All Chapters of 私を投獄した後、クズ夫は後悔に狂った: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

峻は冷ややかな目で司を一瞥すると、背を向けて歩き出した。だが数歩進んだところで、ふと足を止めた。二秒ほどの沈黙。そしてゆっくりと振り返った。「さっきの清掃員……名前は?」墨を流したような漆黒の瞳が、真っ直ぐに司を射抜いた。司の心臓がどくんと跳ねた。あれだけ完全防備で顔も体型も隠していたのに、峻はやはり何かを嗅ぎ取ったのか。だが考えてみれば当然だ。三年も一緒に暮らした夫婦だったのだから……そう思うと、彼はかえって口角が上がった。動揺を悟られないよう、笑みを深くする。「御堂さん、それは無茶ですよ。末端の清掃員の名前まで、さすがの俺も一人一人覚えてはいませんので。こうしましょう、後で確認してからお電話しますよ」峻の黒い瞳の奥で、かすかに光が動いた。もし司がその場で即答していたら、むしろ疑わしかった。クラウドのオーナーが一介の清掃員の名前をそらんじているはずがない。すらすら出てきたなら、それこそ嘘だ。こういう返し方をするということは、あの女は本当にただの清掃員なのだろう。理由の分からない失望が、峻の胸をよぎった。かすかな喪失感が、その後を追う。峻の表情がわずかに翳ったのを、司は見逃さなかった。目を細め、内心で舌なめずりするような興奮を覚える。――やはり、思った通りだ。面白くなってきた。司は一歩にじり寄り、わざとらしく首を傾げてみせた。「あれ、もしかして御堂さん、あの子とどこかでお知り合いですか?それとも、ああいうタイプが好みなんですか?なんなら、うちの清掃員、他にも顔のいい子はいますよ。気になるなら何人か呼びましょうか。……いやいや、つまりですね、うちの清掃員は採用基準が厳しくて、見目のいい子しか取らないんですよ。だからあの子よりもっと綺麗なのが――おい御堂さん!待ってくださいって!御堂さん……!」こういう軽口を叩けば叩くほど、峻は嫌悪感を抱き、足が速くなることを司はよく知っていた。案の定、瞬きする間に峻の姿は消えていた。……峻が去った後、ハイヒールの音を響かせて理紗がやってきた。個室には二人きりだ。理紗は隠すこともなく司の胸元に身を預けた。骨のないしなやかな指先が、シャツ越しに司の胸を這うように撫でる。「ねえ……あの子のこと、気に入ったの?」甘い声に、ちくりと棘が混じっていた。
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第12話

その頃の夕凪は、司の腹の内も、自分が去った後に二人がどんな会話を交わしたかも、まるで知らなかった。あの夜を境に、ずいぶんと長い間、峻の姿をクラウドで見ることはなかった。峻は涼崎の新開発エリアに計画されている大型テーマパークの建設プロジェクトに掛かりきりで、連日てんてこ舞いで、クラブに足を運ぶ余裕などなかったのだ。テーマパークは遊園地が主体だが、その一角に伝統様式を取り入れた庭園エリアを設ける計画がある。この日の峻の仕事は、現場視察と設計会社によるコンセプトのプレゼンを聞くことだった。ヘルメットを被っていても、峻の長身と圧倒的な存在感は隠しようがない。大勢に紛れていても、その王者然とした風格は一目で知れた。「御堂社長、こちらの仮設会議室へどうぞ。弊社のデザイナーがご説明いたします」受注側の責任者がぺこぺこと頭を下げながら案内した。峻が部下たちを引き連れて会議室に入った途端、全員の目が、ぱっと輝いた。プレゼン担当のデザイナー、篠原明日歩(しのはら あすほ)が、若く、目を見張るほど美しい女性だったからだ。白いヘルメットが色白の肌をいっそう際立たせ、知的で颯爽とした雰囲気をまとっている。独特の華があった。こんな美人をわざわざプレゼンに立たせた受注側の思惑は、誰もが察していたが、口に出す者はいなかった。だが峻はちらりと一瞥しただけで、何の興味も示さず上座に着き、テーブルの上の紙の資料を手に取った。