All Chapters of 再婚、そしてまた再婚......気づけば御曹司に溺愛された: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

部屋のカーテンは、一度も開けられていなかった。梨沙には、外が昼なのか夜なのかも分からない。自分がここに閉じ込められてから、どれほど時間がたったのかさえ分からなかった。海渡が恐れていることは分かっていた。彼女がここを出れば、自分を告発し、入札事業に悪影響を及ぼすのではないかと恐れているのだ。そして、彼女がどれほど約束したところで、海渡が信じないことも分かっていた。実のところ、ここに閉じ込められていること自体はどうでもよかった。言い換えれば、彼女と海渡の望みは同じだった。どちらも、海渡にこの事業を落札してほしいと願っている。彼女がここにいても、外にいても、大した違いはない。だが今は、望が手術を終えたばかりだ。梨沙は、望が2歳の頃から自分の手で育ててきた。彼女にとって、望はとうの昔に実の子どもと変わらない存在になっている。手術を終えたばかりの子どもを、心配せずにいられる母親などいるだろうか。海渡が梨沙のほうへ歩いてきた。二歩ほどふらつき、そのままベッドの端に崩れるように腰を下ろす。手を伸ばして梨沙の足首をつかむと、幼い頃から何度もそうしてきたように、彼女のふくらはぎへ顔を埋め、甘えるように頬をすり寄せた。「梨沙、胃が気持ち悪いんだ。酔い覚ましに、何か飲み物を作ってくれ。一杯だけでいいから......」梨沙は、彼を見下ろした。酒のせいで赤く染まった顔と、首筋に残された噛み跡をじっと見つめる。「あなたの事業を邪魔するようなことは、絶対にしない」海渡の動きがわずかに止まった。梨沙は一語一語、はっきりと言い聞かせるように続けた。「ただ、望に会いに行きたいだけ。望は手術を終えたばかり......あの子には私が必要なの。母親が必要なの。海渡、お願い」海渡の手が、梨沙の足首から滑り落ちた。まるで酔いがさめたかのようだった。海渡はかすかに笑った。「梨沙、俺たちは幼い頃から一緒に育った。君は今年22歳で、俺たちが出会ってからもう22年だ」梨沙には、彼がなぜそんな話をするのか分からなかった。海渡は首を横に振った。何かを思い出しているかのように、乾いてかすれた、苦しげな笑い声を喉の奥から漏らす。「俺は君のことを知り尽くしている。自分自身よりも、君のことをよく知っているんだ
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第162話

「飛田家へ戻る前、土岐グループの若手起業家支援プロジェクトに参加するには、1億円の出資金が必要だった。当時の俺にとって、1億円は途方もない大金だった。身体中の臓器を売り払ったところで、到底用意できるような額じゃなかった。俺と明里は、出資者を求めてあちこち駆け回った。接待の席にも顔を出しては、愛想笑いを浮かべ、何度も頭を下げた。明里は、脂ぎった年寄りどもに太ももを触られる屈辱にまで耐えた。危うく襲われそうになったことも、一度や二度じゃない。それでも半月かけて集められたのは、たった1600万円だった。それなのに君は、たったひと言で結婚を決め、婚姻届を出しただけで、すぐに1億円を手に入れた。梨沙、あのとき俺がどれほど君を妬んだか、君には分からないだろう。妬ましさのあまり、憎んですらいた。君は指一本動かすだけで、俺に金を恵んでやれるんだからさ!」梨沙は全身に鳥肌が立ち、やがて感覚さえ麻痺していった。海渡の本心を聞いたのは、これが初めてだった。――そうだったのか......彼はずっと、そんなふうに考えていたのだ。彼女への愛が偽りだっただけではない。恩を忘れず、必ず報いる誠実な男という姿も、すべて偽りだった。つまり、彼が彼女の前で口にしてきたのは、初めから約束などではなかった。本当は一生返したくもないのに、返しているふりをせざるを得なかった借りにすぎない。