جميع فصول : الفصل -الفصل 230

260 فصول

少しずつ任される仕事

 翌週。 佳苗は朝から慌ただしくパソコンへ向かっていた。「佳苗さん、この書類お願いできる?」「はい」 先輩から受け取った契約書を確認し、必要事項を入力していく。 以前は一つひとつ確認してもらいながら進めていた作業も、今ではほとんど一人でできるようになっていた。「できました」「ありがとう」 先輩は内容に目を通し、小さく頷く。「うん、大丈夫」「もう基本的なところは安心して任せられるね」 その言葉に、佳苗は少し照れくさそうに笑った。「ありがとうございます」「でも、まだ分からないことも多いので……」「分からないことは聞けばいいよ」 先輩は穏やかに笑う。「一番困るのは、分からないまま進めちゃうことだから」「はい」 佳苗は素直に頷いた。 それは入社したばかりの頃にも教えられたことだった。 今では遠慮せず質問できるようになり、そのおかげで仕事も覚えやすくなっている。 午後。 課長が佳苗のデスクへやって来た。「佳苗さん」「はい」「来月から担当する取引先だけど、今日から少しずつ書類だけは触ってみようか」「もちろん最終確認は先輩がするから」「分かりました」 佳苗は緊張しながら契約書を受け取る。 会社名。 契約内容。 請求条件。 一つずつ確認しながら、慎重に入力を進めていく。 途中で迷った箇所があり、佳苗は先輩へ声を掛けた。「ここなんですが……」「いいところに気付いたね」 先輩は画面を見ながら説明する。「この取引先だけ処理が少し違うの」「だから毎回契約書を確認する癖をつけると間違えにくいよ」「なるほど」
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頑張りすぎないように

 その日の仕事も、気が付けば定時を少し過ぎていた。「佳苗さん」 パソコンの画面を見つめていた佳苗へ、先輩が声を掛ける。「もうその辺で終わりにしようか」「え?」 佳苗は時計を見て目を丸くした。「あ……もうこんな時間だったんですね」「さっきから見てたけど、一時間近く画面とにらめっこしてたよ」 苦笑する先輩に、佳苗は慌てて頭を下げた。「すみません。確認に時間が掛かってしまって……」「謝ることじゃないよ」 先輩は椅子を引き寄せると、佳苗の画面をのぞき込んだ。「ここ?」「はい。この請求内容が契約書と合っているか、何度見ても不安で……」 先輩は契約書と画面を見比べ、数秒で頷いた。「大丈夫」「ちゃんと合ってるよ」「本当ですか?」「うん」 佳苗はようやく肩の力を抜いた。「ありがとうございます」「佳苗さんは丁寧なのが長所だけど、確認しすぎて手が止まることがあるね」 先輩は穏やかな口調で続ける。「もちろん確認は大事。でも、一度確認して問題がなければ、自分を信じることも必要だよ」 その言葉に、佳苗は静かに頷いた。「……はい」 思い返せば、昔からそうだった。 失敗するのが怖くて、何度も何度も見直してしまう。 慎重なのは悪いことではない。 けれど、それが行き過ぎると、自分自身を苦しめてしまう。「ありがとうございます」「少し意識してみます」「うん。その方が仕事もしやすくなるよ」 会社を出る頃には、空は茜色に染まっていた。 駅へ向かいながら、佳苗は先輩の言葉を思い返す。(自分を信じる、か) 簡単そうで、一番難しい。 でも、今まで積み重ねてきたものがあるからこそ、そう言ってもらえたのだろう。 帰宅すると、雄吾はキッチンで湯を沸かしていた。「おかえり」「ただいま帰りました」「今日は少し遅かったな」「はい。仕事で少し確認に時間が掛かってしまって」 コートを脱ぎながら答えると、雄吾はマグカップを二つ並べた。「コーヒーでいいか?」「はい、お願いします」 二人でソファに腰掛け、淹れたてのコーヒーを口にする。「今日は先輩に、『確認しすぎるところがある』って言われたんです」 佳苗は苦笑した。「失敗するのが怖くて、何度も見直してしまうみたいで」 雄吾は静かに耳を傾けていた。「丁寧なのは佳苗の長所だ」「ただ、そ
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伝えたいこと

