LOGIN週末の朝。
鏡の前で、美羽は髪をゆるく巻き、淡いピンク色のリップを丁寧に重ねた。
白いブラウスに、ふんわりと揺れるスカート。
鏡へ向かってくるりと一回転すると、満足そうに微笑む。
「よしっ」
バッグを肩へ掛けた、そのときだった。
「美羽、あんた、今日は大学どうしたの?」
リビングから母の声が飛ぶ。
「休む」
「また?」
母は眉をひそめた。
「あんたねぇ、澪がお金を入れてくれなくなって、誰が大学の学費払ってると思ってるの?」
その言葉に、美羽は笑顔のまま、心の中で小さくため息をつく。
(はぁ~……うるさいなぁ)
今まで散々、美羽を甘やかしていた母親は、澪がいなくなった途端、現実的なことばかり言い始めるようになった。
「今、大学より大事なことしてるの」
「はぁ?」
母が怪訝そうな顔をする。
数日後の朝。 澪は鏡の前で髪を後ろでひとつにくくり、身だしなみを整えていた。服にヨレや乱れがないかをチェックして、「よし」と一声発すると、芹香がそっとバッグを差し出した。「今日はアンジェリケの日ですね」 芹香が優しく微笑む。「はい」 澪も自然と笑顔になって頷いた。 最近はキアーロとの仕事や神宮寺家の仕事も増えたため、以前と同じような出勤ではなくなっていた。店長ともしっかりと話し合いをした結果、『無理のない範囲でいいから、いつでも戻っておいで』 そう言ってくれて、アンジェリケにも澪の居場所を残してくれている。 温かく紡がれたその言葉が、澪はとても嬉しかった。出勤できる日は少なくなってしまったけれど、それでもアンジェリケは澪にとっても大切な場所であることは変わりない。 だからこそ、出勤できる日は全力で頑張ろうと思っている。澪は、もう一度小さく気合を入れ直すと、芹香からバッグを受け取った。 ◇「行ってきます」 玄関で靴を履き、見送りをしてくれる使用人たちを振り返ると、仕事へ向かう仕度を終えた綾人も玄関先へと現れた。「今日はアンジェリケか」「はい。がんばってきます」 綾人は小さく頷いた。「帰りは迎えに行く」「えっ?」 澪が目を丸くする。「でも、綾人くんのお仕事は……」「終わる」 短くきっぱりと吐かれた言葉に、澪は思わず苦笑した。「終わる」ではなく、「絶対に何がなんでも終わらせる」という顔をしているから。「じゃあ……待ってますね……?」 ダメだと言っても来るのは分かっているし、そんな綾人に甘い自覚が澪にもあった。「ああ」 綾人は澪の頭をぽんと軽く撫でると、相良と共に玄関を出て行った。「澪さまも。いってらっしゃいませ」 佐伯の言葉とともに、使用人たちの頭が一斉に下がる。澪は少しだけ背筋を伸ばすと、「はい。いってきます」 一度、深く息を吸い込んでから、にっこりと笑い屋敷を後にした。 ◇「おはようございます!」 アンジェリケの扉を開けると、店いっぱいに広がる花の香り。 そして、いつもの優しい空気。 胸がときめくと同時に、帰って来たと肩の力が抜ける。「澪ちゃん!」 店長が満面の笑みで迎えてくれた。「おかえり!」「ただいま戻りました」「発表会見たよ!」 同僚のスタッフの一人も駆け寄って
神宮寺家に戻ってくると、玄関には、柔らかな灯りがともっていた。 澪はその明かりを見つめ、小さく微笑む。「皆さん、まだ起きていらっしゃるんですね」「待っているんだろう」 そのとき、そっと玄関扉が開いた。現れた相良が丁寧に頭を下げる。「お帰りなさいませ、綾人さま。澪さま」「はい。ただいま戻りました」 澪がそう返しながら、玄関へと一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。「澪さまっ!! お帰りなさいませ!」 勢いよく飛び出してきたのは、ひまわりだった。「ひ、ひまわりさん!」 まるで小型犬のように抱き着いてくるひまわりと澪は困惑しながら受け止める。 その後ろで佐伯が苦く笑い「ひまわり」と嗜める。「落ち着きなさい」「無理ですー」 澪から体を離したひまわりは両手を胸の前で握り締める。「今日のこと、ずーっと気になってたんですから!」 