《誕生日の夜、恋人と家族に見捨てられ、偽物の姉に人生を奪われた本物の令嬢は、復讐のために生き直す》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

107 章節

第11話

下の階から聞こえてきた騒ぎに、修は眉をひそめた。足早に屋上の縁まで歩み寄り、身を乗り出して下を見下ろす。そこには小さな空き地があり、大勢の生徒が人だかりを作っていた。騒然とした声は、まさにその中心から響いている。人だかりの真ん中では、数人の男子生徒が地面に倒れ込んだ一人を取り囲み、容赦なく蹴りや殴打を浴びせていた。殴られている生徒は体を丸め、両腕で頭をかばっている。制服は埃と無数の足跡で汚れきっていた。そして、その加害者たちのすぐそばには、一人の女子生徒が立っていた。これほど離れた場所からでも、その女子生徒が澪だと修には一目で分かった。澪は集団に向かって必死に何かを叫びながら腕を振り回している。何度も飛び込んで暴行を止めようとしたらしいが、そのたびに隣にいた背の高い男子生徒に腕を掴まれ、阻まれていた。その背の高い男子生徒のことも、修は知っていた。校長の息子――林利弘だ。青波私立学園で、利弘は誰もが恐れる不良グループのリーダーだった。父親はこの学校の最高権力者であり、教師から生徒に至るまで、彼に逆らえる者は一人もいない。取り巻きの不良たちを引き連れて学内を我が物顔で歩き回り、教頭でさえ彼の姿を見れば愛想笑いを浮かべるほどだった。いつの間にか修の隣へ来ていた綾音が、身を乗り出して下を覗き込む。「あら? あの殴られている男の子……さっき購買部の前で、澪と一緒にいた子じゃないかしら」修のこめかみがぴくりと動いた。最悪のタイミングで、ほんの一分前に綾音が口にした言葉が脳裏によみがえる。――あの子ったら、意外と考え方が進んでいるのよ。特に異性との付き合い方に関しては。修は無意識のうちにフェンスを強く握り締めていた。綾音はわざとらしく驚いたような声を上げる。「どうして利弘たちと揉めているのかしら。利弘は校長先生の息子さんだから、学校じゃ誰も逆らえないのに。普通なら関わらないように逃げるはずですわ……」彼女が言い終えるより早く、修は身を翻し、大股で階段の入り口へ向かっていた。「修!? どこへ行くの!」綾音が背後から叫ぶ。だが修は一度も振り返らず、風のような勢いで扉を乱暴に閉め、その場を去っていった。この時の修は知る由もなかった。ほんの十数分前、澪もまた、あの殴られている男子生徒の名前を初めて知ったばかりだという
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第12話

千尋はぴたりと動きを止め、ぎこちない笑みを浮かべた。「なんでもないよ。さっき、うっかり転んじゃって」転んだだけで、こんな傷になるものだろうか。口元は切れ、制服のボタンもいくつか弾け飛んでいる。あまりにも見え透いた嘘だったが、知り合ったばかりの相手をこれ以上問い詰めるつもりは、澪にはなかった。「そう。それなら、これからはもう少し足元に気をつけて歩くことね」千尋はかすかに微笑み、素直に頷いた。「うん、気をつけるよ」こうして二人は隅のベンチに並んで腰を下ろし、静かにおにぎりを頬張った。澪が最後の一口を口に運んだ、その直後だった。少し離れた場所から、荒々しい足音がこちらへ近づいてくる。「おいおい、飯沼じゃねえか!」気だるげな声が頭上から降ってきた。澪が顔を上げると、逆光の中に五、六人の男子生徒が立ち、二人を見下ろしていた。先頭に立っているのは体格のいい男だ。顔立ちは悪くないものの、その目には人を不快にさせるような傲慢さが色濃く宿っていた。制服こそ着ているが、シャツの裾はズボンからだらしなくはみ出し、ネクタイも胸元まで緩められている。全身から、近寄る者を威圧するような横暴な空気を漂わせていた。おにぎりを握る千尋の手がこわばり、顔からさっと血の気が引いた。「は、林……利弘……」震える声だった。利弘は口元を歪め、ニヤリと笑う。「ずいぶん美味そうに食ってるじゃねえか」そう言うと、磨き上げられた革靴を遠慮なくベンチへと乗せ、澪と千尋の間に足を突き出した。「俺のダチを殴っといて、のこのここんな場所で女を口説く余裕まであるとはな。お前、なかなか肝が据わってるじゃねえか」次の瞬間、利弘は勢いよく足を振り上げ、靴底で千尋の顔面を蹴り飛ばした。凄まじい一撃だった。千尋はベンチから弾き飛ばされるように地面へ転がり落ちる。澪は驚いて立ち上がり、突然現れて暴れ始めた不良たちを、激しく脈打つ胸を押さえながら見つめた。彼女は反射的に飛び出し、暴行を加えている男子たちを突き飛ばそうとする。「いきなり何をするの!どうして人を殴るの! 今すぐやめて!」「俺様が誰を殴ろうが、理由なんかいるかよ。やっちまえ!」利弘が言い終えるや否や、後ろに控えていた取り巻きたちが一斉に飛びかかった。まるで獲物に群がるハイエナのように、千尋へ雨あられと拳や蹴りを浴びせてい
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第13話

