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出発前夜

 旅行前日の夜。 佳苗はベッドの上へ小さめのボストンバッグを広げていた。「これで忘れ物ないかな……」 着替え。 化粧ポーチ。 充電器。 財布。 確認しながら一つずつバッグへ入れていく。 その様子を、リビングから戻ってきた雄吾が見て小さく笑った。「もう準備してるのか」「はい」 佳苗は振り返って微笑む。「明日の朝、慌てたくないので」「らしいな」 雄吾はベッドの横へ腰を下ろした。「確認するか?」「お願いします」 佳苗は嬉しそうにバッグを差し出す。「着替え」「あります」「充電器」「あります」「財布」「あります」「免許証」「……あっ」 佳苗の動きが止まった。「忘れてました」 慌てて財布を開き、免許証ではなく運転免許を持っていないことに気付いて苦笑する。「私は免許を持ってないんでした」「保険証は?」「あります」 財布の中を確認して、ほっと胸をなで下ろした。「それで十分だ」 雄吾は笑う。「危ないところでした」「いや、確認したから大丈夫だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 荷造りを終えると、佳苗はバッグのファスナーを閉める。「これで安心です」「あとは寝るだけですね」「ああ」 雄吾は時計へ目を向けた。「明日は早めに出る」「渋滞するかもしれないからな」「はい」 佳苗は頷いた。「お弁当でも作ろうかと思ったんですけど……」「旅行なんだから休め」
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初めての旅行

 翌朝。 佳苗は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。 窓の外を見ると、青空が広がっている。「いいお天気……」 思わず笑みがこぼれた。 身支度を整え、リビングへ向かうと、雄吾もちょうどコーヒーを淹れているところだった。「おはようございます」「おはよう」 雄吾は佳苗の顔を見るなり、小さく笑った。「よく眠れたか?」「はい」 佳苗は頷く。「楽しみで、少し早く起きちゃいました」「俺もだ」 その返事に、佳苗は思わず笑ってしまう。「雄吾さんもですか?」「ああ」 珍しく少し照れたような表情を見せる雄吾に、佳苗の胸はほんのり温かくなった。 二人は軽く朝食を済ませると、荷物を持って部屋を出た。 エレベーターを降り、駐車場へ向かう。 旅行用のボストンバッグをトランクへ積み込み、雄吾が運転席へ乗り込んだ。「忘れ物はないか?」「大丈夫です」「よし」 エンジンが静かにかかる。 車はゆっくりとマンションを出発した。 土曜日の朝ということもあり、道路はまだ比較的空いている。 街並みを抜け、高速道路へ入ると、景色は少しずつ緑へ変わっていった。「わあ……」 佳苗は窓の外を眺めながら、小さく声を漏らす。「もうこんなに景色が違うんですね」「ああ」 雄吾は前を向いたまま頷く。「もう少し走れば山も見えてくる」 佳苗は子どものように窓の外へ見入っていた。 高速道路を走るだけなのに楽しい。 助手席に座っているだけなのに、胸が弾む。「そんなに嬉しいか」 雄吾が少し笑う。「はい」 佳苗は照れもせず頷いた。「だって
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旅館へ向かう道

 サービスエリアを出発してから一時間ほど。 車窓の景色はすっかり街並みから山並みへ変わっていた。「空気まで違う気がします」 佳苗は窓を少しだけ開け、深呼吸をする。 木々の匂いを含んだ風が、優しく頬をなでた。「ああ。この辺りまで来ると、だいぶ涼しいな」 雄吾は穏やかに答える。 道の両脇には新緑が広がり、ときおり小さな川が姿を見せた。「きれい……」 佳苗は思わず声を漏らす。「写真で見るのとは全然違いますね」「実際に来ると分かることも多い」「そうですね」 佳苗は何度も窓の外へ目を向けた。 信号待ちで車が止まるたびに、見知らぬ景色へ視線が吸い寄せられる。 その様子があまりにも楽しそうで、雄吾は思わず笑みを浮かべた。「そんなに珍しいか?」「はい」 佳苗は少し照れながら頷く。「最近は仕事ばかりでしたから」「こうして遠くまで来るだけで、新鮮なんです」「それなら連れてきた甲斐があったな」 その言葉に、佳苗は嬉しそうに笑った。 やがて車は山あいの道へ入る。 緩やかな坂道を登ると、視界がぱっと開けた。「わぁ……!」 佳苗は思わず息を呑む。 眼下には湖が広がっていた。 水面は太陽の光を受けてきらきらと輝いている。「すごい……」「ここは景色がいい」 雄吾が速度を落としながら言う。「あと十分くらいで旅館だ」「もう着くんですね」 佳苗は少し名残惜しそうに景色を眺めた。 もっとずっと見ていたい。 そんな気持ちになるほど、美しい景色だった。 湖沿いの道をしばらく進むと、落ち着いた佇まいの旅館が見えてきた。 木造の
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窓の向こうの景色

