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last update publish date: 2026-06-18 18:54:27

「ほう……見事なもんだ」

 宮本が呟く。

「ここでタレを一気に加えます」

 ボウルのタレをフライパンに流し込む。

 ジュワッ! 香ばしい醤油と生姜の香りが爆発的に広がった。

 フライパンを小刻みに揺すり、タレの水分を飛ばしながら肉に絡めていく。

 タレをトロッとなめらかに仕上げて、深いコクを引き出す技術。

 フライパンの中の泡が大きくなり、次第に艶やかなタレへと変化していく。

 これこそが、平凡な定食を一段上の料理に昇華させる技だった。

(うん、やっぱり。みやこ食堂の味は、工夫さえすれば化けるわ。すごいよ、宮本さん)

 照りが出た豚肉を皿に盛り、千切りキャベツを添える。

「お待たせしました。豚の生姜焼きです」

 春菜は宮本の前に皿を置いた。

 あらかじめよそっておいた白いご飯の茶碗と、店にあった味噌汁を横に置く。

 宮本は割り箸を割り、豚肉を1枚持ち上げた。

 タレがト
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  • 捨てられ料理人は諦めない   24

    「はい、お待たせしました。サバの味噌煮定食です」 春菜がトレイをテーブルに置くと、スーツ姿の男性客が顔をほころばせた。「うわあ、いい匂い。ここのサバ味噌、同僚から美味しいって聞いて来たんだよね」 男性は箸を割り、サバの身を割る。ふっくらとした白い身に、とろりとした味噌ダレをたっぷりと絡めて口に運んだ。「んっ……! なんだこれ、すっごく柔らかい。サバの臭みも全くないし、味噌の味が芯まで染みてる」「本当だ。私の生姜焼きも、お肉が柔らかくてご飯が進むわ。脂身まで甘くて、気にならないで食べられちゃうの」 向かいに座る主婦が、豚肉をご飯に乗せて嬉しそうに言った。とろりとしたタレが、ふっくら炊かれた白米に絡みついている。「前はメニューがたくさんあったけど、今は3つしかないのよね。でもその代わり、どれを頼んでもハズレがないって感じ」「確かに。注文してから出てくるのも早いし、昼休みに助かるよ」 客たちの会話が、厨房でフライパンを振る春菜の耳に届く。「春菜さん、ご飯のおかわり2つ追加だ」 宮本が炊飯器の蓋を開けながら声をかける。彼の額には汗が光っているが、その表情は充実感に満ちていた。「はい、すぐに出します」 春菜は手早くお茶碗を準備して、トレイに乗せる。 仕入れコストの削減とメニューの絞り込み。さらに徹底的な調理のシステム化を行った。 それらが全て噛み合った結果、みやこ食堂は劇的な変化を遂げていた。 利益率だけでなく、客の回転率も格段に向上している。(いける。この店は確実に蘇るわ) 春菜は確かな手応えを感じながら、次の豚肉をフライパンに投入した。ジュワーッという心地よい音が厨房に響いた。◇ その頃、都心のフレンチレストラン『一ノ瀬』のダイニングは、華やかな予約客で満席になっていた。 豪奢なクリスタルのシャンデリアが輝いて

  • 捨てられ料理人は諦めない   23

     春菜は笑顔で答えた。「はい。キュウリは塩揉みして浅漬けにしますし、トマトは細かく刻んでサラダのドレッシング代わりに使う予定です。形なんて切ってしまえば分かりませんから」「そうなのよねえ。形は悪くても、どれも美味しいのよ。うちはスーパーよりは規格を気にしないけど、やっぱりお客さんは形がいいものを買いたがるから」「そうですよね」 春菜は箱の中のトマトを一つ手に取る。 ごつごつと不格好な形をしているが、真っ赤に色づいて美味しそうだ。 重さと表面の張りから、水分がしっかり詰まっているのが伝わってきた。「鮮度は申し分ないです。捨てるくらいなら、安く譲っていただけませんか?」「もちろんよ。こっちも引き取ってもらえて助かるわ。春菜ちゃんは本当に買い物上手ねえ」「ありがとうございます。これからも規格外のお野菜が出たら、声をかけてくださいね」 春菜は野菜の入った袋を受け取って、笑顔で店を後にした。◇ 最後に春菜は、精肉店『肉のタカハシ』の引き戸を開ける。 ショーケースの中に赤身と白身のコントラストが美しい肉が並んでいた。「ご主人、おはようございます」「おお、宮本さんのところの新しい人じゃないか。確か、佐伯さんだったな。今日は豚肉かい?」「はい。生姜焼き用の豚ロース肉をお願いしたいんです。ただ、全体的に赤身が多い部位ではなくて、脂身と赤身の境目あたりの、少しスジが入った部分を中心にまとめて買えませんか?」 店主は包丁を研ぐ手を止めて、不思議そうに春菜を見た。「あそこは少し硬いから、普通の店は嫌がるんだがね。どうしてだい?」「下処理でスジを切って、タレに漬け込めば柔らかくなります。それに、あそこの脂の甘みが生姜焼きのタレと一番相性がいいんです。その部位だけなら、少しお安くできますよね?」 春菜がにっこりと笑うと、店主は降参したように両手を挙げた。「参ったね。あんたの舌と計算には勝てないよ。分かった、

