جميع فصول : الفصل -الفصل 70

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映っていたもの

 翌朝。 佳苗は朝食の準備をしながら、 昨夜のことを思い出していた。 雄吾の表情。 あの冷たい目。 何かあったのは間違いない。 けれど。 聞いても教えてくれなかった。 そのことが少し気になっていた。 味噌汁を温めながら考えていると。 背後から声がした。「早いな」 振り返る。 雄吾だった。「先輩こそ」「仕事だ」 いつもの返事。 佳苗は少し笑う。 その時。 雄吾が静かに言った。「昨日の件だが」 佳苗の手が止まる。 やっぱり。「管理会社から映像が届いた」 胸が重くなる。 雄吾はテーブルへスマホを置いた。「見るか?」 佳苗は迷う。 見たくない。 でも。 知らないままも嫌だった。「……見ます」 小さく頷く。 映像は数十秒だった。 マンションのエントランス。 そして。 帽子を深く被った男。 悟だった。 佳苗は息を呑む。 見間違えようがない。 何度も見てきた後ろ姿。 悟は周囲を見回し。 そのまま建物へ入っていく。 しばらくして。 何かを持たない状態で出てきた。 紙袋だ。 佳苗は画面から目を逸らした。「……本当に」 声が掠れる。 本当に来ていた。 夢でも思い込みでもない。 現実だ。「前にも来ていましたけど……」 佳苗は唇を噛む。「まさか、また来るとは
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見ないという選択

 その日の午後。 佳苗は自分の部屋で過ごしていた。 何度もスマホへ手を伸ばしかけては、やめる。 気になる。 何を書かれているのか。 どんな記事なのか。 本当は見たい。 でも。 見たら傷つく気もしていた。「……ダメダメ」 小さく呟く。 このまま部屋にいても考えてしまうだけだ。 気分を変えよう。 そう思い、佳苗は部屋を出た。 コーヒーでも淹れよう。 キッチンへ向かおうとして。 ふとリビングを見る。 そこには雄吾がいた。 ノートパソコンを開き、仕事をしているらしい。 真剣な横顔。 普段と変わらないはずなのに、仕事中の姿はどこか近寄りがたい。 佳苗は思わず足を止めた。「気になるか」 突然声が飛んできて、佳苗は肩を震わせた。「えっ」「記事」 雄吾は画面から目を離さないまま言った。 佳苗は苦笑する。「そんなに分かりやすいですか」「ああ」 淡々とした返事。「朝から何回もスマホを見てる」「数えてたんですか」「勝手に目に入る」 佳苗は言葉に詰まる。 やっぱりよく見ている。 その時。 スマホが震えた。 今度は雄吾の方だ。 短く画面を確認する。 そして。 数秒後。「三浦だ」 佳苗は少し緊張した。 雄吾は通話へ出る。『記事を確認しました』 三浦の落ち着いた声が聞こえる。『内容自体は新しい情報ではありません』 佳苗は少しだけ息を吐く。『ただ、ご主人の投稿をまとめた上で、かなり煽る形になって
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知らなくていいもの

 その日の夕方。 佳苗は夕食の準備をしていた。 包丁を握りながら、 ふと気づく。 最近。 料理をしている時間が増えた。 少し前までは、 何を食べたかも覚えていない日が多かったのに。 今は違う。 献立を考えて。 買い物をして。 料理をする。 そんな当たり前のことが、 少し嬉しかった。 その時。「危ない」 低い声が飛んできた。「え?」 次の瞬間。 佳苗は指先に痛みを感じた。「あっ」 包丁で切った。 ほんの少しだったが、 赤い血が滲む。「だから言っただろ」 いつの間にか雄吾が隣へ来ていた。「大丈夫です、これくらい」「座れ」「でも」「座れ」 有無を言わせない声だった。 佳苗は観念して椅子へ腰掛ける。 雄吾は救急箱を持ってきた。「先輩」「黙ってろ」 そう言いながら、 指先へ絆創膏を貼る。 その手付きは妙に慣れていた。「……慣れてますね」「昔、部活でよく怪我人が出た」 佳苗は小さく笑う。 大学時代。 雄吾は何でもできる人だった。 勉強も。 スポーツも。 人望も。 だから。 きっと今も変わらないのだろう。 その時。 雄吾がふいに言った。「記事は見てないな」 佳苗は少し驚く。「見てません」「偉い」 まただ。 佳苗は苦笑する。「本当に子供扱いですよね」「ああ」 即答だった。 だが。 今回は少し違った。 雄吾は佳苗の指を離しながら言う。「お前、自分を傷つける方向の好奇心だけは強いからな」 佳苗は言葉を失う。 否定できなかった。 気になる。 知りたい。 そして傷つく。 それを何度も繰り返してきた。「……そうかもしれません」 小さく認める。 すると。 雄吾は珍しく少しだけ笑った。「少しか?」「少しじゃないですね」 佳苗も笑う。 その時だった。 スマホが震えた。 今度は佳苗の方だった。 画面を見る。 母からの着信。 佳苗の表情が少し強張る。 雄吾もそれに気づいたらしい。「出るか」 佳苗は迷う。 でも。 逃げ続けるわけにもいかない。「……出ます」 通話ボタンを押した。『佳苗?』 母の声だった。 少し疲れているように聞こえる。「どうしたの?」 すると。 母は少し言いづらそうに口を開いた。『今日ね……』 嫌
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分かってもらえないこと