下劣な笑い声が響く中、澪は千尋が一階の男子トイレへ引きずり込まれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。その場に立ち尽くした彼女は、屈辱で顔を真っ赤に染め、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめる。先ほどの利弘の言葉が、自分への警告だったことは理解していた。相手が校長の息子である以上、教師に助けを求めても無駄なのだろう。それでも、たとえ一縷の望みしかなくても、澪は諦めたくなかった。これほど大きな学校なのだ。これだけ多くの教師がいて、弱い立場の生徒に手を差し伸べてくれる人が一人もいないなど、どうしても信じられなかった。澪は職員室へ駆け込み、勢いよく扉を開けた。中には四、五人の教師がいた。息を切らしながら入り口に立ち、澪は声を張り上げる。「先生! 男子トイレで喧嘩です!……いいえ、いじめです! 大勢で一人を殴っているんです! 早く助けに行ってください!」職員室は一瞬だけ静まり返った。眼鏡をかけた中年の教師が新聞から顔を上げ、慌てる様子もなくのんびりと尋ねる。「誰が喧嘩しているんだ?」「リーダー格の人は、林利弘という名前です!」その名を口にした瞬間だった。教師の表情がはっきりと強張るのを、澪は見逃さなかった。その目の奥には、何とも言えない気まずさと戸惑いが浮かんでいた。「ああ……あの子か」中年教師は目を伏せ、湯呑みを持ち上げて一口すすった。そして、まるで何事もなかったかのように軽く言った。「男子同士のじゃれ合いなんて、よくあることだ。いちいち大騒ぎするような話じゃない」澪は言葉を失い、その場に立ち尽くした。「でも先生! あれは本当に酷い暴力でした! 千尋くんは頭から血を流していたんです! 私、この目ではっきり見ました!」「あなた、何組の生徒? 名前は?」別の女性教師が、澪の言葉を遮るように口を開いた。「私……一年D組の神崎澪です……」『一年D組』『神崎澪』――それを耳にした途端、その場にいた教師たちは申し合わせたように顔を見合わせた。なるほど、神崎グループのトップがわざわざ「特別に配慮するように」と口添えしてきた、あの厄介な娘か。「もうすぐ昼休みも終わる時間よ。うろうろしていないで、早く教室へ戻りなさい。万が一何かトラブルに巻き込まれたら、学校としても責任を負いきれないからね」その言葉を聞いた瞬間、澪の心
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第14話

