Masuk
「皇后」
男は、わたくしを『皇后』と呼び続けている。わたくしが廃位されたのは10年以上昔のことだ。今のわたくしは、薄暗く狭い部屋に閉じ込められているただの女でしかなかった。
生きながらえるのに最低限必要な家具だけが置かれた部屋は、帝都の北の果てに立つ石造りの塔にある。小さな窓からわずかに差し込む光が、荒削りな石のむき出しになった壁を照らしている。
この10年のあいだ、男は頻繁に塔を訪れた。にもかかわらず、わたくしは男の顔も声も名前も、知らなかった。知らないのではなく、わからないのだ。
一度男に「なにか魔法を使っているのでしょうか」と訊ねた。男は曖昧に微笑んだのを覚えている。実に不思議だった。表情の変化はわかる。目の前にいるときは、顔が見えているはずなのに、いなくなるとどうしても男の顔がどうだったか、思い出せない。
男はいつも正装をしていて身につけている装飾品も一目で高価だとわかる美しい物ばかりだった。男は自分が高貴で裕福であることを見せつけるため着飾っているのではなかった。わたくしを心から皇后として扱っているのだ。
わたくしは男が来るのをいつも待っていた。顔を教えてもくれない男が、この世の中で唯一信じられる相手だったからだ。
男は常に穏やかに話した。不思議なほど、アカデミーに通っていた頃のわたくしについてよく知っていた。なんの科目を選択していたか、誰と仲が良かったか、どんな本を読んでいたか、食堂で何を好んでいたかなど、本人が忘れていたのに、昨日のことのように話した。
男が、わたくしの没落前の話ばかりする理由はわかりきっていた。わたくしの現在や未来に、希望がなにひとつ存在しないからだ。
かつてわたくしの名は、アナスタシア・ヴィルヘルミナ・フォン・シュヴァルツェンベルクだった。帝国の月、帝国の母、シュヴァルツェンベルク帝国の皇后、それがわたくしだった。
今は廃位され、北の塔に幽閉されている。生家は取りつぶしとなり、姓を持たないただのアナスタシアとなった。
わたくしは、シュヴァルツェンベルク帝国、建国の際の功臣の家門、四大公爵家の一つ、クロイツェンベルク=ローゼンフェルトの長女として生まれた。
生まれた時から、第一皇子マクシミリアン・ルートヴィヒ・フォン・シュヴァルツェンベルクの婚約者候補に名を連ね、物心ついた時には、妃としての教育を受けていた。
皇太子と婚姻するに適した年齢差の令嬢の中で、わたくしが一番、高貴な家柄を持っていたからだ。誰もが、皇太子妃となり、皇后となるのはわたくしだと思っていた。
そして、実際、誰かの書いた筋書き通りに皇后になったのだ。
わたくしは夫への愛のためではなく民を守るため、皇后としての役割をこなした。廃位のきっかけとなる事件がおこるまでは。
事件を起こしたとされる当人であるわたくしは、しばらくの間、一体何が起こったのかを知らなかった。
なぜなら、ある朝目覚めると塔に閉じ込められていたのだから。
その時のことは、鮮明に覚えている。
わたくしは目覚めた瞬間に見覚えのない天井が目に入り当然混乱した。
「お嬢様、目覚められたのですね」
ベッドの側に控えていたのは、結婚前までわたくしの世話をしてくれていたメイド、アンだった。状況がまったく理解できずにいるわたくしに、アンは言った。
「最後にお会いしてからもう何年も経ちますが、お嬢様はお美しいままですね。月の光のように輝くお髪も、澄んだ湖のような瞳も変わっていらっしゃらない」
アンはそれから、本当に哀れむような目をわたくしに向けてきた。
「お嬢様はもう、この部屋から出られないそうです。私はあるお方に、お嬢様のお世話を命じられました」
「あるお方とは?」
