LOGINテラスに出ると、ウーテはまだ椅子に座りあごに手を当てながら何やら呟いていた。お兄様はウーテの正面に立ち、「いったん、止めてくれ」と肩をたたいた。
ウーテは「なんだ?」と言って、顔をあげた。 「この空間に防音魔法をかけてくれないか」 「構わないが、防音魔法の中に含むのは、僕一人か、お前とナーシャか、あるいは、僕とお前、もしくは、このテラスにいる者を全員か?」 「テラスにいる者全員で頼む」 ウーテは頷いた。 わたくしはウーテがどう魔法をかけるのか気になり、見つめていた。お兄様も黙って待っている。少しして、ウーテが首を傾げた。 「何かほかに聞かれたくない話があるんじゃないのか?」 「そうだ、だから魔法をかけてくれるのを待っている」 「もう、かけてあるが?」 「いつの間に?」 ウーテは「魔法範囲の確認がとれた直後にかけた」と言った。魔法を使える者は限られている。わたくしたちは魔力を持たずに生まれたため、どう発動するかも知らない。ツェーザルがダンスの途中で足を治療してくれたのだとしたら、その時も、特別な動作はなかった。 「わかった。私はナーシャと話があるから、お前は魔法の研究の続きに戻ってくれ」 「防音魔法の範囲に私を入れたのだから、私に聞かれても問題ないのだな?」 「お前が興味を持つような話ではない」 「問題がないなら、早速始めてくれ」 ウーテに催促をされお兄様は「ああ、わかった」と、わたくしに顔を向けた。 「お前の好みでさっきの男たちを集めたそうだが、どんな条件を出したんだ?」 ウーテが「ほお、なかなか興味深いではないか」と、割り込んできた。 わたくしは、指定した四つの条件と、一人は背が高すぎ、一人は不正を行ったので対象外だったことも話した。 「僕がジェラルドより背が高くなるにはどうすれば……」 ウーテが真剣な顔で呟いた。 「ウーテ様はいまのままで十分すぎるほど魅力的ですわ」 「では、つき合ってくれるのか?」 わたくしがウーテの冗談をどう受け流すか考えている間に、お兄様が「冗談を言っている場合じゃない」と、ウーテに釘をさした。 「ナーシャ、何かあったのか?」 お兄様が心から心配してくれているのが、表情と声でわかる。 わたくしに『何かがあった』のは確かだ。成人を迎えたこの日からほぼ十八年後まで生きたあとで、戻って来たのだ。皇后として国政に携わり、皇帝に嵌められすべてを失った末に、塔の中で一人の男を愛した。 「今朝まで、皇太子殿下が来るのをあれほど楽しみにしていたではないか」 わたくしは、随分昔の話なので細かなことを覚えていなかった。楽しみにしているふりをしていたかもしれない。 「殿下は来ていないではありませんか」 「だからといって、恋人を作るのは行き過ぎだ」 ウーテから「ナーシャは、皇太子を好いているのか?」と、質問が入った。 「いえ、まったく」 わたくしは直ぐさまに否定した。 「それなのに、待っていたのか?」 回帰前、わたくしは確かにマクシミリアンが来るのを待ち続けた。しかしそれは、恋慕からではない。家門に対する責任からだった。 「アナスタシアは、幼い頃から皇太子妃になるための教育を受けてきた。今日は、アナスタシアが成人を迎えいよいよ皇太子の婚約者になる準備が整ったことを知らしめるための舞踏会だ」 ウーテは眉根を寄せたままで「僕も一応は貴族だ。家門の結束のため政略結婚があるのも理解している。しかし、当人同士がこれほど嫌がっているのに無理矢理結びつけて、良いことが起こるとは思えない」と言った。 ウーテの考えは間違っていない。マクシミリアンは、わたくしと結婚させられたのがどうしても許せなかったのだろう。だから、公爵家ごと滅ぼしたのだ。わたくしたちを処刑しなかったのはせめてもの情けだったのだろうか。今となっては確かめるすべはない。 「お兄様、まだお父様には言えないのですが……」 ウーテが「待て、防音魔法の範囲を変えなくても良いのか?」とわたくしの言葉を遮った。 「他の誰にも話さないでいてくださるなら、ウーテ様には知っておいていただきたいです」 「もちろん、他言はしないと約束する」 わたくしは一度目を閉じ、ゆっくりと呼吸した。それから、目を開き、真っ直ぐと前を見据えた。 「わたくしは、絶対に皇太子殿下の妃にはなりません」 お兄様は真剣な顔をしてただ黙っている。