 週末の夜。 夕食を終えた佳苗は、洗い物を済ませると、温かいお茶を二人分淹れてリビングへ戻った。 雄吾はソファで本を読んでいた。「お待たせしました」「ああ」 テーブルへカップを置き、佳苗も向かいへ腰を下ろす。 湯気が静かに立ち上る。 部屋には穏やかな空気が流れていた。 けれど佳苗の胸は、少しだけ早く鼓動を打っていた。(今日、話そう) ここ数週間、何度も考えてきた。 まだ早いのではないか。 もっと貯金してからの方がいいのではないか。 そんな迷いもあった。 それでも、この気持ちは隠したままにしたくなかった。「雄吾さん」「どうした」 静かな声が返ってくる。 佳苗は両手でカップを包み込み、小さく息を吸った。「あの……お話ししたいことがあるんです」 雄吾は本を閉じ、佳苗へ向き直る。「聞こう」 その優しい眼差しを見て、一瞬だけ言葉が詰まる。 やっぱり、やめようか。 そんな気持ちが胸をよぎる。 でも、首を横に振った。「私……」「仕事にも慣れてきて、資格も取れて、少しずつ貯金もできるようになりました」「ああ」「だから、その……」 佳苗は視線を落とした。「そろそろ、一人暮らしをしてみようと思うんです」 その瞬間だった。 部屋の空気が変わった。 雄吾は何も言わない。 沈黙が静かに流れる。 佳苗は恐る恐る顔を上げた。 雄吾は表情こそ変わらないものの、その瞳だけが驚いたように揺れていた。「……本気か」「はい」 佳苗はゆっくり頷く。
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すれ違う想い

「認められない……?」 佳苗は思わず聞き返した。 雄吾は静かに頷く。「ああ」 それだけだった。 理由も説明もない。 ただ、はっきりと反対された。 佳苗は困ったように笑う。「雄吾さん、私、まだ『引っ越します』って言っているわけじゃないんです」「これから準備をして、その先で考えたいっていう話で……」「それでもだ」 雄吾は短く答えた。「一人暮らしをする必要はない」「どうしてですか?」 佳苗の声に、戸惑いが混じる。「仕事も続いていますし、貯金も少しずつできています」「資格も取りました」「だから、自分で生活する力を身につけたいだけなんです」 雄吾はしばらく黙っていた。 やがて、静かな声で言う。「今も生活できている」「それは……」 佳苗は言葉に詰まった。「雄吾さんが支えてくださっているからです」「だからこそ、自分でもできるようになりたいんです」「甘えたままではいたくありません」 その言葉を聞いた雄吾の表情が、わずかに曇る。「佳苗」「はい」「俺は、お前が甘えていると思ったことは一度もない」 佳苗は目を丸くした。「でも……」「家のことをしてくれている」「料理も、掃除も」「仕事も頑張っている」「それを甘えだと思ったことはない」 雄吾は落ち着いた口調だった。 だからこそ、その言葉はまっすぐ胸へ届く。「ありがとうございます」 佳苗は微笑んだ。「そう言っていただけるのは、本当に嬉しいです」「でも、それとこれとは別なんです」 雄吾の眉がわずかに動く。「私は、一度ちゃんと自分の力だけで生活してみたいんです」「誰かに支えてもらうんじゃなくて」「自分で家賃を払って、自分で生活して……」「そういう経験をしたいんです」 静かな沈黙が流れる。 雄吾は佳苗を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。「……つまり」「はい」「ここを出たいということだな」 佳苗は息をのんだ。「違います」 思わず声が大きくなる。「そういう意味じゃありません」「雄吾さんと一緒にいるのが嫌とか、そういうことではないんです」「じゃあ、なぜ出ていく」 その問いに、佳苗は言葉を探す。「それは……」 何度も考えてきたはずなのに、うまく説明できない。「自立したいからです」「そのために、一人暮らしを経験したくて……」「自立は
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伝わらない理由

