All Chapters of 元夫の目は節穴?名門令嬢が電撃再婚!: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

絃葉の姿が階段の角に消えるまで見送っていた凪杜は、ようやく視線を引き戻し、野々花へ向き直った。「彼女には父親も母親もいない。この世で身内と呼べるのは、故郷にいる祖父以外、俺しかいないんだ。俺は彼女のすべてなんだ。だから彼女が俺のために何でも捧げる覚悟を持っていることは、俺は信じている」野々花は信じられないというように凪杜を見つめた。目の前の男は相変わらず穏やかで端正な顔立ちをしていて、確かに彼女の記憶の中の凪杜そのままだ。けれど今、この人は目の前にいるのに、ひどく見知らぬ存在に思える。彼の心は、少しずつ絃葉へと傾いているようだった。爪が手のひらに食い込むほど強く握り締めながら、野々花は胸の奥の憎しみを押し込める。そして今回は、もう「愛しているのかどうか」という問いを口にしなかった。「一度も彼女の故郷に行ったことがないし、その祖父という人に会ったこともないでしょう?彼女が両親はいないって言えば、そのまま信じるの?」「俺と結婚するために、彼女は故郷との縁を切ったんだ」その話になると、凪杜の胸にはさらに強い罪悪感が込み上げる。「彼女はずっと家族の温もりを欲しかった......だから、もしかしたら......子どもを産ませてあげるべきなのかもしれない」野々花の瞳が激しく揺れた。「......!!」顔を押さえたまま彼女は駆け出していった。だが今回は、凪杜は珍しく追いかけようとしなかった。――絃葉は一気に2階へ駆け上がり、後ろ手で部屋のドアに鍵を掛けた。その途端、口元を押さえながら笑いが込み上げる。そして待ちきれず、先ほどの「戦果」を悠へ送った。悠【どれだけ自信過剰なら、その木の根っこ2本をプレゼントだと信じられるの】絃葉【それだけ私の「一途な女」というイメージが、あの人の中で根付いてるってこと】悠【あいつが後悔する顔、楽しみになってきた】絃葉【もうすぐよ。あと6日】悠【記念品は全部捨てて、絵も持ち出したのに、あのクズ全然気付いてなかったの?】絃葉【うん。そもそもあの記念品を何度も見返していたのは私だけ。絵に関しては、『芸術的すぎてわからない』って言って、一枚も興味を持たなかった】悠【天才画家と結婚したのに、もったいないよ!!】......やり取りを続けていると、悠と
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第32話

今となっては、彼女が法人名義を自分へ移そうと強く言えば言うほど、凪杜の胸に湧き上がる得体の知れない不安は深まっていった。「絃葉......」凪杜は肩を抱こうと手を伸ばしたが、彼女は気づかれないように身をかわした。「今回の遠出でずいぶん疲れただろうし、変更の件は少し先にしてもいいんじゃないか?明日はまず病院へ行って、赤ちゃんの様子を診てもらおう。な?」絃葉の体がわずかに震えた。「変更の手続きなんてすぐ終わる。そしたら病院に行けばいいでしょ。凪杜が忙しいなら、私一人でもいいよ」凪杜は温かな手で彼女の手の甲を包み込んだ。「それは駄目だ。俺も一緒に行く。野々花の子は駄目になってしまったんだ。だからこれから、もっと慎重にならないと。君まであんなふうに油断しちゃいけない」絃葉の胸が重く沈んだ。これまで突然この子に関心を示し始めた理由が不思議だった。少なくとも、お腹の子を多少は気にかけてくれているのだと思っていた。だが今になって、すべて理解した。電話越しに薬を飲んだか問い詰めてきたときの、あの抑え込まれた怒りも。――すべては野々花の子どもがいなくなったから。だから代わりとして、彼は再び彼女のお腹の子を思い出したのだ。彼にとって、自分も、お腹の子も、永遠に第二候補でしかない。絃葉は皮肉げに唇を歪めた。「前は私、重度の貧血だから妊娠には向かないって言ってなかったっけ?」