元夫の目は節穴?名門令嬢が電撃再婚! のすべてのチャプター: チャプター 51 - チャプター 60

100 チャプター

第51話

野々花はさらに深くうつむき、地面に穴があったら入りたい気分だった。藤子は絃葉の手を引いたまま二歩前へ出ると、威厳ある視線で周囲を見回し、最後に野々花へと目を据えた。「何?大口叩いておいて、今になったら名乗り出る度胸もないの?」そう言いながら一歩ずつ近づく。ハイヒールが床を打つ音は、そのたびに野々花の神経を踏みつけるようだった。野々花は顔を真っ赤にし、全身を震わせながら、藤子と目を合わせることもできない。藤子はそのまま彼女の前まで歩み寄り、冷たく叱りつけた。「顔を上げなさい!どこの大層なお方が、うちを自分の縄張りみたいに扱っているのか見せてもらおうじゃないの!」「お母さん」絃葉はそっと藤子の腕を引き、大人な態度を装った。「いいよ。円藤さんも会社で大変なことが起きていて、少し気が立っていただけかもしれないから......」「気が立っていただけ?」藤子の怒りは一気に燃え上がった。彼女は野々花を指差した。「さっき全部聞いてたわ!何様だっていうの?うちの嫁に向かってあんな口の利き方をするなんて!伊藤さんの言う通りよ!会社がどれだけ大変でも、使用人以下の立場の人間が澤木家で好き勝手騒ぐ資格なんてないわ!」その言葉は容赦なく野々花の胸を突き刺した。彼女は勢いよく顔を上げ、唇を震わせた。「......どうしてそんな言い方をするんですか......?那乃葉は......那乃葉は本当は......」「那乃葉が何だっていうの?」藤子は鋭く遮った。その眼差しは氷のように冷たい。「その子が誰であろうと、澤木家には何の関係もないわ!礼儀も分別もなく、恥も知らずに他人の家へ居座って、そのうえ主人面までするなんて、本当にどうかしてるわね」これまで黙っていた良平も、青ざめた顔のまま低い声で口を開いた。冷たい視線が野々花へ向けられる。「君が誰であろうと関係ない。今すぐ荷物をまとめて、子どもを連れて澤木家を出なさい。今すぐだ」「嫌です!私は出て行きません!」野々花は下唇を強く噛み締めた。「だって、だって凪杜が約束したんです!ここは私と那乃葉の家なんだって!那乃葉は凪杜の――」「黙りなさい!」藤子は陰鬱な眼差しで彼女を睨みつけ、怒鳴りつけると、思わず手を振り上げた。その平手が振り下ろ
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第52話

絃葉の体がぴくりと強張った。脇に垂らした指先は強く食い込み、血の気を失って青白くなっている。薬を届けた?――その薬にはヒ素が混ぜられていた。スープを作った?――そのスープは全部、彼女と那乃葉の腹の中に入った。そんなことをしておきながら、よくも澤木家の人たちの前で堂々と口にできるものだ。きっとこれまでも凪杜の前で、散々恩着せがましい芝居をしてきたのだろう。それなのに、なぜ自分は5年間もの間、一度たりとも疑わなかったのだろうか。本当に、自分が鈍すぎたのだろうか。――いや。絃葉の脳裏に、それまで見過ごしていた細かな記憶が次々と浮かび上がった。彼女が流産したのと同じ頃、野々花は那乃葉を出産した。藤子が世話を献身的にしてくれたのは事実だ。だが凪杜は頻繁に「出張」へ出かけ、一度行けば10日や半月は帰ってこなかった。良平は彼女の好みを何でも覚えていて、好きな料理も作ってくれた。けれどある時、鍋で丸鶏を一羽煮込んでいるのを確かに見たのに、食卓へ運ばれてきた時には半分しか残っていなかった。この5年間、凪杜の出張が一週間を超えるたびに、藤子と良平は必ず家に来て一緒に過ごしてくれた。寂しくないように、と言って。かつては心を打たれた数々の優しさが、今思い返すと背筋を凍らせる。凪杜との5年間の愛情も偽り。彼の友人たちとの親しい関係も偽り。まさか――藤子と良平との思い出までも、すべて偽りだったのか。「絃葉、この人、本当にあなたの友達なの?」絃葉がなかなか口を開かないのを見て、藤子は彼女の袖を軽く引いた。「もしあなたがここに住ませると言うなら、私たちは何も言わないわ。私たち、絃葉を信じてるから」絃葉は現実へ引き戻された。顔を上げると、藤子のあまりにも真摯な眼差しが映る。彼女はふっと微笑んだ。「円藤さんは......確かに私の友人だよ。ごめんなさい、さっきはちょっと口論になっただけだから。このまま母娘で住んでもらいましょう」藤子の表情は一瞬緩んだが、すぐにまた真面目な顔になる。「だめよ絃葉。世の中には恩知らずな人間だって――」「本当に申し訳ございませんでした!!」引っ越さなくて済むと聞いた途端、野々花はすぐに態度を改め、慌てて頭を下げた。「さっきは私が悪かった
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第53話

