LOGINアクティブパーク・ナインズで思い切り身体を動かし、遊び尽くした頃には、りとのお腹はすっかり空っぽになっていた。「お腹すいたぁ……」「さっきまであれだけ動いとったけんね」「もう私、今なら牛一頭いける気がする」「それはやめとき」 依千はくすりと笑い、少し考えるように空を見上げた。「そうだ。あそこ行こうか」「あそこ?」 依千に連れられて向かったのは、駅から少し歩いた場所にあるセルフ式のうどん屋だった。 店の名前は〝釜たま製麺 こむぎ庵〟。 気取った雰囲気はまったくなく、入口からは食欲をそそる出汁のいい香りと、揚げたての天ぷらの香ばしい匂いが漂っている。 昼時を少し外れているにもかかわらず、店内は家族連れや会社員でほどよく賑わっていた。「わぁ、うどん! いいね!」「りっちゃん、こういう店好きやったやろ」「好き! こういう気軽に美味しいもの食べられるところ、めっちゃ好き!」 トレーを手に取り、二人は注文の列に並ぶ。 りとはずらりと並んだメニューを見ながら、目を輝かせた。「釜玉もいいし、ぶっかけもいいし、かしわ天も捨てがたい……!」「半熟卵の天ぷらは?」「えっ」 りと思わず、隣に立つ依千を振り返った。「りっちゃん、半熟卵の天ぷら好きやったやろ」「……そんなこと、よく覚えてたね」 子どもの頃、地元のうどん屋に行くたびに、りとは必ず半熟卵の天ぷらを取っていた。サクサクの衣を箸で割り、中からとろりと溢れ出す黄身をうどんに絡めて食べるのが大好きだったのだ。 自分でも忘れかけていたような小さな好みを、依千は当然のように口にした。 依千は、少しだけ目を細めて柔らかく笑う。「覚えとるよ」「え?」「全部、覚えとる」 その声は、春の陽だまりのように穏やかだった。けれど、決して軽い冗談などでは済ませられないほど、静かで確かな熱を帯びていた。 りとは一瞬だけ言葉に詰まる。けれど、胸の奥がざわつくのを誤魔化すようにえへへと笑って、半熟卵の天ぷらをトレーに乗せた。「じゃあ、今日はこれ食べよ!」「うん」 二人はうどんを注文し、並んでテーブル席についた。 りとはさっそく半熟卵の天ぷらを箸で割り、とろりと流れ出た黄金色の黄身を見て嬉しそうに目を輝かせた。「見て、いっちゃん! 完璧な半熟!」「ほんとやね」「これをうどんに絡めて食べるの
翌朝。 りとは鏡の前に立ち、いつもより念入りにメイクをして身支度を整えていた。 昨夜、冷たいドアの向こうへ消えていった鷲尾の言葉が、まだ胸の奥でちくちくと刺さっている。『明日、楽しんでくればいい』 あんなふうに、突き放すみたいに淡々と言われたら、意地でも楽しんでやりたくなる。「……楽しんでほしいんなら、思いっきり楽しんでやろうじゃないの!」 半ばヤケになったりとは、いつもより少し気合いを入れておしゃれをする。 ショートカットの髪はサイドを細く編み込み、小さなリボンを結んで留めた。ワンピースは春らしい明るい色合いを選び、丈はいつもより少しだけ短め。 足元はたくさん歩いても疲れない、けれど可愛いデザインの靴。動きやすさと、ほんの少しの〝デート感〟の両方を意識した格好だった。 鏡の中の自分を映しながら、りとは少しだけ小首を傾げる。「……いっちゃんが私に好意あるって、課長は言ってたけど」 本当にそうなのだろうか。 りとにとって依千は、昔からいつも自分の後ろをとことこついてきた、可愛い弟のような存在だった。いくら身長が伸びて立派な大人になったとはいえ、一人の男性として、そして恋愛対象として見られているという実感はまだ薄い。「うーん……ほんとかなぁ」 そう呟きながら、お気に入りのベルガモットの香りの香水を、手首と耳の裏に軽く纏う。爽やかで少し甘い柑橘の香りが、りとの周りにふわりと広がった。 その瞬間、玄関のインターホンが軽快に鳴った。 モニターを確認すると、そこには予定通り依千の姿が映っていた。「はーい!」 勢いよく玄関を開けたりとは、目の前の姿に思わずパチパチと目を瞬かせた。 そこに立っていた依千は、昨日までの〝近所の幼なじみ〟とは少し違って見えた。 ピンクブラウンのゆるめなセンターパートは綺麗に整えられ、清潔感のある白いシャツに薄手のブルゾン、細身のパンツを合わせている。子どもの頃の面影は確かに残っているのに、服装も雰囲気も、すっかり大人の男性のそれだった。 近づくと、シトラスにホワイトムスクが混ざったような、清潔で少し甘い香りがふわりと漂ってくる。鷲尾が纏う、あの落ち着いた大人のウッディ系の香水とは違うタイプの香りだった。「いっちゃん、今日なんかすごくおしゃれじゃん!」「そう?」「うん。大人っぽい。なんか……ちゃんと東京
