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第十一話

Author: 久遠遼
last update Petsa ng paglalathala: 2026-06-10 06:29:11

「……香澄?」

「ああ。俺の娘だ」

耳の奥で、何かが鈍く鳴った。

香澄が娘だとこの人は確かにそう言った。

「待って……ください。香澄って……鷹宮香澄、ですか?」

父は怪訝そうに私を見た。

「そうだが」

呼吸が止まりそうになった。

香澄が父の、娘?

「どういう……ことですか」

足元が、ぐらりと揺れた気がした。

「香澄は、俺の再婚相手の連れ子だ。戸籍上は俺の娘になっている」

父は淡々と言ったそのことがどれほど残酷な事実なのか、分かっていないような声だった。

再婚相手。連れ子。戸籍上の娘。

一つ一つの言葉が、頭の中でばらばらに散っていく。

「……じゃあ、あなたが母を捨てた相手は」

「昔の話だ」

父は、面倒そうに言った。

昔の話――その一言で、母の苦しみも、私の寂しさも、すべて片づけられた。

「今はそんなことを話している時間はない。香澄が困っている」

母が命の瀬戸際にいることよりも。実の娘である私が頭を下げていることよりも。

父にとって大事なのは、香澄だというのか?

「待ってください……母の治療費は」

「だから、また今度だと言っている」

「今度じゃ間に合わないんです!」

思わず声が大きくなると、父の眉が不快そうに動く。

「母は、今も病院で……!」

「千景」

父の声が低くなる。その声だけで、子どもの頃の私は何度も黙らされた。

けれど今は、黙るわけにはいかなかった。

「お願いします。少しでいいんです。今、必要なんです。母を助けるために――」

「しつこい」

その一言で、体が固り父は秘書を呼ぶボタンを押した。

「この子を下まで送れ」

「お父さん……!」

「その呼び方もやめろ」

父は私を見ずに言った。

「今の俺には、守るべき家庭がある」

守るべき家庭。その中に、私も母もいない。

どこかで期待していた。実の娘が頭を下げれば。母の命がかかっていると知れば。

少しは、何かが揺らぐのではないかと。

でも、違った。

この人は最初から、私たちを選ぶつもりなんてなかった。

秘書が扉を開ける。私はまだ立ち尽くしていた。

父はもう、私を見ていない。

机の上には、さっきまで記入されかけていた小切手がある。

届きかけた救いが、香澄という名前一つで、あっさりと取り上げられた。

「……どうして、みんな香澄を選ぶんですか」

玲司も。父も。私が必死に縋った人は、みんな香澄の方へ行ってしまう。

「千景様、こちらへ」

秘書に促され、私は力の抜けた足で会長室を出た瞬間、廊下の冷たい空気が頬に触れる。

エレベーターの扉に映る自分の顔は、ひどく青白かった。

鼻の下には拭いきれない血の跡が残り、腕には点滴を抜いた跡が赤く滲んでいる。

下へ降りるエレベーターの中で、私はただ呆然と立っていた。

香澄は、父の娘だった。

父が母を捨てて選んだ女の娘。

玲司が私を捨てて選ぼうとしている女。

まるで、母と私の人生は、最初から同じ女たちに奪われるためにあったみたいだった。

エントランスに出ると、眩しい光がガラス越しに差し込んでいた。

私は外へ一歩踏み出す。

その瞬間、膝から力が抜けそうになり必死に踏ん張る。

母だけは、私が守らなければならない。ここで倒れるわけにはいかない。

たとえ、誰も私を選んでくれなくても。

たとえ、私が誰の一番にもなれなかったとしても。

私の母だけは、絶対に見捨てない。

私は震える手で握りしめたスマホの画面には、父への通話履歴が残っていた。

その名前を見つめたまま、私は唇を噛んだ。

父にも玲司にも、頼れない。

誰にも頼ることが出来ない状況でも、お金は必要だった。

母を救うために今すぐに。

私はゆっくりと顔を上げ、陽射しの眩しさに目の奥が痛む。

泣いている暇なんてない。守りたいものを守るために辛くても立ち止まるわけにはいかなかった。

「……お母さん」

唇からこぼれた声は、ひどくかすれていた。

一刻も早く母の治療費を用意しなければならない。

それなのに、どこへ行けばいいのか分からない。

誰に頭を下げればいいのかも、もう分からない。

足元がふらつき、私はビルの壁に手をついた。

その時だった。

「あら。まだいたの?」

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