All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

竹内家本邸。今夜は海斗と日和の叔母である千佳が来ていた。海斗たちが帰ってきたことに気づくと顔を向け、笑みを浮かべて言った。「海斗も帰ってきたのね」「千佳さん」と、海斗は丁寧に挨拶をする。「海斗、おめでとう。大きな案件を決めたって聞いたわ。それにしても、杏さんが連れてきたあの子があんなにも優秀だとは、本当にびっくりしたよ。凛さんと竹内家は、何か縁があるのかもしれないわね」海斗は深く頷いた。「ありがとうございます、千佳さん」「大事な用があって帰ってきたのだろうから、私は先に休ませてもらうわね」千佳は日和の頭を優しく撫でる。「日和、おやすみ」「おやすみなさい、千佳さん」日和は可愛らしく微笑み、その背中を見送った。そして母親を見るとすぐに甘えるような態度を見せ、兄の袖を引っ張る。しかし、海斗は冷たくその手を振り払った。え?助けてくれるんじゃなかったの?智也も利明も、彼らの妹を可愛がっているというのに、なぜ自分の兄だけこうなのだ?両親の向かいに座った海斗だったが、その冷ややかな視線を日和に向ける様は、まるで日和を捕まえてきたかのようだった。日和は呆れた。お兄ちゃんが凛さんと付き合えるようになるまでは、絶対に負けを認めないんだから!「お母さん、まずは私の話を聞いてくれる?」瑶子はおどおどした娘の姿を見て、つい笑ってしまった。「うん、話してごらん」瑶子の口調が厳しくないと分かるや否や、日和はすぐに瑶子の隣へ座り、まるで姉妹のように親密に腕を組んだ。「あの言葉は私が言ったんじゃなくて、利明さんが言ったの。あの人が私に『身寄りのない方を友人にしてること、瑶子さんは知ってるのかい』って!」瑶子が眉をひそめる。「利明くんは本当に……」なんてことを言うのだろう。上流階級において「釣り合い」は大切だが、本人を前に言うことではない。育ちが悪すぎる。神谷家のことにまで口を出す権利はないが、自分の家の子はしっかりと教育しなければならない。「たとえ利明くんが言ったのだとしても、どうしてそれをそのまま口に出したの?」日和は唇を噛んだ。「凛さんはそんなに弱く……ないはずだけど……」日和は自分でも、あのような言葉を口にしたことが間違っていたと気づいていた。「凛さんが強いか弱いかなんて関係ないでし
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第262話

「小林と知り合いらしい」隆が黙って頷く。「小林さんも賢い子なんだが、肝心なところが少しな。色恋よりも仕事に打ち込んでいれば、研究者として頭角を現していただろうに」「松田さんの後ろ盾があるから、何でも当たり前だと勘違いしてるんでしょうね」瑶子もため息をついた。「自分は成功するって信じ込んでいるから、地に足がつかないのよ」隆は意味ありげに呟いた。「それにしても、利明くんと小林さんがつるんでいるのは、いただけないな。そのうち、自滅するぞ」すると、海斗が言った。「あいつはそういう運命なんだよ」「……」隆は思った。何も、そこまで言わなくてもいいのでは?瑶子も呆れた顔で頭を押さえた。「いつまでそうやって対立してるつもりなの?」「あいつの頭がおかしいんだ。俺にわざわざあいつの妹の機嫌取りをしてやる義理なんてないんだから」日和の機嫌だって取らないというのに、どうして他人の妹の機嫌を取らないといけないんだ?どうかしている。瑶子がフォローを入れた。「利明くんがあそこまで美雪ちゃんを甘やかすのは、昔、美雪ちゃんが危うく誘拐されかけたことがあったからなのよ」隆は少し驚いた。「美雪が?」海斗も神谷家の深い内情までは把握していなかったので、そっと顔を上げる。瑶子が続けた。「詳しい事情は知らないけど、私も当時現場に居合わせたから、少しは耳に入ってきてたの」利明の父、神谷茂(かみや しげる)の話だ。政治家一家として知られる神谷家だったが、茂は一家の中でも目立たない存在で、代々の慣例に従い無難な人生を歩んできた。