わたくしは夫である皇帝マクシミリアンだと考えていた。
「私はここへ来るのに魔法契約を結ばされました。まず、外でお嬢様のことを話さないようにと、あるお方についてお嬢様に説明できないようにされました」
目覚めてすぐ、壁紙も貼られていない石がむき出しの壁や天井が目に入った。いつの間にか、装飾も一切無い質素なドレスに着替えさせられ、硬いベッドに寝かされていたのだ。
説明されなくとも、緊急かつ重大な何かが起こったことは察していた。それでもそのときはまだ、本当に部屋からずっと出られないとは思っていなかった。
アンは日が暮れる前にわたくしのいる部屋から出て行った。わたくしは一人にされるのが不安で引き留めたが、「絶対守らなければなりません」と、断られた。
その夜、わたくしは初めて男と会った。
男はわたくしの前に跪き、手の甲に口づけた。わたくしは何の疑問も抱かずに受け入れたのだ。まさか自分がすでに皇后ではなくなっているなどとは、思いもせずに。
塔を訪れるのは二人だけだった。
アンは純粋で、わたくしの質問にはいつもわかる範囲で答えてくれた。
「世間的にお嬢様は、行方知れずという扱いなんです」
魔法契約がなければアンは、北の塔にわたくしがいることをすぐ、広めただろう。アンの口が軽いおかげで、わたくしは少しずつ、自分の置かれている状況を把握していった。
わたくしは帝国民から『稀代の悪女皇后』と呼ばれていた。
なぜそう呼ばれるに至ったかを知ったあと、わたくしは数ヶ月、まともに眠ることができなかった。
わたくしが皇后として、最も力を入れていたのは、貧民を救う政策だった。
貧民街と呼ばれていた土地を皇室が買い上げ、特別区として衣食住と教育を施していたのだ。貧しい者たちは、生活の向上をめざし特別区に集まっていた。その数は数千人にも達した。
わたくしは貧民の生活が安定すれば、犯罪が減り、ひいては帝国全体に良い影響をもたらすと信じていた。だからこそ、貴族たちに寄付を募り、私財を投じてまで、特別区を維持した。
そして、わたくしの知らないところで、特別区が突如、焼き払われた。希望を抱いて特別区に移住してきた民は、全員、帰らぬ人となった。
わたくしは、貧民を一掃するために、あえて、甘い言葉を囁き特別区に集めたことになっていた。見事、悪女に仕立て上げられたのだ。
アンはわたくしが訊ねれば、なんでも話してくれたけれど、男の方は、『現在』についてはほとんど話してくれなかった。
わたくしは、自分が悪女にされた事実よりも、たくさんの民が亡くなってしまった悲劇の方が辛かった。
わたくしは塔の中で、一日中、祈りを捧げて過ごした。
そのうちに、わたくしは、生家が取り潰され、わたくしが廃位されたと知った。
男は、わたくしが家族の安否を尋ねたときには、「ご無事です」と、答えてくれた。しかしアンに訊くと「公爵家の方達は、平民に落とされ他国へ追放されたらしいです」と返ってきた。
そして、そのすべてを取り仕切ったのが、皇帝であるマクシミリアンだとを知った。
わたくしたちの間には、愛はなかった。しかし、帝国の民のため手を取り合っていると思い込んでいた。マクシミリアンから、疎まれているなど考えもしなかった。
その頃、わたくしは絶望のあまり、自ら命を絶とうとした。ところが、わたくしには強力な防御魔法がかけられており、少しの傷もつけられなかった。
わたくしは、この10年、死ぬことも生きることも諦めて過ごしてきた。今では、アンが純粋ではないと気づいている。アンから悪意をもってもたらされる情報に嫌気がさし、わたくしからは話しかけなくなった。
顔も名前も知らない男と過ごす時間だけが、わたくしの心をこの世界に留めさせた。