修は両手をポケットに突っ込んだまま立っていた。シワひとつない制服が、長身で整った体つきをいっそう際立たせている。鋭い眉をわずかに寄せ、伏し目がちに澪を見下ろした。「何か手伝うことはあるか」修は淡々とした声で尋ねた。ぶつかった相手が修だと気づいた瞬間、澪は反射的に一歩後ずさりし、無意識に首を横に振った。「結構よ。あなたには関係ない」しゃがれた声で、冷たく突き放すように言う。修は言い返さなかった。ただ静かに彼女を見つめている。その底知れない瞳には、意地を張る澪の姿が映っていた。その時、背後から甘く柔らかな声が響いた。「澪、どうしてここにいるの?」いつの間にか追いついてきた綾音が、ごく自然に修の隣へ並ぶ。腕が触れ合いそうなほど近い距離だった。彼女は澪を見つめ、いかにも心配そうな顔を作る。「修と私はね……その、とても親しいお友達なの。もし何か困ったことがあるなら、遠慮なく修に相談して。私から頼めば、修もきっと力になってくれるわ」その言葉に、修はほんのわずか眉を寄せた。綾音がまるで自分の所有物であるかのように振る舞い、澪に二人の関係を見せつけるような口調を取ったことが、妙に気に障ったのだ。だが、修は否定しなかった。今の彼にとって、そんなことはどうでもいい。彼が気にしていたのは、ただ一つ――澪がどんな反応をするか、それだけだった。綾音が言い終えた時、澪の視線は二人の触れそうな腕に一瞬だけ落ちた。しかし、それだけだった。澪の表情はまったく変わらず、眉ひとつ動かない。まるで目の前の光景を、ごく当然のものとして受け入れているかのようだった。「必要ないわ」そう言い捨て、背を向けて立ち去ろうとする。次の瞬間――。一本の腕が彼女の耳元をかすめ、ドンッと鈍い音を立てて壁に突かれた。修はわずかに身をかがめ、澪をすっぽり自分の影の中へ閉じ込める。顔は目と鼻の先。かすめる吐息から、ほのかな白檀の香りがした。隣にいた綾音の笑みが、ぴたりと凍りつく。「自分が何をしようとしてるか分かってるのか。不良どもに盾突くのは百歩譲っていいとして、たった一人で何ができる」修の声は低く、地を這うようだった。澪は顔を上げ、真っ直ぐに彼を見返す。その瞳は静かで、波ひとつ立たない水面のように澄み切っていた。「あなたに何の関係があるの」「修! 落ち着いて。澪が怖
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第15話

一階の男子トイレのドアは半開きになっていた。中からは、鈍い打撃音と途切れ途切れのくぐもった呻き声が漏れ聞こえてくる。「利弘さん、もうそのくらいにしておきましょうよ。これ以上やったらヤバいっす」取り巻きの一人が、利弘の顔色をうかがいながら、おずおずと口を挟んだ。「ビビってんじゃねえよ。何かあっても親父が揉み消してくれる。こいつには、たっぷり身の程を教えてやらねえとな。二度と余計な真似ができねえようによ」利弘の声には、興奮で荒くなった息遣いが混じっていた。再び、肉を蹴りつける鈍い音が響く。澪は勢いよくドアを押し開け、その目に飛び込んできた惨状に思わず息を呑んだ。千尋は部屋の隅でうずくまり、両手で頭を抱えていた。制服は足跡と血で無残に汚れ、顔は原形を留めないほど腫れ上がっている。口元からは血が滴り落ち、目は半開きのまま、意識も朦朧としているようだった。それでもまだ気が済まないのか、利弘は千尋の顔を踏みつけようと、高々と足を振り上げていた。澪の視線が素早く周囲を走り、隅に置かれたモップ用のバケツを捉える。中には汚水がなみなみと溜まり、水面には灰色の泡が浮かんでいた。彼女は考えるより先に駆け出した。一気に間合いを詰めると、そのバケツをひっつかみ、利弘の頭上から勢いよく汚水を浴びせかけた。バシャッ――という派手な音とともに、バケツ一杯の汚水が寸分違わず利弘の全身を襲う。制服はずぶ濡れになり、髪には薄汚れた泡がまとわりつく。顔を伝って水滴がぽたぽたと滴り落ちるその姿は、見るも無惨だった。トイレの中が、一瞬で静まり返る。その場にいた全員が呆然と立ち尽くし、ずぶ濡れの利弘と、入口で空になったバケツを提げた澪を、目を丸くして交互に見比べた。利弘はゆっくりと顔を向ける。その表情は驚愕から、みるみる激しい怒りへと染まっていった。「てめえ……よくも!」彼は腕を振り上げ、澪の顔めがけて力任せに平手打ちを放った。だが、澪の反応は一瞬早かった。さっと身を沈めると、その手のひらは風を切る音を立てながら、彼女の頭上をかすめていく。パァン!乾いた平手打ちの音が響き渡った。利弘の一撃は澪には当たらず、あろうことか別の人物の頬をまともに打ち抜いていた。澪の後を追って男子トイレへ飛び込んできた修は、足を踏み入れた瞬間、状況を把握する間もなく、その平手打ち
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第16話

