All Chapters of 君のことを忘れたいから遠回りしてきた: Chapter 1 - Chapter 10

46 Chapters

第一話

 來《らい》は、この日こそが自分にとって最大の幸せな日になると、ずっと信じていた。  生まれてから今日まで、生きづらさを抱えてきた。  けれど、彼に出会って光が差した。 「生きてみよう」と思えたのも、その人がいたからだった。  カレンダーには赤い丸をつけ、指折り数えて待った日。 「来月だね」「来週だね」「いよいよ明日だね」 互いにそう言い合い、胸を高鳴らせていた。  なのに。  その日を共に迎えるはずだった相手は、今、ベッドの上で静かに横たわっている。 「どうして……」  呟いても、答えは返らない。  願っても、時は戻らない。  ただ、來の胸にあるのは、どうしようもない現実を前にした痛みだけだった。  二人が結婚式を迎える日の前日。  明日の予報は晴れ。雨男な也夜はずっと心配していたのだが明日の予報を確認してホッとしているようだ。 「てるてる坊主吊るそうと思ったけど大丈夫みたいだね」 「子供みたいなことしないでよ、來。きっと来てくれる人の何人かが晴れ男かもしれない」 「なるほど。晴れ男VS雨男、比率が晴れ男の方が多かった……すごいことだ」  と二人笑い合う。出席者はほとんど男ばかりだ。  同性婚、仲間内の結婚式というものもあってのことだが互いの親戚は報告のみ、両親は顔合わせという食事会のみで終わった。  まだ食事会まで辿り着けただけでも良い方だと來は思っている。  その時以来、両親、兄とは会ってもいないし話もしていない。  來と也夜は挙式会場に行っていた。駅から近い式場でまだ真新しい建物である。  式の前には前撮りも同じ建物の中で済ませたが本当は市内の寺の中庭でする予定が案の定也夜の雨男っぷりが発動してしまったようだ、せっかくいいロケーションなのだが大雨で急遽式場内での撮影になった。  だがそれはそれで様になった、それもこれも也夜は人気モデルというのもあったのだろう。  背も180を超え、顔はもちろん手足も長くバランス良い。來も180以上、手足も長いが少し痩せ気味なところもあり也夜の横に立つと少し劣る、と感じる。  也夜は王子様タイプだと言われているが見た目は確かにそうである。  しかし來はそうでない、一緒にいるからわかることだ。  見た目の王子様な也夜は普
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二話

 今夜は式場の提携するホテルで宿泊するのだ。 特に高級ホテルとはお世辞でも言えないのだが互いの部屋を行き来していてそれぞれのベッドでない場所で寝るといういつもとは違うところで一夜を過ごすのも新鮮だろう、と思って泊まることにした。朝も準備で慌ただしい。「今夜は寝られるかなぁ」「寝させない気?」「いや、來のいびきひどいから」「ちょっとさぁ……」「あと寝坊はしちゃダメだから、目覚まし時計設定しておかないとね」「大丈夫だよ、也夜が先に起きるんだから」「僕に頼ってばかりはダメだって」「なんで?」 モデルの仕事をしていて真面目な也夜は寝坊も遅刻もしない。反対に來は寝坊して遅刻もしやすい。 大輝に何度か怒られたことはある。だから來は也夜の家で泊まる際は也夜をあてにする。「いつまでも僕をあてにしないで」 と也夜が言うと來はエッと声が出てしまった。なぜこんな時に? と。「君はもう22歳。大輝さんにも釘を刺されたんだよ。もうアシスタントからさらに昇格したわけだし。一緒に住むから遅刻は減るだろうけども來自身自分で起きられるようにしないとねって」「大輝さん、也夜と何話してんだか……まぁなんとか頑張るよ」「厳しくするからね」 少しシュンとした顔をする來。すると也夜はニコッと笑った。「ウソウソ。僕は鬼になれません、ちゃんと來を起こすから」「どうやって」 來があざとく首を傾げると也夜がベッドに來を座らせてそしてそのまま押し倒す。「也夜っ」 その來の声を也夜は唇で塞ぐ。何度かキスをして來は笑う。「毎朝キスして起こす」「……いつもじゃん」「うん。それで押し倒されて布団でぬくぬくして……」「結局遅刻……也夜のハグが幸せだから」「僕も、來とのハグ、最高に幸せ」 再び2人はキスをする。「もう、也夜。こういうのは夜だって」「初夜……と言うのか? 前夜?」「前夜祭?」 也夜は來の首筋にキスをした。來は気持ちよくて声が出てしまう。 甘い香り、也夜の甘い香水の香り、それとリンクしたシャンプーの香り。自分の中に入っていく幸せ……抱きしめ合う。 幸せだ、來は胸いっぱいになる。 ピコン その幸せの余韻を打ち消すかのように着信が鳴る。これは也夜のスマホからだ。「鳴ったよ、也夜」「ん?」「もしかしたら式場の人からかもしれないし」 しっかり者の
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第三話