結婚2年目、長男である利明が1歳になった直後、茂はG県へ異動となった。そこは辺境の地で政治的な功績など望めない、いわば閑職への左遷だった。そんな場所だったので、家に帰るのも困難な状況を見かねた妻・神谷彰菜(かみや あきな)は、無理やり夫を追ってG県に移り住み、そこで二人目の子を妊娠した。彰菜の体調を案じた茂は、子どもと一緒に一度実家へ戻るよう説得したが、彼女はそれを拒み、妊娠8か月ほどで出産に至った。「その後、茂は何の前触れもなく、年末になって妻と子どもを連れて突然戻ってきたの。それも公職を捨てて商売の世界に入るって言い出して。神谷家の人たちは激怒したんだけど、彰菜の異常さにも気づいた。どこか錯乱したような状
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第263話

「まだ子どものあいつにそんなことは関係ない」海斗はそう言い捨てる。そして、両親に短く「おやすみ」と挨拶をしてから、自分の部屋へ戻った。すると、日和が怒りながら階段を降りてきた。「お父さん!お母さん!早く新しいお兄ちゃんを生んでよ!」2階にいる海斗にもはっきりと聞こえるように、日和はわざと大きな声で言った。瑶子は娘の額を小突く。「馬鹿なこと言わないの」隆も続けた。「全くだ。産むなら弟だろ」瑶子は夫を睨みつけた。「あなたまで適当なことを言わないで」日和は母親に抱きついて駄々をこねた。「もう!何でもいいから、とにかくお兄ちゃんを交換して!」……智也が帰宅すると、浩が高級ブランドの店員たちに指示を出し、新しい服をクローゼットに収めていた。智也のクローゼットには彼の服しか残っておらず、凛の衣類は一つもなかった。それを見た浩は、智也がようやく凛を労るようになり、古い服を整理したのだろうと考えた。そうでなければ、あの倹約家の凛のことだ、新しい服があっても今までの服を着続けていたに違いないのだから。「ここはもう入りきらないので、隣の部屋も使ってください」これも智也の指示だった。空いているゲストルームをそのまま彼女の衣装部屋にするという。浩は足音に気づいて振り返った。「社長。指示通り、彼女の服と靴をすべて整理しておきました」智也は手狭になった部屋を見渡して、ふとこの3LDKの家が狭いと感じ、確かに凛にはかわいそうなことをしてしまったと思った。「近いうちに新しい家を探しておけ」「かしこまりました」「それと……どうしてこの物件はまだ俺名義のままなんだ?凛に名義を変更したんじゃなかったのか?」智也が訝しげに尋ねる。浩も驚いた表情を浮かべた。「名義変更については奥様がご自身で動かれていたので、私は何も……」智也の眉間に皺が寄った。「明日、俺の資産内容に変更がないか調べてくれ」彼が懸念したのは彼女が持ってきた書類に絡む資産分割の話であって、離婚協議のことだとは夢にも思わなかった。婚姻には一定期間の冷却期間というルールがある。自分が同意しない限り、凛には別れる権利がない。凛が離婚を求めて裁判を起こせば、財産分与の問題に直面するはずだ。今の凛は、昔の彼女とは違う。今の彼女は自分の力で価値を高めており、遠から
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第264話

シャワーを浴び終え、横になったところで、悠真からメッセージが届いた。【智也さん、凛さんと知り合いなの?】悠真が凛を見た時の、若々しい恋心を思い出し、智也は眉をひそめた。すぐにでも自分の妻だと教えるべく、メッセージを打ち始めた。しかし、打ち終える間も無く、再び悠真からメッセージが届く。【彼女の連絡先知ってる?教えてくれない?】やっぱり。こいつ、自分の妻にちょっかいを出そうとしている。メッセージを送信しようとした智也だったが、その手を止め、打っていた文字をそっと消した。そして少ししてから、凛の連絡先を悠真に送る。凛の連絡先を手に入れた悠真は顔をほころばせ、すぐに追加ボタンを押した。しかし携帯を握りしめながらいくら返信を待っても、承認されない。