その日、男はいつも以上に着飾っていた。それだけでなくわたくしのために美しいドレスを持参した。
「このような豪奢なドレスは……」
「お立場は十分理解しております」
わたくしは大罪を犯したものとしてこの塔にいる。贅沢など許されないのだ。
「一時でも構いません。私のために身につけていただけないでしょうか。お姿を見せていただきました後は、持ち帰ります」
「できるのであればそうしたいのですが」
男の想いを汲みたかったが、夜には、わたくしの着替えを手伝ってくれるアンはいない。
「途中まではご自身で着られますね? 最後だけ、お手伝いいたします」
わたくしは男に手伝ってもらうのがどういうことなのか理解していた。それでも、皇后として生きていた頃に目にしたどんなものよりも美しいドレスに心惹かれていた。
かつての栄光をとりもどしたいわけでもなく、ただ、デビュタントのためのドレスを選ぶ少女のような心で、手に取った。
手に触れた柔らかで軽い生地は、夜空のように美しかった。有名な服飾師が手がけたことが一目でわかるほど洗練されていた。
わたくしは粗末なドレスを脱ぎ、男の持って来たドレスに袖を通した。男に声をかけ手伝ってもらう。ぎこちない手つきで、男の指先がわたくしの肌に触れるたび、気づかれないように息を止めた。
ドレスはわたくしの体に、ちょうどよく作られていた。
「10年の間に、随分、ドレスの形が変わったのですね」
「私にはよくわかりません。ただ、あなたへ贈るドレスを探すため有名店に足を運んだとき、必ずあなたにお似合いになると確信して、選びました」
この部屋には姿見がない。
「似合っていますか?」
男は「ええ、とても」と、言った。
それから、ダンスを申し込まれた。男の持って来た小さな箱から、音楽が流れ始めた。
10年ぶりのダンスだったが、体が覚えていてくれた。
男とは数え切れないほど会っていたのに、これほど近づいたことはなかった。思っていたよりも背が高い。わたくしを支えてくれる腕が力強かった。
「あなたが成人を迎えた日の舞踏会に、私も参加していたのですよ」
アナスタシアの18歳の誕生日、盛大な舞踏会が開かれた。
「私は勇気が出せず、あなたと当時まだ皇太子だったマクシミリアンが踊るのを遠くから見ました」
あの頃のわたくしは、マクシミリアンの婚約者になることしか考えていなかった。勇気を出して誘ってもらっても、断ったかもしれない。
男はダンスが上手かった。マクシミリアンよりもずっと。
曲が終わり、塔の部屋に静寂が戻った。
男は、わたくしの前に跪いた。
「長い間お待たせしました。ようやく時が満ちました」
わたくしは、男が何が言いたいのかわからずただ顔を見つめていた。
「この10年、私はあなたの名前が今の形で後世に伝えられることを防ぐため、動いてきました」
わたくしは言われて初めて、自分が『稀代の悪女皇后』として、歴史書に載っているであろうことに気づいた。
「私は、皇帝を討ちます」
わたくしは驚きのあまり、声を漏らした。
「私が帝位についた暁には、私の皇后になっていただけないでしょうか」
突然の求婚に、わたくしは、何も言葉にできなかった。わたくしは、いつからか男に想いを寄せていた。しかし、一生胸に秘めておくつもりでいた。
ふと、『皇帝を討つ』という行為には、かなりの危険が伴うと気づいた。
「そんな危険なこと……おやめください」
「あなたがそうおっしゃると、わかっていました。しかし、私の決意は変わりません。あなたの父君も兄君も同じです」
わたくしは、もう会えないと思っていた家族の姿を脳裏に浮かべた。
「わたくしは、あなたとお父様達が生きていてくれるなら、稀代の悪女として語り継がれても構いません」