マグカップの中で揺れていた紅茶をすべて飲み終える頃には、鷲尾の呼吸もすっかり落ち着き、いつもの冷静な表情を取り戻しつつあった。 けれど、りとはまだ心配そうに彼を見つめていた。 必要以上に彼が見た夢について詮索するつもりはない。だが、あんなにも苦しそうにうなされ、ひどく弱り切った彼の姿を見てしまった以上、このまま隣の部屋へ一人で帰らせるのは、どうしても不安だった。「課長、やっぱりすごくお疲れのようですし……今夜はこのまま、私の部屋に泊まっていったらどうですか?」「……一秒で帰れる」「いや、一秒では無理です。玄関出て、廊下歩いて、隣の部屋の鍵開けてって考えたら、最低でも十五秒はかかります」「同じようなものだ」「えー。でも、なんか今日の課長、すごく心配ですし。いいんですよ? 私のベッドで寝ていっても!」 先ほどまでの重たい空気を吹き飛ばすように、りとはわざと明るい声を出して提案した。 すると鷲尾は、すぐにいつもの鋭いジト目に戻り、深くため息をついた。「……急にいつもの調子に戻るな」「戻してあげてるんです」「余計なお世話だ」 りとはにこにこしながら、彼がかけていた毛布の端を整える。「ソファのままでもいいですけど、課長の体格だと絶対狭いですよ。私のベッド、大きいクマのぬいぐるみどかせば普通に寝られますし」「泊まったら、夜中に君から何をされるかわからないだろう」「今はセラピストのレイさんじゃなくて〝お隣さん〟なんですから、なんにもしませんよ!」「信用できない」「まぁ、正直言うと、もう結構濡れちゃってますけど」「君は……そういうことはいちいち正直に言うんじゃない」 鷲尾は深く眉間を押さえ、心底疲れたような声を出した。「……帰る」「えー、本当に帰っちゃうんですか?」「帰る。明日は休みだが、俺にもやることはある」 そう言って、鷲尾がソファから立ち上がった、その瞬間だった。 ――ピンポーン。 静まり返った夜の部屋に、玄関のインターホンの電子音が大きく鳴り響いた。 こんな時間に誰だろうと、二人ともピタリと動きを止めて固まる。 りとは恐る恐る壁のモニターを覗き込んだ。そこに映っていたのは、ピンクブラウンのゆるめなセンターパートの髪をした、見慣れた青年の顔だった。「……いっちゃん!?」 思わず裏返った声が出た。こんな夜遅い時間に
――それは、まだ彼が〝鷲尾冴臣〟という名前を、大人たちの都合で何度も呼ばれていた頃の記憶だった。 幼い冴臣は、薄暗いリビングの隅にじっと立っていた。 テーブルの上には、乱暴に開封された封筒が何通も散らばっている。 督促状。請求書。赤い文字で記された冷酷な通知。 父は、もうずっと家にいなかった。 母はソファに座り込み、顔を両手で覆って子どものように泣いていた。「冴臣……お母さん、どうしたらいいの……」 子どもの冴臣には、何もできなかった。 それでも母は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼を見る。「あなたは男の子でしょう」 「お母さんを、助けてくれるよね」 「あなたまで、お母さんを見捨てたりしないよね」 すがりつくようなその言葉は、重く冷たい鎖のようだった。 場面が変わる。 少し成長した冴臣は、学生服姿で台所に立っていた。 母は、彼がアルバイトで稼いだ金をいれた封筒を、大事そうに握りしめていた。「ごめんね、冴臣。今月だけだから」 「これで最後にするから」 「親子なんだから、助け合わなきゃね」 最後。 その都合のいい言葉は、何度も、何度も繰り返された。 冴臣は何も言わず、ただ母から目を逸らすことしかできなかった。 泣いている人間を責めることはできない。けれど、泣いているからといって、誰かの人生を削り取って傷つけていいわけではない。 