เข้าสู่ระบบ――それは、まだ彼が〝鷲尾冴臣〟という名前を、大人たちの都合で何度も呼ばれていた頃の記憶だった。 幼い冴臣は、薄暗いリビングの隅にじっと立っていた。 テーブルの上には、乱暴に開封された封筒が何通も散らばっている。 督促状。請求書。赤い文字で記された冷酷な通知。 父は、もうずっと家にいなかった。 母はソファに座り込み、顔を両手で覆って子どものように泣いていた。「冴臣……お母さん、どうしたらいいの……」 子どもの冴臣には、何もできなかった。 それでも母は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼を見る。「あなたは男の子でしょう」 「お母さんを、助けてくれるよね」 「あなたまで、お母さんを見捨てたりしないよね」 すがりつくようなその言葉は、重く冷たい鎖のようだった。 場面が変わる。 少し成長した冴臣は、学生服姿で台所に立っていた。 母は、彼がアルバイトで稼いだ金をいれた封筒を、大事そうに握りしめていた。「ごめんね、冴臣。今月だけだから」 「これで最後にするから」 「親子なんだから、助け合わなきゃね」 最後。 その都合のいい言葉は、何度も、何度も繰り返された。 冴臣は何も言わず、ただ母から目を逸らすことしかできなかった。 泣いている人間を責めることはできない。けれど、泣いているからといって、誰かの人生を削り取って傷つけていいわけではない。 また、場面が変わる。 若い冴臣の携帯電話に、母からの着信が何度も入っている。 彼の隣には、まだ普通に誰かを好きになれそうだった頃の、淡い記憶があった。 同じ大学だったか、同じ職場だったか。名前も顔も、夢の中ではもうひどくぼやけている。ただ、穏やかに笑う女性の気配だけが残っていた。 けれど、母は電話の向こうで、また泣いた。『彼女ができたの?』 『結婚なんかしたら、お母さんはどうなるの?』 『あなたまで、お父さんみたいに私を置いていくの?』 愛情。 家族。 結婚。 世間では美しいとされるその言葉が、冴臣の中で少しずつ濁り、黒く腐っていく。 誰かを好きになることは、他の誰かを裏切ることなのか。 誰かに必要とされることは、永遠に逃げられない責任を背負わされることなのか。 愛しているという言葉は、いつか金と涙と罪悪感に変わるものなのか。 夢の
りとの部屋のローテーブルに、箱から出したばかりの真新しいホットプレートが鎮座した。 キッチンから、用意しておいた材料を次々と運んでいく。ボウルに入れたたっぷりのたこ焼き粉の生地、刻んだ茹でダコ、天かす、紅しょうが、青のり。 さらに小皿には、チーズやウインナー、小さく切ったお餅などの変わり種も並べた。「……本格的だな」 テーブルの向かいで腕を組み、鷲尾はどこか呆れたようにその様子を見下ろしている。「初タコパですから! 気合い入れました!」「気合いの方向性がおかしい。もっと仕事に向けろ」「今日くらいは仕事のことは忘れてください。課長の分も、私が上手に焼きますからね!」 りとは意気揚々とホットプレートのスイッチを入れ、油を引いた穴に生地を流し込んだ。だが、最初の一回目ということもあり、分量を見誤って生地が鉄板から盛大に溢れ出してしまう。「おい、入れすぎだ。雑すぎるぞ」「だ、大丈夫です! 丸めればなんとかなります!」 鷲尾に呆れた声で小言を言われながらも、竹串を両手に持って悪戦苦闘する。くるくると生地を返していくうちに、いびつだった形が少しずつ丸いたこ焼きの姿になっていく。その過程が可笑しくて、二人とも少しだけ楽しくなっていた。 焼き上がったたこ焼きをハフハフと頬張りながら、変わり種の品評会が始まる。「んー! チーズ入り、当たりです!」「……チーズは悪くないな。味がまとまっている」「お餅も美味しいですよ! ちょっと冒険しすぎたかと思いましたけど」「餅は中が異常に熱い。火傷に注意しろ」「はいっ」 鷲尾が買ってきた缶ビールや日本酒も少し入り、いつもの張り詰めた冷たい上司の顔が、少しだけやわらいでいく。 彼は決して大袈裟には笑わないが、りとが熱々のたこ焼きを頬張って「あふっ」と慌ててビールを飲むたび、口元をわずかに緩めていた。 ひとしきりたこ焼きを堪能したあと、りとは「さて、ここから後半戦です!」と宣言し、キッチンから別の材料を取り出してきた。 ケチャップライス風に味付けした小さなご飯の塊、卵液、そしてホットケーキミックス。「何だ、それは?」 鷲尾が訝しげに眉を寄せる。「課長のための、特別メニューです」「俺のため?」「はい。オムライスボールと、デザートの鈴カステラです!」 オムライスが好きで、実は甘いものにも目がない。