瞳をキラキラとさせて、今日の話を今すぐにでも聞かせて欲しいと言わんばかりのひまわりに、澪も苦笑した。嫌な気持ちではないけれど、何だか照れくさい。 佐伯の隣で、芹香と桜が穏やかに頭を下げた。「お帰りなさいませ、澪さま」「お、お帰りなさい……」 そのふたりの笑顔と、改めて同じように頭を下げたひまわりと佐伯を見て、澪の肩から力が抜ける。「……ただいま」 いつの間にか、自然とそう口にできるようになっていた言葉。最初は「おかえりなさい」と言われることさえぎこちなかったのに。 自分の場所はここなのだと改めて実感して、澪はゆっくりと息を吸い込んだ。 ◇ リビングに入ると、温かいお茶が用意されていた。「どうぞ」 芹香が澪の前に湯呑みを差し出す。「ありがとうございます」 澪が受け取るや否や、ひまわりがぐいっと身を乗り出した。「それで、澪さま!」「えっ?」 ひまわりの顔が近く、澪は軽く顎を引いた。ひまわりの大きな目に、困惑した澪が映っている。「どうでした!?」「な、なにが?」「植物園です! 夜ご飯です! 今日の、デートです!!」 一気に三連発。澪は思わず目をぱちぱちさせる。「で、デートじゃ……」「違うんですか!?」 ひまわりが食い気味に聞き返す。 澪は真っ赤になった。「そ、それは……」 どう答えようか困っていると、隣にいた綾人が静かに口を開いた。休日に一緒に出掛けた。ふたりきりの
植物園をあとにした車は、夕暮れに染まり始めた街を静かに走っていた。 オレンジ色の光が流れていく街並みを鮮やかに照らしている。「今日は本当に楽しかったです」 信号待ちで止まった車の中、助手席で澪は嬉しそうに笑った。「ありがとうございました」 その笑顔を横目で見ながら、綾人は小さく頷く。「ああ」 それだけ答えると、一度だけ腕時計へと視線を向けた。「まだ時間があるな」「うん?」 澪が首を傾げる。「帰る前に寄る」「どこにですか? お買い物?」「予約してある」 その一言で、澪の思考が止まった。「よ、予約……ですか?」「ああ」「えっと、どこに? お店を予約しているなんて聞いてません!」 思わず運転席のほうへ軽く身を乗り出す。信号が青に変わる。綾人は表情を変えないままゆっくりとアクセルを踏んだ。「言ってないからな」「そ、そうですけど……!」 澪は困ったように笑うしかない。「それで、どこに行くんですか?」「着けば分かる」「また秘密なんですね」「ああ」 短い返事。けれど今日は、そのぶっきらぼうささえ少しだけ愛おしく思えた。 ◇ 車は中心地を抜け、少し静かな街並みへと入っていく。 澪は窓の外を眺めながらも、落ち着かない様子で何度も座り直した。(予約って……どんなお店なんだろう) 高級なお店だったらどうしよう。 マナー、大丈夫かな。 服装もこれで良かったのかな。 そんなことばかり考えてしまう。 すると、ふと朝の出来事を思い出した。『夜は素敵なディナーかもしれませんね』 佐伯の穏やかな笑顔。「あ」と気付き、澪は肩を軽く竦め笑った。「……佐伯さん、知ってたんですね」「ああ、相談したからな」 綾人の返事に、澪は目を丸くした。「相談したんですか……? 綾人くんが?」 思わずそう口にすると、綾人は少しだけ苦く笑う。「俺だって相談くらいする」 そう続けて、綾人は短く息を吐いた。「お前が緊張しない店を選んでもらった」 その言葉に、澪はしばらく何も言えなかった。そんなところまで考えてくれていたなんて。頬も胸も熱い。口元が自然と緩んでしまう。「……ありがとうございます」 小さな声でそう言うと、綾人は前を向いたまま静かに頷いた。 ◇ 三十分ほどして車は一軒の和食店へ到着した。 暖簾をく
