冷徹CEOとの離婚後、私は夫の忠実な部下と恋に落ちた のすべてのチャプター: チャプター 141 - チャプター 150

218 チャプター

見知らぬ男

デートから三日後のことだった。唯は事務所で仕事をしていた。記事の件は少しずつ落ち着きを見せ始めている。週刊プライム側も表立った動きを見せていない。もちろん安心はできない。それでも、少し前までの張り詰めた空気に比べればずっとましだった。パソコンへ向かいながら、唯は小さく息を吐く。窓の外はよく晴れていた。こんな穏やかな日が続けばいいのに。そんなことを思う。   その頃。駅前のカフェでは、美咲がコーヒーを飲んでいた。仕事帰りだった。窓際の席でスマートフォンを眺めながら、のんびりとした時間を過ごしている。すると。ふいに一人の男が近づいてきた。三十代後半くらいだろうか。スーツ姿の男だった。「失礼」聞き慣れない声に、美咲は顔を上げる。男は営業マンにも見えた。だが。その目を見た瞬間、何となく違和感を覚える。「少しお話を伺ってもよろしいですか」美咲は眉をひそめた。「どちら様ですか?」男はポケットから名刺を取り出す。そこに書かれていた社名を見た瞬間、美咲の表情が変わった。週刊プライム。その名前に見覚えがないはずがない。唯の記事を書いた週刊誌だった。美咲の警戒心が一気に跳ね上がる。「お断りします」即答だった。男は慣れているらしい。表情一つ変えない。「少しだけで構いません」「構います」美咲は冷たく言った。店内の空気が少し張り詰める。男は苦笑した。「高倉専務とお知り合いですよね」その言葉に、美咲の背筋が冷たくなる。なぜ。
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嫌な予感

メッセージを送ってから十分ほど経った頃だった。美咲のスマートフォンが震える。唯からだった。『どうしたの?』短い文章だったが、心配しているのが伝わってくる。美咲は駅のホームに立ちながら苦笑した。こういうところは昔から変わらない。自分のことより、まず相手の心配をする。電車が来るまでの間に事情を説明しようかと思ったが、文字で打つには少し面倒だった。結局、『あとで電話していい?』とだけ送る。すぐに既読がつく。『もちろん』その返事を見て、美咲は少しだけ安心した。けれど。胸の奥のざわつきは消えない。電車がホームへ滑り込んでくる。扉が開く。乗り込もうとして。ふと。視線を感じた。美咲は反射的に振り返る。ホームの反対側。スーツ姿の男が立っていた。さっきの記者ではない。けれど。なぜか目が合った気がした。男はすぐに視線を逸らした。偶然かもしれない。考えすぎかもしれない。それなのに。妙な寒気が背中を走った。美咲は急いで車内へ乗り込む。ドアが閉まる。電車が動き出す。ホームが遠ざかっていく。男の姿も見えなくなった。「気にしすぎ、かな」小さく呟く。けれど。自分の声は思ったより強張っていた。その日の夕方。唯は事務所を出る準備をしていた。机の上ではスマートフォンが静かに光っている。美咲からのメッセージが気になって仕方がなかった。嫌なことがあった。その一言だけで終わっている。美咲にしては珍しい。普段なら。
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静かな怒り