また、場面が変わる。 若い冴臣の携帯電話に、母からの着信が何度も入っている。 彼の隣には、まだ普通に誰かを好きになれそうだった頃の、淡い記憶があった。 同じ大学だったか、同じ職場だったか。名前も顔も、夢の中ではもうひどくぼやけている。ただ、穏やかに笑う女性の気配だけが残っていた。 けれど、母は電話の向こうで、また泣いた。『彼女ができたの?』 『結婚なんかしたら、お母さんはどうなるの?』 『あなたまで、お父さんみたいに私を置いていくの?』 愛情。 家族。 結婚。 世間では美しいとされるその言葉が、冴臣の中で少しずつ濁り、黒く腐っていく。 誰かを好きになることは、他の誰かを裏切ることなのか。 誰かに必要とされることは、永遠に逃げられない責任を背負わされることなのか。 愛しているという言葉は、いつか金と涙と罪悪感に変わるものなのか。 夢の
りとの部屋のローテーブルに、箱から出したばかりの真新しいホットプレートが鎮座した。 キッチンから、用意しておいた材料を次々と運んでいく。ボウルに入れたたっぷりのたこ焼き粉の生地、刻んだ茹でダコ、天かす、紅しょうが、青のり。 さらに小皿には、チーズやウインナー、小さく切ったお餅などの変わり種も並べた。「……本格的だな」 テーブルの向かいで腕を組み、鷲尾はどこか呆れたようにその様子を見下ろしている。「初タコパですから! 気合い入れました!」「気合いの方向性がおかしい。もっと仕事に向けろ」「今日くらいは仕事のことは忘れてください。課長の分も、私が上手に焼きますからね!」 りとは意気揚々とホットプレートのスイッチを入れ、油を引いた穴に生地を流し込んだ。だが、最初の一回目ということもあり、分量を見誤って生地が鉄板から盛大に溢れ出してしまう。「おい、入れすぎだ。雑すぎるぞ」「だ、大丈夫です! 丸めればなんとかなります!」 鷲尾に呆れた声で小言を言われながらも、竹串を両手に持って悪戦苦闘する。くるくると生地を返していくうちに、いびつだった形が少しずつ丸いたこ焼きの姿になっていく。その過程が可笑しくて、二人とも少しだけ楽しくなっていた。 焼き上がったたこ焼きをハフハフと頬張りながら、変わり種の品評会が始まる。「んー! チーズ入り、当たりです!」「……チーズは悪くないな。味がまとまっている」「お餅も美味しいですよ! ちょっと冒険しすぎたかと思いましたけど」「餅は中が異常に熱い。火傷に注意しろ」「はいっ」 鷲尾が買ってきた缶ビールや日本酒も少し入り、いつもの張り詰めた冷たい上司の顔が、少しだけやわらいでいく。 彼は決して大袈裟には笑わないが、りとが熱々のたこ焼きを頬張って「あふっ」と慌ててビールを飲むたび、口元をわずかに緩めていた。 ひとしきりたこ焼きを堪能したあと、りとは「さて、ここから後半戦です!」と宣言し、キッチンから別の材料を取り出してきた。 ケチャップライス風に味付けした小さなご飯の塊、卵液、そしてホットケーキミックス。「何だ、それは?」 鷲尾が訝しげに眉を寄せる。「課長のための、特別メニューです」「俺のため?」「はい。オムライスボールと、デザートの鈴カステラです!」 オムライスが好きで、実は甘いものにも目がない。
四月下旬。 ゴールデンウィークの大型連休を目前に控え、営業部のフロアはいつにも増して慌ただしい空気に包まれていた。 連休前に処理すべき案件、取引先への確認作業、ギリギリで飛び込んでくる資料の修正、そして休暇中の対応の引き継ぎ。りとは朝から息をつく暇もなく、バタバタとフロアを走り回っている。「甘崎。確認印の位置が違う。やり直しだ」「甘崎、メールを送る前に宛先を二度見しろ」「甘崎、走るな。転ぶぞ」 直属の上司である鷲尾は、いつも通り容赦なく小言を飛ばしてくる。 けれどその一方で、彼は営業一課長として驚くほど有能に立ち回っていた。部下のミスを先回りして未然に潰し、取引先からの急なトラブル連絡にも声を荒らげることなく冷静に対処し、葛城部長から無茶振りされた案件も淡々と処理していく。 りとは怒られっぱなしで凹みながらも、パソコンの画面と向き合う彼の横顔を盗み見ては(やっぱり、この人はすごいな……)と、密かに胸を高鳴らせていた。 