数日後の朝。 神宮寺家の庭には晩秋の澄んだ空気が流れていた。 澪は縁側へ腰掛け、鮮やかなケイトウを一輪挿しに生けていた。 風が吹くたび、柔らかな穂が優しく揺れる。「やっぱり、秋のお花は可愛いですね」 思わず零れた独り言。 その声へ重なるように、静かな足音が聞こえた。「澪」 振り返ると綾人がいた。ジャケットは羽織っているけれど、いつもの黒いスーツ姿ではなく、少しラフな印象を受ける。「綾人くん。おはようございます」「準備をしろ」「……準備?」 澪は小さく首を傾げる。綾人は軽く頷き、短く答えた。「今日は付き合え」 澪はぱちぱちと瞬きを繰り返す。「えっと……どちらへでしょう?」「出掛ける」「お仕事ですか?」「違う」 元々綾人は口数が多いわけではないけれど、あまりにも要領を得ない回答ばかりで、澪は首を傾げる一方だ。「仕事じゃ……ないんですか?」「ああ」 それ以上説明はない。綾人はそのまま踵を返し、澪へ背中を向ける。「一時間後に出る」「えっ、あ、はい!」 慌てて返事をしたものの、綾人はもう廊下の向こうへ消えていた。 その様子を傍で見ていたひまわりが、にやにやと笑う。「澪さま」「は、はい?」「あれは……デートのお誘いですよね?」「……。……え?」 澪の思考が止まる。「で、デート!?」「はい! 絶対そうです!」 ひまわりは勢いよく頷いた。「仕事じゃないって綾人さまがおっしゃったんですよ!? それならデートしかありません!」「ち、違いますよ!」 澪は真っ赤になって首を振る。「きっと何か別の用事が……」 その横で、芹香が穏やかに微笑んだ。「では、その『別の用事』にも素敵なお洋服でお出掛けいただきましょう」「せ、芹香さんまで……!」 気付けば、桜も洋服を何着か抱えてやって来ている。「あ、あの……こちらと、こちらでしたら……」 佐伯は桜が持って来た洋服を見て、静かに頷いた。「今日は肩の力を抜いてお過ごしいただける装いがよろしいかと」「ああ、でも」と佐伯は軽く手を打った。「夜は素敵なディナーかもしれませんね。ラフすぎない、そういうお店でも入れるものにしましょう」 あれよあれよと、はりきった佐伯たちによって『デート』という前提で準備が進められていく。「いきましょう」とひまわりに手を引かれ、澪は自室
数日後の朝。 神宮寺家の庭には、澄み切った秋の空気が流れていた。 朝露をまとった草花が陽の光を受けてきらきらと輝いている。 澪は庭へ出ると、ゆっくりと深呼吸をした。 頬を撫でる風が心地いい。 あの日の出来事は、まだ胸の奥に小さな痛みとして残っている。 それでも、不思議と前だけは向けていた。 もう帰らなければならない場所はない。自分の居場所はここだ。 そう思えるだけで、世界は少しだけ優しく見えた。「澪さま」 後ろから穏やかな声が掛かる。振り返ると、相良が小さな箱を両手で抱えて立っていた。「お届け物でございます」「私にですか?」「はい。株式会社キアーロ様からですね」「キアーロから?」 澪は少し首を傾げながら封筒を受け取る。それは思ったよりも軽く、受け取ったときの弾みで、中で紙同士が擦れあうような音がした。 差出人には、林田の名前が記されている。「何でしょう……」 澪は庭からリビングに戻ると、テーブルへと箱を置いた。 朝食を終えたばかりの綾人や使用人たちも自然と集まってくる。 澪はそっと箱を開ける。中にはたくさんの封筒が入っていて、澪は目を丸く見開いた。その上にはひとつのメッセージカードが添えられている。見慣れた、林田の丁寧な文字を見て、澪はそっとそれを手に取った。『白石先生』 その書き出しを見て、澪は自然と背筋を伸ばす。『先日の発表会では、本当にありがとうございました。 おかげさまで「花日和」は、多くの反響をいただいております。発表会終了後、お客様より多くのお手紙をいただきました。ぜひ白石先生にも見ていただきたく、送付させていただきます』 澪はもう一度、箱の中へと視線を落とす。十通以上はある封筒がすべて手紙だと分かり、澪は息を呑んだ。「こんなに……」 驚きながら取り出す。 林田からの手紙は続いていた。『本来であれば弊社だけで拝見するものかもしれません。 ですが、この想いは白石先生へ届くべきものだと、社員一同で話し合い、お送りすることにいたしました』 澪は手紙を一通手に取り、胸元へと抱き寄せた。 ひまわりが隣からそっと覗き込み、微笑む。「澪さま、読んでみましょう!」「う、うん」 澪はまず手に持っている封筒を開いた。『白石先生へ』 一文字一文字が丁寧に書かれた手紙。『私は六十五歳になります。