絃葉はかすかに口元を緩めた。「うん、かわいいドレスね。着られるようになるのは、少なくとも5、6歳くらいになってからじゃない?」藤子の笑顔が一瞬こわばったが、すぐに作り笑いを浮かべた。「子どもなんて生まれたらあっという間に大きくなるものよ。すぐ着られるようになるわ」その何気ない説明は、まるで針のように絃葉の胸へ突き刺さった。彼女はすべてを悟った。言葉にできないほどの疲労感が胸いっぱいに広がり、もう贈り物を見続ける気力さえ失せてしまう。立ち上がろうとしたその瞬間、目の前が真っ暗になり、身体が前のめりに倒れた。流産後の衰弱した身体は、ついに限界を迎えていた。床に倒れ込む寸前、凪杜が素早く駆け寄り、彼女をしっかりと抱き留めた。「絃葉?絃葉!大丈夫か?」凪杜の声には焦りが滲んでいた。「これは貧血です!早く休ませないと!」伊藤も慌てて声を上げる。絃葉は頭が重く、身体はふらつき、意識もぼんやりとしていた。周囲の声は聞こえるのに、まぶたは鉛のように重く、どうしても開けられない。凪杜は慎重に彼女を抱き上げ、2階の寝室へ運び、ベッドに寝かせた。そのまま彼女は意識を手放した。どれほど眠っていたのか分からない。楽しげな笑い声に起こされ、絃葉はゆっくりと目を開けた。身体を起こした瞬間、下腹部に湿った感触が走る。また血の塊が流れ出たようだった。階下から、子どもの澄んだ話し声がかすかに聞こえてくる。那乃葉が帰ってきたのだ。着替える余裕もなく、彼女は身体を支えながら立ち上がり、部屋を出て階段の踊り場へ向かった。そこへたどり着いた途端、軽快な音楽が耳に飛び込んでくる。階下では、いつも陽気で踊ることが大好きな藤子が那乃葉の小さな手を握り、楽しそうにくるくると回っていた。「那乃葉、本当に上手ね!おばあちゃんにそっくり!」藤子の声には愛情が溢れている。那乃葉は楽しそうに笑った。「ドレスを買ってくれてありがとう、おばあちゃん!那乃葉、大好き!」「気に入ったなら、また買ってあげるわ。でも、おばあちゃんと約束して」藤子は少し声を潜め、言い聞かせるように続けた。「絃葉お義母さんには見せちゃだめよ。見たら悲しむかもしれないからね。分かった?」「うん!分かってる!那乃葉、いいものをも
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第54話

