Alle Kapitel von 私を投獄した後、クズ夫は後悔に狂った: Kapitel 31 – Kapitel 40

100 Kapitel

第31話

「そうなんです!」理紗の胸に、嫌な予感がよぎった。理紗は目を細めて尋ねた。「その人が指名したのは誰?」「特徴はこうです。いつもマスクをしていて、口をきかない。髪は肩くらいで、紫のヘアゴムで結んでいるって……それ、瀬戸さんのことですよね!」瀬戸夕凪。やっぱり、あの女だ。理紗の心臓が大きく跳ねた。理由は分からない。けれど、さっきから理紗は、指名されたのは夕凪ではないかと薄々勘づいていた。こめかみが激しく脈打ち、内側から押し広げられるように痛み出す。この瀬戸夕凪、特別きれいなわけでもない。いつも地味な格好で、灰をかぶったように薄汚くて目立たない。普段からほとんど口をきかず、そこにいるのかどうかさえ分からないような女だ。それなのに、二人もの男が彼女に興味を示している。一人は司、もう一人は峻!しかも二人とも、誰もが振り返るような男だ。金も地位も容姿もそろっていて、そう簡単に手が届く相手ではない。いったい何が起きているのか。あの女のどこにそんな魅力があるというのか。夕凪はもともと口数が少なく、存在感も薄い。そのせいで、店の従業員の中には本当に彼女を声の出せない障害者だと思い込んでいる者も少なくなかった。「理紗さん?理紗さん!」理紗は、はっと我に返った。「……お客様の希望が最優先よ。御堂社長が彼女を指名したなら、行かせればいいでしょう」理紗は胸の奥にこみ上げる妬みを、どうにか押し殺した。「でも……」従業員は困った顔をした。「瀬戸さんは清掃員です。接客はお店の業務に入っていません。さっき本人に話したんですが、断られました」理紗は鼻で笑った。目元に冷たい光が差す。「それなら伝えなさい。行かないなら、今日でクビだって」夕凪がこの仕事にしがみついていることを、理紗は見抜いていた。そうでなければ、あの若さで、もっと見栄えのする仕事を探しもせず、こんな場所で毎日こき使われているはずがない。清掃員の中には、夕凪より若くて見た目のいい者もいる。けれど、彼女たちがここに残る理由は、金のある客を捕まえて玉の輿に乗るためだ。夕凪だけは違う。毎日、ただ下を向いて働いている。誰もやりたがらない汚れ仕事もきつい仕事も、自分から抱え込む。まるで、少しでも手を抜けばすぐに追い出されると怯えているみたいだった。だから
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第32話

夕凪は個室の前に立ち尽くしていた。手足はこわばり、扉を押す力さえ入らない。顔色もひどく悪かった。十分ほど前まで、夕凪は必死に迷っていた。このまま断って職を失うか。それとも、峻と一度だけ顔を合わせるか。仕事を失えば、またあの放浪生活に戻るしかない。行く当てもなく街をさまよい、飢えと寒さに凍え、のたれ死ぬ未来が待っている。けれど、峻の前に出るだけならまだましだ。作業着のまま、マスクをつけたまま、声を出さずにいれば、たぶん気づかれない。そんな甘い見通しにすがって、夕凪はここまで来た。扉の前で何分も立ち尽くした末、ようやく腹をくくる。震える手で扉を押し開けた。入った瞬間、夕凪は後悔した。夕凪はてっきり、峻は取り巻きたちと一緒に来ているのだと思っていた。人数がいれば、その場の空気に紛れてやり過ごせる。けれど、広い個室の中にいたのは峻ただ一人だった。ゆったりとした革張りのソファの中央に、高い背を預けて座っている。長い脚を組み、ただそこにいるだけで空間を支配してしまうような威圧感があった。夕凪の頭が真っ白になる。膝から力が抜け、今すぐ踵を返して逃げ出したくなった。だが、峻はすでに顔を上げていた。静かな目で夕凪を捉え、短く命じる。「来たか。座れ」座るべきか。座らないべきか。ここで背を向けて逃げ出せば、それこそ何か訳ありだと自ら認めるようなものだ。夕凪は胸のざわつきを必死に押さえ込みながら、入口に一番近い、峻から最も離れたソファの端に腰を下ろした。峻はなぜか口元をわずかに緩め、腕をひじ掛けに無造作に乗せた。「勘ぐらなくていい。別に他意はない。ただ少し話したいだけだ」ただでさえ峻は、人を畏縮させるような空気を放っている。そのうえ夕凪は、正体を見破られないかということばかり気にしていた。胸の奥で心臓が激しく暴れ、喉までせり上がってきそうだった。背中の服も、いつの間にか冷や汗でぐっしょりと湿っている。「聞きたいことがある。あの補助対象の名簿の件だ。誰かに枠を横取りされたのか。それとも、おまえが自分から譲ったのか」個室の照明はもともと薄暗い。しかも夕凪はマスクをつけ、作業着のまま、峻から遠く離れて座っている。そのせいか峻は、夕凪の様子がおかしいことにまったく気づいていないようだった。おかしいのは、
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第33話

