تسجيل الدخول翌朝。
美咲はほとんど眠れなかった。
ベッドへ入っても何度も目が覚める。
廊下で見た男の顔が頭から離れなかった。
特徴のない顔だった。
年齢も三十代か四十代か曖昧だ。
スーツ姿だったことしか覚えていない。
それなのに。
妙に気味が悪かった。
目が合った瞬間のことを思い出す。
あの男は驚いた様子を見せなかった。
住人なら。
知らない女性と鉢合わせになれば多少は反応するはずだ。
けれど違った。
まるで見つかることを想定していたみたいに。
そこまで考えて、美咲は首を振る。
考えすぎだ。
そう思いたい。
だが。
心は納得してくれなかった。
朝になり。
美咲は会社へ向かうためマンションを出た。
空は晴れている。
通勤する人々が足早に駅へ向かっていた。
いつもと
「桜井唯、か」週刊プライム編集部。石田は机の上に広げられた資料を静かに眺めていた。派手な経歴はない。ごく普通の会社員。離婚を経験し、現在は小さな事務所で働いている。以前の記事で調べた内容ばかりだ。新しい情報はほとんど増えていない。「もう一度、一から洗い直しますか」若い記者が口を開く。石田はすぐには答えなかった。高倉と話したあと、考えが少し変わっていた。美咲ではない。おそらく中心にいるのは桜井唯だ。では、高倉はなぜ彼女を守ろうとするのか。そこだけが、まだ見えない。「派手なことはするな」石田は静かに言った。「まずは行動を確認する」「張り込みですか」「ああ」石田は資料を閉じる。「思い込みで記事は書けない」その言葉は、自分へ言い聞かせるようでもあった。◇◆◇翌日。唯は事務所へ向かう途中、小さく肩をすくめた。朝から蒸し暑い。駅前では蝉が鳴き始めている。いつもと変わらない景色。いつもと変わらない朝。それなのに。高倉の話を聞いたあとでは、どうしても周囲が気になってしまう。信号待ちをしている人。スマートフォンを見ながら歩く会社員。ベンチへ座る老人。誰も自分を見ていない。そう思う一方で、視線を探してしまう自分がいた。「気にしすぎ、だよね」小さく笑って歩き出す。その姿を、通りの向かい側から一人の男が眺めていた。若い記者だった。スマートフォンを耳へ当て、小さく報告する。「今、事務所へ向かっています」電話の向こうで石田が短く答えた。
約束の時間ぴったりに、事務所のインターホンが鳴った。唯は席を立ち、ドアを開ける。「お疲れ様です」「お疲れ様です」高倉はいつもと変わらない穏やかな表情で軽く頭を下げた。けれど、その目には仕事の話をするとき特有の真剣さが宿っている。応接スペースへ案内すると、高倉は鞄から一枚のクリアファイルを取り出した。「先ほど、週刊プライムの編集担当者と話をしてきました」唯は息を呑む。「編集担当者と……ですか?」「向こうから会社へ来ました」驚きのあまり、唯は思わず言葉を失った。そこまで動いていたとは思っていなかった。高倉は淡々と説明を続ける。編集担当者が訪ねてきたこと。美咲への接触を控えるよう正式に伝えたこと。そして、今のところ美咲と高倉の間には特別な関係はない、と事実だけを説明したこと。唯は黙って耳を傾けていた。「では……」ようやく口を開く。「もう美咲は大丈夫なんでしょうか」その問いに、高倉はすぐには答えなかった。ほんのわずか、視線を伏せる。その沈黙だけで、唯には答えがわかってしまった。「残念ですが」高倉は静かに言う。「そう簡単には終わらないと思います」唯の指先に力が入る。「どうしてですか?」「記者は、一つの仮説が崩れると、別の仮説を立てます」高倉は机の上で指を軽く組んだ。「今回は、おそらく美咲さんへの疑いは薄れました」「じゃあ……」「次は」高倉は唯を見つめる。「桜井さんです」部屋が静まり返る。時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいた。唯はその言葉をすぐには飲み込めなかった。「私&he