  • 捨てられ料理人は諦めない   22:商店街ネットワーク

     早朝の商店街は、まだ空気が少し冷たい。 磯の香りと、店先を洗い流す水の匂いが混ざり合っている。 春菜は鮮魚店『魚辰』の軒先に立っていた。 発泡スチロールの箱に敷き詰められた砕氷の上で、丸々と太ったサバが並んでいる。「おや、見ない顔だね。どこの店の子だい?」 ゴム長靴を履いた恰幅の良い店主が、ホースの水を止めながら声をかけてきた。「みやこ食堂の宮本さんのところを手伝っている、佐伯と申します。本日はサバの仕入れのご相談に伺いました」 春菜は丁寧に頭を下げた。店主はタオルで手を拭きながら、首をかしげる。「みやこ食堂? あそこは宮本さんが1人でやってる定食屋だろう。あんたみたいな若い料理人が入ったのかい。知らなかったな」「ええ。メニューを絞ってリニューアルしたんです。サバの味噌煮を看板メニューの1つにしたくて、こちらのお魚を拝見しに来ました」 春菜は並んだサバに視線を落とした。 澄んだ目と、エラの内側の鮮やかな赤色が目に入る。表面の模様もはっきりしていた。「良いサバですね。でも、味噌煮にするには少し脂の乗りが足りない気がします。もう少しお腹に厚みのあるものは入りますか?」 店主はわずかに目を見開いた。「ほう、あんた、ただの使い走りじゃないね。見れば分かるのかい」「これでも料理人ですから。多少の目利きはできます。これだと塩焼きには最高ですが、味噌の濃い味に合わせると身が負けてしまいます。多少見栄えが悪かったり、サイズが不揃いだったりしても構いません。脂がしっかり乗ったものを、毎日安定して卸していただけないでしょうか」 言いながら、春菜は考える。(市場に直接出向くより、地元商店街との関係を深めた方が長期的な仕入れは安定するはず。見栄えは悪くても、新鮮で美味しい食材をどう安く仕入れるかが腕の見せ所ね)「なるほどねえ。みやこ食堂は最近よく客が入ってると噂に聞いていたが、あんたが仕掛け人ってわけか」 店主は豪快に笑った。「宮本さんのところなら、変なものは出せないな。分かった

  • 捨てられ料理人は諦めない   21

     厨房の熱気は上がり、換気扇がフル稼働で匂いを外へ吸い出していく。  春菜はフライパンを振り続け、宮本はご飯をよそい続けた。「本当! 美味しい!」「見てよこの生姜焼きのタレ。ツヤツヤで黄金色よ!」「唐揚げもサクサクでたまらない!」「この店、こんなに美味しかったのか」 そんな声が、さらにお客を呼び込んでいく。 メニューを3種類に絞った効果は絶大だった。  迷う時間がなくなり、調理工程もシンプルになったことで、提供スピードが格段に上がっている。  客は熱々の料理に舌鼓を打って、満足げな顔で会計をしていく。「メニュー少ないけど、提供早くて助かるな」「美味しいわねえ。今度旦那も連れてこようかしら」 客席から聞こえる弾んだ声が、春菜の耳に楽しく響いていた。◇ 午後2時になった。  のれんを下げ、ランチタイムの営業が終了した。  客席には誰もいなくなり、静まり返った店内にテレビの音だけが響いている。 春菜は布巾を手に、客席のテーブルを拭いて回った。  空になった皿をトレイに乗せて下げる。 どの皿も見事に空っぽだ。  生姜焼きのタレはご飯に吸わせて食べ切られ、唐揚げに添えたキャベツの一片も残っていない。(お客さんの笑顔……。みんな料理を楽しんでいた。これが、私のやりたかったことなんだわ) シンクに皿を重ねながら、春菜は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。 高級レストランの複雑なソースや、芸術品のような盛り付けも素晴らしい。  けれど目の前で美味しそうにご飯をかき込む人々の姿は、何にも代えがたい喜びだった。「お疲れ様でした。いいスタートが切れましたね」 春菜が厨房に戻ると、宮本がまかないい用のお茶を湯呑みに注いでいた。  湯気とともに、ほうじ茶の香りが漂う。「ああ。こんなに忙しくて、こんなに嬉しい疲れは何年ぶりだろうか。あんたのおか