誠実に演じれば演じるほど、彼の憎しみは深くなっていったのだ。海渡はゆっくりと振り返った。両目は真っ赤に充血し、声もかすれていた。「繁雄さんが俺を助けたのは、あの人が自分の意思でしたことだろう?なのになぜ俺が一生をかけて償わなければならない?なぜ世間中の人間が俺を見張り、監視して、恩を忘れない立派な人間でいることを強いる?なぜ君の前では、俺が永遠に下の立場でいなければならない?君たち一家には命の恩があり、君には結婚という大きな借りがある。そんな重荷を、なぜ一生背負わなければならないんだ?君が物分かりよく振る舞うほど、俺を助けるほど、俺を頼りにするほど、何でも俺の言うことを聞くほど、俺は苦しくなっていた。吐き気がするほど嫌だった。君が俺を立派な人間だと思い、完璧な男だと思うほど、君が勝手に作り上げた俺のイメージを壊してやりたかった。そうしなければ俺は、一つの命と一
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第163話

礼都がバルコニーから部屋へ飛び込んできた。梨沙は、まるで夢を見ているような気分になった。「土岐さん?」礼都は全身を黒い服で包み、夜風に吹かれた髪は乱れていた。その目元も鼻筋も、窓の外に広がる夜の闇より深く沈んで見える。梨沙の置かれた状況を目にした途端、礼都は眉間に深いしわを寄せた。まっすぐ彼女のもとへ歩み寄り、その場にしゃがみ込む。梨沙をつないでいる鎖を険しい顔で見つめ、手を伸ばして錠前に触れ、軽くつまんで確かめた。「何か尖ったものはあるか?」声は低く抑えられていた。しかし、黒く澄んだ瞳は終始、梨沙の足首に注がれている。梨沙は慌ててうなずき、反対側のナイトテーブルを指差した。「引き出しの中に、私のヘアピンが」礼都は立ち上がった。すぐに2本のヘアピンを見つけると、梨沙の前に片膝をつき、ピンをまっすぐに伸ばして錠を開けるための道具にした。それを手にしたまま床へ腰を下ろす。梨沙の足首を持ち上げ、自分の太ももの上に載せた。隣の部屋から、かすかな物音が聞こえてきた。梨沙の身体が反射的に震える。もし海渡が突然入ってきて、この光景を見たら。ここにいる礼都を見つけたら......その先は考えることさえできなかった。礼都は落ち着いた声で言った。「すぐ終わる」部屋の中は、張り詰めた静寂に包まれた。梨沙の耳に聞こえるのは、二人の呼吸が重なり合う音だけだった。不意に、鍵穴から小さな音がした。だが、まだ錠は開かない。礼都は何も言わず、ヘアピンの角度を変えて再び錠前をいじり始めた。梨沙は声を潜めて尋ねた。「どうやって入ってきたんですか?」礼都は何でもないことのように答えた。「よじ登った。2階程度、どうということはない」梨沙は言葉を失った。「......」礼都がかつて警察の特殊部隊に所属し、並外れた身体能力を持っていることは知っていた。それでも、梨沙の前にいる彼はいつも隙のないスーツ姿で、冷たく近寄りがたい雰囲気をまとっていた。そんな生まれながらのエリートが、壁をよじ登る姿など、どうしても想像できなかった。再び鍵穴から音がした。しかし、やはり開かない。礼都の形のいい額に、うっすらと汗がにじんだ。梨沙が小声で尋ねる。「望は元気ですか?」
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第164話

