INICIAR SESIÓN非常階段で依千と静かな誓いを交わした後、鷲尾は誰もいない執務室には戻らず、そのまま人気のないビル裏の路地へと出た。 ネクタイを緩め、スマートフォンを取り出す。そして、数回のコールの後、出張セラピスト〝メロウルーム〟の運営スタッフへと電話を繋いだ。「――レイです。急で本当に申し訳ないが、今日から当面の間、出勤を見合わせたい」 電話口のスタッフが、驚愕の声を上げる。無理もない。レイは今や店で一番予約が取れない人気セラピストであり、今夜も当然のように指名の予約がびっしりと埋まっていた。『急にどうしたんですか!? 体調不良ですか?』「……本業の都合で、これ以上続けるのが難しくなった。すでにご予約いただいているお客様には、店舗の方から順次キャンセルのご連絡をお願いしたい。もちろん、キャンセル料は一切いただかない。ポイントや前払い分はすべて全額返金か、他のセラピストへの振替で丁寧に対応してくれ」 疑似恋愛を提供し、高額な対価を得る仕事だ。雑に予約を飛ばせば、店にも客にも甚大な迷惑がかかることは重々承知している。しかし、今は一分一秒でも早く、自分自身が完全にクリーンな状態にならなければならない。 店側は必死に引き止めてきたが、鷲尾の決意が揺らぐことはなかった。 最終的に〝体調不良および本業の事情による当面の活動休止〟ということで、サイトの新規予約受付を即座に停止させる手はずを整えた。 通話を終え、鷲尾は深く息を吐き出して夜空を見上げた。 このまま事態が大きくなれば、会社の監査は厳しさを増し、いずれ自分が彼女を庇ってウィルクエスという会社そのものを辞めることになるかもしれない。 だが、そんなことはもうどうでもよかった。 キャリアも、地位も、すべてを投げ打ってでも構わない。彼女がいない世界になど、自分にとっては何の価値もないのだから。 その頃、株式会社ヤオノードの社長室。 ティフィンは、最高級の革張りソファに寝転がるようにして寛いでいた。 彼女はここ数日、パパ活で手に入れた大金を惜しげもなく使い、連日のようにレイを長時間予約していた。今夜も彼がホテルにやってくるのを、極上のワインを傾けながら楽しみに待っていたのだ。 しかし、スマートフォンの画面にメロウルームからの通知が光った。『担当セラピストのレイですが、体調不良により本日のご予約をご案内できな
「鷲尾課長。……少し、お時間よろしいですか」 不意に静寂を破って背後から声をかけられ、鷲尾はハッとして振り返った。 そこに立っていたのは、りとの隣の席に座る幼馴染、依千だった。 普段は温厚で、誰に対しても一歩引いた穏やかな態度を崩さないはずの彼の瞳には、今は明確な敵意と、ふつふつと燃え上がるような静かな怒りが宿っていた。「……構わないが。ここで話すような内容ではないな」 鷲尾が静かに立ち上がり、二人は社内の人気のない非常階段の踊り場へと移動した。 重い鉄の扉が閉まり、完全に二人きりの空間になると同時、依千は鋭い声で口を開いた。「甘崎さん、今日……泣きそうな顔をして早退しました」 コンクリートの壁に反響したその声は、押し殺したような低さでありながら、刃のような鋭さを帯びていた。普段の業務で見せる、人当たりの良い営業スマイルなど微塵もない。そこにあるのは、大切なものを理不尽に傷つけられた一人の男の、剥き出しの感情だった。「あの後、僕が何度メッセージを送っても既読すらつきません。電話にも出ない。……今日のフロアの空気、まさか気づいていないとは言わせませんよ。彼女が、あることないこと噂されて、どれほど孤立していたか。昼休みも給湯室の隅で、一人で震えていたことを」 依千の言葉に、鷲尾は黒縁メガネの奥の目を細め、おそろしく深い皺を眉間に刻んだ。 鷲尾とて、自身のチーム内で起きている異変に気づいていないわけがない。今朝から突如として湧いて出た、競合他社への未公開データ漏洩の疑い。その首謀者として、甘崎の名前がまことしやかに囁かれていること。彼女のアカウントから不審なアクセスログが見つかったという噂は、またたく間にフロア中に広まり、彼女を透明な檻の中に閉じ込めてしまった。「課長は、彼女を見捨てるつもりですか」 一切の濁りがない、真っ直ぐな糾弾。 上司に対する言葉としてはあまりにも無礼で、完全に一線を越えた発言だった。しかし、今の依千にとって、社内のヒエラルキーや人事評価など、紙屑ほどの価値もなかった。目の前に立つ男が、自分の愛する女性を無情にも切り捨てようとしている冷徹な組織の歯車にしか見えなかったのだ。「……そんなつもりは、毛頭ない」 鷲尾は、感情を一切交えない、地を這うような低い声で即座に否定した。「俺が彼女を見捨てるなど、あり得るはずがない