  • 捨てられ料理人は諦めない   20

    「じゃあ、俺は唐揚げ定食で」「俺は生姜焼き」「俺はサバ味噌にするわ」 男たちは次々と注文を口にした。全員、ちょうど3種類のメニューに分かれている。「かしこまりました。唐揚げ1つ、生姜焼き1つ、サバ味噌1つ!」 春菜は厨房に戻りながらオーダーを通した。(よし、ちょうどよく3種類バラバラの注文。動線の整理を試すいいチャンスね) 宮本に目配せすると、彼も理解したようで頷いた。 春菜は即座にフライパンを火にかけて、生姜焼きの豚肉を焼き始める。 同時に、隣のコンロで高温に熱した揚げ油に、一度揚げを済ませていた唐揚げを投入した。 宮本は炊飯器から白いご飯を茶碗によそい、小鉢の冷奴と漬物をトレイにセットしていく。  味噌汁のお椀に熱々の汁を注いだ。 2人の間に無駄な会話はない。  阿吽の呼吸で、互いの作業スペースを邪魔することなく流れるように手を動かしている。「生姜焼き、上がります」 タレの焦げる甘辛い匂いが厨房に充満した。  春菜は千切りキャベツの横に、照りの出た豚肉を盛り付けた。「唐揚げも上がります」 油を切ったきつね色の唐揚げを皿に乗せる。「サバの味噌煮も出来上がりだ」 宮本がサバの味噌煮を小鍋から丁寧に取り出し、器に盛り付けた。「お待たせいたしました!」 注文からわずか5分。3つの定食が作業員たちのテーブルに並べられた。「へえ、早いな。前はけっこう待たされたのに」 湯気を立てる料理を前に、男たちは割り箸を割る。「おお、唐揚げすげえ匂いだな」 唐揚げを注文した男が、大きな一口でかぶりつく。  サクッ、という衣の弾ける音が周囲に聞こえるほどだった。「うまっ! なんだこれ。すげえ肉汁だぞ」 男は目を見開くと、急いで白いご飯を口に放り込んだ。 生姜焼きを頼んだ男も、豚肉をご飯に乗せて勢いよく頬張っている。「タレ

  • 捨てられ料理人は諦めない   19

     油の表面で泡が細かくなり、衣が濃いキツネ色に変わっていく。 春菜は視覚と聴覚を研ぎ澄まし、最高のタイミングで油から引き上げた。 油を切る金網の上に置かれた唐揚げは、食欲をそそる香ばしい匂いを放っている。「味見してみてください」 春菜は小皿に唐揚げを一つ乗せて、宮本に差し出した。 宮本は火傷しないようにフウフウと息を吹きかけ、唐揚げにかぶりつく。 サクッという軽快な音が響いた。「こりゃあたまげた」 宮本は目を見開いた。 噛んだ断面から、透明な肉汁がじゅわっとあふれ出ている。「外はカリッとしてるのに、中は驚くほどジューシーだ。肉が全くパサついてない。二度揚げってのはこんなに違うもんなのか」「ええ。温度管理さえ間違えなければ、誰でも同じように作れます。これで唐揚げ定食は大丈夫ですね」 春菜は謙虚に微笑みながらも、自分の技術への自身を深めていた。(唐揚げに生姜焼き、サバの味噌煮。和食の食堂でもやることは同じね。フレンチで培った技術は、この店でも役立てられる) 大衆食堂のメニューであっても、調理の基本原理はフレンチと同じだ。 食材のポテンシャルを最大限に引き出すためのアプローチに違いはない。「二度揚げなら、お客に出すまでの時間も短い。腹ペコの客を待たせずに済むねえ」「ええ」 宮本と料理の打ち合わせを終えて、春菜は手応えを感じていた。◇ 午前11時半になると、みやこ食堂の入り口に、洗濯したばかりの藍色ののれんが掛けられた。 リニューアル初日の営業開始である。 昼時を迎えて、徐々に客が入り始めた。 先日は閑古鳥が鳴いていたが、多少の常連がいるのは本当だったらしい。 色褪せたガラス戸がカラカラと鳴って、近隣の工場で働く作業着姿の3人組が来店する。「いらっしゃいませ!」 春菜は客席に水を運びながら、明るい声で出迎えた。「おや、この店

  • 捨てられ料理人は諦めない   6

     彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。  長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。  これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。  その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。  春菜だからこそあの味が出せた。  部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。

  • 捨てられ料理人は諦めない   5:八方ふさがり

     レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。  濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣

  • 捨てられ料理人は諦めない   4

     翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待

  • 捨てられ料理人は諦めない   3:捨てられた心

     レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」 

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