リビングには、静かな空気が流れていた。 先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、部屋は元の穏やかさを取り戻している。 けれど、その静けさの中には、まだ張り詰めた余韻が残っていた。 澪はソファへ腰を下ろしたまま、膝の上で両手を重ねていた。 そんな澪の小さく震えていた指先に、温かなカップがそっと差し出される。「どうぞ」 芹香が柔らかく微笑む。いつものように優しいハーブティーの香りが立ちのぼった。「ありがとうございます」 澪は両手でカップを受け取る。震える手がしっかりとカップを包み込むまで、芹香は澪の手を支え続けた。カップの温もりと芹香の温もりが、少しずつ心まで温めてくれるようだった。 誰も急いで澪に話しかけようとはしなかった。 皆、それぞれ少し離れた場所で自分たちの作業に戻りながら、澪を静かに見守っている。 やがて……。「……綾人くん」 その静けさの中にぽつりと水滴を落とすように、澪が小さく呟いた。 窓際で花の手入れをしていた綾人は、澪の隣に来ると、そっと腰を下ろした。「私……」 澪は綾人のほうを見ずに、カップの中で揺らめくハーブティーを見つめている。俯き気味のまま、少しだけ笑おうとして、口元は強張った。うまく笑えずに、一度唇を引き結んだ。「お母さんに、あんな顔を向けられたの……初めてでした」 気丈に明るく紡ごうとするその声は、微かに震えていた。綾人は何も言わず、じっと澪を見つめている。元気を取り繕う必要がないとも、悲しむなとも言わない。ただただ、ありのままの澪を受け入れるように。 澪は俯いたまま続けた。「ずっと、お母さんは私を嫌ってるのかなって思ってました」 そこで、一度言葉を切る。胸元のお守りに、そっと触れて、ぎゅっと握り込んだ。「今日、やっと分かったんです。嫌いだとかじゃなくて、憎んでいたんだなって」 痛む胸を誤魔化すようにお守りを握る手に力が入る。「お父さんが亡くなってから、私は……娘じゃなかったんですね」 けれど、涙は、もう流れなかった。その代わりに、長い長い溜め息がこぼれる。「でも、悲しい……はずなのに、どこか、ほっとしてる私もいるんです。腑に落ちた、というか……」 澪は少しだけ首を傾げる。母親から向けられた視線も言葉も、全部全部胸を締め付けるくらい苦しい。けれど、これまでの自分に対する態度について、ど
初対面の人の……しかも、男性の家に泊まるなんて……。と、澪は使用人たちが布団を整えてくれる様子を部屋の隅で眺めながら考えていた。 けれど、自宅に帰れば美羽と顔を合わせなければいけなくなる。 美羽のことは今でも大切に思っている。だからこそ、自分の婚約者である拓真と唇を重ねていたあの光景に、澪の心はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。(家には帰りにくいと思っていたから……ありがたいかも) いつもの自分であれば絶対にしない選択だ。結婚を約束した恋人だっている身。 けれど、今夜だけは――。 そう、澪は少し目を伏せて、小さく溜息を吐いた。 布団の中に入っても、澪はしばらく眠れなかった。
「こちらへどうぞ」 年配の女性に案内されながら、澪は何度も周囲を見回していた。 広い。とにかく広い。これを『普通の家』を称した綾人のことを思い出して、澪は苦笑いを浮かべるしかなかった。一体どんな風に生きていたら、これが『普通』という認識になるのだろうか。 磨き上げられた廊下はまるで旅館のようだ。屋敷のあちこちに飾られている生け花はどれも芸術作品のように美しかった。「すごい……」 居間として使われている部屋だろうか。その前を通りかかったとき、一際上品で、一際色鮮やかな花で彩られた生け花に、思わず声が漏れる。「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに微笑んだ。「お花はどれも、綾人
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤







