LOGIN紗月は、台本にキスシーンがあるのを見て、ただ確認のために尋ねただけだった。 別に、それほど深く考えていたわけではない。これほど大きなCMに、まだ新人である自分を起用してもらえることが、事務所から与えられた貴重なチャンスだということも十分に理解していた。 ところが、千尋は何かを誤解したらしい。 わざわざスマートフォンを置き、紗月をきちんと説得しようとするかのように、身体ごと彼女のほうへ向き直った。「紗月、この業界に入ったばかりの頃は、どうしても気の進まない仕事を引き受けなければならないこともあるんです。でも、最初から仕事を選り好みしていたら、いつまで経っても先へ進めないでしょう? こういう撮影が嫌なら、もっと有名になってから、自分の意見を出せばいいんですよ」「違うんです、千尋さん。私は別に、嫌だと言っているわけでは……」 紗月は慌てて説明した。 それを聞いた千尋は、ようやくほっとしたように笑い、再びシートの背もたれへ身体を預けた。「それならよかったです。社長も、紗月には今のうちから慣れてもらわないとっておっしゃっていたんですよ。これからは、こういうシーンも少なくないでしょうから」 * CMの撮影場所は、郊外に借りられた施設だった。 紗月と千尋が到着した時、撮影開始まではまだ少し時間があったものの、現場ではすでにスタッフたちが慌ただしくセットの準備を進めていた。 紗月の姿を見るなり、監督はわずかに眉を寄せた。 顔立ちから体つきまで、上から下へとじっくり眺めた末、しばらくしてようやく、どこか気の進まない様子で口を開いた。「まあ、悪くはないか。着替えさせてくれ。あとはカメラ映りを見てからだな」「はい、監督。うちの紗月は、ここへ来る途中ですでに台詞をすべて覚えておりますので、ご安心ください」 監督は気のない様子で「ああ」とだけ答えると、すぐにほかの準備状況を確認しに行ってしまった。 スポンサーから提供された衣装を受け取り、紗月はロケバスの中で着替えることになった。 その間、前方の助手席に座っていた千尋は、先ほどの監督の態度を取りなすように、あれこれと話しかけてきた。「あの監督、確かに少し態度が悪いんですよね。でも、女優さんにはいつもあんな感じらしいので、紗月は気にしなくて大丈夫ですよ。最近は離婚騒ぎの真っ最中みたいですし。若いアイド
事務所と契約を結んでからというもの、紗月の毎日は予想していた以上に忙しくなった。 ほとんど毎日のように、こなしきれないほどのレッスンが組まれている。ルミエールが紗月の育成に相当な費用をかけていることは、誰の目にも明らかだった。 レッスンが始まって一週間ほど経ったある日、紗月は所作指導の講師から、自分がルミエールで唯一、何の経験も実績も持たない新人だと知らされた。 ルミエールは、ほかの大手事務所からすでに人気のある芸能人を引き抜くことには熱心だが、新人育成にはまったく力を入れてこなかったらしい。「社長が新人をあまり好きじゃないらしいのよ。一から育てるには時間がかかりすぎるし、それならお金を出して、ほかの事務所がすでに売り出した芸能人を引き抜いたほうが早いんですって。確か、社長の言葉では……わざわざ原石を探し出して、それが上質な宝石になるかどうかに賭けるくらいなら、他人がすでに磨き上げた一級品を、その手から直接買い取ったほうがいい……だったかしら」 自分で口にしているうちに、その言い回しが可笑しくなったのだろう。講師は小さく笑いながら、紗月の姿勢を直した。「でも、私たちにとってはありがたい話よ。レッスンを受けに来るのは、すでに経験を積んでいる人ばかりだから、教える側も楽だもの」 紗月は何も言わなかった。 何しろ、今こうして講師の手を最も煩わせているのは、ほかでもない自分なのだ。 所作のレッスンが終わると、終了時刻を見計らっていたかのように、千尋が慌ただしく駆けつけてきた。その手には、紗月の予定がびっしりと書き込まれたスケジュール帳が握られている。「紗月、今夜のレッスンはキャンセルしました。さっき急にCM撮影のお話が入ったんです。クライアント側が、紗月をヒロイン役に起用したいと言ってくださっているんですよ」 紗月が状況を飲み込むよりも早く、千尋はその手を取り、エレベーターへ向かって足早に歩き始めた。「千尋さん、CM撮影って……」「詳しい話は車の中でしますね。今は急いで撮影現場へ向かわないと。実は、もともとヒロイン役に決まっていた女優さんが、急に出演できなくなったらしいんです。それで社長が、この仕事を私たちに回してくださったんですよ」「えっ、社長が?」「そうなんです。このCMには、社長と縁のある、本社の関連企業が出資しているんですよ。紗月、