海渡は車に飛び乗った。エンジンをかけ、そのあとを追う。この辺りの道は、もう何年も通い慣れていた。近道を使い、礼都の車に追いつくことに成功した。都北の大通りを、2台の車が一歩も譲らず、激しい追走を繰り広げる。礼都はバックミラー越しに海渡の車を見据えた。アクセルを限界まで踏み込む。車は一気に加速した。梨沙は唇を引き結び、アシストグリップを固く握った。急加速による強烈な重力で、身体がシートへ押しつけられる。2台のエンジン音が重なり合い、怒り狂った2頭の野獣のように、絶え間なく咆哮を上げていた。礼都は、青ざめた梨沙の顔を一度見た。「怖いか?」梨沙は慌てて首を横に振った。「大丈夫です」礼都はかすかに口元を上げ、鋭い目つきで前方を見据えた。「ならいい」次の瞬間、前方でいきなり車を反転させた。真正面から照らされる強烈なヘッドライトに、梨沙は目を開けていられなくなる。衝突寸前。礼都は突然、海渡の車へ正面から突っ込んでいった。梨沙は恐怖で唇を噛み、目を固く閉じた。もう二度と、前を見ることができなかった。しかし――いつまでたっても、衝突の衝撃は伝わってこない。礼都の車はそのまま宙へ舞い上がり、海渡の車を押し潰さんばかりの勢いで上空を飛び越え、一気に走り去ったのだ。車体が激しく地面へ着地した。梨沙は、内臓がすべて揺さぶられたような衝撃を覚えた。それでも、自分が助かったことは分かった。海渡の車が再び追いついてくることはなかった。――病院が近づいた頃。礼都が簡潔に告げた。「望はもうすぐ退院する。おばあさんと望を連れて、しばらく俺の邸宅へ移れ」梨沙は慌てて言った。「弟がまだ入院しています。先におばあちゃんと望だけを行かせて、私は病院で弟に付き添います。海渡も、どれほど力があっても、病院で私に何かすることまではできないはずですから」礼都は、少しも迷わず答えた。「弟も一緒に移す」梨沙は言葉に詰まった。「......」深く息を吸い込み、目に浮かんだ涙を必死に押し戻す。「土岐さんには、もう十分すぎるほどご迷惑をおかけしています」礼都は短く返事をした。その声は低く、わずかにかすれていた。「なら、今さら一つ増えても同じだ」梨沙は
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第165話

その頃、梨沙は望と一緒に漫画を読んでいた。電話がかかってくると、無意識に望の頭をなで、立ち上がってバルコニーへ向かった。千鶴も黙ってあとをついていく。梨沙はバルコニーへ出てから電話に出た。「真希子さん、ニュースは見ました。海渡が事業を落札したんですね」真希子は短く返事をした。得意げな気持ちと興奮を隠しきれない声で、梨沙に言い聞かせる。「明日、飛田コーポレーションで株主総会を開くわ。今いる場所を教えなさい。その時間になったら、迎えの者を向かわせるから」梨沙は唇を引き結んだ。眼差しは揺るぎなく、力強い声で告げる。「今夜中に入金が確認できなければ、明日は行きません」真希子は冷笑を漏らした。それでも、約束は守る人間だった。「分かった。すぐに振り込むわ」梨沙は短く返事をして、電話を切った。振り返ると、そこには千鶴が立っていた。梨沙は驚いて身を震わせる。「おばあちゃん、どうしてここに?」「......」千鶴は複雑な目で梨沙を見つめた。「梨沙、追い詰められた相手を、それ以上追い詰めちゃいけないんだよ?離婚できて、いくらか慰謝料を受け取れれば、それで十分じゃないか。何も、あの人を逃げ場がなくなるまで追い詰める必要はないよ。私は......海渡が梨沙に危害を加えるんじゃないかと心配なんだよ」梨沙は二歩ほど近づき、千鶴の腕を抱いた。祖母と孫は、バルコニーに置かれたソファへ並んで腰を下ろす。そこからなら、梨沙にも望の姿がちょうどよく見えた。梨沙は根気よく説明する。「おばあちゃん、安心して。私が望んでいるのは、海渡と離婚することだけよ。その先は真希子さんと海渡の争いだから、私は関わらないわ」千鶴は梨沙の手を握った。深いため息をつき、痛ましそうな目で彼女を見つめる。「あなたが関わっていなくても、海渡はそう思わないかもしれない。どうしても胸騒ぎがするんだよ。明日は、土岐さんにも一緒に行ってもらったらどうだい?」梨沙は笑って言った。「そこまでしていただく必要はないよ。それに、海渡に土岐さんと一緒にいるところを見られたら、私たちの間に何かあると誤解されるかもしれないでしょう?土岐さんの評判を傷つけるだけじゃなく、海渡が私を悪者に仕立てる口実まで与えることになるの」その話を