 ディナーの一時間前になっても、也夜は帰ってこなかった。 遅刻どころか、いつも一時間前には必ず動く人なのに……と、來は胸の奥がざわついた。 メールは既読にならない。電話も繋がらない。 也夜の言っていた“友人”とは誰だったのか。 共通の友人はいる。けれど、互いの過去の人間関係はあまり知らない。結婚式で初めて顔を合わせる人も多い。 なぜ「結婚式で会えばいいじゃない」と言えなかったのだろう。 そんな思いが、ぐるぐると來の頭の中を巡り続けていた。 ディナーの予約をしてあるレストランに、時間を一時間ずらしてもらおうと電話をかけようとした。 そのときだった。 見知らぬ番号からの着信。 普段なら絶対に出ない。だが、也夜からかもしれないと思って、反射的に通話ボタンを押していた。 「うわっ」と思いながらも、少し間を置いてスマホを耳に近づける。 知らない番号のときは、すぐに声を出さず、相手の呼びかけを待つ、そんな謎のルールを自分の中で決めていたのだ。 だが、その沈黙を割るように、甲高い女性の声が飛び込んできた。『もしもしっ、この電話の持ち主の方のお知り合いですかっ!?』 ずいぶん早口だった。だが“持ち主”という言葉に、來は察した。 何か、あった。「は、はい……上社……上社也夜の……その……」 自分たちはまだ家族ではない。なんと名乗ればいいのか。彼氏? 恋人? その言葉を探す間もなく、女性が続けた。『失礼ですが、ご家族ではない? ご友人の方ですか?』「……はい」『実は、〇〇病院の者ですが、ご家族の方と連絡は取れますか?』「……病院……?」『はい。この、かみやしろ、なりやさん? 事故に遭いまして』「事故……」 その瞬間、來の足から力が抜け、膝が床に落ちた。『車に轢かれて……歩道を歩いていたそうです。一命は取り留めましたが、身分証が……あ、ありました。上社也夜さん』「也夜……也夜っ!」 來は全身を震わせ、スマホを落とした。 その後の記憶は、曖昧だった。 どうやって也夜の妹・美園に連絡したのか覚えていない。ただ、気づけば、彼女がホテルの部屋に来ていて、一緒にタクシーに乗り込んでいた。 正気を取り戻したのは、走り出してしばらくしてからだった。 美園は隣で電話をしている。窓の外では、車の列がほとんど動かない。「來くん、大丈夫? お
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第四話