「始めろ」短く、それだけ言った。プレゼンの間、明日歩の視線はずっと峻に注がれていた。クライアントへの敬意だけでは説明のつかない熱が、その目にはこもっている。その場の誰もが、心の中では百も承知だった。だが峻の目は終始手元の資料に落とされたまま、淡々としていた。深い瞳の奥で何を考えているのか、誰にも読めない。プレゼンが終わると、峻は冷ややかに周囲を見渡し、低い声で言った。「以上か。後で検討する」それだけ言い残して、何事もないように無造作に立ち上がった。それを合図に、部下たちが慌ただしく一斉に椅子を引いて立ち上がる。受注側の責任者、矢部誠一(やべ せいいち)と明日歩は二人とも内心気が気ではなかった。このお方が腹の中で何を考えているのか、まるで見当がつかないのだ。焦った明日歩が資料を片付けようとした際、思わず手がキーボードに
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第13話

瀬戸夕凪……だと?峻の頭の中に、一瞬にして過去の記憶が濁流のように押し寄せた。そうだ。あの女も涼崎大学の学生だった。専攻はたしかに庭園デザインだったはずだ。だが、あの女はいつだって色恋沙汰のことしか頭になく、四六時中俺の尻を追い回していた。学業になど身を入れるはずもなく、峻はずっと、夕凪のことを瀬戸家の力で大学に入っただけの出来の悪い女だと思っていた。もっとも、目の前のこの女は夕凪の素性を知らないのだろう。上流階級の令嬢や御曹司は、安全のために身元を隠して入学することが多い。大学の四年間、同級生が夕凪の本当の出自を知らなかったとしても不思議ではない。だが――スクリーンに映し出された設計図を見た瞬間、峻の心臓が鷲掴みにされたかのように息が止まった。激しい衝撃が全身を貫き、血液の温度が一気に下がるのを感じた。「社長、この作品をご覧ください。今回のプロジェクトのために描かれたものではありませんが、スタイルといいコンセプトといい、細部の処理といい……惚れ惚れする出来です!少し手を加えれば、今回のプロジェクトに完全に対応できます。社長もそう思われませんか?」啓介は興奮を隠しきれない様子だったが、振り返ると峻はスクリーンを凝視したまま、石像のように微動だにしていなかった。啓介の胸に疑念がよぎった。――社長は何を考えているんだ?不満ならば目を逸らせばいい。なのに一秒たりとも視線を外そうとしない。かといって満足しているようにも見えない。顔色はどんどん暗く沈み、今にも周囲の空気が凍りつきそうなほど険しくなっていく。瞳の奥は漆黒の闇のように深く、底がまったく見えない。結局、満足なのか不満なのか、どっちなんだ?峻は最後まで何も答えなかった。不意に踵を返し、冷たく言い放った。「行くぞ」そのまま大股で会議室を出ていった。――あり得ない。あれが夕凪の作品であるはずがない。峻は拳をぎりぎりと握りしめ、歩きながら湧き上がる疑念を強引に押さえ込んだ。表情はますます厳しく、冷え切っていく。――誰よりもあの女を知っているのはこの俺だ。あの女は男に現を抜かすことしか能がなく、真面目に何かに打ち込んだことなど一度もない。清音とは何もかもが違う。清音の足元にすら及ばない。清音こそが真の秀才だった。夕凪はどうしようもない落ち
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第14話

柊吾が出て行った後も、峻は俯いたまま仕事を続けていた。だが、書類の文字は一文字たりとも頭に入ってこない。やがて、彼は重苦しい表情で顔を上げ、置いていった図面を手に取った。見つめるうちに眉間の皺はどんどん深くなり、漆黒の瞳の奥に底知れない動揺が沈んでいった。三年も夫婦だったのに、あの女にデザインの才能があったことをまるで知らなかった。そういえば、思い当たることが何度かある。夕凪が机に向かって何かを一心に描いている姿を見かけたことがあった。だが夕凪に関心などなかったから、暇つぶしのお絵描きだろうと気にも留めなかった。