その日の夜。高倉がその報告を受けたのは、自宅へ戻った直後だった。ネクタイを緩め、ようやく一息ついたところでスマートフォンが震える。相手は唯だった。こんな時間に唯から連絡が来ることは珍しい。高倉は少し眉を上げながら画面を開いた。届いていたのは短いメッセージだった。 『美咲が週刊プライムの記者に声を掛けられました』 その一文を読んだ瞬間。高倉の表情から温度が消えた。室内は静かだった。窓の外では車の走る音が遠く聞こえる。けれど、高倉の意識はすでに別のところへ向いていた。美咲。桜井唯の親友。一般人だ。会社関係者でもない。今回の記事の当事者でもない。その名前が出てきた時点で、高倉は嫌な予感を覚えた。指先で画面をなぞる。続くメッセージを読む。カフェで声を掛けられたこと。高倉の名前を出されたこと。美咲が不安を感じていること。一通ずつ確認し終えたところで、高倉は静かに目を閉じた。そして短く息を吐く。怒っていた。自分でも驚くほど。冷静なまま。けれど確かに怒っていた。一般人へ接触する。それ自体は法的に問題がない場合もある。取材という名目ならなおさらだ。だが。今回の件は違う。少なくとも高倉にはそう思えた。美咲は記事の当事者ではない。公人でもない。会社の関係者でもない。ただ唯の友人というだけだ。その人物を追う理由がどこにある。高倉はスマートフォンを置く。しばらく考えたあと、別の番号へ電話を掛けた。数回の呼び出し音。やがて相手が出る。
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眠れない夜

スマートフォンが震えたのは、日付が変わる少し前だった。唯はベッドへ入っていた。けれど眠れる気配はない。天井を見つめたまま、何度目かわからないため息を吐く。美咲のことが頭から離れなかった。カフェで声を掛けられたこと。高倉の名前を出されたこと。もし美咲がもっと強く追及されていたら。もし帰り道までつけられていたら。そんな想像ばかりが膨らんでいく。枕元のスマートフォンが小さく光る。画面を見る。高倉からだった。唯は慌てて身を起こした。届いた文章を読み進める。『桜井さんのせいではありません』その一文を見た瞬間。胸の奥がじわりと熱くなった。まるで心の中を見透かされたみたいだった。高倉はいつもそうだ。唯が口にしないことまで気づいてしまう。続く文章を読む。『美咲さんにもご迷惑をお掛けしてしまいました。私の方でも対応しますので、ご安心ください』唯はしばらく画面を見つめていた。安心してください。そう言われても簡単には安心できない。けれど。不思議と少しだけ肩の力が抜けた。高倉が動いてくれる。その事実が心強かった。指先が画面の上を彷徨う。何か返したい。けれど。ありがとうだけでは足りない気がした。しばらく考えた末に、短く打ち込む。『ごめんなさいそれと、ありがとうございます』送信したあとで後悔する。また謝ってしまった。高倉が一番嫌がる返事だとわかっているのに。案の定。数分後に返事が来た。『謝らないでください』唯は思わず苦笑する。やっぱり怒られた。怒られたというより、た
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いつもの朝ではなく

翌朝。唯は少し寝不足のまま事務所へ向かっていた。昨夜はなかなか眠れなかった。高倉からのメッセージを何度も読み返してしまったせいもある。美咲のことが気になっていたせいもある。結局、浅い眠りを繰り返しただけで朝になってしまった。駅を出る。事務所まであと数分。見慣れた道を歩いていたときだった。「あれ?」思わず足を止める。通りの向こう。見覚えのある後ろ姿が見えた。美咲だった。だが様子がおかしい。何度も後ろを振り返っている。歩く速度もどこか速い。唯は眉をひそめた。そのとき。少し離れた場所にいる男の姿が目に入る。スーツ姿。スマートフォンを手にしている。偶然かもしれない。本当に偶然かもしれない。けれど。昨夜の話を聞いたあとでは、そう思えなかった。「美咲!」思わず声を掛ける。美咲が振り返った。その顔を見て、唯は胸がざわつく。笑おうとしている。けれど少し強張っていた。「おはよ」「どうしたの?」「何が?」いつもの調子だ。けれど。付き合いが長いからわかる。誤魔化している。唯は視線を動かした。先ほどの男は立ち止まっている。こちらを見ているようにも見えた。その瞬間。男が視線を逸らした。そして何事もなかったかのように歩き去っていく。唯の背筋を冷たいものが走る。「……今の人」「気づいた?」美咲が小さく息を吐く。その声に、いつもの余裕はなかった。「昨日の人じゃない」
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看過できません