也夜は病院のベッドに横たわっていた。 体にはたくさんの装置やチューブ、そして包帯が巻かれ、痛々しい姿。処置はすでに終わっているようで、眠っているようにも見えた。 「お兄ちゃんっ……!」 先に到着していた両親のうち、母親は泣きじゃくり、父親はただ呆然と椅子に腰を下ろしていた。 美園は兄のもとに駆け寄ろうとしたが、母親に腕を掴まれた。 「ダメよ、装置が繋がってる。触っちゃいけない」 來は、也夜の真正面に立ち尽くしたまま、息を詰めていた。 「也夜……也夜っ」 そう呼びながら手を伸ばした瞬間、看護師に制止された。 「ダメですよ!」 「だって、也夜が……也夜!」 「落ち着いてください!」 その声に、來は聞き覚えがあった。電話のときの声だ。 「……あなた、也夜さんの彼氏さんですね」 「は、はい……也夜は……也夜はどうなんですか……?」 「落ち着いてください。というか、あなた――家族じゃないのに、どうしてここに?」 家族じゃない。 その言葉が、胸に突き刺さった。 明日、パートナー協定を結ぶ予定だった。だから――まだ、來と也夜は“家族”ではない。 「明日には、僕ら家族になるんです……」 「そうです! 兄は明日、この人と結婚するんです! 一日前倒しでもいいじゃないですか!」 美園は涙を浮かべながら、強い口調で看護師に言い返した。 だが看護師は、困ったように首を横に振る。 「規則は規則です。あなたが中に入れたのですか?」 「はい、私が入れました。一緒に入りました。この人は、もう私たち上社家の一員です!」 その言葉に、來の胸が少しだけ温かくなった。 美園は、ふたりの関係を最初に受け入れてくれた人だった。少し時間はかかったけれど。 看護師は小さく息をついた。 「……規則は規則ですが、今回はいいでしょう。あとで先生から説明があります。みなさん、一旦外に出てください」 四人は促され、病室を出る。 來は振り返り、眠る也夜の姿を見つめた。 胸が締めつけられる。心電図の光が規則的に動いているのが、唯一の救いだった。也夜は生きている。それを信じるしかなかった。 病室の外のベンチに腰を下ろすと、ようやく父親が口を開いた。 「……きっと、死んだ婆さんがな。結婚をやめさせるため
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第五話

病院の自動ドアを抜けると、夜の風が頬を打った。 來はただフラフラと歩き出した。どこへ向かっているのかもわからない。ただ、病院という場所から離れたかった。 足元はおぼつかず、心はどこか別の場所に置き去りにされたようだった。 その時、正面から駆けてくる人影があった。 「來!」 声を聞いた瞬間、來は反射的に顔を上げた。 そこに立っていたのは、美園から連絡を受けて急いで来た大輝だった。 「來、しっかりして! ……也夜は……」 息を切らせたまま、彼は來の肩を掴んだ。 大輝は也夜がモデルとして活動を始めた初期の頃からの付き合いで、彼のヘアメイクを何度も担当してきた人物だった。 來もまた大輝のもとで働く美容師であり、師であり兄のような存在でもある。 その大輝の顔にも、疲労と悲しみが色濃く滲んでいた。 「事務所の人たちは知ってるのかな」 大輝の声は震えていた。 「家族以外はいなかったので……これから連絡すると思います」 來はそう答えながらも、どこか上の空だった。声が自分のものとは思えなかった。 彼は大輝から離れようとした。立ち止まれば、崩れてしまう気がした。 立ち止まってしまえば、現実がすぐ背後に追いついてきてしまう。 「來、君も……也夜の家族じゃないか」 大輝の言葉に、來はピタリと足を止めた。 けれど、首を横に振る。 「……家族じゃないですよ。たった紙一枚出していないだけで……このざまですよ」 笑おうとしたが、喉の奥が焼けるようで、声にならなかった。 「帰ります」 「そんなっ、來!」 その瞬間、全ての感情が押し寄せた。 來は入口のドアに手をかけようとして、耐えきれず膝から崩れ落ちた。 自分でも信じられないほどの嗚咽が喉の奥からこみ上げる。 大輝は迷わずその身体を抱きしめた。 「うああああああああっ!!!!!」 夜の空気を裂くように、來の叫びが響いた。 抑えきれない悲しみが、溢れ出る涙と一緒に路上へこぼれ落ちていく。 やがて、也夜の事務所にも連絡が行き、ニュースにも取り上げられた。 也夜の名前は瞬く間に全国に広がり、SNSには心配と祈りのコメントが溢れた。 結婚式の中止の連絡を來が入れる必要もなかった。 代わりに、何人もの友人、同僚、かつての顧
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第六話