いったい何が気に障ったというのか。普段は余計なことを言わない男が、どうして急にここまで執拗に食い下がってくるのか。夕凪が返す言葉もなく黙っていると、不意に峻が立ち上がった。そのまま一歩、また一歩と、真っ直ぐに夕凪のほうへ歩み寄ってくる。夕凪はびくりと肩を震わせ、反射的に顔を上げた。眼前に迫る男を、怯えきった目で見つめる。マスクのせいで、峻には彼女の顔の上半分しか見えない。それでも、その瞳だけははっきり見えた。黒と白の境がくっきりとした目が、恐怖を隠しきれないまま自分を見つめている。その瞬間、峻の足がぴたりと止まった。胸の奥を、何か重いもので強く殴られたような鈍い衝撃が走る。息が詰まり、うまく呼吸ができない。おかしい。この目には、どうしてこんなに見覚えがあるのだ。まさか、どこかで会ったことがあるのか。薄暗い照明の下で、峻の瞳はいっそう深く沈み込んだ。夕凪から視線を外さないまま、低い声で命じた。「俺たち、どこかで会ったか?おまえは誰だ。そのマスクを外せ」夕凪は一瞬で全身を強張らせた。血の気が引き、顔が紙のように白くなる。頭の中も真っ白になった。その間にも、峻は胸の内に膨らんだ疑念を抑えきれなかった。確かめたいという衝動のままに、さらに一歩近づく。夕凪は反射的に後ずさった。だが、すぐに背中が壁にぶつかる。もう逃げ場はなかった。夕凪はただ、峻が容赦なく距離を詰めてくるのをなす術もなく見ていることしかできなかった。峻が手を伸ばす。その指先が、夕凪のマスクにかかろうとした。夕凪は彼を見つめたまま、まつ毛を激しく震わせる。次の瞬間、その指が触れる直前で、夕凪はとうとう目をぎゅっと閉じた。胸の中に広がったのは、圧倒的な絶望と諦めだった。そうだ。もう認めるしかない。結局、逃げ切ることなんてできない。清音こそが、峻が一番深く愛していた女だ。清音が死んだせいで、峻は自分を骨の髄まで憎んでいる。もしここで正体を知られたら、何をされるか分からない。少なくとも、この仕事だけは確実に失う。またあの路上に戻り、飢えと寒さに耐える日々へ逆戻りだ。峻がマスクを剝ぎ取ろうとした、まさにその時だった。個室の扉が乱暴に開け放たれた。二人とも弾かれたように動きを止める。夕凪が恐る恐る目を開けると、司が険
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第34話