その日の午後、りとは逃げるように会社を後にした。 事の次第がはっきりするまで自宅待機。それは早退という名目の、事実上の追放だった。 夏の刺すような日差しが痛くて、りとは俯いたまま、ふらふらとした足取りでアパートへと帰り着いた。 カーテンを閉め切った、薄暗い部屋。 ベッドの端に座り込み、りとは震える指でスマートフォンを操作した。 宛先は、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の剛堂店長だ。『剛堂店長、ごめんなさい。私、お店に迷惑をかけてしまうかもしれないので、今日で辞めさせてください。今まで本当にありがとうございました』 送信ボタンを押し、剛堂店長からの返信を待たずに、スマートフォンの電源を長押しして完全に落とした。 会社にも、彼にも、実家にも迷惑をかけた。この上、自分の大好きな居場所であるあの店にまで、面倒な騒動を持ち込むわけにはいかない。 社会的な繋がりを自ら断ち切り、りとは真っ暗な部屋の中で膝を抱えて、声を殺して泣き続けた。 数時間が経った頃。 ピンポーン、ピンポーン、と、静まり返った部屋に突如としてインターホンの呼出音が鳴り響いた。 りとはビクッと肩を震わせ、膝を抱えたまま壁際に身を潜めた。しかし、音は一向に鳴り止まない。それどころか、何度も連続して激しく呼び出しを繰り返している。 重い頭を上げて壁のモニターを覗き込むと、そこには一階のエントランスに設置されたインターホンの前に、息を切らせて必死な表情を浮かべた綾が立っていた。 スマートフォンの電源を切ってしまったため、剛堂店長から連絡を受けた綾が、直接このアパートまで生存確認にやってきたのだろう。 居留守を使おうと息を殺したが、モニター越しの綾は諦める様子もなく、画面に向かって大声を張り上げた。「りと! いるんでしょ!? 店長からメール見せてもらったよ! お願いだから一回開けて、アタシの顔を見て!」 綾の必死の訴えに、りとの胸がズキリと痛んだ。大好きな先輩に、これ以上心配をかけるわけにはいかない。 りとは震える指先で解錠ボタンを押し、エントランスの自動ドアを開いた。 それから一分も経たないうちに、今度は302号室の玄関ドアを、ドンドンと激しく叩く音が聞こえてくる。「りと! アタシだよ、開けて!」 りとはフラフラとした足取りで玄関へ向かい、ゆっくりと鍵を開けてドアを引いた
給湯室で「自分がいるだけで迷惑をかけているのが辛い」と涙をこぼすりとを残し、鷲尾は重い足取りで執務室へと戻った。 なんとかして彼女の濡れ衣を晴らさなければならない。上層部に掛け合い、この理不尽な決定を覆す手段を探ろうと焦る鷲尾を待ち構えていたように、葛城部長が声をかけてきた。「鷲尾くん。……少し、いいかな」 再び、ブラインドが下ろされた第一会議室。先ほどりとが座っていた席に、今度は鷲尾が座らされた。「結論から言う。……鷲尾くん、君は甘崎さんの件から完全に手を引きなさい」「……どういうことでしょうか。彼女は私の直属の部下です。あのような不確かな理由で業務から外されるなど、到底納得ができません」 食い下がる鷲尾に、葛城部長は厳しい視線を向けた。「君が彼女を庇いすぎているという声が、すでに社内から上がっているんだよ。……そもそも、二人は私的な関係にあるのではないか、とな」「っ……」「いいか。彼女は今、副業禁止規定の違反と、競合への情報漏洩の疑いで調査対象になっている。これ以上、君が私情で彼女に接触すれば、君自身にも疑いが向く。君のプライベートまで会社が徹底的に調査することになれば……困るのは、君自身じゃないのか?」 痛いところを突かれ、鷲尾は息を呑んだ。 自分が女風セラピストとして裏で副業をしていることが明るみに出れば、共倒れになる。りとを守るための力が、今の鷲尾には完全に封じられてしまっていた。