琉璃は、観客とのやり取りを行うコーナーで自分が指名されることに、絶対の自信を持っているようだった。 収録が始まってからも、終始意識して背筋を伸ばし、姿勢よく座っている。表情や反応についても、事前に何度も練習してきたのだろう。笑うべきところでは笑い、驚くべきところでは目を見開いて驚きを示す。その一つひとつが、紗月の受け取った台本に記されていた指示と寸分違わなかった。 この機会を逃すまいと、琉璃がどれほど努力を重ねてきたのか、傍で見ているだけでも伝わってきた。 けれど、一つだけ、彼女の予想とは違うことが起きた。 観客参加のコーナーで、司会者が客席から一人を指名したのは確かだった。 しかし、呼ばれたのは琉璃ではなく、紗月だった。 紗月はスタッフからマイクを受け取ると、先ほど覚えたばかりの台詞を、台本どおりに口にした。 隣にいる琉璃は、まだ笑顔を崩してはいなかった。ただ、その表情は明らかに強張っており、膝の上に置かれた両手も、いつの間にか固く握りしめられている。 それに気づいた紗月は、周囲から不自然に思われない程度に、そっと琉璃のほうへ身体を寄せた。 スタジオのモニターへ目を向けると、画面には紗月だけでなく、琉璃の姿もきちんと映っている。 用意された質問を最後まで言い終え、紗月はマイクをスタッフへ返した。 それから、カメラの傍に立っている千尋へ、さりげなく視線を向ける。 紗月の視線に気づいた千尋は、スタッフとの会話を続けながらも、こちらへ向かって親指を立ててみせた。 紗月はほっと息をつく。 どうやら、無事に役目を果たせたらしい。 収録が終わり、紗月は琉璃へ別れの挨拶をしようとした。けれど、琉璃はすでに足早にスタジオを出ており、紗月のほうを振り返ることさえなかった。 千尋はその頃、舞台裏で野方と話をしていた。 紗月が近づいてきたことに気づくと、すぐにその手を取り、野方へ笑顔を向ける。「野方さん、うちの紗月、なかなかよかったでしょう?」 野方は紗月自身の演技力には、相変わらずさほど興味がない様子だった。 実際の映像を確認したあとも、淡々とした口調で答える。「ああ。思ったより画面映えするな。覚えておくよ」 その言葉を聞いた瞬間、千尋が紗月の手を握る力が、わずかに強くなった。 それ以上しつこく話を続けることはせず、野方へ何度も礼を
プロデューサーの名は、野方晋也といった。 業界で数十年にわたって活躍し、これまで数々の大ヒットドラマや人気バラエティ番組を手がけてきた人物だ。長年にわたって築き上げてきた実績と、その卓越した手腕は、業界内でも広く知られている。 千尋が会わせようとしていた相手が、まさかこれほどの大物だったとは思わなかった。 テレビ局の会議室で野方と対面した瞬間、紗月は驚きのあまり、思わずその場に立ち尽くしてしまった。「野方さん、この子はうちが新しく契約したタレントなんです。演技も上手ですし、立花監督にも認められたことがあるんですよ」「おお、立花か。あいつも最近、とんだ災難に巻き込まれたらしいな。キャストの選び直しは順調なのかね。……ああ、そうだ。この子の名前は?」「友枝紗月です。どうでしょう、何か……?」 千尋の言葉を受け、野方は改めて紗月へ視線を向けた。 それからしばらく、値踏みでもするように彼女の姿をじっくりと眺める。 居心地の悪さを覚えながらも、紗月はどうにか緊張した笑みを浮かべ、自己紹介を始めた。「野方さん、初めまして。私――」 しかし、野方には新人の挨拶を最後まで聞くほどの辛抱はなかったらしい。 片手を軽く上げて紗月の言葉を遮ると、あっさりと告げた。「三時から収録する番組がある。少しくらいなら、画面に映してやれるだろう。あとで台本を持ってこさせる」「本当ですか? ありがとうございます、野方さん!」 千尋はすかさず礼を述べた。 野方が二人のために割ける時間は、ほんのわずかだった。 このテレビ局だけでも複数の番組を抱えているらしく、紗月を番組に出すと約束するなり、次の仕事があると言って早々に会議室をあとにした。 それから間もなく、野方のアシスタントだと名乗る人物が、分厚い資料を抱えてやってきた。 どうやら、これから収録されるバラエティ番組の進行表と、当日の内容をまとめた資料らしい。 もっとも、野方の言う「画面に映す」とは、紗月を観客の一人として収録に参加させるという意味だった。「本番では、出演者が観客席の中から質問する方を指名します。こちらのページに質問内容が記載されていますので、必ず覚えておいてください」 紗月が資料を受け取ろうとした瞬間、千尋が一足先に手を伸ばし、相手から書類の束を受け取った。 その態度は先ほどまで以上に丁寧
