Mag-log in「……香澄?」
「ああ。俺の娘だ」 耳の奥で、何かが鈍く鳴った。 香澄が娘だとこの人は確かにそう言った。 「待って……ください。香澄って……鷹宮香澄、ですか?」 父は怪訝そうに私を見た。 「そうだが」 呼吸が止まりそうになった。 香澄が父の、娘? 「どういう……ことですか」 足元が、ぐらりと揺れた気がした。 「香澄は、俺の再婚相手の連れ子だ。戸籍上は俺の娘になっている」 父は淡々と言ったそのことがどれほど残酷な事実なのか、分かっていないような声だった。 再婚相手。連れ子。戸籍上の娘。 一つ一つの言葉が、頭の中でばらばらに散っていく。 「……じゃあ、あなたが母を捨てた相手は」 「昔の話だ」 父は、面倒そうに言った。 昔の話――その一言で、母の苦しみも、私の寂しさも、すべて片づけられた。 「今はそんなことを話している時間はない。香澄が困っている」 母が命の瀬戸際にいることよりも。実の娘である私が頭を下げていることよりも。 父にとって大事なのは、香澄だというのか? 「待ってください……母の治療費は」 「だから、また今度だと言っている」 「今度じゃ間に合わないんです!」 思わず声が大きくなると、父の眉が不快そうに動く。 「母は、今も病院で……!」 「千景」 父の声が低くなる。その声だけで、子どもの頃の私は何度も黙らされた。 けれど今は、黙るわけにはいかなかった。 「お願いします。少しでいいんです。今、必要なんです。母を助けるために――」 「しつこい」 その一言で、体が固り父は秘書を呼ぶボタンを押した。 「この子を下まで送れ」 「お父さん……!」 「その呼び方もやめろ」 父は私を見ずに言った。 「今の俺には、守るべき家庭がある」 守るべき家庭。その中に、私も母もいない。 どこかで期待していた。実の娘が頭を下げれば。母の命がかかっていると知れば。 少しは、何かが揺らぐのではないかと。 でも、違った。 この人は最初から、私たちを選ぶつもりなんてなかった。 秘書が扉を開ける。私はまだ立ち尽くしていた。 父はもう、私を見ていない。 机の上には、さっきまで記入されかけていた小切手がある。 届きかけた救いが、香澄という名前一つで、あっさりと取り上げられた。 「……どうして、みんな香澄を選ぶんですか」 玲司も。父も。私が必死に縋った人は、みんな香澄の方へ行ってしまう。 「千景様、こちらへ」 秘書に促され、私は力の抜けた足で会長室を出た瞬間、廊下の冷たい空気が頬に触れる。 エレベーターの扉に映る自分の顔は、ひどく青白かった。 鼻の下には拭いきれない血の跡が残り、腕には点滴を抜いた跡が赤く滲んでいる。 下へ降りるエレベーターの中で、私はただ呆然と立っていた。 香澄は、父の娘だった。 父が母を捨てて選んだ女の娘。 玲司が私を捨てて選ぼうとしている女。 まるで、母と私の人生は、最初から同じ女たちに奪われるためにあったみたいだった。 エントランスに出ると、眩しい光がガラス越しに差し込んでいた。 私は外へ一歩踏み出す。 その瞬間、膝から力が抜けそうになり必死に踏ん張る。 母だけは、私が守らなければならない。ここで倒れるわけにはいかない。 たとえ、誰も私を選んでくれなくても。 たとえ、私が誰の一番にもなれなかったとしても。 私の母だけは、絶対に見捨てない。 私は震える手で握りしめたスマホの画面には、父への通話履歴が残っていた。 その名前を見つめたまま、私は唇を噛んだ。 父にも玲司にも、頼れない。 誰にも頼ることが出来ない状況でも、お金は必要だった。 母を救うために今すぐに。 私はゆっくりと顔を上げ、陽射しの眩しさに目の奥が痛む。 泣いている暇なんてない。守りたいものを守るために辛くても立ち止まるわけにはいかなかった。 「……お母さん」 唇からこぼれた声は、ひどくかすれていた。 一刻も早く母の治療費を用意しなければならない。 それなのに、どこへ行けばいいのか分からない。 誰に頭を下げればいいのかも、もう分からない。 足元がふらつき、私はビルの壁に手をついた。 その時だった。 「あら。まだいたの?」聞き覚えのある甘い声に顔を上げると、私の正面に香澄が立っていた。 彼女は私の顔を見るなり、愉快そうに目を細める。「そんな顔して。お父様に追い返されたの?」「……あなたには関係ない」「あら、関係あるわよ。だって、あなたが惨めに泣きつく相手って、結局うちの家族なんだもの」 その言葉が、鋭い刃のように胸に刺さった。 父から、夫からの愛。 