「私が、受け入れられないのです」
わたくしは泣いてすがったけれど、男の決意を覆せなかった。
「あなたの顔を見せてもらえませんか?」
わたくしは、愛する男の顔を知りたくて頼んだ。じっと見つめるけれど、髪や瞳の色さえ覚えられない。見つめている側から、遠い昔に会ったことのある人ほどしか、思い出せなくなる。
「あなたをお迎えにあがるときには、必ず」
わたくしは、これが最後になってしまう気がして、胸が締め付けられた。
男は部屋を出る前に「もしも、私があなたを皇后として迎えられなかったときには、誰の皇后にもならないでください」と言い残していった。
その時にはまだ、男の残した言葉の意味がわからなかった。そして、男に意味を訊ねる機会はついに訪れなかった。
その日から、塔の部屋には誰も来なくなった。
食料も届かず、部屋から出られもせず。わたくしは、ただひたすら祈り続けた。
男と家族の無事を。
そして、空腹を堪えながら眠りにつき、目覚めたら……
舞踏会の真っ最中だった。
「殿下……わたくしにはとても、妃は務まりません」 実際は一度目の人生で、すべてを捧げてその役割を十分に果たした自負があった。その末路が冷たい塔での幽閉だった。だからこそ、皇太子妃になるわけにはいかない。どんなに尽くしても報われないと、分かっているからだ。 「そなたがたとえ、文字も読めない平民であったとしても私の妃になるしかない運命なのだ」 わたくしは、マクシミリアンの言葉の意味を測りかねていた。 「『何を愚かなことを』と思っていそうだな。しかし、それが変えられない運命というものなのだ。そなたが私の婚約者となる理由は、公爵家の令嬢であるからでも、美しいからでも、理知的であるからでもない。もちろん私の寵愛があるわけでもない」 マクシミリアンの深紅の瞳が、冷たい光を放っていた。わたくしは、かつての夫であるマクシミリアンから突きつけられた『愛情がない』という言葉に、言いようもない虚しさを感じていた。 「皇帝陛下がそなたに固執する理由は、神託が降りたからに他ならない」 わたくしは、あまりの驚きに息をするのも忘れていた。前世では、知らされていなかった事実だ。思えば、冷遇されるようになったのは、現皇帝が亡くなったあとだった。神託を守ろうとした皇帝がいなくなり、マクシミリアンが神託に逆らった結果が、前世での謀略だったのかもしれない。処刑されずに生かされていた理由も、神託の内容にあるのだとしたら……、わたくしは内容を知っておきたいと考えた。 「どのような、神託なのでしょうか?」 「そなたには教えられない。皇帝陛下と、皇位継承権を持つ者にしか、知らされないのだ」 前世でのわたくしをあれほど苦しめたマクシミリアンとの婚姻。その原因である神託を、わたくしは知ることができない。あまりの理不尽さに、唇を嚙み締めて感情を抑えようとした。 マクシミリアンの手が視界に入った。思わず身を引く。手は、かまわず伸びてきて、わたくしの唇に指先が当たった。刃
不安を抱えたまま、当日を迎えた。 朝から、メイド数人がかりで準備をさせられている。お父様の命令だった。 ドレスもお父様が選んだ。リボンやレースも使われていないスッキリとしたデザインだが、光沢のあるシャンパンゴールドの生地が、それだけで美しい。胸元や腰のあたりにドレープがあり、華やかさも感じられた。 アーティファクトは指輪と腕輪なので、手袋の下につけられる。 ウーテから「ツェーザル殿には内緒にしてほしい」と言って渡されたネックレスがある。小さな透明の石がキラキラと輝くデザインで、ちょうど、今日のドレスに合っていた。 ウーテがこのネックレスの存在をツェーザルに秘密にした理由は、生活魔法とそう変わらない魔力で、弱めの攻撃魔法を連続で打ち続けるアーティファクトだからだ。 