LOGIN春菜の足先から、スッと血の気が引いていくのを感じた。
(ダメだ。私には、翔太に押し付けられたあの莫大な借金がある)
春菜は奥歯を強く噛み締めた。
今の春菜は、身を隠すようにして日雇いの厨房に入っている。だからこそ、借金取りに見つからずに済んでいるのだ。
もしも銀座の一等地にできる新しい店の総料理長として、大々的に表舞台に立てばどうなるか。
御堂ホールディングスの最新AIシステムの実験店舗となれば、メディアにも取り上げられるだろう。
話題になればなるほど、借金取りの目にとまる可能性は跳ね上がる。ヤクザまがいの男たちが銀座の真新しい店舗に押しかけて、客やスタッフに怒号を浴びせる光景が目に浮かぶようだった。
(私では駄目だ。後ろ暗い借金のある私では……。御堂社長の顔に泥を塗ることになる。そんな大迷惑をかけるわけにはいかない)
せっかくの夢のような提案だが、今の自分には受け取る資格がない。
春菜は込み上げてくる「プロトタイプ店舗の総料理長が借金取りに怯えていては、最高のパフォーマンスなど出せないだろう。私はシステムに不確定要素を残すのが嫌いでね」 淡々とした口調だが、その言葉には絶対の自信と権力が裏打ちされていた。「君は、料理と店の経営にだけ集中しろ。外部のノイズはすべて私が遮断する」 冷たい路地裏の空気が、彼の放つ圧倒的な熱量によって塗り替えられていくようだった。「私が君の盾になろう。全てのトラブルから、私が君を守る。だから、君の腕を私に貸してくれ」 礼司は右手を差し出した。 節立って大きな、数々の経営判断を下し続けてきた手。 春菜はその手を見つめた。 翔太には裏切られ、手酷く捨てられた。 たった1人で日銭を稼ぎ、いつ取り立てが来るか分からない恐怖に怯えながら、先の見えない日々を送っていた。 だが目の前の男は、春菜の料理と頭脳の価値を認めてくれた。 すべての障害を自分の力で排除すると言い切っている。(……この人なら、本当に全部なんとかしてしまいそう) 感情論や同情ではない。極めて合理的な損得勘定に基づいた、ビジネスとしての提案――の、はずだ。 だからこそ信頼できると、春菜は思った。 彼にとって春菜は、投資する価値のある人間なのだ。 春菜は愛し合っていたはずの翔太に捨てられた。 長年の親友だと信じていた梨沙に裏切られた。 それゆえに礼司のビジネスを強調する言葉に好感を持った。(信じてみよう。御堂社長という人そのものではなく、彼のビジネス眼を) ただ1つ気になるとすれば、彼の両目に不自然なほどの熱が灯っていること。焦がれるような、熱烈な視線。 けれどそれも、春菜は単に「仕事上の熱意」と思うことにした。(……私も覚悟を決める) 春菜はエプロンで自分の右手を軽く拭いた。いつの間にか、緊張で汗がにじんでしまっていた。 それから、礼司の差し出した手をしっかりと握り返した。「分かりました。私の料理と経営のノウ
言い終えると、春菜は再び深く頭を下げた。(これで終わりだ。せっかくのチャンスだったけれど、今の私の状況じゃどうしようもない) 悔しかった。 翔太の裏切りは、いつまで経っても春菜を縛り付ける。 けれど仕方のないことなのだ。 九条不動産が作った契約書はよくできていて、素人の春菜では太刀打ちできない。 借金の利子が膨らんでいくのを恐れながら、生活費を削って少しずつ返していくしかない。 コンクリートの地面を見つめて、春菜は礼司が踵を返して去っていく足音を待った。 大企業の社長が、わざわざトラブルを抱えた人間を起用する理由はない。 しかし予想に反して、足音はいつまで経っても聞こえなかった。 代わりに聞こえてきたのは、短く鼻を鳴らす音だった。「……ふん」 春菜が恐る恐る顔を上げると、礼司はひどく呆れたような顔で彼女を見下ろしていた。「な、何がおかしいんですか」「いや。君があまりにも悲痛な顔で言うものだから、どれほど致命的な問題かと思えば」 礼司はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を素早くタップし始めた。「たかが借金か。……君の価値は、そんなはした金で測れるものではない」「たかがって……何千万円ですよ? しかも、元婚約者のバックには大手の九条不動産がついているんです。彼らの法務部が絡んでいるらしくて、素人の私じゃどうにも……」「額の問題ではない。君が『騙されて不当に押し付けられた』と言ったことが重要だ。それに、不動産屋の法務部程度がなんだというんだ」 礼司はスマートフォンを耳に当て、数秒待ってから口を開いた。「私だ。法務部のトップチームを明日の朝一番で社長室に集めろ。個人の債務トラブルに関する案件だ。……ああ、詐欺的手段による連帯保証契約の解除と、錯誤無効を立証して、債務を本来の持ち主に差し戻す。相手は九条不動産の関連だ。コンプライアンス違反も徹底的に洗え。一切の妥協は許さん」 極めて事務的で指示を出し、礼司は通話を切った。
春菜の足先から、スッと血の気が引いていくのを感じた。(ダメだ。私には、翔太に押し付けられたあの莫大な借金がある) 春菜は奥歯を強く噛み締めた。 今の春菜は、身を隠すようにして日雇いの厨房に入っている。だからこそ、借金取りに見つからずに済んでいるのだ。 もしも銀座の一等地にできる新しい店の総料理長として、大々的に表舞台に立てばどうなるか。 御堂ホールディングスの最新AIシステムの実験店舗となれば、メディアにも取り上げられるだろう。 話題になればなるほど、借金取りの目にとまる可能性は跳ね上がる。 ヤクザまがいの男たちが銀座の真新しい店舗に押しかけて、客やスタッフに怒号を浴びせる光景が目に浮かぶようだった。(私では駄目だ。後ろ暗い借金のある私では……。御堂社長の顔に泥を塗ることになる。そんな大迷惑をかけるわけにはいかない) せっかくの夢のような提案だが、今の自分には受け取る資格がない。 春菜は込み上げてくる無念さを飲み込むと、ゆっくりと頭を下げた。「……御堂社長。私を高く評価してくださり、本当にありがとうございます。料理人として、これ以上ないほど光栄なご提案です」「ならば」「ですが、お受けできません」 きっぱりとした拒絶に、礼司の眉がピクリと動いた。「理由はなんだ。報酬に不満があるなら、希望額を言えばいい。初期費用だけでなく、売上に対するインセンティブも弾む用意がある」「お金の問題ではありません。私個人の、極めて個人的な問題です」 春菜は顔を上げて、礼司の目を見返した。 この鋭い目を持つ男に隠し事をしても、すぐに見破られるだろう。 それならば、変な誤解をされる前に正直に話すしかない。「私には、元婚約者から不当に押し付けられた多額の借金があります。彼が自分の店を出す際、私を騙して連帯保証人にし、その後私を店から追い出しました。実家を抵当に入れたけど、払いきれなくて……何千万円という
礼司は画面を数回タップし、春菜の前に提示する。 そこにはスタイリッシュな店舗の内装パース図や、複雑なシステム構成図が映し出されていた。「先ほども言ったが。君が飲み込むまで、何度でも説明しよう」 タブレットの画面を指で示して見せる。「現在、我が社は社運を賭けて『次世代・飲食店統合AIシステム』を開発中だ。客の予約管理、オンライン決済、需要予測に基づいた食材の自動発注から在庫管理、さらにはダイナミックプライシングまで、店舗運営の裏側をすべてAIが自動化する」「すべて自動化……」 シエルのデリ販売で、春菜は予約決済システムを活用した。 それをもっと高度にした仕組みが、店の業務全体を支援するのだという。「そうだ。料理人は経営の雑務から解放され、料理を作ることだけに集中できる。だが、このシステムを世に出すための、ショーケースとなるプロトタイプ店舗が必要なんだ。システムが完璧でも、提供する料理が凡庸では客は納得しない」 礼司はタブレットの画面を消し、再び春菜の目を捉えた。「だからこそ、君にその店の総料理長を任せたい」「私が……総料理長」「場所は銀座の一等地を押さえてある。最新鋭の厨房設備を用意しよう。メニューの決定権も、厨房の人事権もすべて君に委ねる。君の理想とする店を、好きに作ってくれて構わない」 銀座に自分の店。最新鋭の設備を完備。 現実離れした言葉が春菜の脳裏で踊る。 料理人であれば誰もが飛びつくような、夢のような提案だった。(銀座で、私のお店。スチームコンベクションオーブンも真空包装機も、その他の最新機器も、何でも揃っている厨房……。そこで、私の考えた料理を最高のアシストを受けながら作れるなんて!) 春菜の胸の奥で、料理人としての情熱が熱く燃え上がりそうになった。 みやこ食堂も赤狸もシエルも、やりがいはあった。 けれどやはり自分自身の城を持ち、自分の料理で勝負したいという欲求は、料理人である以上消し去ることはできない。「資金援助と設備投資は、うちのシステム