四月下旬。 ゴールデンウィークの大型連休を目前に控え、営業部のフロアはいつにも増して慌ただしい空気に包まれていた。 連休前に処理すべき案件、取引先への確認作業、ギリギリで飛び込んでくる資料の修正、そして休暇中の対応の引き継ぎ。りとは朝から息をつく暇もなく、バタバタとフロアを走り回っている。「甘崎。確認印の位置が違う。やり直しだ」「甘崎、メールを送る前に宛先を二度見しろ」「甘崎、走るな。転ぶぞ」 直属の上司である鷲尾は、いつも通り容赦なく小言を飛ばしてくる。 けれどその一方で、彼は営業一課長として驚くほど有能に立ち回っていた。部下のミスを先回りして未然に潰し、取引先からの急なトラブル連絡にも声を荒らげることなく冷静に対処し、葛城部長から無茶振りされた案件も淡々と処理していく。 りとは怒られっぱなしで凹みながらも、パソコンの画面と向き合う彼の横顔を盗み見ては(やっぱり、この人はすごいな……)と、密かに胸を高鳴らせていた。 その日は、奇跡の条件が重なった日だった。 出張セラピスト派遣のサイトで確認したところ、レイの出勤予定は入っていない。しかも、このままいけば仕事も珍しく定時近くに上がりそうな雰囲気だ。りとはこの日を狙って、ルージュ・ラパンのシフトも前もって外していた。 夕方。人気のない資料室。 りとは書類整理を手伝うふりをして、鷲尾をこっそり連れ込んだ。 高い棚の影に隠れるようにして、誰にも聞こえないよう声を潜める。「課長」「何だ。今度は何をやらかした?」「やらかしてません。……今夜、タコパしましょう」「……仕事中にそれを言うために呼び出したのか?」「ものすごく大事な確認事項です」 鷲尾は心の底から呆れたように、指先で眉間を押さえた。 だが、りとは必死に言葉を続ける。「今日、レイさんお休みですよね。私も夜の予定、空けてます。しかも、うちには新品のホットプレートがあります。これはもう、奇跡では?」「ただの偶然だ」「奇跡です」「偶然だ」「奇跡です!」 鷲尾は深くため息をついた。 だが、その声は完全に拒絶するものではなかった。数秒の沈黙のあと、観念したような低い声が落ちてくる。「……仕事が予定通り終わり、君がこれ以上余計なミスを増やさず、俺の帰宅時間を邪魔しないなら」「なら?」「少しだけなら、寄ってやる」「本当
少しだけ未来の約束のようなものを手に入れたりとは、ベッドの中でまだふわふわとした幸福感に包まれていた。 ふとサイドテーブルに置かれたスマホの時計を見ると、予約の終了時間まではまだ少しだけ余裕がある。 もう激しく求め合うほどの体力は、今のりとには残っていない。けれど、このまま何もしないで別れの時間を待つというのも、もったいない気がした。 りとは鷲尾の広い胸元に頬を寄せたまま、そっと顔を上げた。 そして、彼の唇に軽く触れるだけのキスをした。 鷲尾は一瞬だけ目を細めたが、拒むように避けることはしなかった。「……何だ」 「まだ時間、ありますよね」 「君はさっきまで動けないと言っていなかったか?」 「動けないので、キスだけです」 そう言って、りとはもう一度軽くキスをする。 最初は、子どもがじゃれつくような、触れるだけのつたないキスだった。 けれど、何度も何度も重ねていくうちに、それは少しずつ熱を帯び、深くなっていく。 鷲尾もやれやれと短くため息をつきながら、結局はりとの後頭部に大きな手を添え、応えるように唇を重ね返してくれた。 りとは嬉しくなって、彼の首にそっと腕を回す。「こういうこと、予約しないとできないから……もう少しだけ、しておこうかなって」 「まったく、強欲な客だな」 「上客ですから!」 