「……わかり、ました」 膝の上で、手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、鷲尾は屈辱に耐えるように深く頭を下げた。 何もできない。ただ彼女が理不尽な悪意に晒されるのを、黙って見ていることしか許されない。己のあまりの不甲斐なさに、鷲尾は血が滲むほど強く唇を噛み締めることしかできなかった。 一方、りとは自分のデスクで、ただ意味もなく真っ暗なパソコンの画面を見つめ続けていた。 周囲からは、心ないヒソヒソ話が絶え間なく聞こえてくる。「夜の店で働いてたって本当?」「ヤオノードの社長とも知り合いだったらしいよ」「情報とか、流してたんじゃないの……?」 針のむしろのような空間。隣の席の依千は心配そうにこちらを何度も見つめていたが、彼自身が〝適切な距離感を保つ〟と決めた手前、安易に声をかけることができずに苦しそうな顔をしている。 りとの心は少しず
お盆を過ぎ、連休が明けた株式会社ウィルクエスのオフィス。 久しぶりに出社したりとは、パソコンを立ち上げながら、隣の席に座る依千の横顔をそっと盗み見た。「おはよう、いっちゃん。……連休、ゆっくりできた?」「あ、おはよう、りっちゃん。うん、実家に顔出して、あとはのんびりしとったよ。りっちゃんは?」「私も、お休み満喫したよ」 依千はふわりと笑って返事をしてくれた。しかし、その笑顔はどこかぎこちなく、会話が終わるとすぐにパソコンの画面へと視線を戻してしまった。いつもなら、そこから他愛のない雑談が続くはずなのに。 あの休日の日、玄関のドアが閉まる瞬間に見えた、泣き出しそうな彼の顔が胸をよぎる。『これからは幼馴染として、適切な距離感で接させていただきますね』 彼が無理をして引いてくれた、明確な境界線。その見えない壁の冷たさと、大切な幼馴染を深く傷つけてしまった罪悪感に、りとは小さく息を吐いて目を伏せた。(いっちゃん……ごめんね) 心の中でそっと謝罪し、りとは斜め前のデスクに座る鷲尾の大きな背中を見つめた。 この連休中、結局一度も彼に会うことはできなかった。今日は仕事の合間を縫って、少しだけでも時間を作ってもらえないか、思い切って話しかけてみよう。 そう決意して小さく深呼吸をした、その時だった。「甘崎さん。……少し、いいかな?」 突然背後から声をかけられ、りとはビクッと肩を揺らして振り返った。 そこに立っていたのは、営業部のトップである葛城部長だった。普段は温厚で面倒見の良い彼だが、今の表情はひどく硬く、声のトーンもどこか重苦しい。「は、はい。なんでしょうか?」「今すぐ、第一会議室へ来てくれないか。……少し、込み入った話がある」 葛城部長のただならぬ雰囲気に、隣の依千も心配そうに顔を上げ、周囲の社員たちも何事かと視線を向けてくる。 りとの胸に、ざわざわと嫌な予感がよぎった。鷲尾もまた、パソコンの画面から視線を外し、鋭い目でこちらを見つめている。 りとはコクリと頷き、葛城部長の後を追って第一会議室へと向かった。 ブラインドが下ろされた第一会議室。 長机を挟んで、葛城部長と向かい合って座る。「単刀直入に聞くが。……君、夜のお店で働いているというのは、事実かね?」 ドクン、と。心臓が嫌な音を立てて大きく跳ねた。 なぜ、部長がそのこと
凍りつくような数秒間の後、りとはその場に立っていられなくなり、綾の手を引っ張って逃げるように駅へと駆け出した。 人混みをすり抜け、改札を抜け、滑り込んできた電車に飛び乗る。 ドアが閉まり、冷房の効いた車内で、二人は肩で荒い息を繰り返した。「……ねぇ、さっきの。ティフィン……だったよね?」 電車の揺れに身を任せながら、綾が恐る恐る口を開いた。「はい……ティフィンさん、でしたね」 りとは俯き、浴衣の帯をぎゅっと握りしめていた。脳裏に焼き付いたあの光景が、何度も何度もフラッシュバックして心臓を鋭く抉る。「相手の男、パパ活って感じの人ではなかったね。彼氏かな?」「うーん……。彼氏では……ないと思いたいのですが」「……どゆこと?」「うう……ちょっと話すと長くなるのですが、あのお相手は、私の大切な人と言うか……」 その言葉に、綾は目を丸くした。「は!? ちょっと待って。浮気……してるってこと?」