ウーテは深く頷いた。 お兄様の立場を考えれば、手放しにわたくしを応援できないこともわかっている。 「お二人に協力していただきたいわけではありません。ただ、わたくしの不可解な行動の意味を、先に知っておいて欲しいだけです」 ようやくお兄様が頷いた。 「応援するとは言えない。しかし、邪魔はしない」 「十分ですわ」 わたくしは、反乱を起こしたあとお兄様がどうなったのか知らない。失敗すれば、戦死か処刑のどちらかの終わりが待っている。 お父様は、率先してわたくしとマクシミリアンの結婚を押し進めたのだからある意味自業自得だけれど、お兄様は家門の方針に巻き込まれてしまっただけだ。 わたくしがまた皇后になってしまうと、おなじ結末を迎えてしまうかもしれない。 回帰をして数時間、今のところ、お兄様に前回の人生の記憶があるとは感じない。記憶があるのならば、きっとマクシミリアンとの婚約を阻んでくれるだろう。 ウーテが「ナーシャは具体的にどうするつもりなんだ?」と訊いてきた。 「まずは、皇太子妃にふさわしくない令嬢だと、世間に思われるように振る舞います」 「それはいけない」 お兄様は早速止めてきた。 「そんなことをしたら、他の男との結婚も難しくなるだろう。皇太子妃にならないのは構わないが、ナーシャが不幸になるのは受け入れられない」 「問題ないさ。嫁ぎ先がみつからない時は僕がいる」 「ウーテは女じゃないか」 「僕が女だからなんだと言うんだ。僕にできないことなどない」 ウーテと結婚する気はないが、味方をしてくれるというだけで心強かった。 「皇太子の婚約者が決定するまでの間だけ、複数人の男を手玉にとる奔放な令嬢と見られれば良いのだろう?」 ウーテは話がわかる。お兄様の方は「ナーシャがいろいろな男と会うなんて、ダメに決まっている」と、顔を左右に強く振った。 「いろいろな男と会う必要はないさ。毎回僕とでかければいいんだ」 わたくしは、ウーテと噂になるだけでは効果が薄いと感じた。 ウーテは構わずに続けた。 「ナーシャ、好みの男の特徴を言ってみてくれ」 わたくしは塔に来ていた男の姿を想像し伝えた。 「背はジェラルドより高いくらいで、肩幅が広く……顔は? どういう顔がいい」 わたくしは首を傾げた。 「まあいい、僕好みの顔にしておこう」 ウーテがそう言った直後、見知らぬ男性が目の前に現れた。背が高く、肩幅が広い。そしてウーテが男性的になったような顔をしている。服装は、濃紺の騎士服だ。 「どうだ、気に入ったか?」 ウーテの声だった。 「魔法で姿を変えられるのですか?」 「正確には姿を変えているのではないが、説明しても理解できないと思う」 「しゃべらなければ、別人だな」 お兄様の指摘にウーテは男性の声に変え「これでいいか」と返した。 「毎回自分で容姿を考えるのは面倒だから、ナーシャが指定してくれると助かる」 ウーテが一人でいろいろな男性のふりができるのはわかった。しかし、ウーテにそこまでの負担をかけるのは申し訳ない。 「手伝っていただくのは嬉しいのですが、ウーテ様には何も得がないのにそこまでしていただくのは心苦しいです」 「得ならある」 ウーテは男の姿のまま続けた。 「僕は、ナーシャ、君に興味があるんだ」 その後耳元で「君から不思議な魔力を感じる。痕跡ではなく、魔力だ」と囁いた。 それから、元のウーテの姿に戻った。 「計画を手伝う代わりに、僕は君の研究をする。対等な取引だと思わないか?」 わたくしは過去に戻って来た影響だと、その時は思い込んでいた。「殿下……わたくしにはとても、妃は務まりません」 実際は一度目の人生で、すべてを捧げてその役割を十分に果たした自負があった。その末路が冷たい塔での幽閉だった。だからこそ、皇太子妃になるわけにはいかない。どんなに尽くしても報われないと、分かっているからだ。 「そなたがたとえ、文字も読めない平民であったとしても私の妃になるしかない運命なのだ」 わたくしは、マクシミリアンの言葉の意味を測りかねていた。 「『何を愚かなことを』と思っていそうだな。しかし、それが変えられない運命というものなのだ。そなたが私の婚約者となる理由は、公爵家の令嬢であるからでも、美しいからでも、理知的であるからでもない。もちろん私の寵愛があるわけでもない」 マクシミリアンの深紅の瞳が、冷たい光を放っていた。