わたくしも、マクシミリアンを相手に、攻撃魔法を使う気はない。ただ、身につけるだけで、いくらか心を強く保てる気がしていた。 皇室から迎えの馬車が来た。 一度目の人生で、何度となく使った純白の馬車だ。これだけ準備をしても、不安しかなかった。 時間は残酷なもので、すぐに皇太子宮に到着した。 馬車から降りながら、白亜の大理石で建てられた宮殿を、わたくしは憂鬱な面持ちで見上げた。 建国当時の皇室の力を象徴する、巨大で美しい宮殿だ。 執事長が、迎えに出て来た。マクシミリアンは、また何かと理由をつけてわたくしを待たせたあげく帰るころに現れて、上辺だけの謝罪をするつもりなのだろう。 わたくしにとっても、顔を合わせる時間が短い方がありがたい。 そう思ったのに、通された応接室には、マクシミリアンの姿があった。 「アナスタシア嬢、どうしたのだ?」 わたくしは驚きのあまり挨拶が遅れてしまった。慌てて、皇太子に向けての最上のお辞儀をした。 「私が、この場にいないと思っていたのだろう?」 細めた瞼の隙間から、真っ赤な瞳が覗いている。 「そのようなことは……」と、否定した。 「そなたには訊ねたいことがたくさんある故、こうして待っていたのだ」 わたくしは促され、精巧な象嵌が施された肘掛け椅子に腰掛けた。 皇室を象徴する、白と金で統一された空間から、逃げ出したい衝動に駆られていた。 皇太子妃としてここに住んでいたころ、この応接室を幾度となく使った。白
約束したとおり、ツェーザルは三日おいて会いに来た。最初に「噂の広がり具合を共有しに来た」と言った。噂は順調に広まっていた。週刊新聞の記事は、互いの近況報告をする。出席する予定のティーパーティや舞踏会も知らせた。 ウーテについては雇用関係なので、わたくしから話さなくても知っているはずだと省いた。ベイゼルについては、説明しようがない。いっそのこと、時間を遡ったと説明できれば楽なのにとも思う。 ウーテとツェーザルの協力のおかげで、順調に進んでいる。これ以上を望むのは欲張りすぎだとわかっている。 そして、お父様がわたくしと音楽会に行ってくれることを話した。 「それならば、私はその日ウーテと出かける打ち合わせが必要だな」 お父様とわたくしが音楽を聴いている間、二人がわたくしが男性と会っていたように見せるのだ。ウーテがわたくしになりすますのだろう。見た目を変えていても、デートをするのはツェーザルとウーテなのだと気づいて、胃が痛んだ。 音楽会の当日になった。わたくしは人目をひくよう、赤いドレスを選んだ。金糸で織られた花模様が裾にあしらわれている。イヤリングもネックレスも、滴型のルビーをつける。普段より随分華やかな装いだ。 お父様は、深紺のロングコートを着ていた。襟元と袖には金糸で家紋が刺繍されている。そして、わたくしがプレゼントしたカフスボタンをつけてくれていた。 コンサートホールには、お父様専用の特別な馬車で向かう。漆黒に塗られた馬車には、家紋の金色の聖杯が描かれている。馬車をひく馬も、黒馬だった。 じつは、わたくしは音楽を鑑賞するのが苦痛だった。一度目の人生の際、他国からの使者が来るたびコンサートが開かれた。皇室のために用意された部屋で、マクシミリアンと並んで、何時間も正面をまっすぐ見つづけた経験のせいだ。 今回は、お父様とわたくしが長時間一緒に過ごすことが大切だった。 コンサートホールに着いた。大公家主
「アナスタシア」 ツェーザルの手が肩に触れた。 「顔色が悪い」 「ごめんなさい。皇宮を見て、殿下のことを思い出してしまい……」 「この場所を選んだのは私だ。配慮が足りなかった」 ツェーザルに抱きしめられた。 「震えている……」 ツェーザルの香りと温もりに包まれて、徐々に落ち着いていった。 「ツェーザル様、本当に……湖は美しくて、連れてきてくださったこと、感謝しています」 せっかく楽しかった時間を、マクシミリアンのせいで台無しにしたくなかった。 「湖は他にもある。また一緒に行こう」 わたくしは頷いた。 岸に戻ると、すぐに馬車に乗せられた。 「そなたの負担も考えず、無理な計画を立ててすまなかった」 わたくしはツェーザルのせいではないと、否定した。予定を中断し、帰らされそうになっていた。 「皇太子妃の婚約者に選ばれないために、できることはすべてしておきたいのです」 ツェーザルは受け入れてくれた。 その代わり、次に訪問した大聖堂の回廊では、ずっとわたくしの肩を抱いて、支えながら歩いた。 最後に立ち寄ったカフェでも常にわたくしを気遣ってくれた。 カフェを出ると、マルガレータがちょうど到着した。 ツェーザルとマルガレータは、お互い、初対面として挨拶を交わしていた。 ツェーザルに別れの挨拶をし、マルガレータと馬車に乗り込んだ。 馬車の中でマルガレータは「真っ赤な髪が素敵な方だったわね」と話しかけてきた。
「お名前は?」 「特に考えていない。食事を取るだけだから、必要ないだろう」 わたくしは、成長したツェーザルの姿を目の前にして落ち着かなかった。戦争の英雄となった後のツェーザルの顔は、遠目に見ただけだ。 塔に来ていた男は、顔や声を隠していたけれど、体にはとくに変化を加えていなかった。身につけている服も宝石も、記憶に残っている。 今、大公を参考に変化させたというツェーザルの姿は、塔に来ていた男と重なって見えた。 塔の男は、髪色さえ教えてくれなかった。ただ、形や刺繍の柄は変わっても、いつでも濃いめの色の上着を身につけていた。アクセサリーも白金の物がほとんどだった。ツェーザルの黒い髪と瞳に合う色味だ。 レストランに着いた。 馬車を降り、白い建物を見上げた。壁には蔦が絡まり、アーチ型の窓には色ガラスが嵌められている。看板には月桂樹の葉が掘ってある。『ロアベアバウム』という有名店だ。お兄様の話題にも上ったことがある。 店内に入るとハーブと焼けた肉の香りがした。途端に空腹を感じる。 黒大理石の床には店のシンボルである月桂樹のモザイクが施されている。壁には、帝国に伝わる神話をモチーフにした絵画が飾られ、ハープの音色が静かに流れていた。 奥に通され、ツェーザルと向かい合って座った。 深い緑色をしたビロード張りの椅子は、とても座り心地が良い。 ツェーザルは予めコース料理を頼んでいてくれた。 前菜のクリームスープにはサフランが浮いていた。何より、メインにはわたくしの好きな子羊のローストが出た。ソースに甘みがあって肉の味に奥行きが出ている。ひと噛みごとに溢れる旨みを、存分に味わった。 わたくしは、一度目の人生で、堪えきれないほどの飢えを経験したからか、あるいは、塔に来ていた男と食事を取っている気分になったからか、深い喜びを感じていた。 食事を終え、レストランを出た。馬車に戻った途端、切なさを感じた。