「筋が通りすぎている、ですか?」エレベーターを降りると、若い記者が首を傾げた。石田は歩きながらネクタイを少し緩める。「高倉専務の話は矛盾がなかった」「じゃあ……」「だからこそだ」石田は足を止めることなく続けた。「こちらが聞きたいことを、あらかじめ整理して待っていたようだった」若い記者は黙って耳を傾ける。「ああいう人は厄介だ」石田は苦笑した。「感情では動かない。こちらが一つ質問すれば、必要な答えだけ返してくる」余計なことは一切言わない。嘘をついているようにも見えない。だから反論の糸口が掴めない。「ただ」石田は視線を前へ向けたまま言った。「一つだけ収穫はあった」「何です?」「桜井唯だ」若い記者が目を瞬かせる。「専務は終始、美咲さんではなく桜井さんを基準に話していた」「基準?」「『美咲さんは桜井さんの友人です』と最初に説明しただろう」石田はゆっくりと言葉を選ぶ。「つまり、高倉専務の中では、美咲という人物は桜井唯を介して認識している存在だ」若い記者は腕を組んだ。「じゃあ、本当にただの友人なんですかね」「その可能性は高くなった」石田は頷く。「少なくとも、美咲さん本人との特別な関係は見えなかった」若い記者は小さく息を吐く。「じゃあ、振り出しですか」「いや」石田は静かに笑った。「違う」高倉が本当に守ろうとしている相手。それは美咲ではない。では、誰なのか。答えは自然と一人しか浮かばなかった。「桜井唯か……」石田は誰に聞かせるでもなく呟いた。
応接室のドアを開けると、男はすぐに立ち上がった。「お忙しいところ恐縮です」四十代半ばほどだろうか。落ち着いた口調だった。名刺には『週刊プライム編集部 編集次長 石田』とある。高倉は一瞥しただけで席に着いた。「本日はどういったご用件でしょうか」単刀直入だった。石田は営業用の笑みを浮かべたまま口を開く。「少し誤解があるようでして」「誤解、ですか」「ええ」石田は頷く。「弊誌の記者が、ご友人にご不快な思いをさせてしまったようです」高倉は表情を変えなかった。「その件についてお話に参りました」「そうですか」短い返事だった。感情は何も読み取れない。石田は続ける。「もちろん、必要以上にご迷惑をお掛けするつもりはありません」「でしたら」高倉は静かに言葉を挟んだ。「今後、美咲さんへの接触はお控えください」石田は苦笑した。「取材という仕事柄、そう簡単には——」「取材対象ではありません」高倉の声は穏やかだった。だが、その一言で部屋の空気が変わる。「美咲さんは今回の記事の当事者ではありません。会社関係者でも、公人でもありません」石田は少しだけ姿勢を正した。「ですが、事実関係を確認する上で——」「どの事実ですか」高倉が尋ねる。石田は一瞬、言葉に詰まった。高倉は続ける。「確認したい事実とは何でしょう」静かな問いだった。責める口調ではない。だからこそ逃げ道がない。石田は咳払いを一つしてから答えた。「専務と親しいご関係だと伺っています」高倉はゆっくりと石田を見つめた。「ど
「何もありません」若い記者は資料を閉じた。デスクが顔を上げる。「本当にか?」「はい」机の上には、美咲について集めた資料が並んでいた。勤務先。学歴。家族構成。交友関係。どれもごく普通だ。芸能人でもなければ、会社役員でもない。SNSもほとんど更新していない。休日は学生時代の友人と会う程度。派手な生活を送っている様子もない。「面白いくらい普通ですね」若い記者は苦笑した。「借金もない。男関係も派手じゃない。高倉専務と繋がりそうな接点も見つかりません」デスクは黙って資料をめくっていた。普通。それがかえって引っ掛かる。高倉ほど慎重な人間が、偶然ここまで一般人へ肩入れするだろうか。「桜井唯との関係は?」「十年以上の付き合いらしいです」「親友か」「ええ」デスクは椅子へ深く腰掛けた。そこだけは事実らしい。ならば。高倉と美咲を繋ぐものは何だ。答えはまだ見えない。「焦るな」デスクが静かに言う。「見えないものほど、追う価値がある」若い記者は頷いた。その言葉を疑わなかった。◇◆◇その頃。唯は事務所で美咲と向かい合っていた。「本当にごめん」また謝ろうとした唯を見て、美咲は呆れたように笑う。「だから、それ禁止」「でも……」「でもじゃない」美咲は紙コップのコーヒーをひと口飲んだ。「高倉さんにも言われたんでしょ?」唯は苦笑する。図星だった。「もう三回くらい言