 佳苗は膝の上で手をぎゅっと握り締めた。「雄吾さん」 静かに呼び掛ける。「私は、本当にここを出たいわけじゃないんです」 雄吾は黙って佳苗を見つめていた。「今の生活は幸せです」「毎日仕事へ行って、帰ってきて、一緒にご飯を食べて……」 佳苗は少しだけ笑った。「旅行も、とても楽しかったです」「ああ」 雄吾は短く答える。「だから」 佳苗は続けた。「この生活が嫌になったわけじゃありません」「じゃあ、なぜだ」 また同じ問いだった。 佳苗は一度目を閉じる。 どう言えば伝わるのだろう。 ずっと考えてきたはずなのに、言葉が見つからない。「私……」「家を飛び出したとき、何もありませんでした」 雄吾は静かに耳を傾ける。「仕事もなくて、お金もなくて」「住む場所もなくて、本当にどうしたらいいか分かりませんでした」 あの頃を思い出すだけで、胸が締めつけられる。「そんな私を助けてくださったのが、雄吾さんです」「今でも、そのことには感謝しています」 佳苗はまっすぐ雄吾を見つめた。「だからこそなんです」「……」「あの頃の私は、一人では何もできませんでした」 声は震えていなかった。 それは、ずっと自分の中で向き合ってきた気持ちだからだ。「私は、もうあの頃の自分には戻りたくないんです」「誰かに助けてもらうだけじゃなくて」「自分の力でも立っていられる人になりたいんです」 部屋は静まり返っていた。 雄吾はしばらく何も言わなかった。 やがて静かに口を開く。「佳苗」「はい」「俺は、お前が一人で立てない人間だと思ったことはない」 佳苗は顔を上げる。「仕事も続けている」「資格も取った」「新しい仕事も任されている」「お前はもう、あの頃のお前じゃない」 その言葉に、佳苗の胸が熱くなる。「ありがとうございます」 小さく微笑んで答えた。「そう言っていただけるのは、本当に嬉しいです」「でも……」 佳苗はゆっくりと首を振る。「それを、一番自分で信じられるようになりたいんです」「自分にも、一人で生活できる力があるんだって」「一度、自分自身で証明したいんです」 雄吾は静かに息を吐いた。「佳苗」「はい」「俺は、お前を養っているつもりでここに住まわせているわけじゃない」 佳苗は静かに雄吾を見つめる。「お前と一緒に
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譲れないもの

 リビングには重い沈黙が流れていた。 佳苗は何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。 そんな佳苗を見つめながら、雄吾が静かに口を開いた。「一つ、聞いてもいいか」「……はい」「もし、お前が一人暮らしを始めたとして」 雄吾は少し間を置く。「その先はどうするつもりだ」 佳苗は一瞬、意味を考えた。「どうする、とは……?」「ずっと一人で暮らすのか」「それとも、いずれ結婚したらまた誰かと暮らすのか」 佳苗は少し驚いたように目を瞬かせた。「それは……」 考えたこともなかった。 自立したいという気持ちばかりで、その先までは想像していなかったのだ。「結婚したら……一緒に暮らすと思います」 素直に答える。 雄吾は静かに頷いた。「なら、なおさら分からない」「え……?」「自立するために一人暮らしをする」「だが、将来また誰かと暮らすなら、その一人暮らしは何のために必要なんだ」 佳苗は言葉を失う。 雄吾の言うことにも、一理ある。 けれど。「必要なんです」 佳苗はゆっくりと顔を上げた。「うまく説明できないんですけど……」「私は、自分で生活を成り立たせたっていう経験が欲しいんです」「経験……」「はい」 佳苗は頷く。「誰かと一緒に暮らすことと、一人で暮らせることは、私の中では違うんです」「一人でも生活できるけど、一緒にいたいから一緒にいる」「そう思える自分になりたいんです」 その言葉を聞いた雄吾は、しばらく黙っていた。
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本当の気持ち

