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穏やかな場所

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-06-06 15:20:33

 電車を降りたあと。

 佳苗は周囲を見回した。

「ここ……」

 見覚えがある。

 いや。

 正確にはテレビや雑誌で見たことがあった。

「植物園ですか?」

「ああ」

 雄吾が短く答える。

 佳苗は少し驚いた。

 もっと賑やかな場所を想像していたからだ。

 テーマパークとか。

 ショッピングモールとか。

 そういう場所を。

「嫌だったか」

「いえ」

 佳苗は首を振る。

「むしろ安心しました」

 人混みはまだ少し苦手だった。

 その言葉に。

 雄吾は小さく頷く。

 二人は園内へ入った。

 広い。

 思っていた以上に広い。

 季節の花々が咲き。

 緑が広がっている。

 歩いているだけで心が落ち着く。

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     数日後。 佳苗は朝から請求書の確認に追われていた。 月末が近い。 取引先ごとに金額と締め日を確認し、不備があれば担当部署へ戻す。昼休みまであと十分というところで、営業部から一通のメールが届いた。「……金額、違う」 添付された発注書と請求データが一致していない。 佳苗はすぐに担当者へ連絡した。「この案件、発注書は八十六万円ですけど、請求データが九十六万円になってます」『え? あ、本当だ』「このまま処理できないので、確認して修正お願いします」『今日中?』「締めが今日なので」『分かりました』 電話を切り、該当箇所に付箋を貼る。 その様子を見ていた同僚が笑った。「榊原さん、相変わらず細かいですね」「十万円違いますから」「まあ、そうですけど」 佳苗は次の書類を手に取った。 すると別の社員が、冗談めかして言う。「でも榊原さんにとって十万なんて、もう誤差みたいなものでしょ?」 佳苗は顔を上げた。「どういう意味ですか?」「旦那さん社長だし」「会社のお金と私の夫は関係ないですよね?」「あ、いや、そういう意味じゃなくて」「十万円違ったら困るから確認してるんです」 相手が気まずそうに笑う。「真面目だなあと思って」「仕事なので」 それだけ答え、佳苗は作業へ戻った。     ◇ 午後、修正されたデータが届いた。 確認すると、今度は問題ない。 処理を終えたところで、上司に呼ばれた。「榊原さん、さっきの件ありがとう。危なかったね」「いえ。締め前に気づけてよかったです」「最近ちょっと処理件数増えてるけど、大丈夫?」「はい。ただ、急ぎの依頼が重なると厳しい日もあります

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     翌朝。 窓の外には、朝の光を反射した海が広がっていた。「雄吾、起きて。海きれい」「……何時だ」「七時」「早いな」「朝ご飯八時だよ」「なら七時半でいいだろ」 そう言いながらも、雄吾は起き上がった。 佳苗は窓辺から何枚か写真を撮る。 昨日とは違う海。 帰ったら母にも見せようと思った。     ◇ チェックアウトを済ませたあとは、昨日見つけた店へ向かった。「これがお母さん。こっちが恵で……」「美佐子には?」「今選んでる」「会社は?」「それも」「自分たちの分は?」 佳苗の手が止まる。「忘れてた」「人の分ばっかりだな」「じゃあ何か買おう」 二人で店内を見て回り、結局、自宅用には小さな瓶詰めを選んだ。「これなら朝ご飯にも使えるね」「佳苗、朝食べるのか?」「旅行から帰った直後くらいは食べるかもしれない」「期間限定か」「努力目標です」 雄吾が笑った。     ◇ 帰宅した翌日の夜。 佳苗は母へメッセージを送った。『旅行、楽しかったよ。今度写真見せるね』 返事はすぐに来た。『おかえりなさい。よかったわね』『お母さんの美術館は?』『楽しかったわ。思ったより長居しちゃった』『じゃあ、お互い話すこといっぱいあるね』 送ってから、佳苗は少し笑った。 以前は母と会えば、何を聞かれるのだろうと警戒していた。 今度は、自分から話したいことがある。『そうね。今度お茶しましょう』『来週なら土曜の午後空いてるよ』『私も大丈夫』 そこで約束は決まった。     ◇ 土曜日。 以前と同じ駅前のカフェで、佳苗は母と向かい合った。「これ、お土産」「いらないって言ったでしょう?」「私が買いたかったの」「……ありがとう」 母は小さな箱を受け取り、嬉しそうに眺めた。「それでね、部屋からの海がすごかったの」 佳苗はスマートフォンを取り出した。「ほら」「まあ、きれい」「こっちは朝」「全然違うのね」「あとこれが夕食」「すごい量ね」「これ目当てで宿決めたの」「やっぱり佳苗は食べ物なのね」「お母さんまで雄吾と同じこと言う」 二人で笑った。 今度は母が美術館のパンフレットを取り出す。「私はこれを見てきたの」「へえ。きれい」「実物はもっとよかったわよ。それでね――」 話す母の顔を見ながら

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   これからも二人で

     夕食は、佳苗が宿を決めるきっかけになった料理だった。「これ見て。写真より豪華じゃない?」「それが決め手だったんだろ」「海も決め手だよ」「二番目くらいか?」「……同率一位」 雄吾が笑う。 料理が運ばれてくるたびに、佳苗は写真を撮った。「それも母親に見せるのか?」「これは恵かな。絶対『ずるい』って言うと思う」「食べる前に冷めるぞ」「あ、待って。これで最後」 慌ててスマートフォンを置き、箸を取る。 結婚してから初めての旅行。 そう考えると特別な気もするのに、雄吾と話していることは普段とあまり変わらなかった。 仕事のこと。 家のこと。 途中で見つけた変な土産物のこと。 それが佳苗には心地よかった。     ◇ 食事を終えて部屋へ戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。 昼間とは違い、遠くにいくつもの灯りが浮かんでいる。「きれい」 佳苗は窓際の椅子に座った。 雄吾も向かいに腰を下ろす。「また来たいな」「気に入ったのか?」「うん。でも次は違うところでもいいかも」「どっちだよ」「だって、まだ行ったことないところいっぱいあるし」 佳苗は笑ってから、ふと考えた。「雄吾は、どこか行きたいところないの?」「海外」「急に規模が大きい」「聞いたのは佳苗だろ」「そうだけど」「休み取れるならな」「じゃあ、そのうち行こうよ」「ああ」「そのうちって、いつ?」 以前なら、そこで話を終わらせていたかもしれない。 いつか。 そのうち。 できたら。 けれど今は、それでは少しもったい

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   やっと捕まえた

     恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   置いていかれる側

    「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   もう騙されない

    「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   逃がすつもりはない

    「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。 

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