All Chapters of 冷酷なCEOが溺愛するのは「悪女」: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

「迎え撃つぞ」樹の一言で、篠原邸の使用人たちはすぐに動き出した。「朝比奈千夏と門倉悠真は、現在こちらへ向かっています」「到着予定は?」「約三十分後です」樹は静かに頷く。「警備へ連絡しろ」「はい」「二人が来ても騒ぎを起こすな。俺が話を聞くまで、小春には近づけるな。橘」「承知しました」橘が部屋を出ると、樹は窓の外へ目を向けた。庭では、小春が庭師たちと笑いながらラベンダーを覗き込んでいる。花が咲くのを楽しみにしていると言っていた。咲いたら教えてくれるとも。その穏やかな笑顔を見つめながら、小さく息を吐いた。ようやく取り戻した穏やかさを、まためちゃくちゃにしようとしている。小春は彼らの望むように朝比奈家を出たのに。そのときの悲しみも苦しみも無視して。自分たちの都合で振り回す。その理不尽さに、樹の胸の奥が熱くなる。◇◇◇その頃、篠原家に向かう車の中には、重苦しい沈黙が流れていた。運転する悠真は前を見つめたまま、一言も口を開かない。その横で、朝比奈千夏はスマートフォンを眺めながら小さく笑った。「どうした?」悠真は視線を向けることなく尋ねる。「別に」「……そうか」悠真がそれ以上追及しないことに千夏が目を釣り上げる。「いったい何?」「いや……時差のせいか、疲れがな」悠真は大きく息を吐いた。疲れている。でも、精神的な疲れもある。以前なら、小春の話題が出れば『また何かしたのか』と思った。当たり前のように。ろくに考えず。でも、いまは違う。小春は本当にそんな人だったのか?千夏たちが言うような人間だったのか?でも、それを疑う勇気はない。もし嘘なら?千夏は?(考えたくない)でも、時間が経つにつれ、以前は気づかなかった違和感が、少しずつ形になっている。「ねえ、悠真。お姉ちゃんのこと考えてるでしょ」「……どういう意味だ」「そのままの意味」そんなことないと否定することを千夏が求めていることは分かった。でも、悠真は否定しなかった。「少し気になるだけだ」千夏は不機嫌な顔になったが。「今、お姉ちゃんは篠原樹のところにいるんでしょう?」「らしいな」悠真は小さく頷いた。「気にならない?」千夏は意味深に微笑む。「お姉ちゃんと篠原樹って、どういう関係何だと思う?」「……え?」「だって、一緒に暮らし
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第82話

篠原家の重厚な門がゆっくりと開くと、車が静かに敷地内へ入っていった。「すごい家ね」朝比奈千夏は窓の外を見回し、小さく笑う。「お姉ちゃん、いいところで暮しているみたい」門倉悠真は何も答えなかった。整えられた庭。手入れの行き届いた木々。落ち着いた雰囲気の屋敷。そのどれもが嫌味な豪華さではなく、住む人を大切にしている空気を感じさせた。玄関があると分かるロータリーに数人の使用人がいた。悠真は車を停める。「お待ちしておりました。篠原の秘書の柳沢と申します」先に降りた千夏は得意げに笑った。「門前払いされるかもって思ったのに」「ご案内いたします」「お姉様はどこですか?」その質問に柳沢は微笑んだものの、答えることはなかった。その態度に千夏は苛立ちを覚えた。だが、車を降りた悠真が先を歩きはじめたので、千夏もそれについていった。.「随分待たされるわね」当たり前のようにここまで来て。出迎えにも違和感がなかったから、悠真は気づかなかった。「事前連絡をしたのか?」「なんで?」思いもしなかったという千夏の反応に悠真は唖然とした。「篠原グループの社長の家なんだぞ?」「そうだけど、お姉ちゃんに会いに来たんだもの」「そういう問題ではなくて……」そう言い掛けたところで、扉がノックされた。ここまで案内してきた柳沢が先に部屋に入ってきて、扉を開けたままにする。次いで入ってきたのが。「お待たせしました」篠原樹だった。その圧倒的な存在感に、千夏と悠真は言葉を失った。「篠原樹です。今日は突然、何の御用ですか?」温度を感じない硬い声に、悠真の背を冷たいものが流れる。空気も薄くなった気がした。千夏も気圧されたような反応を見せたが。「朝比奈千夏です」すぐに笑顔を作り直し、優雅に頭を下げる。「門倉悠真です」続けて頭を下げた悠真を、樹がじっと見る。「門倉先生……先日、先生の壮行会に参加したばかりだと記憶していますが?」あれほど大騒ぎして、もう帰国したのか?そんな声が聞こえた気がして、悠真は乾いた喉で必死につばを飲み込む。「一時帰国です」掠れた声。「担当している患者の手術があって……」なぜこんな必死に弁明のようなものをしているのか。そうは思いつつも、逆らうことができない気配。(年は同じくらいなのに)「なるほど」たった一
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第83話