峻は動かない。司も一歩も引かない。長身の二人の視線が、空中で激しく火花を散らした。司の目に浮かんだ強い警戒心と、背後の女を隠そうとする露骨な庇い立ては、峻の胸の奥に説明のつかない苛立ちをかき立てた。峻がまとう空気が、さらに何十度も冷え込む。その眼差しは刃のように鋭さを増していった。「そこまで言われると、余計に中身が気になってくる。ただの清掃員を、おまえがそこまで必死に庇う理由は何だ?そのマスクの下にどんな顔が隠れているのか、拝ませてもらおうか」どうやら、この女が飛び抜けた絶世の美女だから、という理由でもなさそうだった。司ほどの男なら、上玉の女など見飽きるほど抱いてきているはずだ。単に顔がいいだけの女に、彼がここまでムキになって振り回されるはずがない。だからこそ、峻は引っかかった。あのマスクの下に、いったいどんな素顔が隠されているのか。確かめたいという衝動は、かえって強まるばかりだった。そう言い捨て、峻が強引に司の横をすり抜けようとした、まさにその時だった。司が勢いよく腕を伸ばし、峻の腕をがっしりと掴んだ。「御堂社長。ここが誰の縄張りか、忘れないことだな」司は目を細めた。その視線は氷の刃のように鋭い。その瞬間、峻の顔つきも険しく変わった。司をにらみつける漆黒の目には、薄氷のように張り詰めた冷たさが宿る。「自分の立場を忘れているのは、おまえのほうだ。桐生会長が必死になって進めているうちとの提携話も、俺の一言でいつでも白紙に戻せるんだぞ」司の顔色が変わった。桐生会長とは、司の実の父親のことだ。もし、一介の清掃員などを庇ったせいで、グループにとって極めて重要な提携を潰したと知れれば、あの父親が黙って見過ごすはずがない。二人の男は、互いに一歩も譲らず、ギリギリの緊張感の中でにらみ合った。理紗が個室の前へ駆けつけると、外で待機していた従業員たちが今にも泣き出しそうな顔で泣きついてきた。「理紗さん、早く中へ入ってください!御堂社長とオーナーが、今にも殴り合いになりそうなんです……!」理紗はぎょっと息を呑んだ。殴り合い、だと。たかが清掃員一人のために。しかも、声すら出せない薄汚い女のために。まったく信じられなかった。あの女は裏でいったい何をしたというのか。どうやってあんなトップクラスの男二人
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第35話

司はソファにゆったりと脚を組み、つま先を軽く揺らした。口元には不敵な笑みが浮かんでいる。「さっきも言っただろ。親父は親父、俺は俺だ。あいつが親父に圧力をかけようと、俺には痛くも痒くもない」司は桐生家におけるたった一人の息子だ。けれど昔から、グループの商売そのものには関心が薄かった。いくつもの事業を手元で回してはいるが、どれも娯楽や夜の街に寄ったものばかりだ。父親に言わせれば、まともな実業から外れたただの道楽にすぎない。司には優秀な姉もいる。生まれつきビジネスの才に恵まれた女で、今はグループの副社長の立場に就いている。会社のために身を削って立ち働いているが、社内の誰もが暗黙の了解として分かっていた。姉は会社を支える便利な手駒として使われているだけで、父親が本気で社長の座を継がせたいのは、結局のところ長男である司なのだ。理紗はまだ眉を寄せたままだった。少し迷ってから、とうとう本音を口にする。「でも、相手は御堂峻よ。あの人を敵に回して平気でいられる人なんて、そうそういないわ。……言いたいのはそこじゃないの。あなたが誰かを守るために、あそこまでなりふり構わなくなるなんて、今まで一度も見たことがなかった。でも今日は、瀬戸さんのためなら本当に何もかも放り出すみたいだった」その言葉と空気には、ねっとりとした嫉妬が混じっていた。今までなら、理紗がこうして嫉妬を見せるたび、司は彼女を腕の中に引き寄せて甘く機嫌を取ってやったものだ。けれど今夜の司は、理紗に一瞥もくれなかった。「あいつは違う」理紗の胸の奥が、どすんと重く沈んだ。やっぱり。「何が違うの。まさか、あの女に本気になったっていうの?」理紗は拳を握りしめ、胸の中で荒れ狂う感情を必死に押さえつける。司はふいに口を閉ざした。そして、しばらくの沈黙のあと、地を這うような低い声で言った。「とにかく、これから先、御堂社長がこの店に一歩でも入ったら真っ先に俺へ連絡しろ。それから従業員全員にも伝えろ。夕凪に関することは全部、口外禁止だ。とくに御堂社長にはな。誰か一人でも漏らしたら、俺はそいつを絶対に見逃さない」最後の一言を放つ時、司はようやく顔を上げた。声には有無を言わせぬ重みがあり、理紗を射抜く視線は冷ややかだった。まるで、その警告は最初から理紗ただ一人に向けて釘
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第36話