わたくしは、かつての夫であるマクシミリアンから突きつけられた『愛情がない』という言葉に、言いようもない虚しさを感じていた。 「皇帝陛下がそなたに固執する理由は、神託が降りたからに他ならない」 わたくしは、あまりの驚きに息をするのも忘れていた。前世では、知らされていなかった事実だ。思えば、冷遇されるようになったのは、現皇帝が亡くなったあとだった。神託を守ろうとした皇帝がいなくなり、マクシミリアンが神託に逆らった結果が、前世での謀略だったのかもしれない。処刑されずに生かされていた理由も、神託の内容にあるのだとしたら……、わたくしは内容を知っておきたいと考えた。 「どのような、神託なのでしょうか?」 「そなたには教えられない。皇帝陛下と、皇位継承権を持つ者にしか、知らされないのだ」 前世でのわたくしをあれほど苦しめたマクシミリアンとの婚姻。その原因である神託を、わたくしは知ることができない。あまりの理不尽さに、唇を嚙み締めて感情を抑えようとした。 マクシミリアンの手が視界に入った。思わず身を引く。手は、かまわず伸びてきて、わたくしの唇に指先が当たった。刃
不安を抱えたまま、当日を迎えた。 朝から、メイド数人がかりで準備をさせられている。お父様の命令だった。 ドレスもお父様が選んだ。リボンやレースも使われていないスッキリとしたデザインだが、光沢のあるシャンパンゴールドの生地が、それだけで美しい。胸元や腰のあたりにドレープがあり、華やかさも感じられた。 アーティファクトは指輪と腕輪なので、手袋の下につけられる。 ウーテから「ツェーザル殿には内緒にしてほしい」と言って渡されたネックレスがある。小さな透明の石がキラキラと輝くデザインで、ちょうど、今日のドレスに合っていた。 ウーテがこのネックレスの存在をツェーザルに秘密にした理由は、生活魔法とそう変わらない魔力で、弱めの攻撃魔法を連続で打ち続けるアーティファクトだからだ。 わたくしも、マクシミリアンを相手に、攻撃魔法を使う気はない。ただ、身につけるだけで、いくらか心を強く保てる気がしていた。 皇室から迎えの馬車が来た。 一度目の人生で、何度となく使った純白の馬車だ。これだけ準備をしても、不安しかなかった。 時間は残酷なもので、すぐに皇太子宮に到着した。 馬車から降りながら、白亜の大理石で建てられた宮殿を、わたくしは憂鬱な面持ちで見上げた。 建国当時の皇室の力を象徴する、巨大で美しい宮殿だ。 執事長が、迎えに出て来た。マクシミリアンは、また何かと理由をつけてわたくしを待たせたあげく帰るころに現れて、上辺だけの謝罪をするつもりなのだろう。 わたくしにとっても、顔を合わせる時間が短い方がありがたい。 そう思ったのに、通された応接室には、マクシミリアンの姿があった。 「アナスタシア嬢、どうしたのだ?」 わたくしは驚きのあまり挨拶が遅れてしまった。慌てて、皇太子に向けての最上のお辞儀をした。 「私が、この場にいないと思っていたのだろう?」 細めた瞼の隙間から、真っ赤な瞳が覗いている。 「そのようなことは……」と、否定した。 「そなたには訊ねたいことがたくさんある故、こうして待っていたのだ」 わたくしは促され、精巧な象嵌が施された肘掛け椅子に腰掛けた。 皇室を象徴する、白と金で統一された空間から、逃げ出したい衝動に駆られていた。 皇太子妃としてここに住んでいたころ、この応接室を幾度となく使った。白
約束したとおり、ツェーザルは三日おいて会いに来た。最初に「噂の広がり具合を共有しに来た」と言った。噂は順調に広まっていた。週刊新聞の記事は、互いの近況報告をする。出席する予定のティーパーティや舞踏会も知らせた。 ウーテについては雇用関係なので、わたくしから話さなくても知っているはずだと省いた。ベイゼルについては、説明しようがない。いっそのこと、時間を遡ったと説明できれば楽なのにとも思う。 ウーテとツェーザルの協力のおかげで、順調に進んでいる。これ以上を望むのは欲張りすぎだとわかっている。 そして、お父様がわたくしと音楽会に行ってくれることを話した。 「それならば、私はその日ウーテと出かける打ち合わせが必要だな」 お父様とわたくしが音楽を聴いている間、二人がわたくしが男性と会っていたように見せるのだ。ウーテがわたくしになりすますのだろう。