 挙式代は、事情が事情なだけに一部負担で済んだ。 式場側も、スタッフたちも、誰も責めなかった。むしろ「早い回復を祈ってます」と声をかけてくれた。 來はそのたびに胸が締めつけられた。 ……迷惑をかけてしまった。 事故は也夜の個人的な行動によるものだったが、周囲にどれほどの人を巻き込んでしまったかを思うと、言葉にならなかった。 それでも、皆が祈ってくれるのは、也夜という人の持つ人間性のせいなのだろう。 彼は人気モデルでありながら、決して驕らず、誰に対しても柔らかい笑みを見せた。 気配りができて、空気を読むのがうまくて、誰といても穏やかだった。 同性のパートナーを公表しても、ファンは離れなかった。 そのことを思い出すたびに、來は改めて思う。 ……本当に、人に愛される人だった。 それに比べて自分はどうだ。 カミングアウトをした瞬間、家族とも縁が切れかけ、友人のほとんどが去っていった。 孤独だった。息をしているだけで罪のような気がした。 そんなとき声をかけてくれたのが大輝だった。 彼のもとで仕事を教わり、今では美容師として生きている。 あの頃もし大輝に出会っていなければ、きっと今ここにいなかっただろう。「なぁ、誰に会いに行ったんだ……也夜」 夜。 本来なら初夜を迎えるはずだった時間。 白いベッドの上には、也夜の代わりに大輝がいた。 部屋の明かりは落とされ、外の街灯の光だけがカーテン越しに差し込んでいた。 ベッドサイドに置かれた指輪のケースが、微かに光を反射していた。 來はそのケースを見つめながら、そっと大輝の肩に寄り添った。 大輝も同性愛者だ。二人は二年前まで恋人同士だった。 久しぶりに触れるその肌の温かさに、心が少しだけ安らぐのを感じたが、同時に胸の奥が痛んだ。 違う。求めているのはこの温もりじゃない。 けれど、大輝は拒まなかった。 來もまた、寂しさに負けた。 人の体温に触れていないと、壊れてしまいそうだった。「……わからない。結婚式にも来なくて、僕も知らない人だって」 來の声は小さく震えていた。「で、会いに行ってもいいよって?」「うん……」「スマホは車に轢かれてぐちゃぐちゃだけど、通信会社で調べれば相手はわかるよ。調べようか?」「そんなことしてどうなるんだよ……その人を責めるの?」「……だよな。でも
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第七話

 美園から連絡が来たのは、それから二週間後のことだった。 來はようやく美容室に復帰していた。結局、丸二週間かかった。 右手の薬指に光る指輪を外すべきか、何度も迷った。 常連客たちは、來が也夜とパートナー協定を結んだことも、結婚式を控えていたことも知っている。そして、式の直前に起きた事故で、也夜が昏睡状態にあることも。 だから來が姿を見せると、誰もが「也夜さんは?」と口にした。 気を遣って何も聞かない人もいたが、やつれた顔を見て心配の色を隠せない。 二週間で復帰するには早すぎたか、大輝はそう思いながらも、來が仕事に戻り、ハサミを握り、客と笑って話すうちに少しずつ以前の表情を取り戻していくのを見て、胸を撫で下ろした。 愛する人のそばにいながら、家族ではないという理由で面会すら叶わない。 來がどうにか立っていられたのは、大輝が支えてくれたからだ。 元恋人としてではなく、一人の人間として。だが、彼の中でもまだ割り切れない思いがあった。 そんなある日の昼下がり。 ようやく休憩を取った十四時過ぎ、ポケットのスマホが震えた。 上社家と來をつなぐ唯一の存在……美園からだった。 心臓が跳ねる。 けれど、手は思ったよりも静かに画面を開いていた。『お久しぶりです。ようやくお兄ちゃんの病室に入れました。本当に寝ているみたい。写真は撮れませんでした、ごめん』 美園とはときおり他愛ないやり取りをしていた。だから、この口調もいつものことだ。「……」 來は短く返信した。『ありがとう。やっぱり僕は病室に入れないよね』『うん、ごめん。病院も厳しくて……ほんとなんなんだろうね。何もできなくてごめん』 やっぱりか。來は深く息を吐いた。 一目でいい、彼の姿を見たかった。 なぜ写真を撮らなかったのかと、胸の奥で小さな苛立ちが芽生える。 会いたい。けれど、足は動かない。 也夜の父に言われた言葉が、今も心に重くのしかかっている。 最初から、二人の結婚を快く思っていなかったのかもしれない。 同意してくれた母でさえ、息子の意志に仕方なく従っただけだったのではないか。 來は唇を強く噛みしめた。 結局、同性婚というだけで、拒まれたのだろうか。 休職中、友人たちは何度も話を聞き、励ましてくれた。 とりわけ親身だったのは、也夜と家族ぐるみで付き合っていた隆と祐の
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第八話

