LOGIN実を言うと、冴臣は同居を始めてからも、長らく〝恋人〟という明確な肩書きを避けていた。 愛情という目に見えない不確かなものに縛られることを、彼は心の底でひどく恐れていたのだ。自分の母親のように、愛を言い訳にして相手を搾取し、コントロールする怪物になってしまうのではないかという呪縛が、ずっと彼の心を蝕んでいたから。 けれど、数年という時間を同じ屋根の下で過ごし、共に温かい食卓を囲み、些細なことで笑い合う穏やかな生活の中で、彼の心の分厚い氷は少しずつ溶けていった。 自分は絶対に、あの母親のような怪物にはならない。 君を不幸にすることはない。 そう確信できたのか、最近になってようやく、冴臣ははっきりと、りとを〝恋人〟として認めてくれるようになったのだ。 それどころか――。「りとー! 久しぶり! 来たよ〜!」 しとしとと雨が降る週末。古民家カフェ〝ひだまり〟の引き戸が元気よく開いた。 そこに立っていたのは、傘を畳む乃々羽と、大きな身体で荷物を持つ三ツ谷、そして、二人の間をちょこちょこと歩く小さな女の子――由真だった。「乃々羽! 三ツ谷さん! わあ、由真ちゃん、いらっしゃい!」「りとちゃん、ひさしぶり〜!」 大きくなって、すっかり上手におしゃべりできるようになった由真を見て、りとは大喜びでしゃがみ込み、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。 厨房の奥から出てきた冴臣も、目元を優しく和ませて挨拶をする。「遠いところ、よく来てくれたな」「鷲尾くん、相変わらず渋くてかっこいいわね〜! みっちゃんも見習ってよね!」「こらこら、俺だって小児科じゃ人気だぞ」 賑やかな笑い声が、雨音を打ち消すようにカフェの中に響き渡る。 りとは腕を振るい、三人のために特製のランチプレートを用意した。 メインは、肉汁がたっぷりと溢れ出す和風ハンバーグ。そこへ、手作りのポテトサラダ、シャキシャキとした蓮根のきんぴら、出汁が香る分厚い厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和えを添え、熱々のナスと油揚げのお味噌汁、そしてふっくらと炊き上げた雑穀ごはんを並べた。「うわーっ、おいしそう! 由真、はんばーぐ大しゅき!」「こりゃすごいな。甘崎さん、本当に料理の腕を上げたね」「うん、めちゃくちゃ美味しい! 毎日食べられる鷲尾くんが羨ましいわ!」 三人からの大絶賛を受け、りとは「えへへ、た
――あの日から、数年の年月が過ぎ去った。 しとしとと、静かな雨音が古民家の瓦屋根を叩いている。 りとが店主を務める古民家カフェ〝ひだまり〟の厨房で、大きな小麦粉の袋を持ち上げようとした彼を見て、りとは慌てて声を上げた。「あ、だめだよ冴臣! 雨の日はただでさえ傷跡が疼くのに、そんな重いもの持ったら……っ」「大丈夫だ。もうだいぶ良くなってきている」 苦笑いしながら振り返った鷲尾冴臣の表情は、東京で張り詰めていた頃よりもずっと柔らかく、穏やかだった。 あの日、路地裏で大量の血を流して倒れた冴臣は、三ツ谷の医師としての完璧な応急処置と、その後の緊急手術によって、奇跡的に一命を取り留めた。 彼を刺した月白依織――ティフィンは、そのまま警察に逮捕された。パパ活で得た資金や、他人の人生を狂わせた悪質なストーカー行為もすべて明るみに出た彼女は、今も重い懲役刑に服しているはずだ。 一方、八尾蓮真は、一連の騒動の責任を問われヤオノードの社長を辞任。会社から事実上追放され、業界内での信用も完全に失った。刑事事件でも事情聴取を受け、依織の罪を裏付ける証言台に立ったと聞いている。 後日、りと宛てに八尾から分厚い謝罪の手紙が届いたが、りとは一度だけそれに目を通し、返事を書くことはなかった。 そして、りとの実家に入った悪質な匿名通報の件も、無事に誤解を解くことができた。 真相を暴いてくれたのは、綾と剛堂店長だった。夜の街のネットワークを駆使して調べ上げた結果、実家に電話を入れたのは依織本人ではなく、金で雇われた代行業者だったことが判明したのだ。 すべてを把握した後、りとは震える手で実家の母親へと電話をかけた。「……お母さん、ちゃんと話したいことがあるの」 りとは、隠し立てせず、事実と嘘をしっかりと分けて説明した。「夜のお店で働いていたのは本当。会社の規則を破ったのも本当だよ。それは、私が悪かった」『……っ、そんな……じゃあ、あなたずっと東京で夜の仕事を……?』「ごめんなさい。でも、男関係で会社に迷惑をかけたとか、情報漏洩の犯罪に関わったとかいうのは、全部嘘なの。私を追い詰めるために、誰かが業者を使って家に電話したの……」 電話の向こうで、母親が言葉を失っているのがわかった。「お母さんたちに、軽蔑されると思って……言うのが、すごく怖かった」 りとの絞り出