その日は、奇跡の条件が重なった日だった。 出張セラピスト派遣のサイトで確認したところ、レイの出勤予定は入っていない。しかも、このままいけば仕事も珍しく定時近くに上がりそうな雰囲気だ。りとはこの日を狙って、ルージュ・ラパンのシフトも前もって外していた。 夕方。人気のない資料室。 りとは書類整理を手伝うふりをして、鷲尾をこっそり連れ込んだ。 高い棚の影に隠れるようにして、誰にも聞こえないよう声を潜める。「課長」「何だ。今度は何をやらかした?」「やらかしてません。……今夜、タコパしましょう」「……仕事中にそれを言うために呼び出したのか?」「ものすごく大事な確認事項です」 鷲尾は心の底から呆れたように、指先で眉間を押さえた。 だが、りとは必死に言葉を続ける。「今日、レイさんお休みですよね。私も夜の予定、空けてます。しかも、うちには新品のホットプレートがあります。これはもう、奇跡では?」「ただの偶然だ」「奇跡です」「偶然だ」「奇跡です!」 鷲尾は深くため息をついた。 だが、その声は完全に拒絶するものではなかった。数秒の沈黙のあと、観念したような低い声が落ちてくる。「……仕事が予定通り終わり、君がこれ以上余計なミスを増やさず、俺の帰宅時間を邪魔しないなら」「なら?」「少しだけなら、寄ってやる」「本当
「はぁ、はぁ……っ、ん……」 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。 部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。 甘崎りとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。 男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。 太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げ
日付が変わる頃、乃々羽と別れたりとは、冬の凍てつくような寒さの中を一人、自分のアパートへと歩いていた。「あーあ、飲んだ飲んだ……」 口から吐き出す白い息は、街灯に照らされてすぐに夜の闇へと溶けていく。親友の乃々羽と心ゆくまで愚痴を言い合い、カラオケで喉が枯れるまで騒いだおかげで、沈んでいた気分は随分と軽くなっていた。 年末で静まり返った住宅街の道を歩きながら、りとはマフラーに顔を埋める。 アパートの敷地内に入り、ふと自分の部屋の隣――鷲尾の部屋の窓を無意識に見上げていた。 電気はついておらず、カーテンの隙間からも光は一切漏れていなかった。真っ暗だ。(まだ帰ってないのかな。それと
すき焼きの鍋がすっかり空になり、締めに入れたうどんまで綺麗に平らげた頃。 ふと時計の針を見ると、時刻はすでに深夜の十一時を回ろうとしていた。「……すっかり長居してしまったな。そろそろ失礼する」 「あ、はい。お粗末様でした!」 鷲尾はクッションから立ち上がると、「少し待っていろ」と言い残し、一度自分の部屋へと戻っていった。 数分後、再びりとの部屋を訪れた彼の手には、可愛らしい小ぶりの紙袋が提げられていた。「すき焼きをご馳走になった礼だ。賞味期限が今日までで、一人では食べきれないと思っていたところだったからな」 そう言ってローテーブルの上に置かれたのは、デパ地下で行列が絶えな
観覧車のゴンドラ内で交わされた、熱く、貪るようなキスの余韻。 それは、りとの身体の奥底に眠っていた強烈な性欲の炎に、これ以上ないほどの油を注ぎ込んでいた。 遊園地からハイクラスホテルへ向かうタクシーの中でも、りとは鷲尾と隣り合って座るだけで下腹部がじんと熱を帯び、太ももの内側が疼いて仕方がなかった。 長年長続きしない恋愛ばかりを繰り返し、満たされることのなかった身体の欲求。それが今、この隣に座る完璧な鬼上司によって、限界まで引き上げられているのだ。 ホテルの最上階。予約していた重厚なスイートルームの扉が閉まり、外の喧騒が完全に遮断された――その瞬間だった。「さて、甘崎。まずはシャ