九条家は、この青波私立学園における最大の出資者である。学校の敷地も、校舎も、体育館も、その半分は九条家の資金によって成り立っていた。その九条家の当主の前では、校長でさえ九十度に腰を折らなければならない。そんな中、校長の息子に過ぎない利弘など、九条家の前では何ほどの存在でもなかった。「利弘」修の声は決して大きくはなかった。だが、その一言一言は、静まり返った男子トイレの中に鋭く響き渡る。「学校が自分のものだからといって、何をしても許されると思い上がるな。これ以上つけ上がるようなら、この学校の校長の首くらい、いつでもすげ替えてやる」その言葉は、頭から氷水を浴びせられたように、利弘を心の底から震え上がらせた。利弘は鼻血を押さえながら、もがくように床から身を起こした。失った面子を取り戻そうと、何か捨て台詞でも吐こうと口を開きかける。しかし、一切の温度を宿さない修の瞳と目が合った瞬間、喉元まで込み上げていた言葉を無理やり飲み込んだ。「誤解っすよ……全部、誤解で……」利弘は泣き出しそうなほど引きつった笑みを浮かべ、乾ききった声を絞り出した。「修さん、俺、知らなくて……この女が……その、この人が修さんの女だなんて……」修はその誤解を正そうともせず、ただ静かに一歩身を引き、澪と千尋が通れるよう道を空けた。その時だった。入口の方から、息を切らした大声が飛び込んできた。「やめなさい!そこで何をしている!」ようやく重い腰を上げた教頭が、大きく突き出た腹を揺らしながら男子トイレへ駆け込んできた。その顔には、隠しようのない焦りが浮かんでいる。綾音は入口に立ち、背伸びをして中の様子をうかがっていた。教頭を呼びに行ったのは彼女だった。だが、さすがに体裁を気にして、澪のように後先考えず男子トイレへ飛び込む勇気はなく、入口で足を止めるしかなかったのである。とはいえ、壁一枚隔てただけの距離だ。中で交わされたやり取りは、彼女の耳にもはっきり届いていた。とりわけ――『この人が修さんの女だなんて』という利弘の言葉と、それを肯定も否定もしなかった修の態度は。綾音の表情から、すっと温度が消えた。人形のように整ったその顔は、嫉妬によって醜く歪み、底知れぬ怨念を宿した鬼のような形相へと変わっていく。一方、トイレの中では、教頭が室内をぐるりと見回していた。
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第17話

保健室。校医の鹿野は、白衣のボタンを一番上まできっちり留め、両手には医療用のゴム手袋を隙間なくはめていた。澪が千尋を支えながら保健室に入ると、鹿野は診察用の椅子に足を組んで座り、うつむき加減のまま分厚い病理学の専門書をめくっているところだった。「失礼します」澪は千尋をベッドに座らせると、鹿野に声をかけた。「怪我をしているんです。手当てをお願いできますか」鹿野は慌てる様子もなく、ゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の視線が千尋の顔をひととおり眺めると、最後に保健室の入り口へと向けられる。「後ろにもう一人くっついてるのは誰だ」澪はハッとして振り返った。保健室の入り口には、修が両手をポケットに突っ込んだまま立っていた。その表情はどこかぎこちない。「なんでついてくるの」澪は眉をひそめた。「誰がついてきたって?」修は鼻で笑い、長い足を踏み出して中へ入ってきた。「俺も怪我をしたんだ。医者に診てもらいに来ちゃ悪いか?」鹿野の視線が修の整った顔立ちに二秒ほど留まり、それから無言のまま澪へと向けられた。その目は、まるで『どこに怪我があるんだ?』と問いかけているようだった。どこからどう見ても、傷ひとつない綺麗な顔である。澪も不思議に思っていた。さっきまではうっすら残っていた五本指の跡が、今ではすっかり消えている。利弘が空腹で力が入らなかったのか、それとも修の面の皮が厚すぎるのか。澪は後者だろうと思った。修は意地を張るように言い訳した。「顔なんて一言も言ってない。怪我したのは手だ。さっき殴った時、指の関節を擦りむいたかもしれないだろ……」澪は言葉を失った。「出ていけ」鹿野の視線は、すでに本へ戻っていた。「肉が裂けて血が出たわけでもないなら、俺の昼休みを邪魔するな」「……」修の顔は炭でも塗ったように黒くなった。これまでの人生で、ここまで露骨に邪険に扱われたことなど一度もなかったのだ。彼は鹿野の噂を耳にしたことがあった。この男の気難しさは有名で、ここへ来た者で冷たくあしらわれなかった者はいないという。事情を知っていれば校医だと分かるが、知らなければヤクザと勘違いしても無理はない。澪のことでもなければ、たとえ手足が折れていたとしても外の病院で順番を待つほうがまだマシだ。こんな場所で冷たくあしらわれるのは真っ平だった。その時、
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第18話