『悟さんが、また来たの』 母の言葉に。 佳苗は息を呑んだ。「また……?」『今日は大騒ぎしたわけじゃないの』 母は慌てたように続ける。『少し話をして帰っただけなんだけど……』 佳苗は黙る。 それでも。 母の家まで行っている時点で十分だった。『佳苗』 母が静かに言う。『一度だけでも話せない?』 佳苗は目を閉じた。 やっぱり。 そう来ると思った。「お母さん」 佳苗はゆっくり口を開く。「私、もう決めてるの」『でも佳苗……』「話し合いなら弁護士さんを通してる」『そういうことじゃなくて』 母の声が少し強くなる。『夫婦なんだから、一度くらい顔を合わせて話してもいいんじゃないの?』 佳苗は唇を噛んだ。 どうして。 どうして誰も。 自分が怖いと思っていることを分かってくれないのだろう。「無理なの」 声が少し震える。「今は会いたくない」『でも悟さんも苦しんでるのよ』 その言葉に。 佳苗は目を閉じた。 母は悪い人じゃない。 娘を傷つけたいわけでもない。 それは分かっている。 でも。 いつもそうだ。 苦しんでいる人がいると。 自分が我慢する側になる。「ごめん」 佳苗は静かに言った。「私は会わない」 そして。 通話を終えた。 静かな部屋。 佳苗はスマホを握ったまま動けなかった。「また説得されたか」 雄吾の声。 佳苗は苦
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変わり始めた距離

 夕食の準備は思った以上に順調だった。 いや。 正確には。 佳苗が準備し、雄吾が邪魔をしなかったからだ。「先輩」「何だ」「その玉ねぎ、まだ切れてません」 佳苗が指摘すると。 雄吾は手元を見下ろした。「切ってる」「大きすぎます」 明らかに大きかった。 カレー用かと思うほどだ。 味噌汁の具には見えない。 佳苗は思わず笑ってしまう。「料理しない人ですね」「否定はしない」 雄吾も珍しく素直だった。 そのやり取りだけで、 少し気持ちが軽くなる。 先ほどまで母との電話で沈んでいたことが、 嘘みたいだった。 その時。 雄吾がふと手を止めた。「佳苗」「はい?」「今日は断ったな」 佳苗は目を瞬かせる。 母との電話のことだろう。「……はい」「前なら断れなかった」 静かな声。 佳苗は苦笑した。 その通りだった。 昔なら。 母に頼まれた時点で会っていた。 嫌でも。 怖くても。 相手が困っているなら仕方ないと思っていた。「少しは成長したかも」 ぽつりと呟く。 すると。 雄吾は小さく頷いた。「ああ」 その一言が妙に嬉しかった。 認められたような気がして。 佳苗は照れ隠しのように鍋へ視線を落とす。 その時だった。 スマホが震える。 佳苗の身体がわずかに強張る。 だが。 以前ほどではなかった。 画面を見る。 知らない番号。 
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揺れない答え

 翌日。 佳苗は朝から落ち着いていた。 不思議なくらい。 昨日のメッセージを見ても、 以前のように眠れなくなることはなかった。 もちろん。 怖くないわけじゃない。 でも。 会わなければならないとは思わなかった。 それだけでも大きな変化だった。 朝食の片付けを終え。 佳苗は温かいお茶を淹れる。 その時。 スマホが震えた。 佳苗は反射的に画面を見る。 知らない番号。 昨日とは別だった。 思わず眉を寄せる。 だが。 今回は少し違う。 慌てなかった。 画面を伏せる。 それだけだった。 その様子を見ていた雄吾が言う。「成長したな」「また子供扱いしてます?」「してる」 即答だった。 佳苗は苦笑する。 すると。 雄吾のスマホが震えた。 今度は仕事の連絡らしい。 短く確認したあと、 立ち上がる。「少し出る」「お仕事ですか?」「ああ」 佳苗は頷いた。 最近になって気づいた。 雄吾はずっと忙しい。 それなのに。 自分のことにも時間を使っている。 その事実が少し申し訳ない。 その時。 雄吾がこちらを見る。「何だ」「え?」「顔に出てる」 佳苗は思わず目を逸らした。「……ごめんなさい」「何がだ」「迷惑かけてるなって」 正直に言う。 すると。 雄吾は小さくため息を吐いた。「まだ言うか」「で
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一人の時間