夕凪は逃げるように走り、階段脇にある防火扉の奥の通路に身を潜めた。体の震えは、まだ止まらない。顔色は真っ白で、頭の中にはさっきの光景が何度もよみがえっていた。あれだけの過酷な日々をくぐり抜けてきた今、自分はもう昔のように何も知らない世間知らずな女ではない。それでも、峻のあの底冷えするような顔を目の前にすると、どうしても体が先にすくんでしまう。相手は、あの「冷徹無比な帝王」と恐れられる男、御堂峻なのだ。その名を聞いただけで、誰もが顔色を変えるような存在だ。危なかった。あと少しで、正体を見破られるところだった。そのとき、いきなりポケットのスマホが震えた。夕凪はびくっと肩を震わせ、反射的に身構える。画面を見ると、圭吾からの着信だった。「瀬戸さん、ここ数日、例の写真の女の足取りを追ってみたんだけど……今のところ、これといった収穫はない。君はこの件、どう見てる?この二日ほどで、何か思い当たることはなかったか」夕凪は大きく息を吸い込み、どうにか乱れた気持ちを落ち着けた。「夏目さん、そのことなら、あの日にもう言いました。私は、あの脅してきた女が彼女だとは思っていません」圭吾は数秒黙った。「つまり、青果店の店主が嘘をついている可能性がある、と」夕凪は少し考えてから答えた。「ありえます」圭吾はまた黙り込んだ。「君は写真の女をよく知っている。だから、その直感は外れていないのかもしれない。でも、店主のほうにも、わざわざ嘘をつく理由が見当たらないんだ。警察に虚偽の情報を出して捜査を乱せば、決して軽い罪では済まないからな」夕凪は息を吐いた。たしかに、圭吾の言う通りだった。店主が嘘をついていないのなら、どこか別のところで話が食い違っていることになる。その瞬間、夕凪の頭にある可能性がひらめいた。「そうだ、夏目さん。私とあの女、大学の同級生だったんです。でも卒業してからは、一度も会っていません。他の同級生から聞いた話だと、彼女は急に姿を消して、みんなと連絡を断ったそうです。そのあたりから調べてもらえませんか」卒業してから、夕凪自身も同級生たちとは縁を切っている。けれど夕凪には、そうせざるを得ないそれなりの事情があった。ただ、あの女の実家はごく普通の家庭だったはずだ。なのに同じように忽然と姿を消し
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第37話

御堂グループと桐生グループが長年の対立関係を一時的に解き、ひとまず手を組むという流れになってから、桐生会長はすぐに提携案を打診してきていた。だが峻は、それを一瞥しただけでろくに目も通さず、デスクの隅に放置していたのだ。それなのに、今になって急に考えを翻した。峻は案を受け取ると、しばらく目を通し、その場で決断を下した。「桐生グループに伝えろ。この案で進める。総務にも話を回して、調印の場を用意させろ」柊吾は内心で首をかしげた。提携の契約まで進むこと自体は、会社にとってどう考えても悪い話ではない。それなのに、峻の顔つきはひどく沈み込み、今にも氷雨を降らせそうなほど不穏な空気を纏っていた。とはいえ、今の柊吾に迂闊な口出しができるはずもない。下手を打てば即座に首を切られる立場だ。彼はすぐさま書類を抱えて総務部へと向かった。峻は社長椅子に深く背を預け、漆黒の瞳を細めた。その奥で、冷酷な光が鋭く瞬く。唇の端がゆっくりと吊り上がる。そこに浮かんだのは、冷酷に歪んだ笑みだった。昨夜、峻がその場で手を引いたのは、司を恐れたからでも、桐生グループを警戒したからでもない。一介の口もきけない清掃員のために、桐生グループと正面から衝突して騒ぎを大きくする価値がないと判断しただけだ。御堂グループのトップと、桐生グループの跡取り息子が、たかが一人の底辺の女を取り合って醜聞を晒す。そんな下世話な噂でも広まれば、世間の格好の笑い種だ。だからこそ、やり方を変えた。まずは桐生グループと手を組む。そのうえで、両家の提携が進む過程に乗じて、相手の足元をすくう手段などいくらでもある。司が自分に楯突いた代償は、きっちりと払わせてやる。ただ、あの女はいったい何という名前なのか。理紗が呼んだ姓は「瀬戸」だった。だとしたら、まさか……そこまで考えて、峻は自らの馬鹿げた飛躍を嘲笑うように、かすかに首を振った。どう考えても、あれが夕凪であるはずがない。夕凪は瀬戸家の令嬢として温室で育った女だ。昔から何不自由なく守られ、甘やかされてきた。そんなプライドの高い女が、夜の店で清掃員になり、泥水にまみれて身を削るように働くなどあり得ない。「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻でさえ、それだけは絶対に信じられなかった。あり得ない。天地がひっくり返っ
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第38話