もう時間が遅いからだろう。明日の朝には承認されるはずだと思いながら、悠真は眠りについた。翌朝。智也の携帯に通知が届いた。その通知を確認した智也は、口元に微かな笑みを浮かべる。軽く携帯をタップした。景山家で目を覚ました悠真は、友達追加が承認されているのを見てベッドから飛び上がった。なんて最高な朝なんだ!千晴が不思議そうに聞く。「どうしたの、そんなに喜んで?」悠真は言った。「姉ちゃんには分からないよ」「好きな人の連絡先でも手に入れたとか?」「なんで分かったの?」そう言って笑う悠真の頬に、可愛らしいえくぼが浮かんだ。千晴は、屈託のない笑みを浮かべる弟を見た。「傷つけたいわけじゃないけど、あなたと同年代の子は犬系男子ってあんまり好まないと思うよ」「同年代には好かれなくても、年上のお姉さんなら好きでしょ?」悠真は機嫌よく携帯を弄んだ。「え?」千晴は目を見開き、ふと冷静になって続けた。「学校では彼女一人作らないと思ったら、まさか年上が趣味だったなんてね」悠真は千晴に手を振った。「じゃあ、俺はホシゾラ・テクノロジーに行ってくるから」高級車に乗り込んだ悠真は、凛に最初のメッセージを送った。【こんにちは!悠真です。俺のこと覚えてますか?】凛はちらりとメッセージを見て、【覚えている】とだけ返す。その直後、克哉から研究所に来てほしいという連絡が入った。何度も送られてくる悠真からのメッセージに【忙しい】とだけ返すと、ようやく静まった。凛は
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第265話

「こんなに早く?」凛は、上層部の対応のあまりの速さに驚いた。克哉は眼鏡の位置を直しながら言った。「詳細な処分はまだだけど、ここ数日、研究所にはかなりの権力者たちが出入りしているんだ。中には、B市から来ている人までいたよ」説明されるまでもなく、凛には何が起きているか分かった。梓が再び付け加える。「それに、小林さんが触ったパソコンは、先輩の私物ではなくて、私も克哉もデータやレポートを確認するために使う共有端末なんです。だから……」克哉が続けた。「小林がこれ以上の処分を受けることはないだろう。それに、松田さんは責任を問われるだろうが、それほど重くはない」英樹は学術界の大御所だ。研究倫理に反する行為や、決定的な刑事事件にならない限り、そう簡単には失脚しない。英樹は巨大な権力を持ち、その力は業界の至る所に根を張っている。「でも!」と、梓が続けた。「小林さんには『情報漏洩に加担した愛人』という悪評がついてしまったので、今後どの研究所も採用したがらないはずです。もう、明るい未来は断たれてしまいましたね」凛は、不安そうに自分を見つめる二人を見つめた。二人は今回の処分が甘すぎると考えているのだろう。凛は世渡りこそ下手だが、世の中の仕組みを知らないわけではない。史哉のそばにいた経験から、社会の汚いものはかなり見てきた。「予想通りです」凛は小さく頷いた。研究所側の処分には限界があるかもしれないが、やり方なら他にいくらでもある。凛は海斗から渡された名刺を取り出し、その電話番号にかけた。その相手は離婚に関する手続きを行ってくれた弁護士・葛城謙介(かつらぎ けんすけ)。「もしもし?お久しぶりです、葛城先生。凛です」「お久しぶりです。凛さん」謙介も例の一連の騒動については報道で知っているようだった。「葛城先生、私は智也と既に離婚していますが、婚姻期間中に彼が他の女性に費やした金銭を請求することができるんですよね?」「もちろんです。元夫が婚姻期間中に勝手に行っていた夫妻の共有財産の第三者への贈与であれば、全額返還請求が可能です。そのためには証拠集めが不可欠になってきますね。贈与された財産が、紛れもなく婚姻期間中に蓄えられた夫妻の共同財産であるという証明が必要ですから。回収方法は、協議による解決のほか、提訴による手続きも可能
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第266話