凪杜は悪びれもせず答えた。「千晶に相談したんだ。妊娠中に気をつけて、定期検診をちゃんと受ければ問題ないだろうって。今は医療も発達してるしな」絃葉は嘲るように言った。「ふん?じゃあ今は、私が妊娠で苦しむのも平気になったの?前はつらいって、養子を迎えた方がいいって何度も言ってたのに」凪杜は気まずそうに笑う。「もちろん苦しんでほしいわけじゃない。でも、できた以上は産むべきだろう。それに君は、この世に身内がほとんどいない。自分の血を分けた子が増えれば、君にとっても慰めになるはずだろう」絃葉の体が硬直した。胸を鈍器で殴られたような痛みが走り、息が詰まる。――彼は知っていたのだ。彼女がどれほど実子を望んでいたのか。どれほど血の繋がった家族を求めていたのか。それを全部知っていた。なのに、この5年間。彼は何度も野
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第33話

景とのやり取りはごくわずかだった。5年前に連絡先を交換して以来、会話の回数は合わせても5通にも満たない。最初のメッセージは5年前。祖父に逆らい、凪杜のもとへ飛び込む決意をした彼女が、空港から送ったものだった。【ごめんなさい。私は心から愛する人を見つけました。なので政略結婚は受け入れられません。どうか別の人を探してください】男は言葉少なに、たった一言葉だけ返してきた。【わかった】そして今、彼女が送ったメッセージに対し、10分ほど経ってから返ってきた返事も、やはり同じ言葉だった。【わかった】簡潔そのもの。感情の色など一切感じられず、まるで二人の間で交わされているのは、自由を売買する取引にすぎないかのようだった。冷たい――画面越しですら、こんな男と本当に結婚し、同じ屋根の下で暮らしたらどれほど息苦しいのか想像できる。その点、凪杜は昔は情熱的だった。どんなことにも反応を返し、ことあるごとに甘い言葉を囁いてくれた。だが現実はどうだっただろう。彼はとっくに外にもう一つの家庭を作り、彼女が夢見ていた「一生一人だけを愛し合う関係」を、「三人で過ごす関係」に変えてしまった。結局、どんな男を選んでも同じなのかもしれない。大差などない。それでも政略結婚なら、少なくとも一族の利益は守られる。絃葉は先ほど送ったメッセージを少し後悔した。だが、送ってしまったものは仕方がない。今さら取り消せるわけでもない。――もうどうでもいい。どうせ政略結婚だ。家同士の利益が釣り合っているなら、相手が誰でも構わない。そのとき、青波から電話がかかってきた。絃葉が通話を取ると、口を開く前に、相手の気だるげな声が聞こえてきた。「おめでとう、絃葉ちゃん」子どもの頃から散々からかわれてきたせいで、絃葉は反射的に、青波がどこかのバーか何かで凪杜の浮気現場でも押さえたのだろうと思った。「何がおめでとうなの?男に裏切られて普通そんなことを言う?」「何言ってんだよ」青波は一瞬呆れたように眉をひそめた。「裏切ったのは俺じゃないだろ。昔あれだけ忠告したのに、聞かなかったのはあんただろ......じゃなかった、電話したのはその話をするためじゃない。あんたに大きな幸運が舞い込んだんだ!」真夜中に「幸運が舞い
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第34話

「相手とはずっと秘書を通じてやり取りしていて。かなり謎めいた人だから、俺も誰なのか知らないんだ」「そう......わかった。それじゃ1週間後、多磨城の折田ビルの正門前で会いましょう。相手にもそう伝えて」絃葉はそれ以上深く考えず、直接待ち合わせの詳細を決めた。この電話のおかげで張り詰めていた神経がかなり和らぎ、通話を切ったあと、彼女はいつの間にか眠りへ落ちていた。――セイガ・バー。凪杜や千晶、そのほかの仲間たちがよく集まる行きつけの場所だった。深夜零時を過ぎ、薄暗い照明の下では、あちこちで男女が抱き合い、思うままに戯れている。