私が欲しくてたまらなかったものを、香澄はすべて当たり前のように持っている。「金の無心をする相手も選べないなんて、本当に惨めね」「……っ」「でも仕方ないか。あなたには、頼れる人なんて誰もいないものね」 怒りと悔しさが一気に込み上げ、視界がぐにゃりと歪む。 次の瞬間、鼻の奥が熱くなった。 ぽたり――と、足元の白い床に、赤い雫が落ちた。「……あ?」 自分でも間の抜けた声が漏れた。 慌てて鼻を押さえたけれど、血は指の隙間から滲み出していく。 まずい――まただ。 頭が割れるように痛く耳鳴りがする。 香澄の嘲笑う声が、耳障りなほどに頭に響いてくる。「ちょっと、大げさな演技しないでよ。そんなことで同情を引けると思って――」 言葉の途中で、世界が大きく傾いた。 膝から力が抜け、地面が近づいてくる。 ああ、倒れる―― そう思った瞬間、私の身体は誰かの腕に受け止められていた。 強く、けれど乱暴ではない力。 懐かしい温もり。 嫌でも覚えている香水の匂い。「……千景」 低い声が、耳元で落ち私はぼんやりと顔を上げる。 目の前にいる玲司は、眉をわずかに寄せていた。 いつもの冷たい無表情ではなく、血で汚れた私の指先、口元、そして青ざめた顔を見て、ほんの一瞬だけ、彼の瞳が揺れた気がした。「玲司……」 その瞳の奥に僅かに私を気遣うような、昔見た温もりを見た気がして胸の奥から何かが崩れた。 私は玲司のスーツの袖を掴んだ。 血で汚れてしまうことも気にできなかった。「お願い……母を助けて……」 声が震えみっともないほど、涙が滲む。「お金が必要なの。治療費を払わないと、母が……母が本当に……」 そこで言葉が途切れた。 死んでしまう――その言葉だけは、口にしたくなかった。 言ってしまえば、本当にそうなってしまう気がしたから。 だけど、私が母のことを口にした瞬間。
「……香澄?」「ああ。俺の娘だ」 耳の奥で、何かが鈍く鳴った。 香澄が娘だとこの人は確かにそう言った。「待って……ください。香澄って……鷹宮香澄、ですか?」 父は怪訝そうに私を見た。「そうだが」 呼吸が止まりそうになった。 香澄が父の、娘?「どういう……ことですか」 足元が、ぐらりと揺れた気がした。「香澄は、俺の再婚相手の連れ子だ。戸籍上は俺の娘になっている」 父は淡々と言ったそのことがどれほど残酷な事実なのか、分かっていないような声だった。 再婚相手。連れ子。戸籍上の娘。 一つ一つの言葉が、頭の中でばらばらに散っていく。「……じゃあ、あなたが母を捨てた相手は」「昔の話だ」 父は、面倒そうに言った。 昔の話――その一言で、母の苦しみも、私の寂しさも、すべて片づけられた。「今はそんなことを話している時間はない。香澄が困っている」 母が命の瀬戸際にいることよりも。実の娘である私が頭を下げていることよりも。 父にとって大事なのは、香澄だというのか?「待ってください……母の治療費は」「だから、また今度だと言っている」「今度じゃ間に合わないんです!」 思わず声が大きくなると、父の眉が不快そうに動く。「母は、今も病院で……!」「千景」 父の声が低くなる。その声だけで、子どもの頃の私は何度も黙らされた。 けれど今は、黙るわけにはいかなかった。「お願いします。少しでいいんです。今、必要なんです。母を助けるために――」「しつこい」 その一言で、体が固り父は秘書を呼ぶボタンを押した。「この子を下まで送れ」「お父さん……!」「その呼び方もやめろ」 父は私を見ずに言った。「今の俺には、守るべき家庭がある」 守るべき家庭。その中に、私も母もいない。 どこかで期待していた。実の娘が頭を下げれば。母の命がかかっていると知れば。 少しは、何かが揺らぐのではないかと。 でも、違った。 この人は最初から、私たちを選ぶつもりなんてなかった。 秘書が扉を開ける。私はまだ立ち尽くしていた。 父はもう、私を見ていない。 机の上には、さっきまで記入されかけていた小切手がある。 届きかけた救いが、香澄という名前一つで、あっさりと取り上げられた。「……どうして、みんな香澄を選ぶんですか」 玲司も。父も。私が