藤子の顔に一瞬気まずさがよぎったが、すぐに表情を整え、慌てて絃葉の手首をつかんだ。「絃葉、起きたのね。那乃葉はあなたと凪杜が親代わりになっていたような子だし、私たちにとっても孫同然なの。だからこのドレス、那乃葉にあげてもいいでしょ?」絃葉はかすかに微笑んだ。「もともとお母さんが買ったものですし、お母さんが誰にあげようと自由よ」藤子の表情は少し硬くなったが、なおも場を取り繕うように続けた。「那乃葉って本当にかわいそうな子なのよ。小さい頃からお父さんはいないし、お母さんも頼りにならないでしょう?なんだか縁を感じちゃってね。凪杜から聞いたけど、絃葉も那乃葉のことが大好きなんでしょう?」絃葉はうなずいた。「ええ」藤子の顔がぱっと明るくなった。「それなら、那乃葉は本当に澤木家と縁があるのよ。ほら、あなたと凪杜にはまだ子どもがいないし、いっそのこと那乃葉を養子に迎えたらどう?」絃葉の表情は淡々としていた。「皆さんが望むなら、それでいいよ」その瞬間、凪杜の表情が明らかに緩んだ。彼はすぐに歩み寄り、絃葉のもう片方の手を握った。「それじゃ那乃葉を養子にすることに賛成してくれるんだな?」絃葉は微笑んだ。「養子にするだけじゃなくて......」彼女はその場の全員を見渡した。「盛大なお祝いパーティーも開きましょう。みんなに知らせるの。那乃葉はこれから澤木家の人間だって」凪杜の瞳が大きく揺れ、その視線は絃葉の顔に釘付けになった。藤子と良平も驚きながら、喜びに満ちた表情で彼女を見つめていた。その寛大さが信じられないという様子だった。「も、もちろんいいわよ!いつにするのかしら?」藤子が嬉しそうに尋ねる。「じゃあ、明後日の夜にしましょう。ちょうど土曜日で、那乃葉も幼稚園がお休みですし」絃葉はきっぱり答えた。「なら決まりね」藤子は絃葉の手を握り、目を細めた。「絃葉みたいな嫁は本当に貴重だぞ。凪杜、大事にしろよ。決して粗末にするんじゃない」良平も満足そうにうなずいた。絃葉は唇に薄い笑みを浮かべる。その澄んだ瞳には何の感情も映っていないようだった。「お父さん、お母さん。これから友達と約束があるから、少し出かけるよ」「ええ、行ってらっしゃい」藤子は笑顔のまま手を振った。
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第55話

凪杜はその場で固まったまま、絃葉の瞳をじっと見つめていた。彼女は相変わらず穏やかで優しく、静かな佇まいをしている。だが、その瞳の奥では何かが完全に砕け散ってしまったようだった。そこには彼がこれまで見たことのないよそよそしさがあり、胸の奥に理由の分からない不安が広がる。彼女は一人で薬を飲み、誰にも告げずに二人の子どもを流した――彼女はいつから、ここまで「聞き分けのいい人間」になってしまったのだろう。自分はあまりにも長い間、彼女をないがしろにしていたのだろうか。なぜ彼女は、自分に何一つ求めなくなってしまったのだろう。凪杜は思わず絃葉の手首を強く握った。「絃葉、流産したばかりなんだ。無理して出歩くな。本当に悠に会いたいなら、俺も一緒に行く」「本当に大丈夫。一人で行けるから」絃葉は疲れたように眉間を揉み、屋敷を指さした。「お父さんたちが帰ってきたばかりでしょう。せっかくなんだから、一緒にいてあげて。きっと話したいこともたくさんあるはずよ」凪杜は彼女の顔をじっと見つめ、その平静の裏に何か隠れていないか探ろうとした。「......本当に一人で大丈夫なのか?」「ええ」どうせ、あと2日だけだ。彼の付き添いなど、もう少しも欲しくない。彼の人生のどんな場所にも、もう関わりたくなかった。口調はいつもと変わらず穏やかで、表情も淡々としている。それなのに凪杜は、どうしても違和感を覚えた。――おかしい。とてもおかしい。彼女の思いやりや聞き分けの良さこそ、野々花と密かに結婚していてもなお手放せず、生涯を共にしたいと思わせる理由だった。彼女は本当に素晴らしい女性だ。だが、その「聞き分けの良さ」が極限まで達すると、逆に異常さを感じさせる。胸の中に水を吸った綿を詰め込まれたように重苦しく、息苦しかった。車の外では那乃葉が泣きながら「パパ」と呼んでいる。それなのに彼は、窓の外を一目見る気にもなれなかった。「だめだ。流産したばかりの君を一人で行かせるわけにはいかない。絶対について行くよ」凪杜は珍しく強い口調で言った。絃葉はわずかに目を見開き、静かな視線を彼へ向ける。「女友達との集まりなの。あなたがいたら、みんな気を遣うよ」その声音はどこまでも冷ややかだった。凪杜は勘違いし
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第56話