2階の比較的静かな個室では。皆になだめられたおかげで、野々花もようやく大人しくなっていた。酒を飲むとも、自殺するとも騒がず、目を赤くしたまま凪杜の腕の中に身を預け、弱々しく眠っている。頬にはまだ涙の跡が残っていた。千晶は眉をひそめ、凪杜に目配せした。凪杜はその意図を察し、野々花をそっとソファに寝かせ、自分のジャケットを脱いで丁寧に掛けてやると、千晶とともに廊下へ出た。千晶はポケットから煙草を取り出し、凪杜に一本差し出して火をつけ、自分も吸い始めた。煙をゆっくり吐き出しながら言う。「凪杜、正直もう見ていられない。絃葉は一体をしたって言うんだ。あいつは全力でお前を愛してきたし、お前のために尽くした。なのに最後に与えたのは、実体のない妻という肩書きだけ。実際の利益は全部野々花に渡してるじゃないか。さっきだって野々花をなだめるために、絃葉に中絶させるって約束しただろ。こんな扱い、さすがにひどすぎる」「じゃあ、俺にどうしろっていうんだ」凪杜は疲れ切った様子で壁にもたれた。煙が漂う中、彼は唇を引き結びながら苦笑する。「野々花は気性が激しい。少しでも思い通りにならなければ死ぬだの何だの騒ぎ出す。だけど絃葉は違う。昔から聞き分けがよくて扱いやすい。流産したとしても、少し慰めればそのうち立ち直る。それに、あいつの体は弱い。子どもを産むには向いてないんだ......」「前から言ってるじゃないか」千晶は眉間にしわを寄せた。「貧血は妊娠や出産に多少影響する。でも産めないって意味じゃない。絃葉が黙ってるからって傷ついて当然なのか?」千晶は凪杜の親友だ。この数年間、彼が二人の
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第35話

築山景だった。凪杜と千晶の心臓がどくりと沈む。予想外の登場に、驚き以上の緊張が走った。景は凪杜、千晶、そして絃葉と同じ大学の出身だ。厳密に言えば、景と凪杜のほうがさらに近い。同じ学部、同じクラスだった。だが大学時代から彼はほとんど姿を見せず、同じクラスにいても凪杜が顔を合わせた回数は片手で数えられるほどだった。それでも、同級生という縁は大きい。昨年、凪杜はその関係を頼りに、幸運にも築山グループという巨大な船に乗ることができ、わずかながら取引関係を築いた。協力関係が始まってから、凪杜は徐々に気づいた。伝説の氷の御曹司と呼ばれる景は、実は噂ほど近寄りがたい人物ではないのかもしれないと。ある時など、彼はわざわざ凪杜に尋ねたことがある。「大学の同窓会グループはないのか?昔の同級生たちが今どうしているのか知りたい」それは間違いなく、景との距離を縮める絶好の機会だった。凪杜はすぐさま大学の同窓会チャットを作り、仲の良かった友人たちと景を招待した。最初の同窓会には、景も顔を出した。滞在時間はわずか10分足らずで慌ただしく去っていったが、普段から表舞台を避ける彼にしてみれば、それだけでも異例のことだった。まさか今夜、この神のような存在が何の前触れもなくセイガ・バーに現れるとは思わなかった。千晶は胸の高鳴りを必死に抑え込み、ぎこちない笑みを浮かべて前へ出た。「築山さん、珍しいですね。まさか今日ここへ来られるとは」景は軽くうなずいた。落ち着いた足取りで凪杜のそばまで来ると、ほんのわずかに足を止める。視線は凪杜に向けられていない。ただ通りすがりに思い出したことを口にするような口調だった。「出張だ。ここがお前たちのたまり場だと思い出してな」そう言い終えると、彼は立ち止まることもなく、そのまま凪杜の横を通り過ぎて個室の奥へ入っていった。凪杜と千晶は素早く顔を見合わせる。互いの目に浮かぶ動揺を確認すると、慌てて後を追った。景の生まれは多磨城だが、その基盤は京城(きょうしろ)にある。若くして築山グループという巨大ビジネス帝国を率いる男だ。彼が姿を現した瞬間、室内にいた全員が驚いて立ち上がり、慌てて場所を空けた。個室の中央にある上座が自然と彼のために用意される。景はそこへ腰を下ろ
