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第175話

作者: るるね
last update 公開日: 2026-07-31 23:59:42

 もし紗月が祖父に泣きつく前に、ほんの一言でも、自分へ想いを打ち明けていたなら――。

 それでも自分は、あれほど激しく怒っただろうか。

 信頼していた相手に裏切られたと決めつけ、許せないとまで思っただろうか。

 慎一も、紗月が自分に好意を抱いている可能性を、一度も考えなかったわけではない。

 だが、紗月はその想いを一度たりとも口にしなかった。

 慎一自身も大学へ進学してからは目まぐるしい日々に追われ、恋愛へ意識を向ける余裕などなかった。

 だから、その可能性を確かめようとすることもなく、いつしか考えないようになっていた。

 慎一は昔から、人の感情を察することが得意ではない。

 幼い頃から数え切れないほどの好意や告白を向けられてきた。

 それでも学生時代、一度として誰かに心を動かされたことはない。

 紗月と同じように、慎一にも友人と呼べる存在はほとんどいなかった。

 ただし、その理由は紗月とはまったく違う。

 紗月が人とのつながりを求め続けていたのに対し、慎一は誰かを心から信用したことがなかった。

 差し伸べられた好意も親愛も、自ら距離を置き、受け入れようとはしなかった。

 そんな慎一
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     慎一の足が止まった。 その瞳に微かな光が揺らぎ、俯いたままの紗月へ向けられる。 紗月のそばに優介の姿はなかった。おそらく何か理由をつけて、先に帰るよう説得したのだろう。 慎一はさりげなく周囲へ視線を巡らせ、本当に紗月が一人でいることを確かめてから、悠然と口を開いた。「どうした、友枝さん」 慎一に旧姓で呼ばれたのは、これが初めてだった。 紗月は一瞬、何を言われたのか理解できず、その場で呆然と立ち尽くす。 返事がないまま数秒が流れ、慎一がもう一度口を開いたことで、ようやく我に返った。「用がないなら、俺は忙しい。先に行く」「朝倉社長……! あの……その……」 本当に容赦なく立ち去ろうとする慎一を見て、紗月は衝動的に呼び止めた。 けれど、口からこぼれたのは意味を成さない言葉ばかりで、肝心の用件をどうしても切り出せない。 慎一も今回は急かすことはしなかった。 焦りを隠しきれずにいる紗月を、ただ静かに見下ろしている。 ここ数日、まともに眠れていないのだろう。 目の下には、昨日よりもさらに濃い隈が落ちていた。 外出前にファンデーションで隠した形跡はあるものの、顔全体に滲む疲労や憔悴までは、化粧では覆い隠せていない。 言葉を探し続ける紗月を見つめるうちに、慎一はいつしか時間さえ忘れていた。 やがて紗月が、ひどく言いづらそうに唇を開く。「……あの契約は、まだ有効なんですか」 その一言を耳にした瞬間、慎一はようやく我に返った。 喉の奥で低く笑いが漏れる。 胸につかえていた重苦しいものが、音もなく消えていくようだった。 目に見えて、慎一の機嫌が和らいでいく。 紗月が高瀬の会社を訪れたと報告を受けたあと、慎一は高瀬社長と会うためだけに、自社の案件を一つ譲ることになった。 だが、一つの案件で紗月から譲歩を引き出せたのなら、その程度の代償など安いものだった。「紗月、言ったはずだ。昨日を過ぎてから俺に縋っても、同じ条件では済まないと」 紗月は顔を青ざめさせ、口を閉ざした。 ここでまた怖じ気づき、逃げられては困る。慎一はスマートフォンを取り出すと、迷うことなく久我へ電話をかけた。「話の続きは車で聞く」 久我はすぐに駆けつけた。 慎一が連絡を入れてから、一分も経たないうちに車が二人の前へ滑り込む。慎一の後ろに立つ紗月の姿を認めると、久

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     紗月は何も言い返せなかった。 社長室には、たちまち気まずい空気が流れる。 勢いに任せて紗月を罵倒していた高瀬社長も、その沈黙でようやく慎一の存在を思い出したのだろう。 慎一へ視線を向けた途端、先ほどまでの険しい表情は跡形もなく消え、愛想のいい笑みを浮かべた。「申し訳ございません、朝倉社長。身内の恥をお見せしてしまいましたな」「気にするな、高瀬社長。そちらの……彼女も、令嬢を思って口を出しただけのようだ」 高瀬社長は鼻で笑った。「しょせん、世間知らずの野育ちですよ。早出社長のもとへ嫁げるなど、娘にはもったいないほどの幸運だというのに、見識のない人間には、そのありがたさすら分からないのでしょう。……ですが、朝倉社長ならお分かりいただけますよね。親というものは、子どものために身を粉にして尽くしても、その苦労を当人たちは少しも理解してくれないものです」 その言葉に、紗月の背後に立つ優介の拳がぎゅっと握り締められた。 怒りに顔を真っ赤に染めながらも、それをぶつければ事態をさらに悪化させるだけだと分かっているのだろう。 紗月の後ろに身を寄せたまま、必死に感情を押し殺していた。「だが、高瀬社長。ご子息は、あまりご納得されていないようだな。せっかくの親心も、本人にはまるで伝わっていないらしい」「お恥ずかしい限りです。うちの子どもたちは揃いも揃って親の恩も分からない薄情者でして。朝倉社長、こんな身内の問題が、両社の提携に影響を及ぼさないことを願っております」 高瀬社長の言葉を聞きながら、慎一の視線がふと優介の足元へ落ちた。 部屋へ入った瞬間から気づいていた。 昨日、紗月のマンションに残されていた靴――あれは、この男のものだったのだと。 その事実が頭の片隅に引っかかったままだからなのか。 優介へ向ける慎一の声音には、本人ですら気づいていないほどかすかな棘が、知らず滲んでいた。 そして、高瀬社長の口から「提携」という言葉が出た瞬間、慎一は鼻で笑うように口元を歪めた。 取るに足らない利益しか生まない案件に、ここまで執着するとは。 高瀬の会社が危機的な状況に陥っているという噂は、どうやら事実らしい。そうでもなければ、実の娘まで取引の駒にして、この提携にしがみつこうとはしないはずだ。 もっとも――。 慎一にとっては、それこそ願ってもない好機だった

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     由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑

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     翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな

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     距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける

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     電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ

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