「自分で言うな」 呆れたように言いながらも、鷲尾の口元は少しだけ柔らかく緩んでいた。 りとはそのわずかな変化を見逃さず、ますます甘えるように自身の身体を彼へと寄せる。 しばらくの間、二人は言葉少なにキスを重ねた。 激しく貪り合うようなものではなく、互いの体温を確かめ合い、離れがたい名残惜しさを埋めるような、甘く静かな時間だった。 やがて、終了時間を知らせる無機質なアラームが、部屋に小さく鳴り響いた。 りと思わず、鷲尾の胸に自身の額をぎゅっと押しつけた。「……もう終わりですか」 「ああ」 「時間って、すぐなくなりますね」 「君が好き放題に使うからだ」 「でも、満足度は高いです」 りとがふにゃりと笑うと、鷲尾は呆れたように短く息を吐いた。 身支度を整え、鷲尾はいつものシックな私服姿に戻った。 りとも大きな毛布を身体に巻いたまま、玄関まで彼を見送る。 ドアの前まで来ると、りとは思い出したようにぱ
玄関での甘く激しいやり取りの後、ベッドへ移動してからも、りとは何度も鷲尾にたっぷりと甘やかされ、すっかりくたくたになっていた。 身体に力が入らず、シーツの上でぼんやりしているりとの髪を、鷲尾の大きな手がゆっくりと撫でる。 グラスの水を飲ませ、乱れた呼吸が落ち着くまで優しく背中をさすり、身体が冷えないようにと毛布をふんわりとかけてくれる。 それが、あくまでセラピストとしての丁寧なアフターケアなのだと頭ではわかっていても、彼の手つきがあまりにも優しくて、りとの胸はふわふわと温かく満たされていた。 りとは鷲尾の腕にくっついたまま、ふと思い出したように口を開いた。「そういえば私、最近ホットプレート買ったんですよ〜」「……そうか」「たこ焼きもできる、すごく便利なやつなんです!」「……そうか」 鷲尾はさして興味もなさそうに、聞き流すように相槌を打つ。だが、りとはめげなかった。「課長、今度うちでタコパしましょうよ」「やらん」「即答!」「当然だ」 鷲尾はりとの額にかかった髪を指先で避けながら、冷淡な声で淡々と言い放った。「俺は君の上司であり、あくまでセラピストだ。それ以外の関係性はない」「でも、お隣さんじゃないですか〜」「隣に住んでいるだけの上司であり、セラピストだ」「厳しい……!」 りとはしょんぼりして、毛布の中に顔を半分うずめた。 その様子に、鷲尾は仕方ないといった風に小さくため息をつき、慰めるように彼女の唇へ軽くキスを落とした。 ――その時、鷲尾がふと目を細める。「……ホワイトデーに渡したリップバーム、使っているんだな」「はい。すごくお気に入りなんです」 りとは毛布から顔を出し、ぱっと明るく笑った。 あの日彼からもらったバニラの香りのリップバームは、もうすっかり彼女の日常の一部になっていた。唇が荒れないようにという彼の不器用な気遣いが、たまらなく嬉しかったのだ。「課長にもらったものですし、毎日大事に使ってます」 無邪気な笑顔を向けられ、鷲尾は一瞬だけ言葉に詰まったように視線を彷徨わせた。 そして、照れを誤魔化すようにもう一度りとにキスをする。先ほどの慰めのキスとは違う、少し深くて熱のあるキス。 りとは内心で(あれ?)と小さく首を傾げた。 今のはセラピストとしての慰めではなく、明らかに鷲尾自身が〝したくてした〟キス
りとは玄関の冷たい壁と鷲尾の熱い身体に挟まれたまま、次々と降り注ぐ深いキスに完全に飲み込まれようとしていた。 彼の大きな手が、焦らすような、けれど一切の逃げ場を奪うような手つきで、りとの服を少しずつ乱していく。 ベッドでもなく、広々としたソファーでもない、狭い玄関先。 少しでも声を上げれば、薄い壁を隔てたすぐ隣の303号室に響いてしまうかもしれない。 その事実が、りとの理性を余計に危うくさせていた。「んっ……あ……っ」 鷲尾の長い指先と熱い唇が、ひどく丁寧に、確実に彼女の敏感な部分を追い詰めていく。 たまらず漏れそうになった甘い声を、りとは慌てて自身の両手で口元を覆って塞いだ。 鷲尾はそれを見て、黒縁メガネの奥の瞳を意地悪く細める。「いい子だ。そのまま黙っていろ」 低く掠れた声で囁き、さらに意地悪な角度で指先を這わせた、その直後だった。 ――コトッ。 壁の向こう、依千がいる303号室から、小さな物音が聞こえた。 