「那乃葉が凪杜の実の娘だというなら、それは認めるわ。でも円藤野々花、澤木家は絶対にあんたを認めない!受け入れられるなら残りなさい。受け入れられないなら、那乃葉を置いて、出ていきなさい!」野々花はきつく下唇を噛みしめた。絃葉が去っていった方向を見つめるその目に、一瞬で陰湿な計算と悪意が走る。――絃葉はアクセルを踏み込み、車列へと合流した。交差点では、赤信号が眩しく灯っている。その赤い光を見つめながら、ふと自分の人生も突然赤信号が点灯し、強制的に立ち止まらされたような気がした。涙が何の前触れもなく頬を伝う。彼女は必死に唇を噛み、弱さを見せまいと耐えた。赤信号が青へと変わる。だが絃葉は気が散っていたせいで、ほんの半拍反応が遅れた。後続車の運転手は短気な男だった。前の車が動かないのを見るや、苛立ってアクセルを強く踏み込んだ。――ドンッ!激しい衝突音が響く。絃葉の車は後方から激しく追突され、車体が大きく揺れ、耳障りな金属音を立てた。驚きながら車を降りて確認すると、脂ぎった顔の中年男がすでに罵声を浴びせながら突進してきていた。「おい!目ぇ付いてんのか!?青になったのが見えねぇのかよ!?バカみてぇに突っ立ってるから俺がぶつかったんだろ!弁償しろ!全部お前の責任だ!」絃葉は大きくへこんだ車の後部を見つめ、怒りを込めて言い返した。「ふざけないで。私は停車したままだった。勝手に突っ込んできたのはあなたでしょう」その言葉に男は激昂した。凶悪な顔つきで絃葉の目前まで迫り、指先が鼻先に触れそうなほど突きつける。「てめぇ、死にてぇのか!?いいぞ、だったら俺が――」少し離れた別の車線の脇。白いベントレーが静かに停車していた。後部座席の窓が音もなく下がり、男は深い眼差しで眼鏡越しに前方の騒ぎを静かに見つめていた。助手席の秘書が小声で尋ねる。「向かいましょうか......?」男の口元がわずかに持ち上がった。「いや。この程度の厄介事なら、彼女一人で片付けられる」男は絃葉の華奢な体格を見て、弱そうだと決めつけた。獰猛な笑みを浮かべながら、団扇のような大きな手を振り上げ、彼女の頬へ向かって叩きつけようとする。だが彼は、このか弱そうに見える女性の中に秘められた爆発力を完全に見誤って
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第57話

「ふん」絃葉は腕を組み、悠然とした様子で地面に転がる惨めな男を見下ろした。「悪いけど、今日は機嫌が悪いの。あんたの親父が大臣だろうと関係ない。私を怒らせたら、同じように叩きのめすだけよ」5年間胸の奥に澱のように溜まっていた鬱屈は、この二度の痛快な投げ技でようやく吐き出された。丸5年。彼女は自分の棘も気性も、そして骨の髄に刻まれた誇りさえも押し殺し、「優しく賢い妻」という仮面を被り続けてきた。かつて自分がこんなにも奔放だったことも、20年の合気道で磨き上げた鋭さも、ほとんど忘れかけていた。母のように耐え忍び、自分の棘を抜いてしまえば、夫の誠実さと愛情を得られると思っていた。だが現実は、彼女の頬を思い切り打ち据えるような痛烈な平手打ちを返してきた。幸い、残りはあと2日。2日後には、この滑稽な仮面を完全に引き裂いてみせる。「40万円」絃葉は銀行の口座番号を掲げ、冷たい声で言った。「払って終わりにする。それとも――」男は顔をしかめながら立ち上がり、怯えた目で彼女を見た。結局は観念して、その場でスマホから即座に40万円を振り込ませた。後方では車列がすでに長蛇の列となっていた。先ほどの一部始終を目撃したドライバーも多く、早速動画をネットへ投稿する者までいる。絃葉は入金を確認すると、車を路肩へ移動させた。大きくへこんだ車の後部と、むき出しになった配線を見つめ、苦笑する。この旧型のメルセデスは、凪杜と起業した最初の年に中古市場で見つけたものだった。5年が経ち、すっかり老朽化している。今回の衝突で――ちょうど廃車にする潮時かもしれない。野々花が乗っている真新しいポルシェを思い出しながら、自分は昔の情に縛られて車ひとつ買い替えられなかったことに、再び自嘲が込み上げた。母の日記にはこう書かれていた。愛する男にはすべて捧げ、常に相手のことを考えなさい、と。だが実際に生きてみて分かった。それは母が幸運だっただけだ。父に出会えたから。「手伝おうか?」背後から、冷ややかで磁力を帯びた声が響いた。絃葉は意識を引き戻され、振り返る。その瞬間、あの気品ある瞳と目が合った。「えっ、あなたは......」少し驚いたように言う。「偶然だな」男は微笑みながら前へ進み、しゃ
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第58話