肩にのしかかる、想像以上に重い身体。 生ぬるい液体の感触が、服越しにりとの肌へとじわじわと伝わってくる。「……冴臣、さん……?」 震える声で呼びかけながら、りとはずるずると崩れ落ちそうになる彼の身体を、必死に両腕で抱きとめた。 夕陽に照らされた彼の白いシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていく。鉄の錆びたような血の匂いが、夏のぬるい空気に生々しく混じり合った。 カラン、と。 血に濡れたサバイバルナイフが、乾いたアスファルトの上に転がり落ちる。「わ、私……」 自分の真っ赤に染まった手と、血を流して倒れ込む鷲尾の姿を交互に見つめ、ティフィンは大きく目を見開いた。彼女の瞳から先程までの夜叉のような狂気は完全に消え失せ、代わりに強烈なパニックと恐怖が顔に張り付いている。「そんな……つもりじゃ……っ」 ガタガタと震えながら、ティフィンはフラフラと後ずさった。 鷲尾は、刺された右の腹部を片手で強く庇いながら、荒い息を吐き出してティフィンを睨みつけた。「……月白……依織……」 ひどく掠れた、かすかな声。彼が紡いだのは、ティフィンの本名だった。 その名に過剰に反応し、ティフィンは両手で耳を塞ぐようにして首を激しく振った。「そもそも……冴臣くんが……私を選んで、くれないから……っ!」 それは、身勝手で子供じみた、ひどく哀れな言い訳だった。 鷲尾は腹部の激痛に顔を歪めながらも、冷静さを保とうと必死に言葉を絞り出す。「……最近、客でしかないはずなのに、突然俺の本名を呼ぶようになって、驚いていたが……。まさか、甘崎と繋がりがあったとはな……」「……っ」「君が俺に執着していることには、気づいていた……。だが、まさか……俺たちの後をつけられているとは……」 その言葉を最後に、プツリと、鷲尾を支えていた糸が切れた。 彼は血に染まった手をつき、そのまま力なくアスファルトに膝を折った。「冴臣さん……っ! もう、喋らないで……!」 りとは半狂乱になりながら、彼の上着を脱がせ、出血を抑えようと傷口に布を強く押し当てた。温かくて粘り気のある血が、りとの指の隙間からとめどなく溢れてくる。 いくら押さえても、血が止まらない。彼の体温が、指先から少しずつ奪われていくのがわかる。「だ、誰か……っ! 誰か、救急車を……っ!!」 りとの悲痛な叫び声が、夕暮れの
ネオンの光が夜の街を彩り始める頃、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の店内には、開店前の静かな時間が流れていた。 カウンター席に腰を下ろした綾は、手元のスマートフォンを見つめ、ふぅと深く安堵の息を吐き出した。画面には、りとから届いた退職の報告と、少しだけ前を向けたような明るい文面が並んでいる。「……ラム、少しずつ立ち直ってきてるみたい」「そう。結局お店を辞めることになっちゃったのは残念だけど……あの様子なら、もう一人でも大丈夫そうね」 グラスを磨きながら、剛堂店長もホッと胸を撫で下ろした。しかし、二人の表情はすぐさま険しいものへと変わる。 この数日間、綾と店長は夜の街のネットワークを駆使し、りとの実家に入った悪質な匿名通報の出所を探っていた。そしてついに、一本の線が繋がったのだ。 通報に使われたのは、金で雇われた悪質な代行業者だった。そして、その業者に依頼を出したパトロンの背後にいるのは、間違いなくティフィンだ。「ラムをここまで追い詰めたこと、絶対に許さないんだから……っ」 綾は怒りに任せて、ティフィンの連絡先へと発信ボタンを押した。りとのご両親への誤解を解かせるためにも、本人を問い詰める必要がある。 だが、無機質な機械音が返ってくるだけで、一向に通じる気配がない。着信拒否されているか、すでに番号を変えられた後らしかった。「……出ない。完全に切られてる」「姿も見せないし、連絡もつかないなんて……妙ね。