 それから也夜は植物状態となった。容体は安定しているものの、いまだに目を覚ますことはないらしい。 その知らせは、店の常連でもある彼の担当マネージャーから大輝を通じて伝わった。 マネージャーもまた上社家と同様、也夜の同性婚を完全には受け入れきれていなかったようだ。 本人の意志を尊重するとは言いながらも、事故後はどこか距離を置いているという。 そのことを聞くたびに胸が締めつけられた。だがもう、気にしてはいけない。來はそう言い聞かせ、心の奥に蓋をした。 季節は巡り、気づけば二年が経っていた。今では祐との関係が惰性のように続いている。 祐は仕事帰りに來の部屋に来て、料理を作り、食事をして、セックスをして、泊まらずに帰っていく。 玄関の扉が閉まるたび、來の胸の奥にぽっかりとした空洞が生まれる。 あの人は自分の本命ではない。 祐には隆というパートナーがいて、きっと今夜も彼の隣で眠るのだろう。 自分はその隙間を埋めるための存在にすぎない。 也夜は違った。 彼は來を“唯一”として選び、未来を約束してくれた。 けれど、今の來は別の男に抱かれ、その背徳感に心を蝕まれている。 もはや愛でも慰めでもなく、呼吸を保つための行為になっていた。 最初は、二人で暮らすはずだったマンションに一人で戻ることさえ苦痛だった。 病室への面会を拒まれたあの日、世界が崩れ落ちたような絶望の中で、ここにはもう住めないとすら思った。 だが、ローンは待ってくれない。逃げるわけにもいかなかった。 やがて、美園を通じて上社家から手紙が届いた。 内容は簡潔だった「ローンは折半で支払います」。 何度かメールでも連絡を取ろうとしたらしいが、來はすべて無視していた。 会いたいとも言われたが、もう「也夜に会わないでほしい」と告げられた身だ。そんな相手と顔を合わせる気にはなれない。 それでも大輝たちは言った。 「もらえるものはもらっておけ。あとで後悔するぞ」と。 結局、毎月ローンの半分が口座に振り込まれるようになった。 だが通帳を開くたび、封じていた記憶がよみがえる。 ……也夜。 忘れようとしても、数字の羅列が彼の名に変わる。そのたびに來は、別の男の体温で記憶を打ち消した。 來と也夜の間には、実はまだ身体の関係がなかった。 抱き合い、キスをし、互いの温もりを確かめ合うこと
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第九話