「いらっしゃいませ」 仲居に案内され、佳苗たちは旅館の中へ入った。 木の香りがふわりと漂う。 磨き込まれた廊下を歩くだけで、都会の喧騒が遠くなっていくようだった。「こちらのお部屋でございます」 案内された客室の扉が開く。「わぁ……」 佳苗は思わず声を上げた。 畳の香りが心地よい和室。 大きな窓の向こうには、先ほど車から見えた湖が一望できる。 穏やかな水面が陽の光を受けて輝いていた。「すごく綺麗……」 佳苗は窓際まで歩いていく。 思わず両手を窓へ添え、その景色へ見入った。「気に入ったか」 後ろから雄吾が声を掛ける。「はい」 佳苗は振り返り、満面の笑みを浮かべた。「写真で見た以上です」「ここにして良かった」 その笑顔を見て、雄吾も静かに頷いた。 仲居がお茶とお菓子を用意し、館内の案内をして部屋を後にする。 静けさが戻ると、佳苗はようやく大きく息を吐いた。「旅行に来たんですね」 その一言に、雄吾は小さく笑う。「今さら実感したのか」「だって」 佳苗は照れたように笑った。「車に乗っている間は、まだお出掛けって感じだったんです」「でも、このお部屋に入ったら急に実感が湧いてきて」 そう言いながら窓の外を見る。 湖の向こうには緑の山々が広がり、風に揺れる木々が穏やかな音を立てていた。「時間がゆっくり流れてるみたいですね」「ああ」 雄吾も窓の外へ目を向ける。「たまには、こういう時間も必要だ」 佳苗は嬉しそうに頷いた。「少し休憩したら、お散歩しませんか?」「湖の近くを歩いてみたいです」「いいな」 
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湖畔の遊歩道

 旅館を出ると、湖畔へ続く遊歩道には柔らかな陽射しが降り注いでいた。 木漏れ日が石畳を照らし、風が木々の葉を優しく揺らす。「気持ちいいですね」 佳苗は大きく深呼吸をした。 都会では感じられない澄んだ空気に、自然と笑みがこぼれる。「ああ」 雄吾もゆっくりと歩きながら頷いた。「静かだろ」「はい」 耳を澄ますと聞こえてくるのは、鳥のさえずりと風の音、それから湖の水が岸辺へ寄せる穏やかな音だけだった。 しばらく二人は並んで歩く。 急ぐ理由は何もない。 だから歩く速さも自然とゆっくりになる。「そういえば」 佳苗が湖を眺めながら口を開いた。「こうやって何もしない時間って、久しぶりかもしれません」「何もしない?」「はい」 佳苗は少し照れたように笑う。「最近は仕事だったり、資格の勉強だったり、毎日何かしていたので」「今日は景色を見ながら歩いているだけなのに、それだけで楽しいです」 雄吾は静かに頷いた。「何もしない時間も必要だ」「そうですね」 佳苗は湖面へ目を向ける。 水面には空と雲が映り込み、ゆっくりと形を変えていた。「……綺麗」 その一言が自然に漏れる。 雄吾はそんな佳苗の横顔を見つめ、小さく笑った。「写真を撮るか?」「え?」「せっかくだろ」 佳苗は少し驚いたように目を瞬かせた。「いいんですか?」「ああ」 雄吾はスマートフォンを取り出した。「ほら、そこに立って」 佳苗は少し照れながら湖を背に立つ。「こんな感じですか?」「ああ、そのままでいい」 カシャッ、とシャッター音が響いた。「見せてください」
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夕暮れの湖