嫌な予感がするわ」 店長が眉をひそめて呟く。二人は顔を見合わせ、得体の知れない不穏な空気を感じ取っていた。 同じ頃。株式会社ヤオノードの社長室で、八尾蓮真は頭を抱えていた。 ウィルクエスとの共同プロジェクトは、情報漏洩騒動の余波で完全に凍結。それどころか、パートナー企業を陥れようとしたという最悪の事実が業界内に漏れ出し、ヤオノードへの信用は地に墜ちていた。 役員会からの激しい突き上げと、取引先からの契約打ち切りの電話が鳴り止まない。会社を救うために悪魔の手を借りた結果、蓮真はすべてを失おうとしていた。「……ティフィンちゃん……」 虚ろな目で呟くが、彼女はもう三日も蓮真のもとへは姿を見せていない。 あの日、「全部壊せばいいじゃない」と夜叉のように笑った彼女の異常な瞳を思い出すと、今でも背筋が凍る。彼女の執着の矛先は、もはや蓮真の理解を
数日後。 ウィルクエスの第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。 長机を挟んで、葛城部長、監査委員会の面々、そして鷲尾と依千が並んで座っている。りとは案内された席に腰を下ろし、膝の上でギュッと手を握りしめていた。 ヤオノード側への正式な調査照会、そして依千が提出したアクセスログの解析結果が出揃ったのだ。結論から言えば、りとの情報漏洩疑惑は完全に払拭された。 りとのアカウントは外部から不正利用された可能性が極めて高く、アクセス元はヤオノード側の検証環境だったこと。不審なアクセス時刻と、りとの社内での入退室ログが一致しないこと。さらにはヤオノードのサブサーバーに、漏洩を偽装するためのダミーファイルが事前に用意されていたこと。 最終的には八尾蓮真自身も証言に立ち、「甘崎さんは一切関係ない」と明確に認めたことで、事態は収束を迎えた。「甘崎さん」 葛城部長が、いつもの温厚な顔つきに戻り、深く頭を下げた。「情報漏洩疑惑について、君に重大な非は認められなかった。……会社として、君を守り切れなかったことを、心から謝罪するよ。本当に申し訳なかった」「……っ」 その言葉を聞いた瞬間、りとの目からボロボロと安堵の涙がこぼれ落ちた。自分が会社を裏切った犯罪者ではないと、ようやく公式に認められたのだ。 しかし、泣きながらも、完全に晴れやかな笑顔にはなれなかった。疑いが晴れたからといって、あの日のフロアで浴びた冷たい視線や、事実無根の噂話の恐怖が、綺麗になかったことにはならないからだ。「だがね……」 葛城部長は少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。「ガールズバーで副業をしていた事実は、就業規則上、どうしても処分対象になってしまうんだ」 情報漏洩は濡れ衣でも、副業規定違反は紛れもない事実だ。りとは涙を拭い、静かに、けれどしっかりと頷いた。「はい。……それは、私が悪いです。会社のルールを破っていたことは、言い逃れできません」 ここで言い訳をして逃げるような真似はしたくない。自分の非を真っ直ぐに認めるりとの誠実な態度に、葛城はふっと目を細めた。「懲戒解雇にするつもりはないよ。会社としても、君が経済的な事情を抱えていたことや、今回の件で理不尽な被害を受けたことを考慮する。処分はけん責、または一定期間の減給に留める。……希望するなら、別部署への配置転換で再スター
夏の夕暮れが夜の闇へと溶け込んでいく頃。 メゾン・ド・ルミエールの302号室、インターホンが静かに鳴った。 りとはビクッと肩を震わせたが、隣にいた綾が「アタシが出る」と立ち上がった。モニターを覗き込んだ綾は、少しだけ目を丸くして、それからふっと小さく笑った。「……ほら、お迎えだよ」 綾に促され、りとはおぼつかない足取りで玄関へと向かった。 ゆっくりとドアを開けると、そこにはネクタイを緩め、少しだけ息を切らしたスーツ姿の鷲尾が立っていた。「冴臣さん……」「……社内での接触は禁止されているが、すでに退社したのだから、ここは社外だろう」 少しだけ言い訳めいたことを真面目に口にする鷲尾を見て、後ろに立っていた綾が、どこか安堵したような声で笑った。「……やっとお迎えが来たんだ。彼氏さんが来てくれたなら、もう安心だね!」 綾は手早く自分の荷物をまとめると、りとの頭をポンと撫でた。「じゃ、アタシはお邪魔虫だから帰るわ。