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第36話

彼は一拍置き、氷のように冷たい視線を凪杜へ向けた。「身内には甘い主義でな」そう言い残すと、そのまま個室の出口へ向かって歩き出した。だが、その何気ない一言は、突如として巨大な山が凪杜の肩にのしかかったかのような重圧を与えた。凪杜は肩を落とし、頭の中が真っ白になる。――どういう意味だ?雲の上の存在とも言える築山家の御曹司が、絃葉のために口を挟んだというのか?――絃葉が千晶からの電話を受けた時、眠りに落ちたばかりだった。再び起こされ、苛立ちながら通話ボタンを押すと、向こうから千晶の声が聞こえてくる。「絃葉、凪杜が飲みすぎた。迎えに来てくれる?」一気に眠気が吹き飛んだ。時間を見ると、午前3時を回っている。「ちょっと無理かな。もう寝てるし。代行でも呼んだら?」今の彼女にとっては、これ以上少しでも気を遣うことさえ億劫だった。「それが頼んでみたんだけど、この時間だとどこも受けてくれなくて......」千晶は困ったような口調だった。絃葉は仕方なく応じる。「分かった」重い頭を揉みながら起き上がり、トレンチコートを羽織り、サンダルのまま家を出た。一雨ごとに秋は深まる。深夜の冷気は骨身に染みた。車を停めて外へ出た瞬間、鋭い秋風に吹かれ、思わず身震いする。バーの扉を開けると、千晶はすでに入口で待っていた。「やっぱり一番凪杜を気にかけてるは絃葉だな」彼女を見るなり、反射的にそう口にしてしまう。言った瞬間に失言だと気づいたが、もう取り消せなかった。絃葉は意味深な笑みを浮かべ、わざと問い返した。「まるで私と比べられる相手でもいるみたいな言い方だね」千晶の表情が固まる。慌てて手を振った。「いやいや、そんなことない!あんたたち夫婦が仲睦まじいのは有名だろ。比べる相手なんていないさ!」必死に取り繕う声には、不自然な緊張が滲んでいた。絃葉は喉の奥が苦くなるのを感じた。言葉はそこで止まる。この5年間、彼女が凪杜と野々花の関係にまったく気づかなかったのは、凪杜の友人たち、特に千晶の存在が大きかった。凪杜が外泊した夜、千晶から「飲みすぎてうちで寝てる」と連絡が来たことは数え切れない。また、凪杜と野々花が本来いるはずのない場所で一緒にいるのを見かけて疑念を抱いた時も
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第37話

千晶はなぜか背筋に寒気が走った。その言葉には妙な聞き覚えがある。ついさっき、誰かが同じようなことを言っていた気がした。その間にも絃葉は身をかがめ、ソファで眠る凪杜を起こそうとしている。千晶は余計なことを考える暇もなく、慌てて手を貸した。その夜、千晶の言葉が影響したのか、それとも景の突然の登場が心に波紋を広げたのか。景が去ったあと、凪杜は些細なことで野々花に八つ当たりしてしまった。野々花も腹を立てて言い返し、そのまま怒ってバーを飛び出したが、凪杜は追いかけようともしなかった。普段は冷静沈着な男が、今回は珍しく自暴自棄になったように酒をあおり続けた。千晶たちが何度止めても聞き入れず、とうとう意識を失うまで飲み続けたのだ。千晶と絃葉は力を合わせて凪杜を車の後部座席へ押し込んだ。「一緒に送っていこうか?」千晶が尋ねる。絃葉は首を横に振った。「大丈夫。ありがとう、風間さん」「そんな他人行儀な」千晶は苦笑する。「こいつが節度を失ったせいで、妊娠中のあんたをこんな夜中に呼び出してしまったからな。そうだ、今月末までに時間はあるか?一度食事でもどうか」これまで彼女と千晶の接点は、常に凪杜を介したものだった。突然の誘いに絃葉は目を丸くする。「え?どうして?」「別に深い意味はないよ。ただ、あんたも大変だったと思って。この数年、あんたが凪杜に尽くしてきたことは全部見ていたから......」千晶は視線を泳がせ、何か言いたそうにしながらも言葉を飲み込んだ。「分かった。