 雄吾が出掛けたあと。 部屋は静かになった。 佳苗はソファへ座り、温くなったお茶を飲む。 少し前までなら。 一人になると不安だった。 スマホが気になって。 SNSが気になって。 悪いことばかり考えていた。 でも今日は違う。「……掃除でもしようかな」 ぽつりと呟く。 時間はある。 やることもある。 そう思えるだけでも進歩だった。 佳苗は立ち上がる。 自分の部屋を片付け。 洗濯物を畳み。 棚の整理を始める。 その時だった。 引き出しの奥から一冊のアルバムが出てきた。「あ……」 思わず手が止まる。 大学時代の写真だった。 懐かしい。 そう思いながらページをめくる。 そこには。 若い頃の自分たちがいた。 友人たち。 サークル仲間。 そして。 悟。 笑っている。 自分も笑っている。 佳苗はしばらく写真を見つめた。 あの頃。 幸せだったと思う。 少なくとも。 そう信じていた。 その時。 一枚の写真に目が止まる。 集合写真の端。 少し離れた場所に雄吾が写っていた。 他の人たちはカメラを見ている。 なのに。 雄吾だけは違った。 視線の先にいるのは。 佳苗だった。 佳苗は小さく目を見開く。 そして。 ふっと笑った。「……本当だったんだ」 前に聞いた。 大学時代から好きだったと。
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変わっていくもの

 夕食を終えたあと。 佳苗は食器を洗いながら、 先ほどの会話を思い出していた。『気づかれたら困ると思ってた』 雄吾らしいと思う。 あの人は昔からそうだった。 自分のことより、 相手を優先する。 だから。 何も言わなかったのだろう。 佳苗は蛇口を閉める。 胸の奥が少しだけ苦しかった。 もし。 もっと早く気づいていたら。 そんなことを考えてしまう。 でも。 今さら意味のない話だ。「何考えてる」 背後から声がした。 佳苗は肩を震わせる。「びっくりした……」 振り返る。 雄吾だった。 いつの間にか後ろに立っている。「顔が難しい」 佳苗は苦笑した。「そんな顔してました?」「ああ」 即答だった。 少し悔しい。 本当に隠し事ができない。 その時。 雄吾が食器を一枚手に取った。「先輩?」「運ぶくらいはできる」 佳苗は思わず笑う。「今日はやたら働きますね」「昨日、お前に料理させすぎた」「そんなことないです」 だが。 雄吾は聞いていない。 そのまま食器を運んでいく。 佳苗はその背中を見つめた。 昔は知らなかった。 こういう人だということを。 仕事ができて。 冷静で。 何でも一人でこなしてしまう人。 そう思っていた。 でも。 本当は違う。 不器用で。 言葉が足りなくて。 優しい。 佳苗は小さく笑った。
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久しぶりの約束

 週末。 少し出掛けるか。 雄吾の言葉は、それからも佳苗の頭に残っていた。 とはいえ。 特別な意味があるわけではない。 たぶん。 ずっと家にいるから気分転換だ。 そう分かっている。 分かっているのに。 なぜか落ち着かなかった。 翌日の朝。 佳苗はクローゼットの前で悩んでいた。「何着ればいいんだろう……」 思わず呟く。 外出自体が久しぶりだった。 離婚問題が始まってからは、 最低限の買い物くらいしかしていない。 その時。 部屋のドアがノックされた。「佳苗」 雄吾の声だった。「はい」「準備できたか」「もう少しです」 慌てて返事をする。 すると。「急がなくていい」 低い声が返ってきた。 佳苗は小さく息を吐く。 焦っているのは自分だけらしい。 十分ほどして部屋を出る。 リビングでは雄吾がコーヒーを飲んでいた。 佳苗の姿を見る。 そして。 一瞬だけ視線が止まった。「……何ですか」 佳苗は落ち着かなくなる。 すると。 雄吾は少しだけ目を逸らした。「いや」「何か言ってください」「別に」 明らかに何かある。 だが。 結局それ以上は言わない。 佳苗は少しだけ不満だった。 その時。 雄吾が立ち上がる。「行くぞ」「どこへ行くんですか?」「着いてからのお楽しみだ」 佳苗は目を丸くした。 そんな言い方をする人だっただろ
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穏やかな場所

 電車を降りたあと。 佳苗は周囲を見回した。「ここ……」 見覚えがある。 いや。 正確にはテレビや雑誌で見たことがあった。「植物園ですか?」「ああ」 雄吾が短く答える。 佳苗は少し驚いた。 もっと賑やかな場所を想像していたからだ。 テーマパークとか。 ショッピングモールとか。 そういう場所を。「嫌だったか」「いえ」 佳苗は首を振る。「むしろ安心しました」 人混みはまだ少し苦手だった。 その言葉に。 雄吾は小さく頷く。 二人は園内へ入った。 広い。 思っていた以上に広い。 季節の花々が咲き。 緑が広がっている。 歩いているだけで心が落ち着く。「綺麗ですね」 佳苗が呟く。「ああ」 雄吾も周囲を見渡した。 その時。 一人の子どもが走っていく。 その後を追いかける母親。 笑い声。 穏やかな休日。 佳苗は少しだけ目を細めた。 こんな時間を過ごすのは久しぶりだった。 その時。 ふと視線を感じる。 振り返る。 雄吾だった。「何ですか?」「いや」 まただ。 最近よくある。 何か言いたそうで。 結局言わない。 佳苗は苦笑した。「先輩、それ多いですよね」「何がだ」「何でもないってやつです」 雄吾は少し黙る。 そして。「言ったら怒るだろ」「内容によります」 即答すると。
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