りと、ちゃんと話すんだよ」「綾さん……本当に、ありがとうございました。ずっと、一緒にいてくれて……」「いいのいいの。アタシたちは友達でしょ」 綾はひらひらと手を振り、鷲尾とすれ違いざまに、彼にだけ聞こえるほどの小さな声で「……絶対、泣かせんなよ」と鋭く告げた。 鷲尾は深く頷き、綾の背中を見送った。 エレベーターホールへと向かう綾の胸の奥には、ちくりとした失恋の痛みが残っていた。けれど、ドアの向こうでやっと息を吹き返した親友の顔を見れば、これでよかったのだと心から思えた。 ガチャリ、と。玄関のドアが閉まり、部屋に二人きりになる。 静寂が落ちた瞬間、鷲尾は大きな歩幅でりとに近づき、その細い身体を腕の中に強く、きつく閉じ込めた。「……っ、冴臣さん……」「……よく、一人で耐えてくれた。すまなかった。もっと早く、君のところへ来るべきだった」 耳元で聞こえる、低くて震える声。彼特有の、清潔なウッディの香りに包まれた途端、りとの目からせき止められていた涙が一気に溢れ出した。 シャツの胸元をギュッと掴み、りとは彼の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。鷲尾は何も言わず、大きな手で彼女の背中を、何度も何度も愛おしむように撫で続けた。 やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したりとは、鷲尾に促されてソファに並んで座った。「……情報漏洩の
――そして、運命の週明け、月曜日。 朝からオフィスの空気は、いつも以上に重く感じられた。 いや、実際に重いわけではない。りとの心が、勝手にそう感じているだけだ。 亜麻色のショートカットを揺らしながら、りとは自分のデスクでパソコンの画面を見つめていた。しかし、タイピングする指はさっきから完全に止まっている。 視線の先にあるのは、斜め前に座る営業部一課の絶対的権力者、鷲尾課長の背中だ。 土曜日の夜の出来事が、フラッシュバックする。 あのホテルでの、甘く、熱く、とろけるような時間。あの冷徹な鬼上司が、夜はあんなにも優しく、情熱的に自分を愛撫してくれたのだ。 あの長くて綺麗な指先。首
激しい波が何度も押し寄せ、ようやく静まり返ったハイクラスホテルのスイートルーム。 間接照明の柔らかな光の中、りとは真っ白なシーツにすっぽりと包まれながら、指一本動かせないほどの心地よい疲労感にどっぷりと浸っていた。「お疲れ様でした。少し、汗を拭きましょうか」 レイ――鷲尾課長の声は、昼間の冷徹さからは想像もつかないほど甘く低く、どこまでも優しかった。 温かいホットタオルが、りとの火照った身体を丁寧に拭い清めていく。その手つきには一切のいやらしさがなく、ただ大切なものを慈しむように扱われているという絶対的な安心感だけがあった。 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う落ち着いた〝ウッ
土曜日の夜。 職場である都心のオフィス街から電車を乗り継ぎ、一時間以上離れた閑静なエリアにあるハイクラスホテル。 りとは広々としたスイートルームのふかふかの上質な絨毯の上で、落ち着かない様子でウロウロと歩き回っていた。 女性向け風俗、出張型リラクゼーションサービス〝メロウルーム〟。 予約を完了した日から今日まで、りとは仕事中も上の空になるほど、この日のことばかりを考えていた。下着も奮発して、少し透け感のある黒のレースのランジェリーを身につけている。上には、ホテルに備え付けられていた肌触りの良いバスローブを羽織っていた。(あの写真の人……本当に鷲尾課長なのかな。いや、まさかね。いく
「はぁ、はぁ……っ、ん……」 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。 部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。 甘崎りとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。 男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。 太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げ