まさか、あれが設計図だったというのか……夕凪は落ちこぼれ。清音こそが秀才。長年にわたって峻の中に根を張っていたその確信が、今この瞬間、揺らいだ。衝撃と戸惑い、そして到底受け入れがたい事実が、胸の中で激しくぶつかり合った。不意に、電話が鳴った。御堂家の大奥様――祖母の静江からだった。明日、本家に顔を出せとのことだ。峻の眉が、さらにきつく寄った。……翌日の午後。本家から大股で出てきた峻の顔は、怒りでどす黒く沈んでいた。車に乗り込むなり、苛立ちをぶつけるようにネクタイを力任せに引き緩める。運転席の忠がおそるおそる訊いた。「若様、大奥様とお夕食は召し上がらないのですか」まだ午後三時だ。後部座席からバックミラー越しに、峻の氷のような眼差しが突き刺さった。忠はびくりと身を縮め、慌てて口を閉じ、黙って車を発進させた。峻はきつく唇を引き結んだまま、その陰鬱な表情をピクリとも崩さない。夕食どころの話ではない。本家に足を踏み入れた瞬間から、祖母の静江に追いかけ回されるように怒鳴られ続け、散々な目に遭った。腹が立ちすぎてもう何も喉を通らなかった。まったく理解できなかった。夕凪は静江に子供の頃から目をかけられて育ったとはいえ、甘やかされて育ったせいでわがままで気が強く、端から人を苛立たせるような性格だったはずだ。なぜ静江はあそこまであの女を可愛がるのか。とうとう小言に耐えきれなくなり、彼は適当な口実をでっち上げて、ほうほうの体で逃げ帰ってきたのだ。……忠に会社まで送らせたものの、峻の胸の内はどうにも落ち着かなかった。仕事に没頭して雑念を振り払おうと、デスクの上に積まれた書類の束を手に取った。
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第15話

受話器を握ったまま、峻は呆然としていた。胸の中にぽっかりと穴が開いたような、妙な空虚さと重苦しさが広がっていく。――気が変わった。家には帰らない。一人で外で食べよう。彼は適当なレストランに入り、席に着いた。ふと目をやると、隅の席に一人の若い女が背を向けて座っていた。白い服に、長く、さらさらと流れる黒髪。峻の心臓が、激しく跳ね上がった。――清音……?朦朧とした意識の中で、過去の記憶が重なった。大学時代、図書館で待ち合わせるたびに、先に着いた清音はいつもあのように背を向けて座っていた。あの頃の彼女と、まるで同じだった。やがて、その女の恋人らしい男がやってきた。静かに座っていた女は、途端に花が咲いたように表情を変え、急にはしゃぎ出した。恋人の腕に甘えるようにすり寄り、二人で笑い合い、じゃれ合っている。峻はまた、はっと息を呑んだ。峻の目には、その女の姿が、いつの間にか清音ではなく夕凪に重なって見えた。夕凪はいつもああだった。話すことが尽きないのかと思うほど、朝から晩までぺちゃくちゃと喋り続け、落ち着きがなく、騒がしかった。あの頃はそれがうるさくて、ただひたすら鬱陶しかった。だが今、峻はその女から目が離せなくなっていた。凍った水面を春風がそっと撫でるように、胸の奥で何かがゆっくりと溶け始めていた。じわりと、温かく、柔らかいものが滲み出してくる。そうか……あれは、うるさかったんじゃない。あれが、愛おしかったのだ。一挙一動、怒った顔さえも、あんなにも生き生きとして、目が離せないほど眩しかった。清音とはまるで違う。峻は、呆然と見つめ続けていた。その時。店内のテレビから流れてきたニュースが、峻の意識を容赦なく引き裂いた。【本日正午、川辺で若い女性の遺体が引き揚げられました。検視の結果、年齢は二十六歳、身長百六十六センチ。死後およそ一か月が経過しているとのことです……】峻の全身が、がくんと大きく震えた。限界まで目が見開かれる。顔から一瞬にして血の気が失せ、死人のような土気色になった。心臓が、止まったかのようだった。二十六歳。百六十六センチ。死後一か月。夕凪と――すべてが一致する。嘘だ。そんなはずがない。あり得ない!峻はレストランから飛び出し、車に乗り込むと、狂ったように警察の遺体安置所へ向か