「柚葉さん!今回のことはどう考えても、柚葉さんのせいじゃないでしょ?せっかく力があるのに身内を守ろうとせず、外の人間にプロジェクトを渡したあの女が悪いんだから!」景山グループは、プロジェクトが競合に流れた原因を隠蔽していた。特に智也のプライベートが原因だということは、一切漏らしていない。健吾ですら、智也と柚葉が少し近すぎたせいで竹内グループに出し抜かれたのだと思い込んでいる。あの海斗が配布した資料も既に景山グループによって回収及び破棄されており、今では各企業間での噂話として残るのみ。そして周辺の人間も谷口家と関わりを持とうとしないため、谷口家の人間が真相を知ることはなかったのだ。だから、谷口家の前での柚葉は、相変わらず心優しい智也を愛する健気な女性だった。「連絡しないで智也のマンションに行っちゃっても、大丈夫だよね?」柚葉はちらりと胡桃に視線を向けた。「大丈夫だよ。暗証番号は知ってるから」谷口家の人間なら誰でも、智也の家の暗証番号を知っていた。しかし、谷口家に嫁いで4年になる凛は、義実家の暗証番号を教えてもらえず、もし義父母から呼び出されたら、インターフォンを鳴らして、外で待っていたのだった。智也のマンションへ来るたびに、胡桃は愚痴をこぼす。「てか、凛さんって本当けちだよね。お兄ちゃんは大企業の社長なんだから、もっと良いところに住めばいいのに。お金をあの女に握られるなんて、お兄ちゃん頭おかしいと思う」ハンドルを握る柚葉の手が、ぎゅっとこわばった。「柚葉さん、お兄ちゃんがお金をあんなケチな嫁に管理させてるなんて、どうかしてると思わない?」柚葉は返事もせず、無言で駐車に集中した。智也には駐車スペースが2台分あるはずだが、今は1台しか空いておらず、もう一方の場所にはカバーがかけられた車が停まっていた。「もう。誰がこんなに勝手に停めてるの?」胡桃は駆け寄り、カバーの端をそっとめくった。「これ、何の車?」目のいい柚葉は、すぐにそれがアッシュグレーのパナメーラだと気づいた。彼女の手のひらに力が入る。智也のカードを管理している柚葉は、昨日買い物に行った際、残高が半分に減っていることに気づき、今日は確かめに来たのだった。スポーツカーになんて興味のない智也が、パナメーラを買うはずがない。それに、これは女性に人
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第267話

「本当に?」胡桃は口ではそう言いつつも、その手はもうガラスの棚の扉を開けていた。小ぶりで上品なその鞄を取り出し、両手で持ち上げると、胡桃の心は一瞬で虜になった。「どうせお兄ちゃんのお金で買ったものだもん。一つくらいもらっても平気だよね」柚葉はただ笑いながら、一言だけ言う。「素敵。今日の服にもぴったりだね」「そうでしょ!私もそう思うの!」胡桃はすでにその鞄を自分のものにする決心をしていた。柚葉が棚の中を目だけで物色していると、あるトートバッグの裏側に何かが隠されていることに気づいた。彼女は手を伸ばし、それを手元に引き寄せる。ピンクのリボンが掛けられている、黒いギフトボックス。「これ何?」他人のプレゼントだというのに、胡桃は好奇心丸出しで開封した。箱の中身は車の鍵だった。柚葉は胡桃に教える。「地下駐車場に停めてあった、あの車の鍵だよ」「え、あれお兄ちゃんの車だったの?」胡桃は車のキーを弄びながら、それがポルシェであることを認めた。「でもお兄ちゃんは車を持ってるし、家にもSUVが一台あるのに、なんでまた車なんか買ったんだろ?もしかして凛さんが買ったの?あの人、車の運転なんてできないのに」「凛さん、車運転できないの?」柚葉は少し意外だった。胡桃は鼻で笑った。「あの人に運転できるわけないでしょ?もし運転できたのなら、毎年正月の挨拶回りで、お父さんとお兄ちゃんが交互に運転することなんてなかったんだから」柚葉の目に怪しい光が走る。「凛さんが運転できないなら、あれは彼女への贈り物じゃないわね」「えっ?」胡桃の目が輝いた。