十五分後。千尋の顔や手足には包帯がぐるぐると巻かれていた。澪はペットボトルのキャップを開け、それを彼に手渡す。「もう話せるかしら?どうしてあんな目に遭ったの?」千尋はペットボトルを抱え込むように持ち、視線を泳がせた。澪は彼の隣に腰を下ろし、諭すような優しい声で言った。「あなたが話さない限り、彼らはまたあなたを標的にするわ」「巻き添えを食うのは、お前だけじゃない」修はトレーの上のピンセットや薬瓶を弄びながら、苛立たしげに口を挟んだ。「お前の周りにいる人間まで巻き込まれることになる」千尋の指先に力がこもる。彼はうつむいたまま長い沈黙を続けた。澪がもう話してはくれないのではないかと思い始めた頃、ようやく掠れた声が静かに漏れた。「……理由は、理奈先輩なんだ」立花理奈。三年A組。青波私立学園で常に学年トップの成績を誇る秀才。剣道部の主将を務め、昨年は全国高校女子剣道大会で優勝を果たした、凛々しく男勝りな女子生徒だ。その後、体調を崩してしばらく休学していた――それが、前世の澪が彼女に抱いていた印象のすべてだった。「理奈先輩は……剣道部の主将で、それに……利弘の彼女なんだ」千尋の声は、蚊の鳴くように小さかった。千尋は幼い頃から、中性的な顔立ちを理由に女々しいと笑われ続けてきた。その劣等感は毒の蔓のように十数年もの間、彼の心に絡みついていた。その印象を払拭したくて剣道部に入部し、そこで運命とも言える憧れの人と出会ったのだ。もちろん告白する勇気などあるはずもない。想いを誰かに知られることさえ恐れていた。彼にできることといえば、毎日の部活が終わったあと、最後まで道場に残り、理奈が使った竹刀を誰にも気づかれないよう丁寧に磨くことだけだった。「数日前、いつものように剣道部の用具室で竹刀を拭いてたんだ。そしたら急に、外から理奈先輩の噂話が聞こえてきて」千尋はペットボトルを強く握り締めた。指の関節が白く浮き上がる。「利弘の取り巻きだった。あいつら、利弘が理奈先輩に隠れて何人もの女と付き合ってるって話してたんだ。それに……理奈先輩はいくら成績優秀でも、浮気されてることにも気づかない馬鹿な女だって……」その瞬間、千尋は頭に血が上った。気がついた時には、すでに用具室を飛び出し、一番下品な笑い声を上げていた男子の顔面へ拳を叩き
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第19話

