LOGIN夕凪がVIPルームに飛び込むと、質素な身なりながら凛とした気品を漂わせる老婦人が、杖を手にソファに腰かけていた。「おばあさま……」胸がいっぱいになり、夕凪は吸い寄せられるようにその胸へ飛び込んだ。「夕凪、私の可愛い孫娘……」静江も夕凪をしっかりと抱きしめた。「おばあさま、会いたかったです!私も近いうちに、本家へ会いに行こうと思っていたんです……」夕凪は静江の胸元から顔を上げた。その目には涙がにじんでいた。静江は夕凪の背を優しくなで、微笑んだ。「私だって、ずっと会いたかったよ。前に顔を見せてくれたきり、どこへ行ったのかもわからなくなって……この年寄りが、どれほど心配したと思ってるんだい?まったく、気が気じゃなかったよ。ゴホッ、ゴホッ……」感情が高ぶったのか、静江は口元を押さえ、激しく咳き込んだ。「おばあさま……!」夕凪は慌ててその背をさすった。胸が大きくざわついた。先日の誕生パーティーでも、静江は突然倒れた。あとで峻からも、最近は体調を崩して何度も病院へ通い、時には意識を失うことさえあると聞いた。もしかして、私が姿を消したせいで?私のことを心配しすぎて、具合を悪くしたの……?「ごめんなさい、おばあさま……私が悪かったんです!」苦しそうに咳き込む静江を見ていると、胸が締めつけられた。自分のことばかりで、おばあさまの気持ちを考えようともしなかった。全部、私のせいだ。もし本当に、自分を心配したせいで病気になったのなら、一生悔やんでも悔やみきれない。「おばあさま、もう心配しないでください。二度と黙っていなくなったりしません。これからは何度でも会いに行って、ちゃんと孝行します」涙で潤んだ目を向け、夕凪は心からそう約束した。口先だけで終わらせるつもりはなかった。「そうかい、そうかい……」静江はたちまち満面の笑みを浮かべた。そこでようやく、夕凪は部屋にもう一人いることに気づいた。峻だ。別のソファに腰かけ、長い脚を組んでいた。スーツの上には、薄いグレーのコートを羽織ったままだった。眉間には深いしわが寄り、薄い唇は固く結ばれていた。眼鏡の奥の冷ややかな目は手元のタブレットに注がれ、黙々と仕事を片づけていた。先ほどから、こちらのやり取りなど耳に入っていないような顔をしていた。ど
それでも夕凪は取り乱さず、絶望して泣き崩れることもなかった。表情は冷静なままだった。ただ、瞳に宿る冷たさだけが、ますます鋭さを増していった。夕凪は冷ややかに笑った。「三年前の私なら、瀬戸グループに乗り込んで大騒ぎしたでしょうね。でも、今の私はもう、そんな馬鹿な真似はしない。正面からぶつかって勝てないなら、頭を使えばいい」司は目を見張った。切れ長の美しい瞳に、鋭い光がよぎった。「それで、どうするつもりだ?」司はますます興味をそそられた。夕凪は窓の外へ視線を向けた。どこか遠くを見つめているようでありながら、その瞳は明るく、揺るぎない意志に満ちていた。「敵の敵は味方。聞いたことはありませんか?」夕凪は静かに言った。司は一瞬、言葉を失った。体をこわばらせて、呆然と夕凪を見つめた。そんな言葉が出るということは、夕凪の中にはすでに考えがあるのだ。司は探るように、彼女をじっと見つめた。毎日のように顔を合わせている。それなのに、自分は今まで、この女を何一つ分かっていなかったのではないか。いや、夕凪が変わったのだ。三年前までの彼女とは、まるで別人だった。司の中にある夕凪の姿は、何年も前のまま止まっていた。わがままで、無邪気で、世間を何も知らなかった幼い少女のまま……その時、ドアがノックされ、誰かが入ってきた。受付スタッフだった。用があるのは司ではないらしく、夕凪へ顔を向けた。「お客様がお見えです。若奥様をご指名で、お席に来てほしいとのことですが……」司と夕凪は、そろって目を見開いた。司は腕時計を見て、怪訝そうに眉を寄せた。「まだ午前十時だぞ。こんな時間からクラブで酒を飲む奴がいるのか?」しかも、わざわざ夕凪を指名している。スタッフが答えるより先に、司は顔色を変え、不機嫌そうに言い放った。「その客に言ってこい。瀬戸夕凪は俺が結婚する女だ。酒が飲みたいなら、うちには美人でスタイルのいいホステスが大勢いる。好きな相手を選べとな!」声には、はっきりと怒りがにじんでいた。司にしてみれば、その客はわざと店に嫌がらせをしに来たのだ。夕凪を辱め、司の面目まで潰そうとしている。司と夕凪は顔を見合わせた。二人とも険しい顔をしていたが、すでに同じ人物を思い浮かべていた。その客は、峻に違いない