「その幸せを、自分から終わらせようとしないでくれ」 雄吾の言葉が、静かな部屋に響いた。 佳苗は息をのむ。「終わらせるなんて……」 首を横に振る。「そんなつもりじゃありません」「私、一緒にいたくないなんて、一度も思ったことありません」 雄吾は何も答えない。 その沈黙が、かえって佳苗を焦らせた。「雄吾さん」 一歩、近づく。「私は、この家を出たいんじゃないんです」「一人で生活できるようになりたいだけなんです」「同じことだ」 静かな声だった。 だが、その一言は重かった。「お前が一人暮らしをするなら、この家を出ることになる」「それは事実だ」 佳苗は言葉を失う。 確かに、その通りだった。 どれだけ気持ちを説明しても、結果だけ見れば、自分はここを出ると言っている。「でも……」「佳苗」 雄吾が遮る。「俺は、お前を引き留めるために言っているんじゃない」「……え?」「お前が本当に、この家を出たいなら」 そこで雄吾は少しだけ目を伏せた。「止める資格はない」 佳苗は目を見開く。 そんなことを言われるとは思っていなかった。「でも」 雄吾はゆっくり顔を上げる。「お前は『出たいわけじゃない』と言った」「はい」「『一緒にいたくないわけでもない』とも言った」「はい」「だったら」 雄吾はまっすぐ佳苗を見つめた。「なぜ、一緒にいる方法を考えない」 佳苗は返事ができなかった。「自立したい」「その気持ちは分かる」「だが、その方法が一人暮らししかないとは、俺には思えない」 その言葉に、佳苗ははっとする。
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一人で考える時間

 その夜。 話し合いを終えた二人は、しばらくリビングで黙ったまま座っていた。 時計の針だけが静かに時を刻んでいる。「……今日は、もう休みましょうか」 佳苗が小さく言った。「ああ」 雄吾も静かに頷く。 それ以上、言葉は続かなかった。「おやすみなさい」「おやすみ」 いつものように、それぞれ自分の部屋へ向かう。 扉を閉める音が、今夜はいつもより少しだけ大きく聞こえた。 ベッドへ入っても、佳苗はなかなか眠れなかった。 天井を見つめながら、何度も今日の会話を思い返す。(伝わらなかった……) そう思うたびに胸が苦しくなる。 自立したい。 その気持ちは本当だ。 でも、それは雄吾と離れたいという意味ではない。 むしろ、一緒にいたいと思っているからこそ、自分も対等に隣へ立てる人になりたい。 それなのに、うまく言葉にできなかった。(私の言い方が悪かったのかな……) 布団を胸まで引き上げ、小さく息をつく。 雄吾を悲しませたかったわけではない。 そんなことだけは、絶対になかった。 一方その頃。 雄吾も自室でデスクへ向かっていた。 開いたままの資料へ視線を落としているものの、一文字も頭へ入ってこない。 静かに資料を閉じる。 そして椅子へ深くもたれ掛かった。(一緒に暮らしたくないわけではない) 佳苗は何度もそう言っていた。 それは分かっている。 分かっているのに。 『一人暮らしをしたい』という言葉だけが、どうしても胸へ引っ掛かって離れなかった。 自分は、あまりにも動揺してしまった。 もっと落ち着いて話を聞くべきだったのではないか。 そんな思いが胸をよぎる。 けれど同時に、簡単に「分かった」と言える話でもなかった。 佳苗がこの家からいなくなる。 その未来を想像しただけで、胸の奥が重くなる。 雄吾は静かに目を閉じた。 答えはまだ出ない。 だからこそ、佳苗へ「考えよう」と言ったのだ。 自分も考えなければならない。 佳苗にとって、本当の自立とは何なのか。 そして、自分にできることは何なのか。 翌朝。 佳苗は少し早く起きると、いつものように朝食の準備を始めた。 味噌汁を温め、魚を焼く。 包丁の音だけがキッチンへ響いていた。 やがてリビングへ雄吾が入ってくる。「おはよう」「……おはようございます」
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それぞれの答え