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第166話

梨沙が言いかけたところで、礼都が不意に口を開いた。「何か麺を作ってくれないか?」梨沙は一瞬きょとんとしたが、すぐにうなずいた。キッチンへ行き、礼都のために牛肉うどんを作る。「ちょうど、おばあちゃんが今日、牛肉のしぐれ煮を作ったところなんです。少し味が濃いかもしれません」礼都はダイニングテーブルの前に座り、勢いよく食べ始めた。梨沙も一人でその場を離れるのは気が引けて、向かい側に腰を下ろす。礼都は食べるのが速かったが、行儀が悪いわけではなかった。梨沙は頬杖をつき、彼が食べる姿を眺めていた。不意に礼都が顔を上げる。鋭い視線が、梨沙の瞳とぶつかった。梨沙は気まずそうにうつむいた。唇を軽く結び、何も言わない。礼都が尋ねた。「明日、飛田で株主総会が開かれることは知ってるか?」梨沙は力強くうなずいた。「はい。明日は私も行って、すべてに決着をつけます」礼都はじっと彼女を見つめた。照明の下で、柔らかな肌が白く輝いている。薄い唇をわずかに動かした。「必要なら......誰かをつけようか?」梨沙は首を横に振った。「お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です」礼都は淡々と返事をした。箸を置き、食器を持ってキッチンへ向かう。彼が何をしようとしているのか気づいた梨沙は、すぐにあとを追った。「そこに置いておいてください。明日の朝、まとめて洗いますから」食器を受け取ろうとしたとき、誤って礼都の指を一本つかんでしまった。二人の動きが同時に止まる。それに気づいた瞬間、梨沙の頬に赤みが差した。まるで白い紙に紅がすっと差していくかのようだった。彼女は素早く手を引っ込めた。両手を身体の横へ下ろしたものの、握っても開いても、どうしても不自然になってしまう。キッチンには、何とも言えない気まずい空気が漂っていた。梨沙は両手を背後へ回し、二歩ほど後ろへ下がった。「置いておいてくだされば大丈夫です。それでは......おやすみなさい、土岐さん」彼女は背を向け、逃げるように2階へ駆け上がった。それでも礼都は、食器をきれいに洗った。そのあと、暗いリビングに一人で長い間座っていた。やがて立ち上がり、車のキーを握って邸宅をあとにした。――翌日。飛田コーポ
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第167話

海渡の顔に浮かんでいた笑みが凍りついた。たとえ作り笑いであっても、張りついたまま動かなくなれば、ひどく滑稽に見える。ついに、その目に脅しの色が浮かんだ。「最近は事業のことで忙しくて、君をないがしろにしていた。それは謝る。だが、本当に離婚したいとしても、これは俺たち夫婦の問題だ。大勢の前で話すことじゃない。場所を考えろ」古参株主は、まるで聞き分けのない女を見るような目で梨沙を見た。「そうだ。さっさと帰りなさい。女がこんな場所へしゃしゃり出て、みっともないと思わないのか」梨沙は、周囲から向けられる非難の視線を一切気にしなかった。隣にいる森下を紹介する。「こちらは、私の代理人を務める森下です」海渡は勢いよく半歩詰め寄った。梨沙の手首を強くつかむ。「梨沙、もうやめろ。こんなことをおばあちゃんや望が知ったら、きっと悲しむよ」梨沙は問い返した。「私の家族を使って、私を脅しているの?」海渡は言葉に詰まった。「......」怒りをあらわにして梨沙をにらむ。梨沙が手を差し出すと、森下が一通の離婚協議書を渡した。梨沙は、その離婚協議書を海渡の胸へ突きつける。「離婚協議書よ。早く署名して」海渡の顔から、かすかに血の気が引いた。この重要な局面で離婚すれば、真希子は会社の実印を彼へ渡さない十分な理由を得ることになる。海渡は唇を引き結んだ。その瞳の奥で、激しい感情が渦巻いている。「......