その日の夕方。唯は高倉と向かい合って座っていた。場所は会社近くのカフェだった。以前のような穏やかな空気ではない。テーブルの上にはコーヒーが置かれている。けれど、二人ともほとんど手をつけていなかった。唯は朝の出来事を説明し終えたところだった。美咲が誰かに見られているような気がすると言ったこと。駅前で見知らぬ男を見かけたこと。そして、美咲が明らかに怯えていたこと。高倉は黙って聞いていた。途中で口を挟むこともなく。ただ静かに。最後まで。「そうですか」しばらくして、高倉が口を開く。低く落ち着いた声だった。けれど。唯にはわかった。怒っている。昨夜メッセージを読んだときも感じたが、今はそれがもっとはっきりしていた。高倉は感情を表へ出さない。声を荒げることもない。だからこそ。静かな怒りは余計に伝わってくる。「法務にも相談しました」唯は顔を上げた。高倉は続ける。「現時点では違法行為と断定できません」その言葉に胸が沈む。やはりそうなのだ。記者は直接危害を加えたわけではない。声を掛けただけ。後をつけたという証拠もない。法律だけで見れば曖昧だった。けれど。高倉はそこで言葉を切った。そして。静かに続ける。「ですが」その一言に空気が変わる。「看過できる話ではありません」唯は息を呑んだ。高倉の視線は真っ直ぐだった。迷いがない。「美咲さんは一般の方です」静かな声だった。けれど力があった。「今回の記事の当事者でもありません」
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写真の中の女

同じ頃。週刊プライム編集部では、数枚の写真が机の上へ並べられていた。「これが例の女です」若い記者が言う。デスクは黙ったまま写真へ視線を落とした。一枚目。駅前で高倉と待ち合わせをしていた女性。顔ははっきり写っていない。横顔と後ろ姿が中心だ。二枚目。別の日。高倉が事務所近くで女性へ封筒を渡している写真。こちらは顔が比較的よく見える。そして。その女性は一枚目とは別人だった。デスクは眉をひそめる。「本当に同じ日じゃないんだな」「違います」若い記者が答える。「日時も確認済みです」デスクは腕を組んだ。高倉涼。四十代。大手企業の専務。独身。ここまではいい。問題はその先だった。離婚した女性と関係があるという情報。そして。別の女性との接触。偶然にしては頻度が高い。「どう思う?」若い記者が尋ねる。デスクはすぐには答えなかった。記者という仕事は厄介だ。点を見つける。線を探す。そして物語を作る。それが仕事でもある。だからこそ危険だった。想像が事実より先に走ることがある。だが。経験上。違和感は無視できない。「まだわからん」そう言いながらも。頭の中では仮説が組み上がり始めていた。離婚した女性。もう一人の女性。高倉。もし。この三人が繋がっているとしたら。「続けろ」デスクが言う。若い記者が頷く。「どっちですか?」
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偶然では済まされない

翌朝。美咲はほとんど眠れなかった。ベッドへ入っても何度も目が覚める。廊下で見た男の顔が頭から離れなかった。特徴のない顔だった。年齢も三十代か四十代か曖昧だ。スーツ姿だったことしか覚えていない。それなのに。妙に気味が悪かった。目が合った瞬間のことを思い出す。あの男は驚いた様子を見せなかった。住人なら。知らない女性と鉢合わせになれば多少は反応するはずだ。けれど違った。まるで見つかることを想定していたみたいに。そこまで考えて、美咲は首を振る。考えすぎだ。そう思いたい。だが。心は納得してくれなかった。朝になり。美咲は会社へ向かうためマンションを出た。空は晴れている。通勤する人々が足早に駅へ向かっていた。いつもと同じ朝。そのはずだった。駅へ向かう途中。ふとコンビニのガラスへ映った後方の景色を見る。誰かがいる。スーツ姿の男。距離はある。けれど。昨日の男に似ている気がした。美咲の足が止まる。男も立ち止まった。偶然。そう言われれば偶然に見える。だが。タイミングが良すぎた。美咲はコンビニへ入る。飲み物を手に取るふりをして外を見る。男は店の前を通り過ぎた。こちらを見ることもなく。そのまま歩いていく。「……何なの」小さく呟く。怖い。そう認めるのは悔しい。けれど。怖かった。その日の昼休み。美咲は高倉から聞いた言葉を思い出していた。日時と場所
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高倉の提案