都合が合えばね」絃葉は適当に答えた。だが心の中では思っていた。その食事はきっと実現しない。月末にはもう、自分はこの人たちの世界から消えているのだから。千晶は最後に気をつけて帰るよう言い残し、その場を後にした。絃葉は身をかがめ、凪杜の長い脚を車内へ押し込み、ドアを閉めようとした。そのとき、凪杜が突然手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。「絃葉......そんなの、許さない......」かすれた寝言だった。絃葉は眉をひそめる。「何を?」まさか、自分が離れるつもりだと気づいているのだろうか。彼女は身を寄せて聞き取ろうとした。だが凪杜は寝返りを打っただけで、そのまま再び深い眠りに落ちてしまう。絃
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第38話

男はうなずき、車窓が静かに閉まる。その端正な顔立ちはガラスの向こうへと消えていった。運転席に乗り込んだ瞬間、絃葉の胸に、なぜか微かな違和感がよぎった。あの男には、どこか妙な既視感がある。だが、どこで会ったのかはどうしても思い出せない。もっとも、相手との距離感をきちんと保つあの態度には好感が持てた。ロールス・ロイスの後部座席に乗り、あの日はヨットにも現れていた。神秘的で目立たない富豪でなくとも、相当な家柄の出なのだろう。絃葉は昔の交友関係を頭の中で一通り探ってみたが、該当しそうな人物は見当たらなかった。――まあいい。今度機会があれば、青波にでも聞いてみよう。後部座席からは酒の臭いが充満していた。絃葉は耐えきれず窓を開け、換気しながら車を走らせる。窓の外から冷たい風が吹き込み、寒さはあったが、酒臭さに包まれるよりはずっとましだった。「さ、寒い......」凪杜が寒さで目を覚まし、ぼそりとつぶやいた。反射的に上半身を起こしたものの、酔いはまだ抜けておらず、すぐに力尽きるように後ろへ倒れ込む。絃葉はバックミラー越しに冷ややかな視線を向けた。彼は再び眠り込んでいた。ベルトはだらしなく緩み、シャツのボタンも外れかけている。白い腹は不自然に突き出ていた。以前の彼女なら、すぐ窓を閉めて暖房を入れ、後部座席へ回って毛布を掛けていただろう。少しでも寒い思いをさせないように。だが今は――寒いくらいでちょうどいい。絃葉は窓を全開にしたまま、一言も発せず家へと車を飛ばした。帰宅前に、すでに伊藤へ連絡は入れてある。だがガレージで待っていたのは、伊藤だけではなかった。絃葉が車を降りた瞬間、野々花が一直線に駆け寄り、後部座席のドアを開けた。車内では凪杜が大の字になってフロアマットの上に転がっている。顔は赤く火照り、腹も丸見えだった。野々花が腕を引っ張ると、その手足は異様なほど冷たかった。「絃葉さん、澤木社長がこんなに酔っているのに、毛布の一枚も掛けてあげなかったの?」絃葉は鼻で笑った。「別に少し冷えたくらいで死にはしないでしょ」野々花は怪訝そうに彼女を見た。いつも凪杜を宝物みたいに大事にしていた絃葉が、こんなことを言うだろうか。「今はインフルエンザも流行ってる
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第39話

屋敷には空き部屋がまだあったが、どれも長らく使われていない状態だった。伊藤が寝具を取りに行こうとしたところを、野々花が呼び止める。彼女は視線を揺らしながら言った。「伊藤さん、もうこんな時間だし、ベッドを整えていたらいつになるか分からないわ。澤木社長は私の部屋で休ませましょう。私はソファで寝るから」伊藤は怪訝そうに彼女を見た。「奥様が言ったのはただの嫌みだって、分からないのかい?」野々花はたちまち不満げな顔になる。「でも確かにそう言ってたよ。私が強要したわけでもないし。それに伊藤さん、あなたはただの使用人でしょ。口を挟む資格なんてないと思うけど?」伊藤は鼻を鳴らし、凪杜の腕を放してそのまま背を向けた。