そう告げた瞬間、電話口の向こうが静まり返った。 ほんの数秒。けれど私には、その沈黙が何分にも感じられた。『……千景?』 その声を聞いたのは、何年ぶりだろう。『今さら、何の用だ』 続く言葉に、カッと頭に血が上りそうなる。 懐かしさなんてなかった。あるのは、冷たい壁に触れたような感覚だけだった。 母を私を捨て、勤めるべき責任も果たさなかった男が何年も聞かなかった娘の声を聞いて最初にかける言葉がそれなのか? 私は電話口に聞こえないようにふーと息を吐き、頭にのぼりかけた血を必死に沈める。「……お願いがあります」『お願い?』「母が……倒れました。集中治療が必要で、高額な治療費が必要なんです」 母を捨てた男に、母を助けてほしいと頼む。それがどれほど屈辱的なのか、分かっている。 それでも、他に縋る相手がいなかった。「一度だけでいいんです。会ってください」 父――朝霧宗一郎は、しばらく何も言わなかった。 電話越しに聞こえる微かな呼吸音が聞こえるたびに、私の心臓が痛いくらい脈打つ。 やがて、短く息を吐く音がした。『……今どこにいる』「病院を出たところです」『会社に来い』 それだけ言って、通話は切れた。 私はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。 謝罪も、心配もない。 母が倒れたと聞いても、娘が泣きそうな声で頼んでも、この人の声は少しも揺れなかった。「……朝霧ファーマトレード本社まで、お願いします」 掠れた声で行き先を告げると、運転手は短く返事をして車を走らせた。 朝霧ファーマトレード――父が会長を務める、製薬商社。 母の実家の資金援助と人脈を使って大きくなった会社だ。 かつて母は、父の夢を信じ、自分の家柄も、資産も、人脈も、惜しみなく父に差し出した。 夫婦だから支え合うことは当たり前なのだと母は言っていた。 けれど父は、成功を掴んだあと、母ではない女を選んだ。 母と私を捨て、そしてすべてをなかったことのようにして、今も社会的な成功者として生きている。 タクシーがガラス張りの外壁に空が映り込んでいる高層ビルの前に停まった。 立派なエントランスに磨き上げられた床。行き交う社員たちの洗練された服装。 そのすべてが、私には別世界のものに見えた。 ここは、母の人生を踏み台にして築かれた場所だと思うと、
「朝霧……なぜ?」 奏人先輩からの言葉は、私が玲司にどれだけ縋っても、返ってこなかった言葉だった。 ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。 その手を取れば、きっと救われる。 母も、私も。 少なくとも今よりは、ずっと楽になれる。 それでも私は、それを拒んだ。 申し訳なさから、奏人先輩か目を逸らす。「私は……久我玲司の妻なので……」 ぽつりと、口からこぼれ落ちた言葉。 そうだ、どれだけ虚しい肩書きでも。外の世界で存在を消されていたとしても。 玲司の妻だというその事実だけは、まだ手放せなかった。 奏人先輩の優しさに縋り、その手を取ってしまったら、その事実が本当になくなってしまうのではないか。 そんな馬鹿げたことを、私は本気で思ってしまった。 奏人先輩の顔を見ることができず、私は顔を伏せ、そして自嘲気味に笑った。 くだらない。本当に、くだらない理由だ。 分かっている自分がどれほど非合理的なことをしているのか。どれほど支離滅裂なことを言っているのかも。 優しさに甘えて。縋りかけて。それでも最後の一線だけは踏み込ませない。 他人の善意を都合よく利用する、愚かな女だと思う。 それでも、譲れないものがあった。 理屈ではどうにもならない。感情が、それを拒んでしまうからだからどうしようもなかった。 何も言わなくなった私から、奏人先輩はゆっくりと離れ、倒れた椅子を起こし静かに座り直す。 短く息を吐いたあと、彼はゆっくりと口を開いた。「いろんなことが一度に起きたのに、追い討ちをかけるようなことを話してしまったな。すまない」 違う、悪いのは私だ。奏人先輩は、何も悪くない。「少し落ち着いてから考えてみるんだ。今がどういう状況なのか。今は混乱して、冷静に物事を考えられていないだけだと思う」 どこまでも私を気遣い、寄り添おうとしてくれる優しい言葉にまた縋りたくなる。 けれど同時に、強く思ってしまった。 やっぱり、これ以上この人に重荷を背負わせてはいけない。 私のために、負担になるようなことをさせてはいけない。 壁の時計を見ると、時刻は十二時になろうとしていた。「……何か、食べるものを買ってこようと思います」「それなら、俺が買ってくる」「いえ……少し、頭を冷やしたいので」「そうか……」 奏人先輩は迷うように私を見つめたあと、小