「じゃあ、お兄ちゃんが私に用意してくれてるってこと?」柚葉は口元だけで笑い、答えることはしなかった。「でも、確かにそうだよね!だって私、もう22歳で、すぐ23歳になるんだもん。お兄ちゃんが私に車の一台買ってくれたって、何にもおかしくなんかないよ」胡桃はキーを握りしめて言った。「柚葉さん、今から乗馬クラブに行く?」柚葉も胡桃の手にあるキーを見つめる。「うん、行こう」「ところで、探していたものは見つかった?」胡桃がふと柚葉に尋ねた。柚葉は頷いた。彼女の目的はすでに達せられていた。智也が口座の金の大半を、凛を喜ばせるための買い物に使っていたことは明らかだったからだ。二人は再び地下駐
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第268話

新しい車を手に入れた喜びでいっぱいの胡桃は、考えることもなく快諾した。「柚葉さん、また一緒に行こうね!」柚葉は満足してその場を去った。浩は、ホシゾラ・テクノロジーの向かい側にあるカフェに柚葉を呼び出した。「小林さん」浩は立ち上がり、彼女が席につくのを待ってから座った。柚葉は向かいのオフィスビルを見上げながら言う。「こんな近くまで来たのに、どうして智也本人が来てくれないの?」「社長は今、別のプロジェクトでお忙しいんです。それに、影山会長と契約を交わしておりまして、もし失敗すれば降格……最悪の場合はクビになってしまうんです」柚葉はその瞬間、完全に言葉を失った。智也の将来は、彼女が今後研究チームを立ち上げるための資金にも関わっている。今回の失敗で歩みを止めるつもりはない。自分は絶対に諦めない。いつか必ず、凛を超えてみせるつもりだったのだ。「で、用件って?」「社長と奥様の関係は最近かなり緊張しているのですが、社長としては、その影響が小林さんに及ぶことを懸念しています。なので、念のため事前に対策を講じることにしました。まずはメインカードの回収、それからいくつかの件について小林さんと認識を統一したいことがあります。あわせて、いくつかの契約書にもサインをお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」浩はできるだけ婉曲に伝えた。柚葉なら意図は察せるはずだろう。意味を理解した柚葉は喉の奥に何かが詰まったような感覚を覚え、浩を冷たく見返した。「どういうこと?」浩は唇を引き結び、苦笑した。ここまで来てとぼけているのなら、はっきり言うしかない。「奥様が、柚葉さんに渡した財産を返還するよう裁判を起こす可能性があります。そうなった場合に備え、対策を話し合っておきたいんです」浩は投資契約書を柚葉の前に滑らせた。「ご安心ください。万が一、事業が失敗しても賠償は不要という内容を、きちんと書いておきましたから」プライドの高い柚葉にとって、自分の失敗を認めるなんてできるわけがなかった。彼女は契約書に目もくれなかった。そして憤りとともに鞄から黒いメインカードを取り出し、浩に向かって投げつけた。「田中さん。智也が愛してるのはずっと私だって、知ってるでしょ?」それは昔の話で、今はどうだか……浩は心の中で舌打ちをした。
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第269話

保険には入っているが、問題はそこではない。もういっそこの仕事を辞めてしまおうか。それでも、浩はすぐに車の修理の手配に取り掛かった。胡桃が申し訳なさそうに言った。「田中さん、このことお兄ちゃんには内緒にしててくれる?私に買ってくれたとはいえ、初めて乗った日に壊しちゃったなんて聞いたら、お兄ちゃんもさすがにいい気持ちはしないと思うから」浩は呆れ果てた。柚葉の相手をして、次は胡桃、その上智也への報告まで考えないといけないなんて。それに、智也は凛が怒っているせいで、ここ数日かなり気持ちが乱れている。なのに、ようやく準備したプレゼントまでもが台無しになってしまったのだ。さらに追い打ちをかけるように、助手席に置いてある凛のために買った鞄が、浩の目に入った。