「面白くなってきたな」若い記者から報告を受けると、デスクは椅子の背にもたれた。机の上には数枚の写真が広げられている。駅前で高倉と待ち合わせをしていた女性。事務所の前で封筒を受け取る女性。そして昨日。高倉が美咲をかばうように記者との間へ入った場面。どの写真にも決定的な証拠はない。だが、共通していることが一つだけあった。高倉が、必要以上に一般女性を気に掛けていること。「専務は何て言ってた?」デスクが尋ねる。「業務で資料を預けただけだ、と」若い記者が答える。「法務を通じて対応する、とも」デスクは小さく笑った。「そこまで言うか」「ええ」若い記者も腕を組む。「普通の会社なら、広報へ回して終わりですよ」それが引っ掛かっていた。なぜ専務本人が出てくるのか。なぜ法務まで動くのか。なぜあそこまで冷静に、しかし強く止めようとするのか。「……逆なんじゃないですか」若い記者がぽつりと言った。「逆?」「最初から追っていた女性じゃなくて」机の写真を見つめる。「本当に守りたいのは、こっち」指先が美咲の写真を軽く叩いた。デスクは何も言わない。ただ、黙って写真を見つめていた。思い込みかもしれない。だが、長年の勘が囁いている。まだ何か隠れている、と。◇◆◇その頃。唯は事務所で高倉から昨日の出来事を聞いていた。「高倉さんが?」思わず聞き返す。高倉は静かに頷いた。「昨日、駅前で記者とお話ししました」「どうして教えてくれなかったんですか」
その日の夜。自宅へ戻ったあとも。桜井唯は何度かスマホを手に取っていた。高倉とのメッセージ画面が開いたままになっている。最後のやり取りは数時間前。『それならよかったです』その一文が、なぜか頭から離れない。唯はベッドへ腰掛け、小さく息を吐いた。おかしい。記事のことを考えなければいけないのに。仕事もしなければいけないのに。気づくと高倉のことを考えている。美咲に言われた言葉を思い出す。『高倉
『高倉のことだが』その名前が出た瞬間。唯の指先がわずかに強張った。電話の向こうで、涼は少しだけ黙っていた。まるで言葉を選んでいるようだった。唯は無意識に息を詰める。何を言われるのだろう。また責められるのだろうか。そう思った次の瞬間。涼は静かに口を開いた。『記事に書かれているようなことはない』唯は目を瞬かせる。『高倉は関係ない』低い声
事務所の空気が張り詰める。桜井唯はスマホを見つめたまま動けなかった。『黒崎涼』その名前が表示されているだけで、胸の奥がざわつく。雨の夜。事務所へやって来た涼の姿が脳裏をよぎった。あの苦しそうな顔。帰ってください、と告げたときの表情。忘れようと思っていたのに。思い出してしまう。「……出るの?」美咲が静かに尋ねた。唯は答えられない。着信音だけが続いている。何の用だろう。記事のことだろうか。それとも――。唯は小さく息を吐いた。正直、怖かった。また振り回されるんじゃないか。また心を乱されるんじゃないか。そんな不安が胸を締め付ける。着信は一度切れた。事務所
黒崎涼の執務室は静まり返っていた。ドアが閉まる。高倉櫂は室内へ入ると、静かに一礼した。「失礼します」涼は窓際に立ったまま振り返らない。しばらく沈黙が続く。昔なら、この空気だけで周囲は緊張した。だが櫂は慣れている。長年、隣で働いてきたのだから。やがて涼が口を開いた。「記事は法務に任せた」低い声だった。櫂は静かに頷く。「承知しています」再び沈黙。窓の外には







