LOGIN神宮寺家に戻ってくると、玄関には、柔らかな灯りがともっていた。 澪はその明かりを見つめ、小さく微笑む。「皆さん、まだ起きていらっしゃるんですね」「待っているんだろう」 そのとき、そっと玄関扉が開いた。現れた相良が丁寧に頭を下げる。「お帰りなさいませ、綾人さま。澪さま」「はい。ただいま戻りました」 澪がそう返しながら、玄関へと一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。「澪さまっ!! お帰りなさいませ!」 勢いよく飛び出してきたのは、ひまわりだった。「ひ、ひまわりさん!」 まるで小型犬のように抱き着いてくるひまわりと澪は困惑しながら受け止める。 その後ろで佐伯が苦く笑い「ひまわり」と嗜める。「落ち着きなさい」「無理ですー」 澪から体を離したひまわりは両手を胸の前で握り締める。「今日のこと、ずーっと気になってたんですから!」 瞳をキラキラとさせて、今日の話を今すぐにでも聞かせて欲しいと言わんばかりのひまわりに、澪も苦笑した。嫌な気持ちではないけれど、何だか照れくさい。 佐伯の隣で、芹香と桜が穏やかに頭を下げた。「お帰りなさいませ、澪さま」「お、お帰りなさい……」 そのふたりの笑顔と、改めて同じように頭を下げたひまわりと佐伯を見て、澪の肩から力が抜ける。「……ただいま」 いつの間にか、自然とそう口にできるようになっていた言葉。最初は「おかえりなさい」と言われることさえぎこちなかったのに。 自分の場所はここなのだと改めて実感して、澪はゆっくりと息を吸い込んだ。 ◇ リビングに入ると、温かいお茶が用意されていた。「どうぞ」 芹香が澪の前に湯呑みを差し出す。「ありがとうございます」 澪が受け取るや否や、ひまわりがぐいっと身を乗り出した。「それで、澪さま!」「えっ?」 ひまわりの顔が近く、澪は軽く顎を引いた。ひまわりの大きな目に、困惑した澪が映っている。「どうでした!?」「な、なにが?」「植物園です! 夜ご飯です! 今日の、デートです!!」 一気に三連発。澪は思わず目をぱちぱちさせる。「で、デートじゃ……」「違うんですか!?」 ひまわりが食い気味に聞き返す。 澪は真っ赤になった。「そ、それは……」 どう答えようか困っていると、隣にいた綾人が静かに口を開いた。休日に一緒に出掛けた。ふたりきりの
植物園をあとにした車は、夕暮れに染まり始めた街を静かに走っていた。 オレンジ色の光が流れていく街並みを鮮やかに照らしている。「今日は本当に楽しかったです」 信号待ちで止まった車の中、助手席で澪は嬉しそうに笑った。「ありがとうございました」 その笑顔を横目で見ながら、綾人は小さく頷く。「ああ」 それだけ答えると、一度だけ腕時計へと視線を向けた。「まだ時間があるな」「うん?」 澪が首を傾げる。「帰る前に寄る」「どこにですか? お買い物?」「予約してある」 その一言で、澪の思考が止まった。「よ、予約……ですか?」「ああ」「えっと、どこに? お店を予約しているなんて聞いてません!」 思わず運転席のほうへ軽く身を乗り出す。信号が青に変わる。綾人は表情を変えないままゆっくりとアクセルを踏んだ。「言ってないからな」「そ、そうですけど……!」 澪は困ったように笑うしかない。「それで、どこに行くんですか?」「着けば分かる」「また秘密なんですね」「ああ」 短い返事。けれど今日は、そのぶっきらぼうささえ少しだけ愛おしく思えた。 ◇ 車は中心地を抜け、少し静かな街並みへと入っていく。 澪は窓の外を眺めながらも、落ち着かない様子で何度も座り直した。(予約って……どんなお店なんだろう) 高級なお店だったらどうしよう。 マナー、大丈夫かな。 服装もこれで良かったのかな。 そんなことばかり考えてしまう。 すると、ふと朝の出来事を思い出した。『夜は素敵なディナーかもしれませんね』 佐伯の穏やかな笑顔。「あ」と気付き、澪は肩を軽く竦め笑った。「……佐伯さん、知ってたんですね」「ああ、相談したからな」 綾人の返事に、澪は目を丸くした。「相談したんですか……? 綾人くんが?」 思わずそう口にすると、綾人は少しだけ苦く笑う。「俺だって相談くらいする」 そう続けて、綾人は短く息を吐いた。「お前が緊張しない店を選んでもらった」 その言葉に、澪はしばらく何も言えなかった。そんなところまで考えてくれていたなんて。頬も胸も熱い。口元が自然と緩んでしまう。「……ありがとうございます」 小さな声でそう言うと、綾人は前を向いたまま静かに頷いた。 ◇ 三十分ほどして車は一軒の和食店へ到着した。 暖簾をく