「どちらの味方とかではない」悠真は千夏を見た。「ただ会いに来たのだから会えというのは間違っていると、俺は思う」「悠真さん!」ここに来るまで一緒だったが。(なぜだろう……初めて千夏をちゃんと見た気がする)自分が信じていたものが崩れていく。それを悠真も心地よく感じているわけではない。(でも、悪いことでもない気がする)自分の中でつっかえていた、淀みのようなものが動く気がした。.「分かりました」樹の声に、悠真は視線を樹に戻す。樹は悠真を見たあと、控えていた柳沢に視線を向けた。「小春へこのことを伝えてくれ」「承知しました」短い指示だが、十分だった。柳沢は一礼し、応接室を後にした。そして温室に向かう。小春は温室でサボテンをじっと眺めていた。植物を育てることは情操教育にいいからと、樹の母親が樹に勧め、一番手がかからなさそうだからと選んだものだ。小春の手には園芸用の道具があり、サボテンも以前より生き生きして見える。どうやら樹は庭だけでなく、サボテンも小春に任せることにしたらしい。柳沢は口元を緩めた。「小春様」柳沢の声に振り返る。「朝比奈千夏様と、門倉悠真様がお見えです」小春の表情から笑みが消えた。静かな沈黙が流れる。「無理にお会いになる必要はありません」小春の傍にいた橘がそう声をかける。小春は橘に頷いたあと、柳沢を見た。「……樹さんは?」「小春様のお好きなように、と」「……」小春は俯き、小さく目を閉じた。婚約破棄。豪雨の夜。あのときの孤独感は、頭の隅に置くことはできても忘れられない。(きっと……)一生忘れられないだろう。どれだけ幸せになろうと、きっと永遠に忘れられない。(……でも)その記憶が痛み続けるかと言えば、そうではないのかもしれない。現に、今の小春に孤独感はない。――お好きなように、と。柳沢の言葉に、穏やかな表情の樹が重なる。小春はゆっくりと顔を上げた。「会います」「……よろしいのですか」「はい」その声は驚くほど落ち着いていた。「このまま避け続けても……いいことはないと思うので」柳沢は小さく頷く。「ご案内します」柳沢はそう言うと、小春に背を向けた。そして、ゆっくりと応接室に向かう。応接室に着くと、扉の前で柳沢は一度振り返った。目が合った小春は優しく微笑んだ。「
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第84話