「そういうわけでもなくて! あの人、疑似恋愛がお仕事みたいなところがあるから」 必死に否定するりとを見て、綾はハッとして息を呑み、そして急に悲痛な顔になった。「というか、りと、彼氏いたんだ……。なんか、アタシ……さっきは、ごめん」 花火の下で奪ってしまった唇のことを思い出し、綾は気まずそうに視線を泳がせた。 りとも、あの一瞬の出来事と、直後の衝撃的な光景が混ざり合い、どう反応していいかわからずに思わず黙り込んでしまう。 ガタン、ゴトンという電車の走行音だけが、気まずい二人の間を通り抜けていく。 やがて、その重い沈黙を破ったのは綾だった。「ねぇ、もしかして……ティフィンとの喧嘩って、りとの彼氏が原因なの?」 本当は、明確に彼氏という肩書きをもらっているわけではない。しかし、今の自分の複雑すぎる事情をすべて説明するのは難しいため、りとはひとまず話を合わせることにした。「うん……まあ、そんなところで」「ティフィンが、りとの彼氏って知った上で奪おうとしたの?」「奪おうとしたかまではわからないんですが、ティフィンさんは……私と彼の関係を知って、すごく怒っていましたね……」「だいたい事情が飲み込めてきた。……疑似恋愛が仕事って、ホスト?」「え……えっと……その……」 りとはモゴモゴと口ごもり、綾の耳元に顔を近づけて、蚊の鳴くような小声で囁いた
――そして、運命の週明け、月曜日。 朝からオフィスの空気は、いつも以上に重く感じられた。 いや、実際に重いわけではない。りとの心が、勝手にそう感じているだけだ。 亜麻色のショートカットを揺らしながら、りとは自分のデスクでパソコンの画面を見つめていた。しかし、タイピングする指はさっきから完全に止まっている。 視線の先にあるのは、斜め前に座る営業部一課の絶対的権力者、鷲尾課長の背中だ。 土曜日の夜の出来事が、フラッシュバックする。 あのホテルでの、甘く、熱く、とろけるような時間。あの冷徹な鬼上司が、夜はあんなにも優しく、情熱的に自分を愛撫してくれたのだ。 あの長くて綺麗な指先。首
激しい波が何度も押し寄せ、ようやく静まり返ったハイクラスホテルのスイートルーム。 間接照明の柔らかな光の中、りとは真っ白なシーツにすっぽりと包まれながら、指一本動かせないほどの心地よい疲労感にどっぷりと浸っていた。「お疲れ様でした。少し、汗を拭きましょうか」 レイ――鷲尾課長の声は、昼間の冷徹さからは想像もつかないほど甘く低く、どこまでも優しかった。 温かいホットタオルが、りとの火照った身体を丁寧に拭い清めていく。その手つきには一切のいやらしさがなく、ただ大切なものを慈しむように扱われているという絶対的な安心感だけがあった。 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う落ち着いた〝ウッ
土曜日の夜。 職場である都心のオフィス街から電車を乗り継ぎ、一時間以上離れた閑静なエリアにあるハイクラスホテル。 りとは広々としたスイートルームのふかふかの上質な絨毯の上で、落ち着かない様子でウロウロと歩き回っていた。 女性向け風俗、出張型リラクゼーションサービス〝メロウルーム〟。 予約を完了した日から今日まで、りとは仕事中も上の空になるほど、この日のことばかりを考えていた。下着も奮発して、少し透け感のある黒のレースのランジェリーを身につけている。上には、ホテルに備え付けられていた肌触りの良いバスローブを羽織っていた。(あの写真の人……本当に鷲尾課長なのかな。いや、まさかね。いく
「はぁ、はぁ……っ、ん……」 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。 部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。 甘崎りとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。 男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。 太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げ