見た目を変えていても、デートをするのはツェーザルとウーテなのだと気づいて、胃が痛んだ。 音楽会の当日になった。わたくしは人目をひくよう、赤いドレスを選んだ。金糸で織られた花模様が裾にあしらわれている。イヤリングもネックレスも、滴型のルビーをつける。普段より随分華やかな装いだ。 お父様は、深紺のロングコートを着ていた。襟元と袖には金糸で家紋が刺繍されている。そして、わたくしがプレゼントしたカフスボタンをつけてくれていた。 コンサートホールには、お父様専用の特別な馬車で向かう。漆黒に塗られた馬車には、家紋の金色の聖杯が描かれている。馬車をひく馬も、黒馬だった。 じつは、わたくしは音楽を鑑賞するのが苦痛だった。一度目の人生の際、他国からの使者が来るたびコンサートが開かれた。皇室のために用意された部屋で、マクシミリアンと並んで、何時間も正面をまっすぐ見つづけた経験のせいだ。 今回は、お父様とわたくしが長時間一緒に過ごすことが大切だった。 コンサートホールに着いた。大公家主
「アナスタシア」 ツェーザルの手が肩に触れた。 「顔色が悪い」 「ごめんなさい。皇宮を見て、殿下のことを思い出してしまい……」 「この場所を選んだのは私だ。配慮が足りなかった」 ツェーザルに抱きしめられた。 「震えている……」 ツェーザルの香りと温もりに包まれて、徐々に落ち着いていった。 「ツェーザル様、本当に……湖は美しくて、連れてきてくださったこと、感謝しています」 せっかく楽しかった時間を、マクシミリアンのせいで台無しにしたくなかった。 「湖は他にもある。また一緒に行こう」 わたくしは頷いた。 岸に戻ると、すぐに馬車に乗せられた。 「そなたの負担も考えず、無理な計画を立ててすまなかった」 わたくしはツェーザルのせいではないと、否定した。予定を中断し、帰らされそうになっていた。 「皇太子妃の婚約者に選ばれないために、できることはすべてしておきたいのです」 ツェーザルは受け入れてくれた。 その代わり、次に訪問した大聖堂の回廊では、ずっとわたくしの肩を抱いて、支えながら歩いた。 最後に立ち寄ったカフェでも常にわたくしを気遣ってくれた。 カフェを出ると、マルガレータがちょうど到着した。 ツェーザルとマルガレータは、お互い、初対面として挨拶を交わしていた。 ツェーザルに別れの挨拶をし、マルガレータと馬車に乗り込んだ。 馬車の中でマルガレータは「真っ赤な髪が素敵な方だったわね」と話しかけてきた。
「お名前は?」 「特に考えていない。食事を取るだけだから、必要ないだろう」 わたくしは、成長したツェーザルの姿を目の前にして落ち着かなかった。戦争の英雄となった後のツェーザルの顔は、遠目に見ただけだ。 塔に来ていた男は、顔や声を隠していたけれど、体にはとくに変化を加えていなかった。身につけている服も宝石も、記憶に残っている。 今、大公を参考に変化させたというツェーザルの姿は、塔に来ていた男と重なって見えた。 塔の男は、髪色さえ教えてくれなかった。ただ、形や刺繍の柄は変わっても、いつでも濃いめの色の上着を身につけていた。アクセサリーも白金の物がほとんどだった。ツェーザルの黒い髪と瞳に合う色味だ。 レストランに着いた。 馬車を降り、白い建物を見上げた。壁には蔦が絡まり、アーチ型の窓には色ガラスが嵌められている。看板には月桂樹の葉が掘ってある。『ロアベアバウム』という有名店だ。お兄様の話題にも上ったことがある。 店内に入るとハーブと焼けた肉の香りがした。途端に空腹を感じる。 黒大理石の床には店のシンボルである月桂樹のモザイクが施されている。壁には、帝国に伝わる神話をモチーフにした絵画が飾られ、ハープの音色が静かに流れていた。 奥に通され、ツェーザルと向かい合って座った。 深い緑色をしたビロード張りの椅子は、とても座り心地が良い。 ツェーザルは予めコース料理を頼んでいてくれた。 前菜のクリームスープにはサフランが浮いていた。何より、メインにはわたくしの好きな子羊のローストが出た。ソースに甘みがあって肉の味に奥行きが出ている。ひと噛みごとに溢れる旨みを、存分に味わった。 わたくしは、一度目の人生で、堪えきれないほどの飢えを経験したからか、あるいは、塔に来ていた男と食事を取っている気分になったからか、深い喜びを感じていた。 食事を終え、レストランを出た。馬車に戻った途端、切なさを感じた。