普段は、公爵邸に服飾師を呼ぶため衣装室にはあまり足を運んだことがなかった。 たどり着いたのは、貴族の令嬢たちがこぞって通う『ブラウアー・フォーゲル』という人気の衣装室だった。予約なしでは入れないらしいが、朝一番で公爵家の名を使って無理矢理時間を空けてもらったのだ。わたくしは申し訳なく感じていたが、『傲慢な公女』のイメージを作るのには、有効だった。 店に到着してすぐに、ウーテが馬車の中からいなくなった。御者が扉を開けてくれたので外を見ると「アナスタシア嬢」と、見たこともない男から声をかけられた。 今度のウーテは、栗色の巻き毛を持つ細身の青年に扮していた。整った顔にはまだ少年のあどけなさが残り、灰緑色の瞳がキラリと輝く。唇は花のように色づいていた。薄いベージュのコートがよく似合っている。「ティエリが、アナスタシア様をご案内します」「ティエリ、今日はよろしくね」 ティエリの手を取り、馬車から降りた。御者には公爵邸にもどっておくよう言いつける。 『ブラウアー・フォーゲル』の扉の上には、青い鳥をかたどった繊細な真鍮の看板が掲げられていた。ティエリが扉を押すと、澄んだベルの音が優雅に響いた。甘い香りがあふれ出てきた。 わたくしは、心を躍らせた。ドレスを新調するのは、十年ぶりだった。それに、皇后だったころは自分の好みでは選べなかった。いつでも、皇后らしいドレスを着せられていた。 店内は、驚くほど明るく、開放的だ。床は寄せ木細工で、歩くとヒールが軽やかな音を立てる。クリーム色の壁紙には、うっすらと花模様が浮かんでいる。ドレスのデザインを邪魔しないよう、配慮されているのだろう。 他の令嬢達に目撃してもらえるよう、あえて貸し切りにはしなかった。予約制のため、客はそう多くないが、年頃の令嬢たちは話好きだ。公女が美青年を連れて衣装室を訪れた噂は瞬く間に広がるだろう。 店内のあちこちに、最新のデザインをまとった木製のマネキン人形が置かれていた。胸元を大胆に飾り立てた紫紺のドレス、花飾
ツェーザルが帰ったあとも、わたくしは結局眠れなかった。ツェーザルの表情や声を思い出しただけで胸が高鳴ってしまう。 しかし、名前を呟いてしまうと、またツェーザルを呼び出すことになる。気をつけなければならない。 今日は、ウーテとの約束があった。 ウーテには、魔法についていろいろ訊きたいことがある。 帝都でも有名なケーキ店に行く約束になっている。いつもよりリボンのついた可愛らしいデザインの服を選んだ。気づいてもらえる程度に顔の隠れる帽子も用意した。密会を演出するためだ。
舞踏会は無事終わり、わたくしは久しぶりに公爵邸の自分の部屋に戻った。 淡いピンクで揃えられた部屋は、お母様の好みだった。幼い頃から、『皇太子妃になる』という家長の決めた使命を背負って生きてきたわたくしの持ち物の中で、この部屋だけが『夢見がちな少女』を模倣していた。 そこで、アンと再会した。くせのある赤毛と、少し焼けた肌の色は変わらないが、塔にいた頃よりも随分若い。 「お嬢様、お疲れでしょう」 わたくしにとっては数日ぶりで、アンにとっては数時間ぶ
一度目の人生で、初めてマクシミリアンを憎く感じたのは、この瞬間だった。 今、当時よりも深い憎しみが湧いている。 公爵家が誇る大広間の、黄金の装飾が施された大きな扉は、まるでマクシミリアンのために作られ、ずっと主が通るのを待っていたかのように輝く。 皇族に代々引き継がれる黄金色の髪と真紅の瞳、生まれた時から自分が特別だと知っている者だけが醸し出す高貴な雰囲気があった。わたくしはマクシミリアンの存在感に、飲み込まれてしまいそうだった。 マクシミリアンの白いコートには金
ウーテはさきほどから、ツェーザルを質問攻めにしている。わたくしは、ウーテの変わりように呆れつつも、ホッとしていた。『理論上』『魔法の構築』『魔力消費』などの言葉が聞こえてくるが、二人が話している内容をほとんど理解できない。 ウーテはしばらくして、「ツェーザル殿は、天才だ」と、しみじみとした口調で言った。 「ところで、ツェーザル殿も僕と話したがってくれていたのだったね?」 わたくしも気になっていた。ツェーザルの顔をじっと見つめ、返事を待った。 「大公家で働いてほしくて、