歩きながら、小声でぶつぶつとこぼす。「あなただってただの秘書じゃないか。何様のつもりなんだか」野々花は顔を真っ青にして怒りに震えた。今すぐ婚姻届を伊藤の顔に叩きつけてやりたかった。だが、まだその時ではない。今は耐えるしかない。野々花は悔しさを押し殺して拳を握り締め、苦労して凪杜を部屋まで運んだ。那乃葉は子ども用ベッドですでにぐっすり眠っている。彼女は凪杜をベッドへ寝かせ、シャツとズボンを脱がせた。自分のベッドに横たわる凪杜を見つめながら、胸の奥に奇妙な満足感が広がる。「絃葉さん、今夜は私が奪ったんじゃない。あなたが自分で譲ったのよ」彼女は素早くネグリジェを脱ぎ、甘えるように凪杜の胸元へ身を寄せた。両腕で彼の腰をしっかり抱きしめ、そのまま満ち足りた気持ちで眠りについた。......翌朝。凪杜は喉の渇きで目を覚ましたが、まぶたは重く、開ける気になれなかった。無意識に隣の女性を抱き寄せ、柔らかな腰を軽く撫でながらつぶやく。「......喉、渇いた......」「わかった。今、お水を持ってくるね」野々花は甘い声で応え、身体を起こそうとした。その声を聞いた瞬間、凪杜は弾かれたように目を見開いた。勢いよくベッドの上で起き上がる。周囲を見回した彼の瞳が大きく揺れた。「は?どういうことだ?俺......どうして君の部屋に......」心臓が一拍止まったような感覚に襲われる。彼は反射的にドアの方を見やり、声を潜めた。「野々花、これはどういうことだ。まず
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第40話

夫が一晩帰らず、しかも隣の部屋で寝ていたというのに、そのことを全部知っていながら、絃葉は怒るどころか平然と朝食を食べている。どうしてそんな平気でいられるんだ?いつからこんな人になった?凪杜は眉をひそめて歩み寄ると、絃葉の手からひと口かじったパンを奪い取り、そのまま自分の口へ放り込んだ。絃葉は2秒ほど固まった後、むっとして顔をしかめた。「それ私が食べかけなんだけど」「俺は気にしない」そう言うと、今度は彼女が半分ほど飲んでいた牛乳を手に取り、ごくりと一気に飲み干した。凪杜は彼女の向かいに腰を下ろし、沈んだ眼差しで絃葉を見つめる。胸の奥には言いようのない感情が渦巻いていた。「昨夜は確かに俺が悪かった。飲みすぎてしまったし、節度を欠いていた」絃葉は静かに彼を見つめるだけで何も言わない。その視線が続きを促していた。「でも......だからって部屋に鍵をかけて、俺を円藤の部屋で寝かせるのはどうなんだ?俺はベッドで寝て、彼女はソファだったとはいえ、男と女なんだから、さすがにないだろ」――へえ。絃葉は心の中で冷笑した。やはり彼も、それがまずいことだとは分かっているのだ。「どこで寝ても同じじゃない。円藤さんのほうが私よりずっと世話上手だし」絃葉はさらりと言った。凪杜は完全に面食らった。眉間に深い皺が刻まれる。「同じなわけないだろ?お前......」絃葉は微笑んだ。「凪杜が他の女性の部屋で寝ても私は気にしてないのに、どうしてあなたのほうが気にしてるの?」「......」そう言われると、まるで自分が大げさに騒いでいるようではないか。凪杜は理解できなかった。腹の中で何度も練ってきた言い訳や説明が、一瞬で全部吹き飛んでしまった。最近の絃葉はおかしい。本当に、どんどんおかしくなっている。以前なら、彼が他の女性を一目見ただけでも嫉妬していた。それに彼が酒を飲み、少しでも酔えば、彼女は体を心配してたまらなくなり、いつも何か飲み物を用意してくれていた。そこまで考えた凪杜は諦めきれず、辺りを見回した。「頭が痛い。絃葉、何か飲み物はないか?」だが絃葉は立ち上がった。「ごめんなさいね、今日は用事があるからそんなものを用意する時間がないの。頭痛なら薬は冷蔵庫に入ってるし、何
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