穏やかな空気で、このまま終わると誰もが感じていたとき。「お姉ちゃん」千夏が口を開く。「もう意地を張るのはやめなよ」「……意地?」小春は静かに聞き返す。「そう。お父さんも本当は心配してるの。だから家へ帰ろう?」小春は少しだけ目を伏せた。「千夏」「お父さんも、お姉ちゃんが謝れば許してくれるよ」「もういいの」「え?」小春は千夏を真っ直ぐ見た。「私は、朝比奈家へ帰るつもりはないの」穏やかな声だった。しかし、その言葉には迷いがなかった。「……どうして?」千夏は目を見開く。大袈裟に見えるほど目を見開いているが、千夏は本気で驚いていた。理解できない子どもを見るように、小春は優しく微笑んだ。「家を出ていけと言ったのは、お父様でしょう?」「それは……」真実。でも、それを認めることはできない。「お父さんも、感情的になって……」「違うわ」小春は初めて千夏の言葉を遮った。「お父様が私のやること、私の言うこと、私自身に何かを感じたことはないもの」応接室に静寂が落ちる。「だから、私に対して感情的になることはあり得ない」小春の声は静かだったが、その言葉は墨でしっかりと引かれた線のようだった。断罪のように、切り裂くような言葉ではない。小春に誰かを傷つけるつもりはない。ただ、それが消えない事実なのだと言っているだけ。「私はその決定を受け入れて、出ていったの」小春はゆっくりと顔を上げた。「だから、なかったことにはできないし――しないわ」千夏は息を呑んだ。小春の言葉には恨みも悲しみもない。それを消化し、現実として受け入れた強さがあった。「……お姉ちゃん?」ぼんやりと呟いたあと、千夏はすぐに気持ちを切り替える。何ごともなかったように。貼り付けたような笑みを浮かべたまま、小さく肩を竦めた。「お姉ちゃん、どうしちゃったの? 何か、あった?」「ええ」小春は穏やかに千夏の言葉を肯定した。千夏の口元が緩む。「それって、篠原社長のせい?」千夏の言葉に、小春は首を横に振る。「樹さんのおかげ」“樹さん”。小春の口から自然と出てきた言葉に、千夏は意味深に微笑む。「篠原社長と親しいんだね」千夏は小春と樹を見比べる。「ずいぶんと大切にされてるみたいだし」「ええ、とてもお世話になっているわ」千夏の口元が歪む。「お姉
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第85話

「千夏。少し黙ってくれ」悠真に初めて拒絶するような視線を向けられ、千夏は言葉を失った。応接室を重い沈黙が包む。「……小春さん」悠真に分かっていることは、小春が家を出てここにいること。そして。「ここにいるのは君の意思、そう思っていいですか?」「はい」小春自身が、ここにいたいと思っていること。それならば。「突然来て申し訳なかった」頭を下げた悠真に小春は軽く目を瞠り、首を横に振る。「その謝罪は樹さんと、篠原家の皆さんにお願いします」「……小春さん」「私自身は、こうしてきちんとお話しできて良かったと思っています」小春の言葉に悠真は困ったように笑う。「話は、できたのだろうか」「……言われてみれば」でも、と小春は笑う。「今度は納得できる形で終わったではありませんか」“今度は”、と含みのある言葉。(前回は……)一方的な断罪劇。酔っ払って自分の言ったことさえも定かではないという無様なもの。悠真の顔が赤くなる。「あのときのことは、できたら忘れてほしい」「……忘れるのは難しいと思います」小春が首を傾げる。「そうそう体験できるものでもない……ですよね?」確かめるように、小春はこれまでずっと黙っていた樹に声をかける。樹は小春を見たあと、悠真を見て、また小春に戻す。「二度と経験することはないだろうな」これを聞いた瞬間、悠真には分かった。『自分が小春をあんな風に捨てることはない』樹の表情からもそれは伝わってくるのだが。「そうですよね」
last updateLast Updated : 2026-09-18
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第86話