 朝食を食べ終えたあとも、二人はしばらく席を立たなかった。 食器は空になっている。 けれど、どちらも口を開くきっかけがつかめずにいた。「……昨日のことですが」 先に口を開いたのは佳苗だった。 雄吾は静かに顔を上げる。「はい」「少し考えました」 佳苗は両手を膝の上へ置き、ゆっくりと言葉を選ぶ。「私は、一人暮らしがしたいんじゃないんです」 雄吾は黙って聞いている。「自立したいんです」「そのためには一人暮らししかないと思っていました」「でも、昨日雄吾さんに『それ以外の方法はないのか』って言われて……」 佳苗は少しだけ笑った。「考えたら、自分でも答えが分からなくなってしまいました」 その正直な言葉に、雄吾の表情が少しだけ和らぐ。「そうか」「はい」 佳苗は頷いた。「だから、少し時間をください」「勢いで決めたくありません」「ちゃんと考えて、それでも同じ答えなら、その時にもう一度お話しさせてください」 雄吾は静かに息を吐いた。「分かった」 短い返事だった。 けれど、その一言だけで佳苗の肩から力が抜ける。「ありがとう……ございます」 雄吾はコーヒーカップへ視線を落としたまま言う。「俺も昨日、考えた」 佳苗は顔を上げる。「お前の話を聞いて、すぐに『認められない』と言った」「それは悪かったと思っている」 佳苗は首を横に振った。「いいえ」「私も突然でしたから」「いや」 雄吾は静かに続ける。「理由くらい、先に聞くべきだった」 その言葉に、佳苗は少しだけ目頭が熱くなる。 雄吾
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前を向くために

 その日から、二人は以前と変わらない生活へ戻った。 佳苗は仕事へ行き、雄吾も会社へ向かう。 夕方になれば「ただいま」と「おかえり」を交わし、一緒に夕食を囲む。 何も変わらない。 けれど、お互いの中には考え続けるものがあった。 数日後。 会社で仕事を終えた佳苗は、更衣室で制服から私服へ着替えていた。「佳苗さん、最近仕事楽しそうだね」 同期が笑いながら声を掛けてくる。「そう見えますか?」「うん。前より余裕がある感じ」 佳苗は少し照れくさく笑った。「まだ覚えることばかりですよ」「でも、毎日少しずつできることが増えているので」「それって一番楽しい時期かもね」 同期の何気ない言葉に、佳苗は小さく頷いた。 確かにそうだった。 昨日できなかったことが、今日はできる。 その積み重ねが嬉しい。 会社を出て駅へ向かう途中、佳苗はふと立ち止まった。 目の前には、以前何度も足を止めた不動産会社がある。 ガラスには新しい物件情報が貼り出されていた。 佳苗は少しだけ眺める。 そして、静かに微笑んだ。(今は違う) 以前なら、「一人暮らし」という言葉だけを見て心が動いていた。 でも今は違う。 大切なのは部屋を借りることではない。 自分がどう生きていきたいかだった。 その答えは、まだ見つかっていない。 だから焦る必要もない。 佳苗はそのまま歩き出した。 マンションへ帰ると、今日は雄吾の方が少し遅いようだった。 佳苗は夕食の支度を始める。 野菜を切り、鍋へ入れる。 味噌汁の香りが部屋へ広がっていく。 しばらくして玄関のドアが開いた。「ただいま」「おかえりなさい」 佳苗は笑顔で迎える。
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