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第16話

クラウドにて。午後。理紗がタイトドレスに身を包み、艶めいた足取りでロビーに入ってきた時、ちょうど正面玄関から夕凪が足早に出ていくのが見えた。そしてもう一つ、バーカウンターの陰に隠れて、こそこそと夕凪の背中を盗み見ている人影にも気がついた。理紗は眉をひそめ、つかつかと歩み寄ると、その人物を引っ張り出した。「こんなところで何してるの」相手はびくっと肩を跳ね上げ、挙動不審に目を泳がせた。「わ、私は……その……」理紗には見覚えがあった。クラブの清掃員だ。ここは最上級の会員制クラブなので、清掃員も若くて見栄えのいい娘ばかりが揃っている。この森山瑠衣(もりやま るい)という娘は、夕凪よりもよほど容姿が整っていた。計算高いところもあり、何かとオーナーの司に色目を使っていたが、司は一顧だにしなかった。ところが夕凪が来てからというもの、司はやけに夕凪にだけ目をかけている。瑠衣をはじめ、若い清掃員たちの嫉妬はくすぶり続けていた。年かさの多恵だけは別だったが。理紗は瑠衣を深く見据えた。問い詰めはしなかった。ただ、淡々と訊いた。「あの子、どこに行ったの」「あ、あの……その……」瑠衣はうつむいたまま、目も合わせられず口ごもった。「早く言いなさい」理紗の声が、すっと冷えた。瑠衣はびくりと身を震わせ、思わず口走った。「隣の……グランドホテルに……」ここに至って、理紗はすべてを察した。夕凪は昨夜、個室で客が忘れた腕時計を拾っていた。今日になって持ち主を名乗る人物から電話があり、隣のグランドホテルの客室まで届けてほしいと頼まれたという話を、理紗も耳にしていたのだ。女の声で、すぐ隣だったこともあり、ちょっとした親切のつもりで夕凪は届けに行ったのだろう。理紗の顔色が変わった。罠だとすぐに分かったからだ。夜の世界の女たちの間では使い古された手口だ。恨みを買った相手や、男を巡る嫉妬の標的を陥れるために仕組まれる卑劣な罠。玄関の向こうに消えていった夕凪の背中を思い出し、理紗は目を細めた。今、声をかければ引き返させることはできる。だがその時、頭をよぎったのは――司があの薄汚れた女にばかり特別な関心を注いでいる姿だった。理紗は、結局、声をかけなかった。何事もなかったかのように、冷たい笑みを浮かべてロビーを立ち去った。
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第17話

夕凪の口元に、冷たい笑みが刻まれた。なるほど。そういうことか。「何をそんなに慌ててるの。私が乗り込んで行って、大事な娘の誕生パーティーをめちゃくちゃにするとでも思った?」宴会場の中では、夕凪の異母妹である田村志織(たむら しおり)がお姫様のように着飾り、大勢の招待客にちやほやされながら、華やかな誕生日の宴を催していた。夕凪は笑みを浮かべていた。だが胸の内は、ナイフで何度も抉られるように、息もできないほど痛かった。慎一郎は顔をこわばらせ、気まずそうな色を浮かべた。「夕凪、いつ出てきたんだ?どうして一度も家に顔を出さないんだ」心配しているような声で、話題を逸らそうとした。だが、彼が気遣いを見せれば見せるほど、夕凪の心は冷えていくだけだった。本当に心配しているなら、実の娘が何年の刑を終えて、いつ出所するのか、知らないはずがないのだ。こんなうわべだけの「思いやり」は、かえって心を凍てつかせるだけだ。「家ですって?」夕凪の心は、すでに悲しみの底を突き抜けていた。表情から一切の感情が抜け落ち、ただ麻痺したような虚無感だけが残った。「あそこがまだ私の家だって言うの?あなたたち三人があんなに幸せそうに暮らしているのに、私の居場所なんてどこにあるって言うのよ」慎一郎が焦って一歩詰め寄った。「夕凪!百合子も志織も、お前のことを気にかけているんだ!二人とも優しい人間だ、お前が思っているような人たちじゃない……」夕凪は一歩下がり、彼との距離を保った。「そんなにいい人たちなら、あなたは幸せ者ね。