この鞄のことを、浩はよく覚えていた。数ある中でも一番高額だったからということもあるが、何より購入時に店員が「華奢な方にはこういった小さめの鞄が似合います」と強く勧めてきたからだった。浩は覚悟を決めて切り出す。「胡桃さん、この車もその鞄も、社長が奥様のために用意されたものです。やはり、社長にどうご説明するか、ご自身でお考えになったほうがいいかもしれません。なにしろ、社長の最近のご機嫌はあまりよろしくないので」機嫌が良いわけなどない。プロジェクトを逃し、妻には愛想をつかされ、かつて愛していた相手も面倒ごとを起こし、挙句の果てには、家族までもが揉め事を持ち込むのだから。胡桃は車が凛のために用意されたものだと知ると、目を大きく見開いた。「お兄ちゃん、どうかしてるでしょ!凛さんは免許なんてないのに、何で車なんか買ったの?」「これから学べばいいことですので」浩は冷静に伝えた。「胡桃さん、夫が妻に車を買うのは珍しいことではありませんよ。申し訳ありませんが、今回はかばい切れません。車を修理に出したら、事実を社長に伝えますから」今の社長にとって、大切なのはたった二つだけ。翼の特許を取得し、現在の地位を守り抜くこと。そして、凛をなだめて夫婦関係を続けること。それ以外は、すべて後回しでいい。長年愛されていた柚葉ですら対象外なのだから、妹の胡桃であればなおさらだ。浩が去り、撤去されていく車を呆然と見つめながら、最近の智也の張り詰めた空気を思い出して、胡桃は少し不安になった
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第270話

梨花は別のことを考えていた。離婚した以上、これ以上智也から余計な金を出させるわけにはいかない。プレゼントなら数十万円で十分だというのに、何千万もするような車を平気で渡すなんて、一体どういうつもりなのだ?母親の自分でさえ、そんな高価なものはもらったことがないのに。そんなのはだめだ。梨花は凛のもとへ向かうことにした。翌日。梨花は一人で研究所の入り口へ行き、警備員に言った。「凛に会いたいんですが」「谷口博士にご用でしょうか?」凛が「谷口博士」などと呼ばれ、梨花は不快感で胸がむかついた。あんな普通だった凛が、どうしてこうも持て囃されているのか理解に苦しむ。しかし周囲の目が気になり、強気に振る舞うしかなかった。「個人的な用事なんです。谷口家の人間が来たと伝えてください。それに、本人と会うまではここを動きませんから」もはや、梨花はこれ以外に凛と会う手段が思いつかなかったのだ。警備員は困り果てつつも、騒ぎになるのを避けるため、一応凛のオフィスへと電話を入れた。ちょうどその日、凛は研究所にいた。警備員からの報告で相手が「谷口家」だと知り、てっきり智也かと思ったが、確認すると梨花だった。厄介な人物だと思い、仕方なく外へ向かう。移動中、謙介から連絡が入った。智也と柚葉の浮気の決定的証拠――例えば、明確なチャット記録、ホテルの利用履歴、写真や動画などを手に入れるよう言われた。凛は眉をひそめた。まだ手元にはないため、入手するにはもう少し時間と根回しが必要だろう。とりあえず携帯を仕舞い、梨花の相手をすることにした。梨花は凛を見つけると強引に押し入ろうとしたが、警備に阻まれ、凛が出てくるのを待つしかなかった。「何の用ですか?」目の前の凛を見て、梨花は別人が来たのだと思った。髪はツヤツヤで、かつてのようにボサボサではない。それに、肌も血色がよく滑らかで、頬もふっくらとし、栄養不足みたいな細さではなくなっている。生き生きとした精気を放っていた。息子と離婚した途端にこの変わりようなのか?そうなると、まるで息子が凛を追い詰めていたみたいではないか。「以前はどうして身なりに気を遣わなかったの?どうせ、うちの息子に恥をかかせるつもりだったんでしょ?」凛は淡々と言う。「それを言いに来たんですか
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