利弘は慌てて通話を切ると、気まずそうに顔を背けた。「べ、別に……ただの悪ふざけだよ。うっかりぶつけちまっただけだ」「悪ふざけでこんな怪我になるわけないでしょ!あいつに文句を言ってくる!」理奈は怒りで目尻を赤く染め、くるりと身を翻すと、そのまま外へ飛び出そうとした。「理奈」廊下から、穏やかで柔らかな声が響いた。綾音が足早に歩み寄り、そっと理奈の手首を掴む。その顔には、いかにも心配そうな表情が浮かんでいた。「落ち着いて。あなたが思っているような話じゃないのよ」理奈は気が強く、近寄りがたい雰囲気をまとっている。青波私立学園でも名の知れた美貌の優等生で、高嶺の花のような存在だった。全校生徒の中でも、彼女に気安く話しかけられる者は片手で数えられるほどしかいない。だが、綾音だけは別だった。理奈の強気な性格にも臆することなく、自ら歩み寄って親しげに言葉を交わしていたのだ。理奈もまた綾音を信頼し、誰よりも親しい友人だと思っていた。「綾音、何か知ってるの?」理奈は切羽詰まった声で尋ねた。綾音は小さくため息をつき、声を潜めた。少し言いづらそうな表情を作ってみせる。「ええ、もちろん知ってるわ。今日のお昼休み、購買部の前で一部始終をこの目で見ていたんですもの。実はね……利弘は完全に巻き込まれただけなの。澪が――私の家に引き取られてきたあの妹が、利弘の目の前でわざと転んで、『乱暴された』って騒ぎ立てたのよ。千尋は事情も知らずにヒーロー気取りで飛び出してきて、そのせいで返り討ちに遭ったの。それを見た澪は、修のところへ泣きついて助けを求めたのよ。修もあの子の嘘をすっかり信じ込んでしまって、それで利弘に手を出したの」理奈は呆然と目を見開いた。「澪?それって……あの新しい転校生のこと?どうしてまた、利弘にそんな言いがかりをつけたの」「どうしてあんなことをしたのか、私にもよく分からないわ。でも、私が見る限り、妹は男の子と遊ぶのが大好きみたいなの。この学校に来てまだ一週間しか経っていないのに、何人もの男の子をその気にさせて、自分の周りに集めているんですもの。千尋もそうだし、修もそう。それに……」綾音は意味深に口ごもった。理奈は焦りを隠せず、身を乗り出した。「それに何?早く言って!」綾音は理奈の耳元へ顔を寄せ、羽が触れるようなか細い声で囁いた。「利弘
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第20話

本来の理奈なら、その場へ飛び出していき、思いきり平手打ちの一発でも食らわせていたはずだった。だが、彼女は踏みとどまった。あんな底意地の悪い女を相手にするなら、少しは頭を使わなければならない。感情の赴くままに動くのは得策ではないと考え直したのだ。神崎澪……その名前、しっかり覚えたわ。利弘の借りは、これから時間をかけてじっくり返してやる。---放課後、澪はまず千尋の様子を見に保健室へ向かった。千尋の顔や体の傷はすべて手当てされており、青あざは残っていたものの、昼間に比べれば顔色はずっと良くなっていた。彼が無事だと確認し、澪はようやく胸を撫で下ろす。壁の時計に目を向けると、もういい時間だった。アルバイトへ行かなければならない。その頃、校門の前には神崎家の黒いベンツが停まり、ずいぶん前から待機していた。仕立ての良いスーツをきっちりと着こなした執事の寛が車のドアの脇に立ち、澪の姿を認めると一歩前へ進み出て、恭しく一礼した。「澪お嬢様。本日より、私がお嬢様と綾音お嬢様の送迎を担当させていただきます」澪の視線は彼を通り越し、そのまま車内へ向かった。後部座席では、綾音がうつむいたままスマートフォンを操作している。澪はその場で立ち止まり、ほんの少しためらった。今の彼女は名実ともに神崎家の令嬢となり、衣食住に困ることはない。しかし、祖母の薬代にはまだ多額の費用が必要で、その金を神崎家が負担してくれるはずもなかった。だからこそ、アルバイトを休むわけにはいかないし、休むつもりもなかった。彼女はそう思ったまま、その考えをまっすぐ口にした。『アルバイト』という言葉を聞いた瞬間、寛の表情に複雑な色がよぎった。何か言おうと口を開きかけた、その時だった。車内から綾音の、優しくもどこか距離を感じさせる声が聞こえてきた。「澪、お姉ちゃんの言うことを聞いてちょうだい。お父様はもう学校から連絡を受けていらっしゃるの。今、とてもお怒りみたいなのよ。だから澪も、今日は早く帰った方がいいと思いますわ」綾音はスマートフォンを置き、顔を上げてゆっくりと口を開いた。澪は二秒ほど黙っていたが、今度はそれ以上意地を張ることなく、車のドアを開けて乗り込んだ。車窓の外では、空一面を厚い雲が覆っていた。それは、少しずつ沈んでいく澪の心をそのまま映し出しているかのようだっ
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