ただ物が置かれただけの些細な音。けれど、りとの身体はびくりと大きく跳ねた。(いっちゃん、いるんだ……) 壁一枚隔てたすぐ向こうに、幼なじみがいる。 知られてはいけない。聞こえてはいけない。 そう意識した瞬間、背筋にぞくぞくとした痺れるような感覚が走り、下腹部の奥がきゅんと熱を帯びて締まった。いけないと思えば思うほど、鷲尾の触れ方が何倍も深く、鋭く感じられてしまう。 鷲尾も、りとのそのわずかな反応を見逃さなかった。「……今の音で、余計に感じた顔をしたな」「ち、違……っ」「違わない」 否定しようとした唇を塞ぎ、鷲尾はりとの耳元に熱い吐息を吹き込んだ。「隣にあの男がいると思うと、そんな顔になるのか」「か、課長……っ、意地、悪……」 彼の声に滲む昏い独占欲に当てられ、りとは顔を真っ赤にして必死に声を殺す。 鷲尾は、声を出させないぎりぎりのラインを見極めるように、何度もりとの理性を激しく揺さぶった。 甘く、意地悪く、そしてどこまでも丁寧に。 波のように押し寄せる快感に耐えきれず、ついにりとは口元をきつく押さえたまま、声にならない震えだけをこぼした。「……っ、ぁっ……!」 目の前が真っ白に弾け、一度目の絶頂が訪れる。 全身からぷつりと力が抜け、りとは壁にもたれたままずるずると床へしゃがみ込んだ。 息は荒
すき焼きの鍋がすっかり空になり、締めに入れたうどんまで綺麗に平らげた頃。 ふと時計の針を見ると、時刻はすでに深夜の十一時を回ろうとしていた。「……すっかり長居してしまったな。そろそろ失礼する」 「あ、はい。お粗末様でした!」 鷲尾はクッションから立ち上がると、「少し待っていろ」と言い残し、一度自分の部屋へと戻っていった。 数分後、再びりとの部屋を訪れた彼の手には、可愛らしい小ぶりの紙袋が提げられていた。「すき焼きをご馳走になった礼だ。賞味期限が今日までで、一人では食べきれないと思っていたところだったからな」 そう言ってローテーブルの上に置かれたのは、デパ地下で行列が絶えな
観覧車のゴンドラ内で交わされた、熱く、貪るようなキスの余韻。 それは、りとの身体の奥底に眠っていた強烈な性欲の炎に、これ以上ないほどの油を注ぎ込んでいた。 遊園地からハイクラスホテルへ向かうタクシーの中でも、りとは鷲尾と隣り合って座るだけで下腹部がじんと熱を帯び、太ももの内側が疼いて仕方がなかった。 長年長続きしない恋愛ばかりを繰り返し、満たされることのなかった身体の欲求。それが今、この隣に座る完璧な鬼上司によって、限界まで引き上げられているのだ。 ホテルの最上階。予約していた重厚なスイートルームの扉が閉まり、外の喧騒が完全に遮断された――その瞬間だった。「さて、甘崎。まずはシャ
あの高熱で倒れた鷲尾の部屋に強引に上がり込み、特製のお粥を作って看病した夜から、さらに数日が経過した。 カレンダーは十二月の下旬へと差し掛かり、街は完全にクリスマスムード一色に染まり上がっていた。 オフィスの窓から見下ろす大通りには、夜になればシャンパンゴールドのイルミネーションが煌びやかに点灯し、行き交う人々は皆、どこか浮き足立っている。 すれ違うカップルたちはマフラーを共有したり、腕をしっかりと組み合って寒さを凌いでおり、一人身の人間にとっては、無性に人肌恋しくなる――あるいは、強烈な疎外感を感じてしまう魔の季節だった。 ――しかし、今年の甘崎りとは違った。「高橋。君が提出し
隣同士の部屋に住んでいることが発覚した、あの衝撃的な夜から一ヶ月が経過した。 あれから、鷲尾冴臣と甘崎りとの関係に大きな変化があったかといえば、答えは〝否〟である。 会社では相変わらず、完璧主義で冷徹な鬼上司と、それに怒られ続けるドジな部下という、圧倒的な縦社会の構図が維持されていた。 アパートでも、朝出くわさないようにゴミ出しのタイミングを見計らったりと、お互いに暗黙の了解で不可侵条約を結んでいる状態だ。 ただ一つ変わったことがあるとすれば、りとの心の中に「でもこの人、夜は〝あんなこと〟してるんだよなぁ」という、圧倒的な秘密の優越感が鎮座していることくらいだった。 そして、待ち