夕凪は拳を握りしめた。怒りが一気にこみ上げ、頭に血が上っていく。堂島さんは、何十年もおじい様に仕えてきた。おじい様だけじゃない。お母様のことも、私のことも、三代にわたって支えてくれた人だ。瀬戸家のために人生の大半を捧げ、身を粉にして働いてくれた。その堂島さんを、慎一郎はどうして追い出せたの?あまりにも冷酷だった。私が瀬戸グループの次期社長になるのを阻むためだけに、そこまでするの?その時、夕凪は突然悟った。幼い頃から、自分を大切にしてくれた祖父、気にかけてくれた母、そして、優しかった父。けれど父だけは、自分が信じてきたような人ではなかったのかもしれない。先日の静江の誕生パーティーで、慎一郎が自分に手を上げた時も、志織を心配するあまり我を忘れただけだと必死に言い聞かせていた。だが今なら分かる。あれこそが、慎一郎の本当の姿だったのだ。司の顔に、同情の色が浮かんだ。「夕凪、もう一つ教えてやる。感動してもいいが、泣くなよ。俺は女に泣かれるのが一番苦手なんだ」司は前置きをしてから、続けた。「昨日、堂島がお前から逃げるように立ち去ったのは、もう会いたくないからじゃない。真相を知られたくなかったんだ。お前を悲しませたくない。自分のことで、お前と父親の仲を壊したくない。あいつが願っているのは、ただお前が幸せに暮らすことだけだ。お前さえ幸せなら、それで十分だと……堂島の奥さんが、そう教えてくれた」その言葉に、夕凪は胸をえぐられるような鋭い痛みを覚えた。涙が一気にあふれ出した。だからだったのか。堂島さんは私との再会をあれほど喜び、感情をあらわにしていたのに、連絡先を残そうとはしなかった。今なら堂島さんの気持ちが痛いほど分かる。どれほど迷い、どれほど苦しかったことだろう。すべて、慎一郎のせいだ!胸を締めつけていた悲しみと苦しみが、次第に怒りへと変わり、激しく渦を巻き始めた。先日の誕生パーティーで、慎一郎たちから受けた屈辱も痛みも、まだ何一つ償わせていない。そこへ、さらにこの事実まで突きつけられたのだ。彼らは、私が何をされても黙って耐えるとでも思っているのか。堂島さんにも、どんな仕打ちをしても許されると思っているのか。慎一郎は、もともと瀬戸家の娘婿にすぎなかった。祖父が自ら涼崎市の財界へ導き、一から仕事を
どうやら司は本当に自分の頼みを気にかけ、すぐに動いてくれていたのだ……司は片眉を上げ、腕を組んだままデスクに軽くもたれた。気負いのない、ゆったりとした仕草だった。「堂島の携帯の番号は、後で送ってやる」夕凪は感謝の言葉を口にしてから、尋ねた。「ありがとうございます……それで、堂島さんは今、どんな生活をしているんですか?どうしてあんな姿に……」「いや、かなり苦しい生活を送っている。瀬戸グループを辞めてから、どんな仕事に応募してもことごとく採用を断られたらしい。それでも妻子を養わなければならず、道路清掃員になるしかなかった。その仕事を、もう5年も続けているんだ」司は淡々と語った。夕凪の表情が痛ましげに歪んだ。「堂島さん……」もし、世間が言うように剛造が本当に会社の金に手をつけていたのだとすれば、今の境遇も自分で招いた結果なのかもしれない。しかし――司は意味ありげに目を細めた。「驚くのはまだ早い。もっととんでもない話がある」「何ですか?」「堂島が会社の金を横領したという話は、まったくの事実無根だった。誰かがあいつを罠にはめたんだよ。瀬戸グループから追い出すためにな」司はゆっくりと告げた。夕凪は呆然とした。「堂島さんを瀬戸グループから追い出すためですか?どうして……いったい誰がそんなことを?」訳が分からなかった。剛造は、ほかの株主と何か揉め事でも起こしていたのだろうか。