「皇后」 男は、わたくしを『皇后』と呼び続けている。わたくしが廃位されたのは10年以上昔のことだ。今のわたくしは、薄暗く狭い部屋に閉じ込められているただの女でしかなかった。 生きながらえるのに最低限必要な家具だけが置かれた部屋は、帝都の北の果てに立つ石造りの塔にある。小さな窓からわずかに差し込む光が、荒削りな石のむき出しになった壁を照らしている。 この10年のあいだ、男は頻繁に塔を訪れた。にもかかわらず、わたくしは男の顔も声も名前も、知らなかった。知らないのではなく、わからないのだ。 一度男に「なにか魔法を使っているのでしょうか」と訊ねた。男は曖昧に微笑んだのを覚えている。実に不思議だった。表情の変化はわかる。目の前にいるときは、顔が見えているはずなのに、いなくなるとどうしても男の顔がどうだったか、思い出せない。 男はいつも正装をしていて身につけている装飾品も一目で高価だとわかる美しい物ばかりだった。男は自分が高貴で裕福であることを見せつけるため着飾っているのではなかった。わたくしを心から皇后として扱っているのだ。 わたくしは男が来るのをいつも待っていた。顔を教えてもくれない男が、この世の中で唯一信じられる相手だったからだ。 男は常に穏やかに話した。不思議なほど、アカデミーに通っていた頃のわたくしについてよく知っていた。なんの科目を選択していたか、誰と仲が良かったか、どんな本を読んでいたか、食堂で何を好んでいたかなど、本人が忘れていたのに、昨日のことのように話した。 男が、わたくしの没落前の話ばかりする理由はわかりきっていた。わたくしの現在や未来に、希望がなにひとつ存在しないからだ。 かつてわたくしの名は、アナスタシア・ヴィルヘルミナ・フォン・シュヴァルツェンベルクだった。帝国の月、帝国の母、シュヴァルツェンベルク帝国の皇后、それがわたくしだった。 今は廃位され、北の塔に幽閉されている。生家は取りつぶしとなり、姓を持たないただのアナスタシアとなった。 わたくしは、シュヴァルツェンベルク帝国、建国の際の功臣の家門、四大公爵家の一つ、クロイツェンベルク=ローゼンフェルトの長女として生まれた。 生まれた時から、第一皇子マクシミリアン・ルートヴィヒ・フォン・シュヴァルツェンベルクの婚約者候補に名を連ね、物心ついた時には、妃としての教育を受けていた
Last Updated : 2026-03-10 Read more