「前に祖父がお見合い相手を紹介してくれたことがあって......」「それで?」男は話を合わせるように口元を緩めた。「婚約を承諾したあとになって知ったんですけど...........なんとその人、偽装結婚相手を探してたんです。しかも、モデル並みの美形の男性秘書と何年も連れ添っていて、いつも一緒なんですって......」絃葉は大げさに首を振りながら、意味ありげな視線を男へ向けた。男は彼女の考えを察し、唇を引いて笑った。「そんな目で見るのは、俺も性的指向を疑われているからかな?」図星を突かれ、絃葉は少し気まずそうにした。「いえいえ、ただ気になっただけです......綺麗な女性秘書を置くのは分かりますけど、綺麗な男性秘書っていうのは、ちょっとよく分からなくて」探るように尋ねる。「こんなこと聞いたら失礼ですか?」男の笑みは穏やかだった。「いや」少し間を置き、指先で軽くハンドルを叩く。その口調は淡々としていたが、どこか苦笑を含んでいた。「彼は俺の従弟なんだ。両親を早くに亡くしていて、学生の頃からずっと俺のそばにいる」絃葉はわずかに目を見開いた。先ほどの秘書の顔立ちが脳裏に浮かぶ。確かに輪郭には3割ほど似たところがあった。ただ雰囲気は正反対だ。一人は鋭く冷たい。もう一人は柔らかい。彼女はふと腑に落ちた。「そうですか......私のお見合い相手にも何か事情があったのかもしれませんね。でも......男の人が何年も彼女を作らないって、やっぱり少し不思議です」男の口元がわずかに上がる。「俺も恋愛をしたことはないけど......そんなに不思議なことなのかな?」絃葉は思わず顔を上げた。深い瞳と視線がぶつかる。桜色の唇がわずかに開き、驚きを隠せない。「え......その顔でずっと独身なんですか?もったないです!」男は低く笑った。だがすぐに表情を改める。その声はゆっくりとしていて、はっきりしていた。「愛している女性が、他の男と結婚したからね」絃葉の心臓が大きく跳ねた。この世に、本当にこんな一途な愛が存在するのだろうか。愛する人が別の男と結婚したからという理由だけで、一人で生き続けるなんて。「じゃあ......もし、その人が一生離婚しなかったら?一生恋愛
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第59話