美咲から連絡が来たのは、その日の夜だった。唯は自宅のソファへ座っていた。テーブルの上には仕事の資料が広がっている。けれど。ほとんど頭へ入ってこなかった。スマートフォンへ表示された名前を見て、すぐに通話ボタンを押す。「もしもし」『ごめん』開口一番、美咲が言った。『また変な人見た』唯は目を閉じる。やっぱり。そんな予感がしていた。「同じ人?」『たぶん』美咲の声は明るく聞こえる。けれど。長い付き合いだからわかる。無理をしている。本当に平気なときの美咲は、こんなふうに笑わない。唯は胸の奥が重くなるのを感じた。電話を切ったあとも、しばらく動けなかった。どうしたらいいのだろう。自分には何ができるのだろう。考えても答えは出ない。そのとき。スマートフォンが震えた。高倉だった。まるでタイミングを見計らったかのようだった。   翌日。唯は高倉と向かい合って座っていた。以前デートをした店ではない。会社近くの静かなラウンジだった。高倉の表情はいつも通り落ち着いている。けれど。目だけが少し違っていた。唯はその変化に気づく。かなり本気だ。そう感じた。「美咲さんの件ですが」高倉が切り出す。唯は頷いた。「はい」「現時点では断定できません」まずそう前置きする。それが高倉らしかった。感情で話さない。事実から積み上げる。「ただ」低い声が続く。
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記事にならない記事

「まだ出すな」週刊プライム編集部で、デスクはそう言った。若い記者が不満そうな顔をする。「でも、材料は揃ってます」机の上には写真が並んでいる。高倉と待ち合わせをしていた女性。高倉から封筒を受け取る女性。どちらも鮮明とは言えない。だが、別人であることだけはわかる。「揃ってない」デスクは即座に否定した。「証拠がない」記者は口をつぐむ。確かにその通りだった。今あるのは状況証拠だけだ。高倉が二人の女性と接触している。それだけ。恋人なのか。仕事なのか。友人なのか。何もわからない。記事にするには弱すぎる。「裏を取れ」デスクは写真を机へ戻した。「最低でも関係性が欲しい」若い記者は頷く。だが。内心では確信に近いものを抱いていた。高倉は何かを隠している。そうでなければ説明がつかない。一般人にここまで気を遣う理由が。法務を動かす理由が。見えてこない。一方その頃。美咲は会社を出たところだった。空はまだ明るい。夏の夕方特有の蒸した空気が街を包んでいる。今日は唯が駅まで付き添うと言った。だが。美咲は断った。さすがにそこまでされると申し訳ない。何より。唯まで巻き込みたくなかった。駅へ向かう。人通りの多い道を選ぶ。スマートフォンを握る。少し神経質になっている自覚はあった。けれど。それでも後ろが気になる。横断歩道で立ち止まる。赤信号。何気なく後ろを見る。男がいた。スーツ姿。距離はある。こちらを見ているわけでもない。だが。見覚えがあった。胸がざわつく。昨日。その前。どこかで見た。信号が青になる。美咲は歩き出した。男も動く。偶然かもしれない。そう思いたい。けれど。次の角を曲がっても。コンビニへ寄っても。男は視界から消えなかった。背中を冷たい汗が流れる。高倉の言葉が頭をよぎる。記録を残してください。無理はしないでください。美咲は足を止める。そして。スマートフォンを取り出した。さりげなく振り返る。男の姿を画面へ収める。一枚。写真を撮った。その瞬間だった。男の表情が変わる。気づいたのだ。美咲は反射的にスマートフォンを下ろした。男は立ち止まる。数秒。互いに動かない。やがて。男は視線を逸らした。そのまま反対方向へ歩いていく。人混み
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