数日後の朝。 神宮寺家の庭には晩秋の澄んだ空気が流れていた。 澪は縁側へ腰掛け、鮮やかなケイトウを一輪挿しに生けていた。 風が吹くたび、柔らかな穂が優しく揺れる。「やっぱり、秋のお花は可愛いですね」 思わず零れた独り言。 その声へ重なるように、静かな足音が聞こえた。「澪」 振り返ると綾人がいた。ジャケットは羽織っているけれど、いつもの黒いスーツ姿ではなく、少しラフな印象を受ける。「綾人くん。おはようございます」「準備をしろ」「……準備?」 澪は小さく首を傾げる。綾人は軽く頷き、短く答えた。「今日は付き合え」 澪はぱちぱちと瞬きを繰り返す。「えっと……どちらへでしょう?」「出掛ける」「お仕事ですか?」「違う」 元々綾人は口数が多いわけではないけれど、あまりにも要領を得ない回答ばかりで、澪は首を傾げる一方だ。「仕事じゃ……ないんですか?」「ああ」 それ以上説明はない。綾人はそのまま踵を返し、澪へ背中を向ける。「一時間後に出る」「えっ、あ、はい!」 慌てて返事をしたものの、綾人はもう廊下の向こうへ消えていた。 その様子を傍で見ていたひまわりが、にやにやと笑う。「澪さま」「は、はい?」「あれは……デートのお誘いですよね?」「……。……え?」 澪の思考が止まる。「で、デート!?」「はい! 絶対そうです!」 ひまわりは勢いよく頷いた。「仕事じゃないって綾人さまがおっしゃったんですよ!? それならデートしかありません!」「ち、違いますよ!」 澪は真っ赤になって首を振る。「きっと何か別の用事が……」 その横で、芹香が穏やかに微笑んだ。「では、その『別の用事』にも素敵なお洋服でお出掛けいただきましょう」「せ、芹香さんまで……!」 気付けば、桜も洋服を何着か抱えてやって来ている。「あ、あの……こちらと、こちらでしたら……」 佐伯は桜が持って来た洋服を見て、静かに頷いた。「今日は肩の力を抜いてお過ごしいただける装いがよろしいかと」「ああ、でも」と佐伯は軽く手を打った。「夜は素敵なディナーかもしれませんね。ラフすぎない、そういうお店でも入れるものにしましょう」 あれよあれよと、はりきった佐伯たちによって『デート』という前提で準備が進められていく。「いきましょう」とひまわりに手を引かれ、澪は自室
数日後の朝。 神宮寺家の庭には、澄み切った秋の空気が流れていた。 朝露をまとった草花が陽の光を受けてきらきらと輝いている。 澪は庭へ出ると、ゆっくりと深呼吸をした。 頬を撫でる風が心地いい。 あの日の出来事は、まだ胸の奥に小さな痛みとして残っている。 それでも、不思議と前だけは向けていた。 もう帰らなければならない場所はない。自分の居場所はここだ。 そう思えるだけで、世界は少しだけ優しく見えた。「澪さま」 後ろから穏やかな声が掛かる。振り返ると、相良が小さな箱を両手で抱えて立っていた。「お届け物でございます」「私にですか?」「はい。株式会社キアーロ様からですね」「キアーロから?」 澪は少し首を傾げながら封筒を受け取る。それは思ったよりも軽く、受け取ったときの弾みで、中で紙同士が擦れあうような音がした。 差出人には、林田の名前が記されている。「何でしょう……」 澪は庭からリビングに戻ると、テーブルへと箱を置いた。 朝食を終えたばかりの綾人や使用人たちも自然と集まってくる。 澪はそっと箱を開ける。中にはたくさんの封筒が入っていて、澪は目を丸く見開いた。その上にはひとつのメッセージカードが添えられている。見慣れた、林田の丁寧な文字を見て、澪はそっとそれを手に取った。『白石先生』 その書き出しを見て、澪は自然と背筋を伸ばす。『先日の発表会では、本当にありがとうございました。 おかげさまで「花日和」は、多くの反響をいただいております。発表会終了後、お客様より多くのお手紙をいただきました。ぜひ白石先生にも見ていただきたく、送付させていただきます』 澪はもう一度、箱の中へと視線を落とす。十通以上はある封筒がすべて手紙だと分かり、澪は息を呑んだ。「こんなに……」 驚きながら取り出す。 林田からの手紙は続いていた。『本来であれば弊社だけで拝見するものかもしれません。 ですが、この想いは白石先生へ届くべきものだと、社員一同で話し合い、お送りすることにいたしました』 澪は手紙を一通手に取り、胸元へと抱き寄せた。 ひまわりが隣からそっと覗き込み、微笑む。「澪さま、読んでみましょう!」「う、うん」 澪はまず手に持っている封筒を開いた。『白石先生へ』 一文字一文字が丁寧に書かれた手紙。『私は六十五歳になります。