――結婚。 その言葉が、胸に刺さったままの見えない刃を、さらに深く捻るようだった。 私が、先に結婚したのに。 私が、玲司の妻なのに。 どうして、私ではなく香澄が。 どうして、外の世界では、私だけがいないことになっているの。 全身に鳥肌が立った。 視界の端が暗く滲み、目の前にいるはずの奏人先輩の顔が、少しずつ遠ざかっていく。 私は掛け布団の下でシーツを強く握りしめた。 爪が布に食い込む。 そうしていなければ、自分の体がどこかへ崩れ落ちてしまいそうだった。「……あ」 ぽたり、と。 何かが落ちた。 白い掛け布団の上に、赤い点が滲む。 鼻血だった。 次の瞬間、ぽた、ぽた、と赤い雫が続けて落ちていく。「朝霧!」 奏人先輩が椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。 慌てて私のそばに寄り、手近にあったティッシュを取る。「大丈夫か!? 看護師を呼ぶ」「いえ……大丈夫、です」「大丈夫なわけないだろう」 奏人先輩の声が、わずかに荒くなる。 けれど、その怒りが私に向けられたものではないことは分かった。 彼はティッシュを私に渡しながら、もう片方の手でナースコールへ伸ばしかけた。 私は咄嗟に、その袖を掴む。「本当に……大丈夫です。少し、驚いただけなので」「驚いただけで鼻血が出るか」「……原因は、なんとなく分かってますから」 そう答えた瞬間、奏人先輩の顔色が変わった。 しまった、と思ったけれど、もう遅かった。「……どういう意味だよ」「……」「朝霧」 奏人先輩の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。 その表情を見た瞬間、ひどい自己嫌悪に襲われる。 関係のない奏人先輩の優しさに甘えて言わなければ背負わずに済んだ重みを、彼に背負わせようとしている。 踏み込まなければ気づかずに済んだことに触れさせて、彼を苦しめている。 そう自覚した途端、自分がひどく醜い存在に思えた。 私は顔を伏せた。 鼻を押さえながら、荒くなった呼吸を必死に整えようとするけれど、うまくいかなかった。 胸が苦しい。喉の奥が震える。泣きたいのか、笑いたいのか、それすら分からなかった。 そんな私の背中に、奏人先輩の温かい手がそっと添えられた。 無理に問い詰めるわけでもなく、慰めの言葉を並べるわけでもなく。 ただ、そこにいてくれる手。 その温もりが、
「え……?」 奏人先輩の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。「いったい、どういうことですか?」 玲司と結婚しているのかなんて、そんなの当然だ。 彼から結婚を申し込まれて、婚姻届にも二人でサインした。 名字だって変わって、私はもう朝霧千景ではなく、久我千景なのだ。 それなのに、どうして奏人先輩はそんなことを聞くのだろう。 呆然と見つめる私から、奏人先輩は言いづらそうに視線を落とした。「……久我玲司については、仕事の関係で何度か名前を聞いたことがある」「仕事の、関係で……?」「ああ。直接深く関わったわけじゃない。だけど、久我家の人間となれば、良くも悪くも名前は耳に入ってくるんだ」 奏人先輩はそこで一度言葉を切った。 次に続く言葉を選んでいるようだったけれど、その沈黙が怖かった。 私は掛け布団の下で、そっとシーツを握りしめる。「……俺が聞いた範囲では、久我玲司に妻がいるなんて話は、一度も出てこなかったよ」「……え?」 声が、掠れた。「そんな……はず、ありません」 私はあの家で、彼の妻として暮らしてきた。 毎朝、食事を用意して。 帰らない彼を待って。 香澄のところへ向かう背中を見送りながら、それでも自分は妻なのだと、そう言い聞かせてきた。 たとえ愛されなくても。 たとえ必要とされなくても。 私は玲司の妻なのだと、その事実だけに縋ってきた。「何かの、間違いでは……」「嬉しそうに結婚の報告をしてきた君の顔を思い出して、俺もそう思いたかった」 奏人先輩の声は低かった。 それは怒っているようにも、苦しんでいるようにも聞こえた。「だけど、少なくとも周囲では、久我玲司は独身という扱いになっているらしい」 独身。 その二文字が、鋭利な刃物のように胸へ沈んだ。 息の仕方が、分からなくなる。 私の知っている現実が、足元から音もなく崩れていくようだった。「それだけじゃない」「……まだ、何かあるんですか」 それは声というより、喉の奥からこぼれ落ちた呻きに近かった。 本当は、もう何も聞きたくなかった。 これ以上知ったところで、私の心が耐えられるとは思えない。 それでも、聞かずにはいられなかった。 知らないままでいるには、もう遅すぎた。 奏人先輩は私の顔色を見て、ためらうように口を閉ざした。「朝霧、無理に聞かな