峻の底冷えするような顔つきを見て、柊吾の顔色もみるみる血の気を失っていった。柊吾はしどろもどろになりながら弁明した。「社長……その、もう一度探ってまいります。今度こそ、絶対に抜かりなく調べ上げますので」柊吾は五年間、ずっと峻の側近として働いてきた。一番信頼されている補佐役であり、仕事の上での息も完璧に合う。御堂グループ内でも、事実上のチーフ秘書として一目置かれる存在だった。けれどこのところ、峻に私的な用事を言いつけられるたび、ことごとく的を外している。柊吾は焦りでいっぱいだったし、底知れない恐怖も感じていた。このままでは本当に切り捨てられるかもしれない。そう思うと、とにかく今すぐ自分の失態を挽回したかった。落ち着いて考えれば、決して柊吾の能力が劣っているわけではない。ただ、今の峻が何を考えているのかが全く読めないだけなのだ。まさか堂々たる御堂社長が、夜の店の清掃員、それも口もきけない底辺の女に、ここまで執着するとは思いもしなかった。峻は手元の書類から顔も上げなかった。「もういい。俺が自分で動く」その冷ややかな一言で、柊吾の顔はいっそう真っ白になった。胸の中に広がったのは、どうしようもない焦燥感だった。目の奥には、かすかな絶望まで浮かんでいる。いよいよ見限られたのか?……仕事を終えたあと、峻は自ら車を運転してクラブ『クラウド』の近くまで向かった。けれど、すぐには中へ入ろうとしなかった。車の中でタバコに火をつけ、そのまま夜の闇が深まっていくのを眺めていた。店のネオンが少しずつ毒々しい明るさを増し、遠くから見れば、夜の底に散らばった星屑のように見える。中へ入らないのは、どうやってあの女に接触するか、段取りが決まっていなかったからではない。自分の行動に、自分自身で疑問を抱いていたからだ。このところ、自分はあの口のきけない清掃員に、時間も気も取られすぎているのではないか。ただの清掃員にすぎない女だ。どうしてこれほどまでに引っかかるのか。最近、少し暇を持て余しているのか?それとも、退屈しのぎだけなのか?けれど、峻自身にも答えは出ない。何か見えない引力に引き寄せられるように、気づけばまたここへ足を運んでいた。今の峻の好奇心は、もう自分でも理性が利かないところまで膨れ上がっていた。あ
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第39話

おかしい。あの人影、やけに見覚えがあった。もしかして、峻だったのではないか。夕凪の胸がどくりと大きく鳴る。けれど次の瞬間には、ほっと息をついていた。相手が峻であろうとなかろうと、もう立ち去ったのなら同じことだ。危なかった。あと少しタイミングがずれていれば、鉢合わせるところだった。……涼崎市第一総合病院、救命処置室の前。峻と沙代は廊下で待機していた。沙代は泣き崩れ、処置室の扉に向かって何度も手を合わせている。峻の顔も暗く沈み、焦燥と不安がそのまま表れていた。まさか憲一が、本当に睡眠薬を一瓶丸ごと飲み込んでしまうとは思ってもみなかった。病院側は各科の上級医を緊急招集し、院長自らが処置の陣頭指揮を執っている。胃洗浄を施し、必要な救命処置が次々と進められていた。それもそのはずだ。患者の付き添いとして外で睨みを利かせているのが、他ならぬ御堂峻なのだから。救命処置室の前に峻が立っているだけで、中の医師も看護師も極限まで張り詰めていた。誰もが薄氷を踏むような思いで手を動かしている。一刻も早く憲一の命を引き戻さなければならない。万が一のことがあって、あの冷徹無比な帝王の逆鱗に触れれば、この病院がどうなるか分かったものではない。張り詰めた空気の中で待っていると、不意に横から聞き覚えのある声がした。「峻。どうしてこんな所にいるんだい」峻が振り向く。そこには、雅子に付き添われた静江が立っていた。「おばあさま……雅子おば様」峻も一瞬目を見張った。まさかこんな場所で出くわすとは思ってもみなかったらしい。すぐに二人の前まで歩み寄り、眉をひそめて静江を見る。「おばあさま、どうして病院にいますか?どこかお加減でも悪いんですか?」雅子に支えられている静江の足取りはおぼつかなく、ひと目見ただけで体調を崩しているのが分かった。けれど静江は、峻の問いには答えなかった。涙を拭う沙代を冷ややかな目で一瞥し、それから慌ただしく人の出入りが続く救命処置室へと視線を移す。それだけで、静江にはすべての状況が呑み込めた。深い皺の刻まれた顔に、冷え切った笑みが浮かぶ。「ふん。どうりで今日は、竜崎先生も黄川田先生も、曾根先生まで捕まらないわけだ。腕のいい医者はみんなここへ集められて、もっと『大事な患者』を診ていたんだね」
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第40話

峻は一歩前へ出て、静江を制した。「おばあさま、おばさんはそういう意味で言ったんじゃありません。三年前、清音が亡くなったとき、俺は清音のご両親のことはちゃんと面倒を見ると約束しました。だから……」その言い分を聞いた途端、静江は余計に腹を立てた。峻の胸を指先で強く突く。情けない。腹が立つのは、まさにそこだった。「峻。面倒を見るのは勝手だよ。だけどお前には家庭がある。今どきの若い子がよく口にするだろう。何だったかね……そう、距離感だよ。そういうものは、ちゃんとわきまえなきゃ駄目だ。まず先に大事にするのは自分の嫁だろう。そのうえで、嫁が嫌だと言わないなら、よその人間の面倒を見るなり何なりすればいい。どうして赤の他人のために、自分の嫁を泣かせるようなことをするんだい」言うほどに、静江の怒りは強くなっていく。ただでさえ今は、夕凪の行方がまだ分からない。静江は毎日そのことばかり気に病んでいるのに、この孫は平然としていた。沙代の顔はさらに白くなった。けれど峻が何か言う前に、沙代のほうが先に食い下がる。「大奥様、それは違います。たしかに峻くんは別の人と結婚しました。でも、あれは御堂家にそうさせられただけです。峻くんが最初から最後までいちばん愛していたのは、うちの清音です。清音がいなくなってからも、峻くんはずっと私たちのことを本当の親みたいに気にかけてくれました。私たちだって、もうずっと前からこの子を娘婿だと思っています」さっきまであれほど泣いていたのに、今の沙代の顔にも声にも、妙な得意げな色が混じっていた。静江のことすら、まるで目に入っていないみたいだった。実際、峻はそれだけ抜きん出た男だ。御堂家の後ろ盾がなくても、自分ひとりで道を切り開いていける。そのくらいの力がある。静江の顔色が変わった。峻も深く眉を寄せる。不快そうな顔で、沙代に何か言おうとした。けれど、泣き腫らして赤くなった目と、悲しみで今にも倒れそうな様子が目に入る。それを見た瞬間、峻は言葉を飲み込んだ。今このときも、憲一は中で助けられている最中だ。ここで沙代まで刺激して倒れさせるわけにはいかない。もし沙代まで倒れたら、清音に対して自分が口にした約束は、本当に裏切ったことになってしまう。峻は、そういう裏切りをする男ではなかった。だから結局、何
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