ルミエールと正式に契約を結んだその日の午後、それまで検索ランキングを占拠していた源間に関する一連の悪評記事が、突然すべて姿を消した。 まるで初めから何も起きていなかったかのように、跡形もなく消えている。 源間が女優に性的な関係を強要したと最初に報じた記事まで削除され、どれだけ検索しても見つからなかった。 紗月が試しに自分の名前を検索してみると、彼女に関する投稿もほとんど残っていない。 あまりにも迅速な対応に、紗月は呆然とした。 スマートフォンを手にしたまま、紗月はしばらく言葉を失っていた。 少し離れた場所で電話に出ていた千尋が、通話を終えて紗月のもとへ戻ってくる。 そのまま紗月の手元を覗き込み、画面を確認すると、どこか得意げに笑った。「広報部の仕事ですよ。すごいでしょう? うちに所属するタレントの評判や世間の反応は、広報部が常にチェックしているんです」 千尋は声を少し潜め、冗談めかすように続けた。「噂では、社長が莫大なお金をかけて、ものすごく腕の立つ専門家を集めたらしくて……本当かどうかは、私も知りませんけどね。ただ、ネット上で何か問題が起きても、かなり早い段階で対応してくれます。少なくとも、根も葉もない噂を放置して、所属タレントが一方的に傷つけられるようなことはありません」 すでに正式な契約を結んだからだろう。 千尋は契約前よりもずっと気安く、事務所の内部事情まで紗月に話してくれるようになっていた。 ルミエールの広報部は、社内でも謎の多い部署らしい。 独立した専門チームによって運営されており、千尋でさえ、普段は実際に対応を行っている担当者と直接顔を合わせる機会はほとんどないという。 担当するタレントに大きな問題が起きた場合に限り、広報部が臨時の危機管理チームを立ち上げ、千尋をはじめとする関係者を集めて対策を話し合うらしい。「だから、紗月が正式に所属した途端、広報部がすぐに動いてくれたんです。……それと、源間監督についても、今回の件に関係するものは一緒に対応してもらいました」 会社が自分のために、ここまでしてくれるとは思っていなかった。 紗月の胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。 同時に、この事務所を選んだのは間違いではなかったのだと、ようやく心から安堵することができた。「ありがとう……千尋さん」「これくらい、何で
あまりにも真っ直ぐに返され、慎一は一瞬、言葉を失った。 ただ、紗月に契約を諦めさせたかった。 その焦りから、確かに言葉を選ぶ余裕を失っていた。 仕事では、どんな交渉でも相手の出方を読み、必要な言葉を選び、最後には必ず自分の望む結果へ持ち込んできた。 それなのに紗月を前にすると、まるで突然考える力を失ってしまったかのように、いつも言葉を誤る。 今回も同じだった。 けれど、紗月の指摘そのものは、完全に的外れというわけではない。 心のどこかで、今の紗月にこれほど破格の条件が提示されることを、慎一自身も不自然だと感じていた。 確かに紗月は美しい。 しかし、芸能界には彼女以上に整った容姿を持つ人間などいくらでもいる。 紗月の演技を実際に見たことがない以上、その実力を正確に評価することもできない。 芸能事務所を経営する立場から、経歴や実績、市場性だけを冷静に見れば、紗月は決して条件のいい新人とは言えなかった。 年齢の面でも、若さそのものを武器にできる新人たちと比べれば有利ではない。 知名度も、代表作も、確かな実績もない。 少なくとも、まだ何の保証もない段階で、ここまでの好条件を提示してまで獲得しようとする理由を、慎一には合理的に説明できなかった。 それでも、紗月が自分の事務所を選ぶのなら話は別だった。 慎一は惜しみなく金を注ぎ込み、必要なものをすべて揃え、彼女のために道を切り開くつもりだった。 そこに採算が合うかどうかなど、最初から関係なかった。「そういう意味じゃない」 紗月の問いに、慎一はひとまず否定の言葉だけを返した。けれど、そのあとに続く言葉は出てこなかった。 紗月はしばらく黙ったまま、慎一を見つめていた。 けれど、待っていても彼の口からそれ以上の説明が出てくることはない。 やがて紗月は視線を落とし、慎一の手から自分のスマートフォンを取り返した。「私が契約するかどうかも、相手に別の思惑があるかどうかも、朝倉社長には関係ないでしょう」「関係ないわけがない。俺たちには、まだ契約があるだろう」 こういう時、慎一が紗月を引き止めるために持ち出せるものは、結局のところ、二人の間に交わされた契約しかなかった。 紗月はその先を聞く前に、冷ややかに言葉を遮る。「朝倉社長。あの契約には、私がほかの事務所と契約してはいけないなんて書か
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな