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72:2人の邂逅

last update 公開日: 2026-07-21 11:13:42

 ビストロ『シエル』の厨房は、ディナータイムの開始を30分後に控えて、程よい緊張感に包まれていた。

 コンロの上では真壁シェフが小鍋を火にかけて、慎重にスパチュラを動かしている。

 鍋に入っているのは、メインディッシュに使用するソースだ。

 赤ワインとフォン・ド・ヴォーが煮詰まる甘く深い香りが、厨房全体に広がっていた。

「春菜さん。前菜に使うセルフィーユの状態はどうだい」

 真壁が鍋から目を離さずに声をかける。

 セルフィーユとはハーブの一種で、甘くて爽やかな香りが特徴だ。

 見た目はイタリアンパセリに少し似ている。

「はい、今確認しますね」

 春菜は冷蔵庫から取り出したハーブのタッパーを開けて、丁寧にセルフィーユの葉の形を確認した。

「葉先まで綺麗に張りがあります。色も鮮やかで、最高の状態です」

「よし。予約のリストをもう一度確認してくれるか」

「はい。今夜は2名様が3組、4名様が1組。計10名様のご予約で、満席となっており

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  • 捨てられ料理人は諦めない   80

     言い終えると、春菜は再び深く頭を下げた。(これで終わりだ。せっかくのチャンスだったけれど、今の私の状況じゃどうしようもない) 悔しかった。  翔太の裏切りは、いつまで経っても春菜を縛り付ける。 けれど仕方のないことなのだ。 九条不動産が作った契約書はよくできていて、素人の春菜では太刀打ちできない。 借金の利子が膨らんでいくのを恐れながら、生活費を削って少しずつ返していくしかない。 コンクリートの地面を見つめて、春菜は礼司が踵を返して去っていく足音を待った。 大企業の社長が、わざわざトラブルを抱えた人間を起用する理由はない。 しかし予想に反して、足音はいつまで経っても聞こえなかった。  代わりに聞こえてきたのは、短く鼻を鳴らす音だった。「……ふん」 春菜が恐る恐る顔を上げると、礼司はひどく呆れたような顔で彼女を見下ろしていた。「な、何がおかしいんですか」「いや。君があまりにも悲痛な顔で言うものだから、どれほど致命的な問題かと思えば」 礼司はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を素早くタップし始めた。「たかが借金か。……君の価値は、そんなはした金で測れるものではない」「たかがって……何千万円ですよ? しかも、元婚約者のバックには大手の九条不動産がついているんです。彼らの法務部が絡んでいるらしくて、素人の私じゃどうにも……」「額の問題ではない。君が『騙されて不当に押し付けられた』と言ったことが重要だ。それに、不動産屋の法務部程度がなんだというんだ」 礼司はスマートフォンを耳に当て、数秒待ってから口を開いた。「私だ。法務部のトップチームを明日の朝一番で社長室に集めろ。個人の債務トラブルに関する案件だ。……ああ、詐欺的手段による連帯保証契約の解除と、錯誤無効を立証して、債務を本来の持ち主に差し戻す。相手は九条不動産の関連だ。コンプライアンス違反も徹底的に洗え。一切の妥協は許さん」 極めて事務的で指示を出し、礼司は通話を切った。

  • 捨てられ料理人は諦めない   79

     春菜の足先から、スッと血の気が引いていくのを感じた。(ダメだ。私には、翔太に押し付けられたあの莫大な借金がある) 春菜は奥歯を強く噛み締めた。 今の春菜は、身を隠すようにして日雇いの厨房に入っている。だからこそ、借金取りに見つからずに済んでいるのだ。 もしも銀座の一等地にできる新しい店の総料理長として、大々的に表舞台に立てばどうなるか。 御堂ホールディングスの最新AIシステムの実験店舗となれば、メディアにも取り上げられるだろう。 話題になればなるほど、借金取りの目にとまる可能性は跳ね上がる。 ヤクザまがいの男たちが銀座の真新しい店舗に押しかけて、客やスタッフに怒号を浴びせる光景が目に浮かぶようだった。(私では駄目だ。後ろ暗い借金のある私では……。御堂社長の顔に泥を塗ることになる。そんな大迷惑をかけるわけにはいかない) せっかくの夢のような提案だが、今の自分には受け取る資格がない。 春菜は込み上げてくる無念さを飲み込むと、ゆっくりと頭を下げた。「……御堂社長。私を高く評価してくださり、本当にありがとうございます。料理人として、これ以上ないほど光栄なご提案です」「ならば」「ですが、お受けできません」 きっぱりとした拒絶に、礼司の眉がピクリと動いた。「理由はなんだ。報酬に不満があるなら、希望額を言えばいい。初期費用だけでなく、売上に対するインセンティブも弾む用意がある」「お金の問題ではありません。私個人の、極めて個人的な問題です」 春菜は顔を上げて、礼司の目を見返した。 この鋭い目を持つ男に隠し事をしても、すぐに見破られるだろう。 それならば、変な誤解をされる前に正直に話すしかない。「私には、元婚約者から不当に押し付けられた多額の借金があります。彼が自分の店を出す際、私を騙して連帯保証人にし、その後私を店から追い出しました。実家を抵当に入れたけど、払いきれなくて……何千万円という

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    「……ようやく捕まえたぞ、佐伯春菜」 その一言に、春菜は自分がずっと彼の手のひらの上で泳がされていたような、不思議な感覚に陥った。  決して逃れられない、巨大な網の終着点に立たされている。そんな気がする。「御堂社長……。あなたが私を評価してくださっているのは分かりました。でも、どうしてそこまでして私を探していたんですか。私みたいな、店を転々としているだけの料理人を」「私の手掛ける新しい事業には、君のその天才的な頭脳と腕が必要だからだ」 礼司は一歩前へ踏み出した。「私は今、飲食業界のインフラを完全に自動化し、最適化する『飲食店総合AIシステム』の開発を進めている。予約、決済、発注、在庫管理、そのすべてを掌握するシステムだ。だが、どれだけ完璧なシステムを作っても、それを動かす人間のレベルが低ければ機能しない。既存の店でテストをするのは限界がある」「それは……?」「そうだ。私は、君をトップに据えた全く新しいモデル店舗をゼロから作りたい。君の料理と経営センス、そして私のシステムを掛け合わせれば、この国の飲食業界の常識を根本からひっくり返すことができる」 礼司のスケールの大きすぎる提案に、春菜は言葉を失った。 これまでの春菜は、目の前の困っている店を自分の手の届く範囲で助けてきただけだ。 しかし目の前の男は、業界全体を変えようとしている。  そして、そのためのパートナーとして自分を選んだのだと言う。「佐伯春菜。私と一緒に来い。君の才能を、こんな裏通りでくすぶらせておくつもりはない」 礼司は強い熱を宿して、春菜に迫った。  視線は揺るがずに春菜だけを見つめている。 ただの仕事の申込みではない。  まるで恋をしているような、焦がれているような瞳。 春菜もまた、目を逸らすことができなかった。 翔太に裏切られて全てを失ったあの日から、春菜はずっと逃げ続けてきた。 借金取りの影に怯えながら自分の名前すら隠すようにして、日陰の道を歩いてきた。  けれど今、目の前に立つこの男は、彼女

  • 捨てられ料理人は諦めない   75

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  • 捨てられ料理人は諦めない   2

     ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を

  • 捨てられ料理人は諦めない   1:裏切りの予兆

     高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で

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     アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。  2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。  ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。  結果はすべて同じだった。  面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので

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