これ以上、俺を追い詰めるな」梨沙は、その目に宿る殺気と冷酷さを見た。それでも笑って言う。「私たちが結婚する前、あなたは一通の契約書に署名したはずよ。いつかあなたが不倫した場合、財産を一切受け取らず、身一つで出ていくと書かれていた。今日は、その約束を果たすときよ」「不倫」。静まり返った会議室へ、強烈な爆弾が投げ込まれたも同然だった。海渡は目を細めた。まるで生まれて初めて、梨沙という人間を見たかのようだった。「......俺をはめたのか?俺は長年、君たち一家のために身を粉にして働いてきたんだぞ。それなのに最後は、部外者と手を組んで俺を陥れるのか?」その声は非難に満ちていた。まるで自分こそ何の罪もない被害者で、梨沙という悪人が泥を塗りつけようとしているかのようだった。梨
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第168話

「裁判所に訴えてもいいわ。あなたが不倫した証拠も、あなた自身が署名した『不倫した場合は財産を一切受け取らず、身一つで家を出る』という契約書もある。どれほど大騒ぎになっても、私は別に構わないから」海渡は、ほとんど聞き取れないほど低い声で言った。「梨沙、よく考えろ。俺の名義になっている財産は一つもない。たとえ俺が財産を何も受け取らず離婚したとしても、君が手にできるのは、俺が普段使っている口座に入っている200万円足らずの現金だけだ。そんな金では、琉生の生命維持装置を1週間借りる費用にすら足りない。君は、自分の弟が死んでいくのを黙って見るつもりなのか?」梨沙は、一語一語はっきりと言い返した。「その点はご心配には及ばないわ。もう一度聞くわ、飛田海渡。署名するの?それとも、不倫騒動を世間にさらして、私と法廷で争う?」梨沙には脅しも説得も通じず、もはや話を収める余地がない。そう悟った株主たちは、今度は海渡に署名するよう次々と勧め始めた。「海渡さん、もう署名しなさい。これ以上、余計な騒ぎを起こすな」「そのとおりだ。本当に裁判沙汰になれば、離婚の事実だけが公になるより、会社の株価ははるかに大きく下落するぞ」「......」海渡は、身体の横へ垂らしていた両手を突然、固く握りしめた。「わかったよ」海渡は、ようやく離婚協議書を受け取った。ペンを握る指にますます力がこもり、関節が白く浮き上がる。手の甲には、何本もの血管が盛り上がっていた。ペン先は署名欄の上で止まったまま、なかなか下ろすことができない。――梨沙が、離婚を切り出すはずなどない。何もかも捨ててまで、自分のもとを去ろうとするはずがない。海渡の瞳は焦点を失いそうなほど暗く沈んだ。それでも一画ずつ、離婚協議書に自分の名前を書き込んでいく。署名を終えると、指から力が抜けた。ペンが床に落ち、乾いた音を立てる。森下はすぐに協議書を回収した。「この離婚協議書に署名された以上、飛田さんが離婚に同意されたものとみなされます。それでは、私および依頼人と一緒に区役所へ行き、離婚の申請手続きを行ってください」海渡は反射的に答えた。「今日は時間がない。今度にしろ」森下は腕時計を確認した。その声は、機械のように終始落ち着いていた。「すでに予約
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第169話

秋子も望も、梨沙はいつ帰ってくるのかと千鶴に何度も尋ねた。遠くの空が次第に暗くなっていくのを見つめながら、千鶴の不安もますます膨らんでいった。午後8時。梨沙はまだ帰ってこない。電話も相変わらずつながらなかった。千鶴はもう我慢できず、礼都へ電話をかけた。「土岐さん、お忙しいところ申し訳ありません。今日、梨沙から何か連絡はありませんでしたか?まだ帰ってこないうえに、電話もつながらなくて......少し心配なんです」礼都は答えた。「わかりました。こちらからもかけてみます」千鶴はすぐに電話を切った。礼都は手元の仕事を中断し、眉間を揉んだ。そして梨沙へ電話をかける。