ビストロ『シエル』の厨房は、ディナータイムのピークに向けて一気に熱気を帯び始めていた。 コンロの上では真壁シェフがフライパンをリズミカルに振っている音がする。 オリーブオイルとニンニクの香ばしい匂いが立ち上っている。 ホールからは、グラスが触れ合う音や客の弾むような笑い声が絶え間なく聞こえてきた。 春菜が立て直したこの店は、今日も満席。 客たちはみな、真壁の料理を楽しんでいる。 春菜は裏口の鉄扉を半開きにしたまま、目の前に立つ男を警戒と驚きが入り交じった目で見上げていた。 ――御堂ホールディングス社長、御堂礼司。 薄暗い路地裏には全く不釣り合いな、仕立ての良いダークスーツを着こなす長身の男。 薄闇の中でも、彼の美貌と瞳の熱はよく目立った。 彼の口から放たれた「私の手掛ける新しい事業には、君のその天才的な頭脳と腕が必要だ」という言葉が、夜風の中で静かに響いていた。「私の、頭脳と腕……ですか」 春菜がオウム返しに尋ねる。まだ意味がよく理解できない。 彼女の言葉に、礼司は顎を引いて肯定した。「そうだ。君がこれまでやってきたことは、すべてデータとして私の手元にあると言った」「データ、ですか」 ぼんやりとしている春菜に、礼司はもう一度繰り返した。「みやこ食堂での仕込みのモジュール化。限られた人員で回転率を上げるための見事なメニュー再構築だった。赤狸における立ち飲み客と座り客の動線分離もそうだ。客の滞在時間を計算し尽くした見事な采配だ。そしてこのシエルでの、事前決済システムを用いた廃棄ロスの排除。どれもが単なる料理人の域を超えた、実務的で極めて論理的な経営手腕だ」 礼司は淡々とした口調で、春菜がこれまでの店舗で行ってきた改善策を並べ立てた。(すごい。本当に全部筒抜けじゃない) 春菜は内心で戸惑った。 彼女としては、その場その場で店が抱える課題を解決するために、当たり前の工夫をしてきただけだ。特別な魔法を使ったわけではない。 それが大企業の社長か
「……ようやく捕まえたぞ、佐伯春菜」 その一言に、春菜は自分がずっと彼の手のひらの上で泳がされていたような、不思議な感覚に陥った。 決して逃れられない、巨大な網の終着点に立たされている。そんな気がする。「御堂社長……。あなたが私を評価してくださっているのは分かりました。でも、どうしてそこまでして私を探していたんですか。私みたいな、店を転々としているだけの料理人を」「私の手掛ける新しい事業には、君のその天才的な頭脳と腕が必要だからだ」 礼司は一歩前へ踏み出した。「私は今、飲食業界のインフラを完全に自動化し、最適化する『飲食店総合AIシステム』の開発を進めている。予約、決済、発注、在庫管理、そのすべてを掌握するシステムだ。だが、どれだけ完璧なシステムを作っても、それを動かす人間のレベルが低ければ機能しない。既存の店でテストをするのは限界がある」「それは……?」「そうだ。私は、君をトップに据えた全く新しいモデル店舗をゼロから作りたい。君の料理と経営センス、そして私のシステムを掛け合わせれば、この国の飲食業界の常識を根本からひっくり返すことができる」 礼司のスケールの大きすぎる提案に、春菜は言葉を失った。 これまでの春菜は、目の前の困っている店を自分の手の届く範囲で助けてきただけだ。 しかし目の前の男は、業界全体を変えようとしている。 そして、そのためのパートナーとして自分を選んだのだと言う。「佐伯春菜。私と一緒に来い。君の才能を、こんな裏通りでくすぶらせておくつもりはない」 礼司は強い熱を宿して、春菜に迫った。 視線は揺るがずに春菜だけを見つめている。 ただの仕事の申込みではない。 まるで恋をしているような、焦がれているような瞳。 春菜もまた、目を逸らすことができなかった。 翔太に裏切られて全てを失ったあの日から、春菜はずっと逃げ続けてきた。 借金取りの影に怯えながら自分の名前すら隠すようにして、日陰の道を歩いてきた。 けれど今、目の前に立つこの男は、彼女
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。 濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣
翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待