をすると、康太は素直にドアの外へ出ていった。玲子もドアから手を離した。雪乃は康太だけを廊下へ見送ると、ドアを閉めて玲子に向き直った。カチャリ、と静かな音を立ててドアが閉まる。その瞬間、部屋の空気が一変した。さっきまで康太の前で見せていた穏やかな母親の表情は、雪乃の顔から跡形もなく消えている。雪乃は玲子を足の先から頭の先までゆっくりと眺めた。まるで相手を値踏みするように、靴、バッグ、スーツ、腕時計、首元へと視線を移していく。その視線には遠慮もためらいもなかった。そして玲子の目を凝視する。「な、なによ?」玲子はひるんで一歩後ずさった。さっきまで自分が追い詰めていたはずの相手に、今度は自分が追い詰められている。そんな奇妙な立場の逆転に、玲子の心臓は速く鼓動していた。雪乃がフッと鼻で笑う。先ほどまでの「良い母親」といった態度とは正反対の反応だった。その笑いには温かさなど一切なく、相手を見透かしたような冷たい響きだけがあった。玲子は雪乃から目を離せず、蛇に睨まれたように動くことさえできなかった。雪乃はまた嘲笑うように玲子を見ると言った。「ずいぶんいい生活をさせてもらってい
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第251話

神崎グローバルトレーディングのビルを出たところで、神山雪乃は息子の康太の手を握ったまま立ち尽くしていた。高層ビルの前を行き交う人々は、そんな二人を気にすることなく足早に通り過ぎていく。先ほどの玲子との対峙で、雪乃は精いっぱい強がったつもりだった。玲子の前では一歩も引かず、冷静な態度を崩さなかった。しかし、建物を出てしまった今になって、張り詰めていた気持ちが一気に緩んでいた。胸の奥が苦しい。足にも力が入らない。康太が雪乃の顔を見つめて言う。「お母さん、寒いの?」その声に、雪乃はハッとした。気づくと、体中が震えていた。寒いわけではない。玲子の言葉や、あの書類、そしてこれから康太を守っていかなければならないという重圧が、今になって一気に押し寄せてきたのだ。それでも、康太の前で弱いところを見せるわけにはいかなかった。雪乃は康太の手を握りなおすと、「そんなことないよ」と微笑み、歩き出した。康太は少し不思議そうな顔をしたものの、母親の手を握り返し、その隣を歩いていく。二人がビルの前から歩き出した直後、黒塗りの高級車が神崎トレーディングの前に止まった。低く静かなエンジン音が響き、車体がゆっくりと停止する。雪乃は何気なく振り返る。運転手が高級車の後部座席のドアを開けていた。そこから自分より幾分か年上の、高級スーツを身にまとった紳士が降りてくる。背筋は真っ直ぐ伸び、落ち着いた身のこなしには、長年にわたって築き上げてきた地位を感じさせるものがあった。雪乃はその紳士の姿を、固まったまま見つめていた。その男性も雪乃の視線に気づき、二人の目が合った。ほんの一瞬だった。それでも雪乃には、時間が止まったように感じられた。紳士が一瞬息を飲むのがわかった。その表情に、ほんのわずかな動揺が浮かぶ。そして雪乃から目を離し、康太の姿を見た。その眼には少しだけ優しさが宿った気がした。康太は何も知らず、母親の手を握ったまま、その男性を見ている。男性はそんな康太の姿をしばらく見つめていた。だが、一瞬ののち、男性は目を反らすと、足早にビルの中へと去って行った。雪乃はその様子をみていたが、やがてフッと笑うと、「行きましょう」そう言い、康太の手を引っ張ってその場を後にした。康太は母親に引かれるまま歩き出す。雪乃もまた、振り返ることなく前を
last updateLast Updated : 2026-08-10
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