私には関係のないことだけど」ここでようやく、慎一郎は夕凪の異様な格好に気がついた。清掃員の作業着を着て、しかも衣服がひどく乱れている。驚きに目を見開いた。「夕凪、何があったんだ?その格好はどうしたんだ……」「何でもないわ。友達の家の掃除を手伝っていて、転んでちょっと怪我しただけよ」夕凪はさらりと嘘をついた。「用事があるから、もう行くわ」背を向けて歩き出した。「夕凪、待ちなさい……」慎一郎が咄嗟に呼び止めた。まだ白々しく心配そうな声を出している。夕凪の胸の奥で、どうしようもない苛立ちが弾けた。ぴたりと足を止める。口元の冷笑が、さらに深くなった。何なのだろう、この男は。そんなに芝居がしたいのか。慈愛あふ
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第18話

瀬戸グループは、夕凪の母方の祖父が裸一貫から血の滲むような思いで築き上げた会社だ。一人娘だった母のもとへ婿養子として迎えられたのが、慎一郎だった。やがて祖父と母が相次いで病に倒れ、この世を去った。残されたのは、慎一郎と夕凪の父娘二人きり。だが間もなく、百合子が娘の志織を連れて瀬戸家に入ってきた。そこで夕凪は初めて知ったのだ。百合子こそが慎一郎の初恋の相手だったこと。貧しい家に生まれた慎一郎は、家族に強いられて夕凪の母と結婚し、百合子と引き裂かれたのだと。しかし結婚から数年後、慎一郎と百合子は密かに縁を戻し、隠し子の志織をもうけていた。哀れな母は、死ぬまでそのことを知らなかった。慎一郎が百合子と志織を迎え入れた時、夕凪はちょうど峻との結婚式の準備に追われていた。頭の中は峻のことでいっぱいで、ドロドロとした実家の問題に構っている余裕などなかったのだ。出所後、御堂家にも実家にも戻らなかった理由がここにある。瀬戸家の邸宅には母と祖父の面影が隅々まで染み込んでいる。なのに今はあの母娘に乗っ取られてしまった。あの二人の顔など、もう二度と見たくなかった。……夕凪は道端にしゃがみ込んで、どれくらい泣いただろう。涙が完全に涸れ果てるまで泣いた。出所してから、どんな苦境に追い込まれても――路上をさまよい、飢えで死にかけた時でさえ、涙を一滴もこぼさなかった。けれど今日起きた出来事のすべてが、夕凪の心を根本からへし折った。何日もかけて必死に積み上げてきた気丈な心の防壁が、音を立てて崩れ落ちた。未来への希望も、自分への自信も、すべて。涙に滲んだ目で、真っ暗な夜空を見上げた。――私は間違っていたのだろうか。未来に希望を持つこと自体が、間違いだったのだろうか。――これが私の運命なのか。どんなに足掻いても、何一つ変えられないのか。夜空は答えない。ただ、どこまでも暗く、深く沈み込んでいくだけだった。その時、一台の漆黒の高級車が夕凪のすぐ脇を通り過ぎた。車内の人間は、彼女に気づかなかった。峻は重要な会議を終えたばかりで、疲労の極みだった。後部座席で目を閉じ、眉間を指で揉んでいる。運転席の柊吾がバックミラー越しにちらりと窺い、声をかけた。「社長、このままご自宅へお送りしましょうか」峻はふっと目を開けた。淡々と告げる。「ナ
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第19話

寮の部屋に戻った時、他の同僚はもうベッドに入っていた。だが、誰も眠ってなどいないことは、夕凪には痛いほど分かっていた。布団の中から、息を殺してこちらを窺っている。とりわけ瑠衣は、夕凪が自分のベッドのすぐ横に立ち、じっと見下ろしている気配をひしひしと感じていた。瑠衣の背筋にぞわりと悪寒が走る。必死に寝たふりを決め込みながらも、布団の下では両拳を固く握りしめ、全身をがちがちに強張らせていた。もし手を出してきたら、絶対にやり返すつもりだった。だが、夕凪は動かなかった。瑠衣の体が限界まで硬直し、もう一秒も耐えられないと思った頃、ようやく夕凪がくるりと背を向け、自分のベッドへ歩いていく気配がした。瑠衣は布団の中で密かに、安堵の息を吐き出した。