サイセイクリニックの前。一台の黒いマイバッハがゆっくりと駐車場に停まった。車から降りた野々花は凪杜の腕に自分の腕を絡め、そのまま二人でクリニックの中へ入っていく。クリニック内は多くの人で賑わっていた。二人は受付機で番号札を取り、待合エリアの一番奥の席に腰を下ろした。凪杜は野々花の滋養薬を処方してもらうために付き添って来ていた。ここの医者は名医だと聞いていたからだ。だが、彼は終始上の空だった。脳裏には、あまりにも静かだった絃葉の顔ばかりが浮かび、その正体の分からない不安が胸の中をかき乱し続けていた。何気なく顔を上げたその時、長身の男が一人の女性を抱きかかえたまま、自分たちの前を慌ただしく通り過ぎていくのが目に入った。そしてそのままVIP待合室へと消えていく。一瞬だけ見えた女性の顔。その楚々とした横顔に、凪杜はほとんど反射的に椅子から立ち上がった。確認しようと駆け出しかけた瞬間、手首を野々花に掴まれる。「凪杜、どうしたの?どこへ行くの?」「今、絃葉が男に抱きかかえられて入っていくのが見えた気がして......」凪杜は苛立った声で言った。「離してくれ。ちょっと見てくる」「絃葉さんが男の人に?」野々花は驚いたように目を見開いたが、手は離さない。「そんなはずないよ。絃葉さんの心には凪杜しかいないんだから。きっと見間違いよ」――確かに。絃葉が他の男に抱かれているなど、あり得るはずがない。彼女は自分を深く愛している。簡単に心変わりするはずもないし、ましてや他の男と親しくなるはずもない。凪杜の強張っていた身体が少し緩む。そして野々花を振り返り、かすかに口元を上げた。「それもそっか......絃葉に限って、それはない」結局、確かめに行こうという衝動を捨て、再び席へ腰を下ろした。――サイセイクリニックのVIP診察室。男は慎重に絃葉をソファへ横たえた。ほどなくして、年季の入った白衣を着て眼鏡をかけた、端正で知的な雰囲気の若い医師がドアを開けて入ってくる。名刺にあった名医ではなかった。絃葉が胸元のネームプレートを見ると、そこに書いてたのは堂園正真(どうぞの しょうま)という名前だった。その名医と同じ苗字だ。おそらく後継者なのだろう。「け――」若い医師は
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第60話

「じ......自分で歩けます」絃葉はこれまで他の男性にこんなふうに抱き上げられたことがなく、思わず顔を赤らめてうつむいた。「先生がさっき言っていただろう。なるべく安静にするようにって」男の声は穏やかだったが、有無を言わせぬ響きを帯びていた。その時、正真は気を利かせてすでに扉を開けていた。意味深な視線を男へ向け、何か言いかけたが、男の眼差しに制されて口を閉ざした。男は絃葉を抱いたまま外へ向かう。彼の腕の中に身を預けた絃葉の鼻先には、ほのかなシダーウッドの香りが漂っていた。男はそのまま薬局へ向かう。待合ホールを通りかかった時だった。突然、聞き覚えのある会話が横から耳に飛び込んできた。「寒いの......凪杜、抱きしめてくれない?」「いいよ。もっと厚着すればよかったのに」「服なんかより、旦那さんの腕のほうが温かいでしょ?」「まったく、しょうがないな」......まるで金縛りにされたように、絃葉の身体が硬直した。反射的に声のする方を見る。待合スペースにはもう人が少なくなっていた。だからこそ、一目で分かった。最後列の席に座る、見慣れた男女の姿。二人は周囲などまるで気にせず抱き合っていた。そして見つめ合い、互いの視線が絡み合った次の瞬間――ここが公共の場であることすら忘れたように、夢中で唇を重ね始めた。「......待ってください」絃葉の表情が一瞬で冷え切り、身をよじって降りようとする。男は彼女の異変に気づき、その視線を追った。だが、その時にはすでに絃葉はスマホを取り出し、熱烈にキスを交わす二人へレンズを向けていた。「あれが」男の低い声には、どこか抑え込んだような感情が混じっていた。「君が別れようとしている元彼か?」絃葉は以前、自分がそう説明したことを思い出し、鼻で笑った。「ええ」男は彼女を見下ろした。眉や目元には探るような色が浮かぶ。「それにしては......感情の揺れは激しいようだ」絃葉はちょうどいい隠れ蓑のように彼の後ろへ身を寄せ、二分近く撮影を続けた。そしてスマホをしまい、彼を見上げる。「かなりドロドロな話です。今度時間がある時に改めてお話しますよ」「ああ、ぜひ」男は口元をわずかに緩めた。そして再び彼女を横
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