リビングには、静かな空気が流れていた。 先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、部屋は元の穏やかさを取り戻している。 けれど、その静けさの中には、まだ張り詰めた余韻が残っていた。 澪はソファへ腰を下ろしたまま、膝の上で両手を重ねていた。 そんな澪の小さく震えていた指先に、温かなカップがそっと差し出される。「どうぞ」 芹香が柔らかく微笑む。いつものように優しいハーブティーの香りが立ちのぼった。「ありがとうございます」 澪は両手でカップを受け取る。震える手がしっかりとカップを包み込むまで、芹香は澪の手を支え続けた。カップの温もりと芹香の温もりが、少しずつ心まで温めてくれるようだった。 誰も急いで澪に話しかけようとはしなかった。 皆、それぞれ少し離れた場所で自分たちの作業に戻りながら、澪を静かに見守っている。 やがて……。「……綾人くん」 その静けさの中にぽつりと水滴を落とすように、澪が小さく呟いた。 窓際で花の手入れをしていた綾人は、澪の隣に来ると、そっと腰を下ろした。「私……」 澪は綾人のほうを見ずに、カップの中で揺らめくハーブティーを見つめている。俯き気味のまま、少しだけ笑おうとして、口元は強張った。うまく笑えずに、一度唇を引き結んだ。「お母さんに、あんな顔を向けられたの……初めてでした」 気丈に明るく紡ごうとするその声は、微かに震えていた。綾人は何も言わず、じっと澪を見つめている。元気を取り繕う必要がないとも、悲しむなとも言わない。ただただ、ありのままの澪を受け入れるように。 澪は俯いたまま続けた。「ずっと、お母さんは私を嫌ってるのかなって思ってました」 そこで、一度言葉を切る。胸元のお守りに、そっと触れて、ぎゅっと握り込んだ。「今日、やっと分かったんです。嫌いだとかじゃなくて、憎んでいたんだなって」 痛む胸を誤魔化すようにお守りを握る手に力が入る。「お父さんが亡くなってから、私は……娘じゃなかったんですね」 けれど、涙は、もう流れなかった。その代わりに、長い長い溜め息がこぼれる。「でも、悲しい……はずなのに、どこか、ほっとしてる私もいるんです。腑に落ちた、というか……」 澪は少しだけ首を傾げる。母親から向けられた視線も言葉も、全部全部胸を締め付けるくらい苦しい。けれど、これまでの自分に対する態度について、ど
母親が花ばさみを澪に向かって振りかぶる。「全部、あんたが悪いのよ――!」 その叫びがリビングへ響いた瞬間だった。「っ!」(避けきれない……!) 澪が思わず腕をかざして自分の身を守ろうとしたときだ。強く手首を掴む音が響き、母親の手が空中で止まった。「な、なによ……!」 母親は目を見開いた。花ばさみは、澪へ届くことなく止められている。 その手首を掴んでいたのは、綾人だった。 静かな瞳。けれど、その奥には凍てつくような怒りが宿っている。母親が腕を振りほどこうとするが、綾人の手は微動だにしない。握られた手首だけが逃げ場を失っていく。やがて母親の手から花ばさみが滑り落ち、金属音が床に響いた。「離して……!」「……それ以上、澪に触れるな」 綾人が静かに口を開く。 冷たい視線に母親は息を呑み、唇を震わせた。部屋の空気がビリビリと張り詰めた。「佐伯、相良」「承知いたしました」 名前を呼ばれただけの佐伯と相良が同時に動く。 相良は母親との距離を詰め、これ以上前へ出られない位置へ静かに立つ。 佐伯は落ちた花ばさみを拾い上げ、自身の手の中に隠すように仕舞い込んだ。「澪さま、こちらへ」 芹香が優しく澪の肩を抱き、母親から隠すように距離を取らせる。「お怪我はございませんか?」 桜もすぐ澪の隣へ寄り添う。いつのもような弱々しい声ではなく、伏せられがちな瞳も今はしっかりと澪を見つめている。ひまわりも澪の前へ立ち、小さく両手を広げた。「澪さまには、もう誰も近付けません」 神宮寺家全員が、当たり前のように澪を守るよう動いていた。 いまだに綾人に手首を掴まれたままの母親は、「くっ」と喉を鳴らした。その顔は苦煮がしく歪められている。そんな母親の顔を見るのは、澪にとっても初めてだった。 まさか母親から、こんなにも憎悪に満ちた顔を向けられるなんて――。澪は痛む胸をかくすように、胸元に下がるお守りに触れる。「私は母親なのよ! 娘を叱って何が悪いの!」 息を乱し叫ぶ母親を、綾人は静かに見下ろした。「叱る? 澪が叱られるようなことをしたのか?」 短く問い返す。「それに、お前が持っていたのは花ばさみだ。それを振り上げることが、お前にとっては『叱る』という行為なのか?」 母親の表情が強張る。「……だって、この子は……! 私と美羽からお父さんを奪
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