張り詰めた暗がりの中、夕凪は自分のベッドに腰を下ろしていた。顔は蒼白で、泣き腫らした目の奥には、氷のように冷たい光が宿っている。手を出さなかったのは、多恵を除く全員が瑠衣の味方だと分かっていたからだ。ここで事を起こせば多勢に無勢、逆に叩きのめされるだけだ。そもそも、自分が彼女たちにそこまで憎まれる筋合いなどない。見当もつかない。だが――やられたら、必ずやり返す。倍にして返すんだ。今日味わわされた屈辱は、絶対に忘れない。拳を握りしめ、夕凪は暗闇の中で静かに誓った。闇の中で、その瞳はいっそう冷たく研ぎ澄まされ、氷の刃のような鋭い光を放っていた。これほどまでに変わってしまった自分に、夕凪自身も気づいていなかった。あの頃の、何も考えず無邪気に笑っていた夕凪は、もうどこにもいない。まるで別人だった。……翌朝、携帯の着信音で目が覚めた。寝ぼけ眼をこすりながら電話に出た。相手の言葉を聞いた瞬間、眠気が一気に吹き飛び、ベッドから跳ね起きた。圭吾からだった。三年前の事件に、新たな手がかりが見つかったという。これから聞き込みに行くから、一緒に来ないかという誘いだった。夕凪は理紗のオフィスに向かい、おそるおそる休みを願い出た。断られるものと覚悟していた。以前、多恵が孫の病気で休みたいと申し出た時、理紗は取りつく島もなく突っぱねたのを知っていたからだ。ところが、理紗はあっさりと許可した。オフィスを出た夕凪は、拍子抜けして、狐につままれたような顔をしていた。いぶかしく思いつつも、深
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第20話

夕凪が違和感を持ったのは、圭吾の問いが「被害者と仲が良かったか」ではなく、「被害者をよく知っていたか」ということだった。ハンドルを握る圭吾の両手が、一瞬こわばった。瞳の奥を、鋭い光がよぎる。だがすぐに穏やかな笑みを取り繕い、何でもなさそうに言った。「いや、ちょっと気になっただけだ――着いたぞ」不意に話が打ち切られ、圭吾はさっさと車を降りてしまった。夕凪は釈然としないまま、後に続いた。事件現場は、人も車もひっきりなしに行き交う大きな交差点だった。交差点の角に、たしかに青果店があった。だがシャッターが下りたまま、営業している気配がない。圭吾は隣にあるドリンクスタンドに足を向け、店員に声をかけた。若い店員は手際よくドリンクを作りながら答えた。「ああ、あの店ですか。おやじさん、すっごい働き者で年中無休なんですよ。今日に限って閉まってるのは、うちらも不思議に思ってたところです」圭吾と夕凪は顔を見合わせた。互いの目に、同じ疑念が浮かんでいる。昨日、警察に電話してきたばかりの人間が、翌日には店を閉めている。こんな偶然があるだろうか。圭吾は独自のルートで店主の携帯番号と自宅住所を突き止めた。だが電話は電源が切られていた。急いで自宅へ向かったが、玄関のドアは固く閉ざされている。隣人の話では、今朝早くに大荷物を抱えて出ていったという。圭吾の表情が変わった。事態の深刻さを、この瞬間はっきりと悟った。すぐに仲間に連絡を取り、店主の行方を追わせた。しかし、防犯カメラの映像が示していたのは、店主が大量の荷物とともに長距離列車の発着するターミナル駅に入っていく姿だけだった。そこから先、足取りは完全に途絶えていた。忽然と、消えた。一体何が起きている。車に戻った圭吾は、タバコに火をつけ、深く吸い込んだ。表情は険しい。「人間一人をこれだけ跡形もなく消せるとなると……相当な奴だな」彼は低い独り言だった。夕凪はびくりと身を震わせ、息を呑んだ。「それって……誰かが裏で手を引いているということですか」圭吾はタバコをもみ消した。「手を引いているどころじゃないかもしれない。もし三年前のあの事件が仕組まれた殺人なら、犯人は被害者の命を奪い、さらにあんたを身代わりに仕立て上げたことになる。これだけの筋書きを描ける頭脳と、それを実行
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