「そいつが堂島を追い出したかったのは、堂島がずっと、あることを実現しようと動いていたからだ」「あること、ですか?」「株主全員を説得し、新しく就任した社長に、ある書類に署名させようとしていた。お前を瀬戸グループの次期社長に指名するという書類だ」夕凪は言葉を失った。目を大きく見開き、信じられない思いで自分を指差した。「私、ですか?」「そうだ」「そんなのあり得ません。どうして私なんですか?私にできるはずがないのに……」考えるより先に、言葉が口をついて出た。あまりにも現実離れした話だった。確かに夕凪は祖父の唯一の孫娘であり、母の唯一の娘でもある。だが、自分が瀬戸グループの社長の座を継ぐなど、考えたこともなかった。自分にはその器はないし、経営に興味を持ったこともない。もし自分が瀬戸グループを引き継いだら、会
そんな感情は馬鹿げている。そう自分に言い聞かせるように、峻はソファに置いてあった上着をつかみ、電話をかけた。「二十分後、K2バーに来い」低く沈んだ声で、用件だけを告げた。ところが、電話の向こうから返ってきたのは、あくび交じりの男の声だった。「何だよ、こんな真夜中に」峻は少し黙った後、重い声で言った。「今日、離婚した」今度は相手が黙り込んだ。やがて、ぼそりと呟く声が聞こえてくる。「俺は夢でも見てるのか?それとも幻聴か?あの『御堂グループのトップ』が、そんなことを言うなんてあり得ないだろ」男はスマホの画面を確かめたらしく、また独り言のように続けた。「いや、番号は合ってる。間違いなく『御堂グループのトップ』だ……」少し間を置いてから、男は尋ねた。「なあ、天下の『御堂グループのトップ』さんよ。離婚した後になってやけ酒を飲みたくなるのは、どんな奴だか知ってるか?」峻が黙ったまま先を促すと、男は得意げに言い放った。「女だよ!離婚して落ち込み、悲しくてたまらず、バーに駆け込んでやけ酒をあおる。そんなことをするのは女だけだ!男なら嬉しくて仕方ないだろ。仲間を全員集めて、自由になった祝いにどんちゃん騒ぎをするところだ!」すると、傍らにいるらしい女が、あくび交じりに口を挟む声が電話越しに聞こえてきた。「でも、向こうからあなたを飲みに誘ってきたんでしょ?」男は女に向かって鼻で笑った。「聞こえなかったのか?あの覇気のない声のどこが嬉しそうなんだよ」それから再び電話口に戻ると、峻に向かって言葉を継いだ。「なあ、さっきのは普通の男の話だ。でも、お前は天下の『御堂グループのトップ』だろ。涼崎中の女が放っておかない男が、女一人失ったくらいで、何をそんなに落ち込んでるんだ?」峻の低い声が、一気に冷たくなった。「来るのか、来ないのか」それでも相手は、ぶつぶつと文句を言う。「行くかよ!こんな真夜中に、酒なんか飲めるか。嫁を抱いて寝てるほうが、よっぽど温かい」玄関先で、峻はぴたりと足を止めた。端整な顔が、見る見る険しくなった。怒ったのだ。「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻の怒りは、もちろん普通の男のそれとは違う。峻は冷ややかに言い放った。「お前の親父に伝えておけ。来週の入札には参加しなくていい。親父の会社の入札資格は、今
眉間には深いしわが刻まれ、薄い唇も固く引き結ばれていた。夕日を受けた端整な横顔に、気品と冷厳さをたたえた顔立ちがくっきりと浮かび上がっていた。詩乃の体が、びくりと震えた。気配を感じた峻は顔を上げ、張り詰めていた表情をふっと緩めた。「目が覚めたか?」胸につかえていた重石が、ようやく取れた。詩乃が意識を失った時、峻は胸騒ぎを抑えられなかった。亡き清音と瓜二つの顔を見ていると、現実と記憶の境目が揺らぎ、彼女こそ清音なのではないかと錯覚してしまったほどだ。病院へ運び、医師の診察を受けたところ、強い恐怖で一時的に心拍が乱れ、そのまま失神しただけだと告げられた。今はもう落ち着いており、少し休めば目を覚ますという。峻は安堵の息をついた。初めは柊吾に電話をかけ、誰かを詩乃の付き添いに寄こさせるつもりだった。だが、スマホを取り出したところで思い直した。