 大輝は、來が自暴自棄になり、少しずつ堕落していく様子を見ていられなかった。 最初のうちは、そんなことをしても仕方ない、放っておけばいい……そう思っていた。だが、仕事中の來の姿に、どこか冷たい影を感じるようになっていった。 手元は相変わらず器用で、技術も衰えてはいない。それでも、そこには以前のような熱がなかった。 ある常連客が何気なく言った一言が、決定的だった。「來くん、変わっちゃったね」 その言葉に、大輝はハッとした。何気ない笑顔の下に、どこか壊れかけた心が透けて見える。 放っておいたら、ほんとうに戻れなくなる……そんな危機感が胸を締めつけた。「毎週土日、來に頼みたい仕事がある」「えっ」 突然の申し出に、來は目を丸くする。 大輝は少し間を置き、静かに言葉を続けた。「少し忙しくなるかもしれないが……地方アイドルのヘアメイクのヘルプに入ってほしい」「……まさか、あの……西流なんたらってやつ」 大輝はうなずいた。 西流ガールズ。地元で人気のアイドルグループ。大輝の同期の美容師がメイン担当をしており、ヘルプが欲しいと言ってきたのだ。 それは、來を祐と距離を置かせるための、半ば強引な口実でもあった。 來は一瞬、考え込むように視線を落としたが、やがて小さく息を吐き、言った。「……はい。やってみます」 その答えに、大輝は驚きと安堵が入り混じったような表情を浮かべた。「もう少し若い女の子と接する回数、増やしたくて。ただでさえ女性と上手く話せないのに……年上の方はリードしてくださるけど、若い子はそうはいかないし。気持ちが通じなければ常連もつかないし……やってみようかと」「そうだな、わかってるじゃないか」「……ええ。なんとなく自覚はありましたから」 その口ぶりは穏やかだったが、その奥にあるものは違っていた。 來は大輝の期待を裏切りたくなかった。誰かに必要とされたい、その気持ちがわずかに彼を動かしていた。「あ、あの……大輝さん」「どした」「……ついでと言っちゃなんですが」「おう」「もっと出勤数、増やしたいです。他の店舗の応援とか……今回のアイドルの仕事だけじゃなくて。もっと、仕事をください」 來の目には、どこか焦りのような光が宿っていた。 大輝はその視線を受け止めながら、内心で唇を噛む。 どうした、その急な心変わりは……そ
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第十話

 地方アイドル《西流ガールズNeo》の楽屋は、まさに戦場だった。 舞台の上では笑顔と光に包まれる少女たちも、裏ではまるで別世界だ。 コロンと香水の匂い、メイクの粉っぽさ、制汗剤の爽やかな残り香。 そのどれもが入り混じって、若い女の子が集まる場所特有の、むせかえるような熱気と匂いを作っていた。 來は美容室で何人もの女性客を相手にしてきたが、この現場はそれとは次元が違った。 ステージの時間が迫るたび、ヘアアイロンの音、ファンデーションのパフを叩く音、焦った声が飛び交う。 メイクの手直しをしながらも、誰かが泣きそうになればフォローし、衣装の乱れを見つければ即座に直す。 西流ガールズNeoの現役フロントメンバーは5人。 だが研究生を含めれば15人にも及ぶ。 加入したばかりの研究生たちは、自分の顔を自分で仕上げなければならず、うまくいかないときは先輩のヘルプに回る。 彼女たちはメインのステージを袖から見つめ、こっそり同じ振りを真似していた。 まだ前座にも立てない……それでも、自分の番を夢見て練習を続ける姿に、來は密かに胸を打たれた。 ライブ後には、メインメンバーの化粧直しだけでなく、研究生のメイクも頼まれるようになった。 手慣れていない中高生たちは、鏡をのぞき込みながらおずおずと口を開く。「ありがとうございます……」「いえいえ、これが僕の仕事だから」「自分じゃ、なかなかメイクできなくて……」「慣れだよ。最近は動画でも覚えられるし。僕、毎週ここに来るから、わからなかったらいつでも聞いてね」 來がそう言って微笑むと、少女は一瞬で顔を真っ赤にして目を伏せた。 その様子が少し可愛らしくて、來は照れ笑いを浮かべた。 メイク室を出ようとしたところで、専属メイクの新榮が笑いながら声をかけてきた。「おいおい、ウブな子に優しくしすぎだって」「そんなつもりじゃないですよ」「わかってるよ。でもあの子ら、勘違いしやすいから気をつけな」 來は苦笑いを浮かべた。 女性客から好意を持たれることは美容師時代からあった。だが、自分が同性愛者だと知って去っていった客も少なくなかった。 也夜との結婚報道で、想像以上に“知られてしまった”という感覚はまだ消えない。「研究生もちゃんとメイクしてるんですね」「顔見せだよ。物販やチラシ配りで先輩たちの横に立つ。要は
last updateLast Updated : 2026-07-09
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