千鶴の言ったとおり、誰も出なかった。「唐沢」唐沢が外から入ってきた。「土岐様」礼都は命じた。「秋谷が今日、区役所を出てからどこへ向かったのか調べろ」唐沢は返事をすると、すぐに調査へ向かった。――その頃。海渡は終始、冷えきった表情を浮かべ、その目には荒々しい怒りが満ちていた。隣に座る明里は、しばらく声をかけることさえできなかった。夜が深くなっていくのを見て、ようやく彼のそばへ近づき、小声で言う。「海渡さん、何か食べましょう。今日は一日、何も食べていないでしょう?身体を壊してしまわないか心配なの......」海渡は目を伏せていた。長いまつげが、その奥で渦巻く感情を覆い隠している。「腹は減っていない」明里は懸命になだめた。「どれほど腹が立っていても、こんなことになったのはあの人が勝手な真似をしたせいよ。私にこんな態度を取っても仕方ないでしょう?私は海渡さんを裏切ってなんかいない。それに、お腹にはあなたの子どもまで......」その言葉を聞き、海渡はゆっくりと顔を上げた。明里の下腹部から、少しずつ上へ視線を移す。「出ていけ」明里は呆然とした。たちまち目が赤くなる。「私のせいなの?梨沙さんはもう耳が聞こえているみたいだと、私は前に言ったのに......なのに海渡さんは梨沙を信じて、私を信じなかった。だからあの人に調べる時間を与えてしまった。海渡さんの不倫の証拠まで握られて、株主たちの前で離婚を迫られて......あのとき私を信じてくれていたら、こんなことにはならなかったというのに....
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第170話

しかし離婚の件が、明日の株主総会で障害になる可能性は高かった。海渡は深く息を吸った。どうしても苛立ちを抑えられない。明里は海渡の腹を指先でつつき、そっと言った。「何を恐れているの?あの人の息子はとっくに亡くなっているし、もうあの年齢では子どもも産めないでしょう?今の飛田家で、後継者は海渡さんだけ。この会社は遅かれ早かれ、海渡さんのものになるわ」そう言うと、明里は顔を上げた。海渡を見つめ、期待を込めて続ける。「あの女、突然事故にでも遭って死んでくれたらいいのに......」海渡は目を細めた。しかし、何も答えなかった。明里は話題を変えた。「海渡さん、もう離婚することは決まったんでしょう?正式に離婚が成立したら、私たちも婚姻届を出しましょうよ。自分の子どもが、生まれたときから婚外子と呼ばれるのは嫌でしょう?」婚外子――その言葉は、海渡の心に一生消えることのない傷痕を残していた。彼は淡々と言った。「そんなことを言える奴がいるものか」明里は唇を尖らせた。「それでも、ちゃんと結婚しましょうよ。明日、フォトスタジオを予約するわ。お腹が大きくなって体型が変わる前に、先に結婚記念写真を撮っておきましょう」海渡は明里を離した。「最近は忙しい。また今度にしよう」明里は不満そうに唇を尖らせる。海渡は笑って言った。「俺の息子が君の腹の中にいるんだ。何を心配している?」明里は黙り込んだ。海渡はおかしそうに彼女の顎を持ち上げた。「怒ったのか?」明里は鼻を鳴らした。「怒るわけないでしょう?飛田社長のおっしゃることは、いつだって正しいですもの。そうだ、両親はもう実家へ帰らないことにしたの。先に二人に家を買ってあげたらどうかしら?私の両親なんだから、産後の間も面倒を見てもらえるでしょう?」海渡は短く返事をした。「金は全部、君が管理している。好きにすればいい」――唐沢が慌ただしく入ってきた。その表情はひどく険しい。急いで礼都へ報告する。「調べがつきました。ただ、秋谷さんを連れ去った人物が......」唐沢はそこで口をつぐんだ。何か重大な事情を隠しているような様子だった。礼都の表情が、少しずつ冷えきっていく。「分かった」彼は立ち上がると、足早に
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