普段は、公爵邸に服飾師を呼ぶため衣装室にはあまり足を運んだことがなかった。 たどり着いたのは、貴族の令嬢たちがこぞって通う『ブラウアー・フォーゲル』という人気の衣装室だった。予約なしでは入れないらしいが、朝一番で公爵家の名を使って無理矢理時間を空けてもらったのだ。わたくしは申し訳なく感じていたが、『傲慢な公女』のイメージを作るのには、有効だった。 店に到着してすぐに、ウーテが馬車の中からいなくなった。御者が扉を開けてくれたので外を見ると「アナスタシア嬢」と、見たこともない男から声をかけられた。 今度のウーテは、栗色の巻き毛を持つ細身の青年に扮していた。整った顔にはまだ少年のあどけなさが残り、灰緑色の瞳がキラリと輝く。唇は花のように色づいていた。薄いベージュのコートがよく似合っている。「ティエリが、アナスタシア様をご案内します」「ティエリ、今日はよろしくね」 ティエリの手を取り、馬車から降りた。御者には公爵邸にもどっておくよう言いつける。 『ブラウアー・フォーゲル』の扉の上には、青い鳥をかたどった繊細な真鍮の看板が掲げられていた。ティエリが扉を押すと、澄んだベルの音が優雅に響いた。甘い香りがあふれ出てきた。 わたくしは、心を躍らせた。ドレスを新調するのは、十年ぶりだった。それに、皇后だったころは自分の好みでは選べなかった。いつでも、皇后らしいドレスを着せられていた。 店内は、驚くほど明るく、開放的だ。床は寄せ木細工で、歩くとヒールが軽やかな音を立てる。クリーム色の壁紙には、うっすらと花模様が浮かんでいる。ドレスのデザインを邪魔しないよう、配慮されているのだろう。 他の令嬢達に目撃してもらえるよう、あえて貸し切りにはしなかった。予約制のため、客はそう多くないが、年頃の令嬢たちは話好きだ。公女が美青年を連れて衣装室を訪れた噂は瞬く間に広がるだろう。 店内のあちこちに、最新のデザインをまとった木製のマネキン人形が置かれていた。胸元を大胆に飾り立てた紫紺のドレス、花飾
ウーテはさきほどから、ツェーザルを質問攻めにしている。わたくしは、ウーテの変わりように呆れつつも、ホッとしていた。『理論上』『魔法の構築』『魔力消費』などの言葉が聞こえてくるが、二人が話している内容をほとんど理解できない。 ウーテはしばらくして、「ツェーザル殿は、天才だ」と、しみじみとした口調で言った。 「ところで、ツェーザル殿も僕と話したがってくれていたのだったね?」 わたくしも気になっていた。ツェーザルの顔をじっと見つめ、返事を待った。 「大公家で働いてほしくて、
ツェーザルが帰ったあとも、わたくしは結局眠れなかった。ツェーザルの表情や声を思い出しただけで胸が高鳴ってしまう。 しかし、名前を呟いてしまうと、またツェーザルを呼び出すことになる。気をつけなければならない。 今日は、ウーテとの約束があった。 ウーテには、魔法についていろいろ訊きたいことがある。 帝都でも有名なケーキ店に行く約束になっている。いつもよりリボンのついた可愛らしいデザインの服を選んだ。気づいてもらえる程度に顔の隠れる帽子も用意した。密会を演出するためだ。
舞踏会は無事終わり、わたくしは久しぶりに公爵邸の自分の部屋に戻った。 淡いピンクで揃えられた部屋は、お母様の好みだった。幼い頃から、『皇太子妃になる』という家長の決めた使命を背負って生きてきたわたくしの持ち物の中で、この部屋だけが『夢見がちな少女』を模倣していた。 そこで、アンと再会した。くせのある赤毛と、少し焼けた肌の色は変わらないが、塔にいた頃よりも随分若い。 「お嬢様、お疲れでしょう」 わたくしにとっては数日ぶりで、アンにとっては数時間ぶ
一度目の人生で、初めてマクシミリアンを憎く感じたのは、この瞬間だった。 今、当時よりも深い憎しみが湧いている。 公爵家が誇る大広間の、黄金の装飾が施された大きな扉は、まるでマクシミリアンのために作られ、ずっと主が通るのを待っていたかのように輝く。 皇族に代々引き継がれる黄金色の髪と真紅の瞳、生まれた時から自分が特別だと知っている者だけが醸し出す高貴な雰囲気があった。わたくしはマクシミリアンの存在感に、飲み込まれてしまいそうだった。 マクシミリアンの白いコートには金