怜司の調べでは、今日の事故に夕凪は関与していないとの結論が出ていた。それでも峻は、まるで信じていなかった。幼い頃から夕凪を知り尽くしているうえ、三年前の一件もある。今回も夕凪の仕業に違いないと、峻は決めつけていた。だから、今日詩乃の身に起きたことも、夕凪と無関係なはずがない。もし詩乃が目を覚まさなかったり、何か後遺症でも残ったりすれば、夕凪はもう終わりだ。そう考えると人任せにはできず、峻は自分で残って様子を見ることにしたのだ。詩乃は今、ベッドの隅で両膝を抱え、うつむいて小さくなっていた。峻と目を合わせることさえ恐れているように見えた。少しでも彼から離れようとしているかのようだった。「どうした?」峻はようやく様子がおかしいことに気づき、再び眉をひそめた。「私は大丈夫……もう、帰って」詩乃は低く抑えた声で答えた。その目はすでに赤く、涙がにじんでいた。峻は息をのんだ。詩乃と出会ってから、彼女がこんなふうに感情を押し殺した声で話してきたことは一度もなかった。そんな話し方をするのは、清音だけだった。心臓が激しく早鐘を打つ。峻は勢いよく立ち上がると、詩乃を真っ直ぐに見据えた。「お前……本当は誰なんだ?」声がかすかに震えていた。彼女は詩乃なのか。それとも……清音なのか。しかし、詩乃は何も答えなかった。顔を深く膝に埋めたまま、華奢な背中だけが小刻みに震え
「ふざけんな!たかが掃除のおばちゃんの分際で、俺に楯突こうってのか。ただで済むと思うなよ……!」惟人が激昂して腕を振り上げ、力任せに打ち下ろしてきた。夕凪の背後は壁だった。逃げ場などどこにもない。迫ってくるその手を、目を見開いたまま見つめることしかできなかった。「唐沢さん、相手はただの清掃員ですよ。そこまで熱くなることはないでしょう」ちょうどその時、ドアを押し開けて司が入ってきた。にやにやと笑いながら。司の姿を見て、惟人の腕が宙で止まった。彼は忌々しげに舌打ちして、手を下ろした。司が、早く行けとばかりに夕凪へ目配せをした。夕凪ははっと我に返った。顔面は蒼白だった
夕凪は静かに首を横に振った。多恵はほっと息をついた。「やっぱりね。あんたがちゃんと教養のある子だってことくらい、見てりゃ分かるわよ。ここで掃除してるのは今だけで、いつかは絶対ここを出て行く人だって……」夕凪の胸が、また小さく震えた。そうだ。自分だって、峻や清音と同じ涼崎大学を出た人間なのだ。「あんたには人に言えない事情があるんだろうし、私もこれ以上詮索はしないよ。でもね、これだけは言わせて。あんたはいい子だよ。何があっても絶対に諦めちゃ駄目。つまずいたって、そこからまた立ち上がればいいんだから……」多恵の声には、力強い優しさがこもっていた。夕凪はたまらず目頭が熱
「はい、間違いありません」夕凪が力強く頷いた。若い刑事が信じられないといった顔で首を傾げた。「しかし、当時の捜査では段野悠雨と被害者の間にいかなる接点も確認されていません。現場付近を通りかかった警備員というだけの人物だったはずですが……」少し考え込んでから、若い刑事は圭吾の方を振り返った。「課長、これはやはり……段野悠雨の周辺を洗い直す必要がありますね」圭吾は厳しい顔で深く頷いた。「ああ。すぐに取りかかれ。段野と被害者の本当の関係を、底の底まで徹底的に洗え」「了解しました」……涼崎署を出た夕凪は、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した
それにしても、なぜ峻はあんなことを言ったのだろう。「正式に娶った妻」だと?夕凪はすでに離婚協議書を置いてきた。峻が判を押しさえすれば、所定の手続きを経て二人の婚姻は終わる。晴れて自由の身になれるはずだ。それこそ、峻がずっと望んでいたことではないのか。――ふいに、背後でVIPルームの重い扉が内側から引き開けられた。夕凪はびくりと身を竦め、我に返るや否や逃げ出そうとした。「待て」呼び止められた。しかも、この低く冷たい声はまさか……?聞き間違えるはずがない。あの人、峻だ!夕凪の頭の中が真っ白になり、足が凍りついた。一歩も動けない。背筋が棒のように硬直し、指先から急速に