 ベンチでしばらく景色を眺めたあと、二人は再び遊歩道を歩き始めた。 湖面は少しずつ夕暮れの色を映し始めている。 昼間とは違う柔らかな光が辺りを包み込み、旅館へ戻る人たちがゆっくりと行き交っていた。「夕方も綺麗ですね」 佳苗は立ち止まり、湖を見つめる。 風は少しだけ冷たくなっていたが、それすら心地よかった。「ああ」 雄吾も佳苗の隣へ並ぶ。「同じ景色でも時間が変わると印象が違う」「本当ですね」 佳苗は頷いた。「昼間は明るくて元気な感じでしたけど、今はすごく落ち着きます」 二人はゆっくり歩きながら、小さな橋を渡る。 橋の下では澄んだ水が静かに流れ、小魚が泳いでいるのが見えた。「見てください」 佳苗が少し身を乗り出す。「魚がいます」「落ちるなよ」 雄吾が苦笑しながら佳苗の腕を軽く引く。「大丈夫です」 そう答えながらも、佳苗は少し照れくさそうに笑った。「つい夢中になっちゃいました」「お前はそういうところがある」「え?」「興味を持つと周りが見えなくなる」 佳苗は思わず吹き出した。「否定できません」 資格の勉強を始めた時もそうだった。 気が付けば夢中になって時間を忘れていた。 雄吾も小さく笑う。「だから、たまに周りを見るくらいでちょうどいい」「はい」 二人は橋を渡り終え、湖沿いの道を歩く。 すると、小さな売店が目に入った。 店先には、地元で採れた果物を使ったソフトクリームやジェラートの写真が並んでいる。「あっ」 佳苗の視線がぴたりと止まる。「食べたいか?」 雄吾がすぐに気付いた。 佳苗は少しだけ迷ったような顔をしたあと、小さく笑う。「&helli
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温泉と夕食

 旅館へ戻ると、仲居が笑顔で迎えてくれた。「お帰りなさいませ」「ただいま戻りました」 佳苗も自然と笑顔になる。 外を歩いて少し汗ばんでいたせいか、館内の涼しい空気が心地よかった。「夕食まで、まだ少しお時間がございます」 仲居が案内してくれる。「大浴場も空いておりますので、よろしければご利用ください」 佳苗は思わず雄吾を見た。「温泉……」「行ってこい」 雄吾が穏やかに頷く。「夕食まで四十分くらいある」「じゃあ、お言葉に甘えて」 佳苗は嬉しそうに笑った。「ゆっくり入ってきます」「ああ」 二人はそれぞれ大浴場へ向かう。 ◇◇◇「気持ちいい……」 佳苗はゆっくりと湯船へ肩まで浸かった。 窓の外には新緑が広がり、露天風呂からは湖が少しだけ見える。 風が頬をなで、鳥の声が聞こえてくる。 何も考えず、ぼんやりと景色を眺める。 それだけで、心までほどけていくようだった。 仕事のことも。 資格試験のことも。 今日は全部忘れていい。 そんな贅沢な時間だった。 ◇◇◇ 部屋へ戻ると、雄吾もちょうど戻ってきたところだった。「お帰りなさい」「佳苗もか」「はい」 佳苗は少し照れたように笑う。「すごく気持ちよかったです」「ああ」 雄吾も静かに頷く。「いい湯だった」 その時、部屋の襖が軽く叩かれた。「失礼いたします」 仲居が夕食を運んできたのだ。「どうぞ」 二人はテーブルの前へ座る。 並べられていく料理を見て、佳苗は思わず目を丸くした。
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夜の語らい

 夕食を終え、仲居が食器を下げていく。 部屋には静けさが戻り、窓の外には満天の星空が広がっていた。「少し外へ出てみますか?」 佳苗が窓の外を眺めながら言う。「星がすごく綺麗そうです」「ああ」 雄吾も立ち上がった。「冷えるから、一枚羽織った方がいい」「はい」 佳苗はカーディガンを羽織り、二人で旅館の庭へ出る。 昼間歩いた庭園は、夜になるとまた違う表情を見せていた。 足元には控えめな照明が灯り、虫の声が静かに響いている。「わあ……」 佳苗は思わず空を見上げた。「星、たくさん見えます」 街では見えないほど多くの星が、夜空いっぱいに瞬いていた。「こんなに綺麗なんですね」「ああ」 雄吾も隣で空を見上げる。「東京じゃなかなか見られない」 二人は並んで歩きながら、しばらく黙って星空を眺めた。 言葉はいらなかった。 静かな夜と、美しい景色だけで十分だった。「今日は本当に来て良かったです」 佳苗がぽつりと呟く。「仕事を始めた頃は、旅行なんて考える余裕もありませんでした」 毎日を乗り切るだけで精一杯だった。 生活を立て直すこと。 仕事を覚えること。 資格試験に合格すること。 一つひとつ必死だった。「でも」 佳苗は雄吾へ微笑みかける。「頑張ってきて良かったなって、今日すごく思いました」 雄吾は静かに頷く。「全部、佳苗が積み重ねてきた結果だ」「そうですね」 佳苗も素直に頷いた。 以前なら、きっと否定していただろう。 でも今は、自分の努力を少しだけ認められる。 それもまた、大きな成長だった。 二人は庭のベンチへ腰を
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穏やかな朝