――小春に事実を確認しなかったのですか?その質問に、悠真はすぐには答えられなかった。頭の中で婚約していた頃の記憶が次々と蘇る。病院で耳にした小春の悪評。千夏の涙。自分はそのどれもを疑わなかった。「……ありません」ようやく絞り出した声は掠れていた。「どうして?」確認したことがなかったことは、樹にはお見通しだったのだろう。なぜなら、この短時間ですぐに小春が悪女なんかではないことが分かった。穏やかな空気を纏ってこの場に現れた瞬間には分かっていたかもしれない。そのくらい小春は悪意からかけ離れている。だから樹が聞きたいのは、こっち。――どうして?(……意外とお人好し?)柔らかな雰囲気の小春とは対照的。表情がなく、樹の端正な顔立ちのどこにも穏やかさなどない。見ただけでは『冷酷』という表現がピタリと合う。だが、それならばこんなキッカケは作らない。(……いや、違うな)言葉をかけた先は悠真だが、樹が見ているのは小春だけ。小春は樹も悠真も見ていない。心配そうに小春が見ているのは千夏だった。小春が千夏を気にかけているから。悠真になんて一切興味がないくせに、「どうして?」などと聞いたのだ。(全く……)「俺にとって都合が良かったからですよ」樹は静かに頷いた。「小春さんが千夏を虐めていたなら、婚約者が代わりに謝罪することはおかしくない」婚約者である小春の代わりに謝る――それだけなら良かった。小春が汚した服の代わりに。小春が奪ったアクセサリーの代わりに。小春を言い訳にして物を贈る。「ありがとう」と言って笑う千夏を可愛いと思った。お
last updateLast Updated : 2026-09-19
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第87話

――朝比奈総合病院は小春の母親が継いだものだと知らないのか?樹の言葉に千夏は首を傾げた。「どういうこと?」本当に分かっていないらしい。樹は面倒そうに肩を竦めると、悠真を見る。説明する気はない。そう察した悠真は小さく息を吐いた。「先代の朝比奈病院長は、小春さんの母親、花乃さんの父親なんだ」「……え?」「朝比奈家の直系は花乃さんだ。院長は花乃さんと結婚して、朝比奈家に入った」千夏の表情が固まる。「お父様が病院を継いだんじゃ……」「花乃さんと結婚したから、後継体制の中に入ったんだ」悠真自身、門倉家との縁談を通して聞かされていた話だった。いま理事会に強い影響力を持つ皆川隆盛も先代院長の親友であり、先代から頼まれて娘婿である崇道を支えてきた。その説明をしながら、悠真は別のことに驚いていた。「……知らなかったのか?」「知らない……」千夏は呆然と呟く。「多分、お母様も知らない……」その声には、先ほどまでの強気さがなかった。小春は黙って妹を見つめる。嘘をついているようには見えない。本当に知らなかったのだろう。(知らされていなかったんだ……)千夏は幼い頃から、自分も崇道の娘なのだから小春と同じだと言っていた。むしろ自分のほうが父親に愛されているのだから、何をしても許されるのだとでも言うように振る舞っていた。もちろん、それで千夏にされたことが消えるわけではない。大切なものを奪われた。千夏のついた嘘に傷ついた。それでも――。(千夏も、お父様に教えられたことを信じていたのね)そう考えてしまう自分に、小春は小さく息を吐
last updateLast Updated : 2026-09-20
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第88話

千夏が顔を上げた。「お姉ちゃん……」「私があの家に戻らないことと、千夏たちを追い出すことは別の話でしょう?」千夏は何も言えなかった。「でも」小春は穏やかなまま続ける。「私のものを、私のものではないことにされるのは、もう嫌なの」その言葉に樹の目元がわずかに緩んだ。「権利については必要になったときに整理すればいい」樹が言う。「今すぐ誰が出ていくという話ではない」「……そう、ですね……」千夏は俯いた。少しずつ、自分が理解しなければならないことが見えてきた。自分が知っていた朝比奈家とは何だったのか。父親から聞かされていたことは、どこまで本当だったのか。そして――いま一番大事なこと。「お父様がお姉ちゃんを連れてこいって言ったのは……」千夏が顔を上げる。「病院を継がせるためなの? 私じゃ駄目だから?」「……それは、違うと思う」悠真は目を閉じた。これまでのことを思い返しても、朝比奈崇道が小春に病院を継がせるつもりはないと分かる。ただ、そう振る舞っていた。誰かに向けたパフォーマンス。その誰か――思い当たるのは一人しかない。「皆川隆盛氏が、小春さんに会いたいと言った……としか考えられない」千夏の顔から血の気が引く。すっかり忘れていた。「お父様は……」千夏の認識では、皆川隆盛は先代院長の親友で、息子のように思っている崇道のやることに口出しているのだと思っていた。力関係では、崇道のほうが上。でも、違った。後ろ盾。崇道が院長でいるために必要な存在。
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第89話

朝比奈家が積み上げてきた嘘は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。翌朝、門倉悠真はいつもより早く朝比奈総合病院へ出勤した。「おはようございます、門倉先生」「おはようございます」すれ違う職員へ挨拶を返しながら、院内を歩く。これまでは気にも留めなかった職員たちの表情が、今日は妙に気になった。「あ……門倉先生」「おはようございます」看護師たちは一瞬だけ顔を見合わせ、小さく頭を下げる。その空気に、悠真は違和感を覚えた。「何かあったのですか?」声を掛けると、一人の若い看護師が困ったように笑う。「いえ……特には……」そう言って足早に去っていく。その様子を見送りながら、悠真は立ち止まった。(隠している……)自分には言いにくい。口にしてはいけない。悠真はそんな空気を感じた。(小春さんに関わることか……)自分がいなかった間に病院の空気が変わっている。全体的に暗く、不安定。そして職員の多くが悠真を不安げに見る。なぜそんな目を向けるのか――悠真が朝比奈院長側の人間だからだ。.帰国した目的である手術の準備を終えたあと、悠真は医局に向かった。カルテを整理していたベテラン医師へ声を掛ける。「先生、少しお時間をいただけますか?」ベテラン医師は首を傾げる。「手術のことで、何かありましたか?」今日の手術はそこまで難しいものではない。ただ悠真の担当患者で、患者本人が悠真が手術を担当することを希望していた。(千夏とのこともあると思われているだろうな)「いえ、朝比奈……小春さんのことでお聞きしたいことがあるのです」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第90話

――朝比奈院長に何かを“お願い”されたのではありませんか?悠真の言葉に、皆川隆盛の主治医であるベテラン医師の体を震わせた。顔色も悪い。まさか。背中に汗が流れるのを悠真は感じた。冷水を浴びたようにゾッとした。悠真を見ていたベテラン医師が笑う。「ドラマの見すぎですよ」「……え?」ベテラン医師の目に、さっきまでなかった余裕を感じた。尋問したかったのだろうか。攻守が逆転してしまった今になって悠真はチャンスを逃した気がした。でも。「私は皆川さんの診断を間違えていませんし、投薬内容も、手術も、一切のミスはありません」ベテラン医師は肩を竦める。「カメラに薬の在庫チェック。医療ミスに備えて万全の準備をする現在の医療現場でそんなことができるわけないではありませんか」「あ……」確かにそうだ。手術は録画されている。薬の在庫管理は徹底している。医師である悠真はそれをよく知っていた。ベテラン医師は笑う。「それは朝比奈院長も同じです」朝比奈崇道も医師である。だからそんなことはしない。「でも、朝比奈院長は治療に積極的ではありませんでした」「え……?」ベテラン医師の笑いが自嘲的な、乾いたものになる。「皆川隆盛さんは、詳しい症状や病名は省きますが、意識不明の重体で運び込まれました」当時を思い出しているのか。ベテラン医師は少し遠くを見るような目をした。「正しい手術をしても目が覚めない。お年なので、意識が戻らないまま亡くなる可能性もあった」「でも」「はい、治験薬を使ったんです」「治験……」積極的な治療をしなかったことと矛盾する治療方針だ。「小春さんです」「え?」小春は医者ではない。治療について口を出す資格がない。「小春さんは……朝比奈先生の仕事をいつも代行していました」「院長の?」ベテラン医師は頷く。「学会や親睦会で自分は忙しいから、と。いつか門倉先生が院長になったときに支える立場にあるのだから学べと……」そんなこと知らない。悠真のため。自分の名前は出ているが、そんなことは知らなかった。「門倉先生がまだ知らなくて当然です。知っているのは私たち上の者たち……花乃先生と働いてきた者たちですから」「花乃先生……」小春の母親の名前。「そして私たちは皆川さんのお世話になった者たちです。特に、治験を行った医師二名は皆
last updateLast Updated : 2026-09-23
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