 翌朝。 佳苗は障子の向こうから差し込む柔らかな朝日に目を覚ました。 時計を見ると、まだ午前六時前。 隣の布団を見ると、雄吾も目を開けたところだった。「おはようございます」「おはよう」 二人は小さく笑い合う。「ちゃんと起きられましたね」 佳苗が少し得意そうに言うと、雄吾は苦笑した。「ああ。疑って悪かった」「でしょう?」 そんなやり取りをしながら身支度を整え、旅館の外へ出る。 朝の空気は少しひんやりとしていて、思わず深呼吸したくなるほど気持ちがいい。「静かですね」 佳苗は湖の方へ歩きながら呟く。 昨日は観光客で賑わっていた遊歩道も、この時間はほとんど人がいない。 聞こえるのは鳥のさえずりと、水面を渡る風の音だけだった。「朝の方が好きかもしれません」 佳苗は湖を見つめながら微笑む。「同じ場所なのに、昨日とは全然違います」「ああ」 雄吾も湖面へ目を向ける。 朝日を受けた湖は鏡のように静かで、山々をそのまま映し出していた。 二人は並んで遊歩道を歩く。 途中、小さな桟橋を見つけて足を止めた。「ここ、いいですね」 佳苗は湖へ近づき、水面を覗き込む。「本当に透明……」 底の石まで見えるほど澄んでいた。「冷たそうですね」「触ってみるか?」「いいんですか?」 佳苗はしゃがみ込み、そっと指先だけ水へ触れる。「わっ、冷たい!」 慌てて手を引っ込める姿に、雄吾は思わず笑った。「だから言っただろ」「でも気になったんです」 佳苗も照れ笑いを浮かべる。 二人で笑い合いながら歩き出す。 少し進むと、湖畔に小さな東屋があった。 ベンチへ腰
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旅館をあとに

 朝食を終えたあと。 二人は部屋へ戻り、ゆっくりと帰る支度を始めた。「もう帰るんですね」 佳苗は少し名残惜しそうに窓の外を眺める。 昨日から見慣れた湖は、朝の光を受けて穏やかに輝いていた。「あっという間でした」「ああ」 雄吾も荷物をまとめながら頷く。「一泊だと早いな」 佳苗は最後にもう一度部屋を見回した。 畳の香り。 大きな窓。 窓いっぱいに広がる湖。 ここで過ごした時間が、どれも温かい思い出になっている。「お世話になりました」 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。 雄吾はその様子を見て、小さく笑った。「また来ればいい」「はい」 佳苗は素直に頷いた。 二人は荷物を持って部屋を出る。 フロントでチェックアウトを済ませると、仲居が笑顔で見送ってくれた。「ありがとうございました」「お気を付けてお帰りくださいませ」 佳苗も深く頭を下げる。「ありがとうございました」 旅館を出ると、朝の爽やかな風が吹き抜けた。 雄吾が荷物を車へ積み込み、運転席へ乗り込む。 佳苗も助手席へ座り、シートベルトを締めた。「もう少しここにいたい気もします」 ぽつりと呟くと、雄吾はエンジンをかけながら笑った。「帰れなくなるぞ」「それは困りますね」 佳苗もくすっと笑う。 車は旅館をあとにし、湖沿いの道をゆっくり走り始めた。 昨日歩いた遊歩道。 ジェラートを食べた売店。 朝日を眺めた東屋。 通り過ぎるたびに、一つひとつの思い出が蘇ってくる。「また来ましょうね」 佳苗が窓の外を眺めたまま言う。「ああ」 雄吾は短く答えた。「約束でし
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