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偽りの幻影 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

60 チャプター

第21話 早野の休日

 閑静な住宅街。傾きかけた陽の光が長く射し込む洒落た2LDKのマンションで、早野は目の前の資料を睨んでいた。 一日かけてパソコンに向かい、あちこちを調べ、蒼生と麻奈、二人の詳細なプロフィールから辿り着き、作り上げた薄い資料。 デスクの上のミネラルウォーターを一口飲み下すと、低く呟く。「……なるほど」 蒼生と麻奈を送り出したとき、妙に他人行儀なのが気になった。前時代的で堅物な会長の反対を押し切って結婚したとはとても思えない。何か理由があるのでは、と疑った。結婚しなければならない理由。例えば……何かの布石。仕込みだ。放っておけば重大な事態を招くかもしれない、そんな疑念から調べ始めた。 目の前の麻奈の資料に目をやる。麻奈には何もなかった。 アマチュアの市民ランナー。過去に何度かフルマラソンの大会に出ている。成績は上位。4時間数分の記録を残している。「……わからなくもない。ただのスリムな体型というわけじゃないからな、あの奥様は」 資料をめくる。何人か付き合った男はいるが、どの男も神崎テクノロジーズとは全く縁がない。両親も、親族も。 早野は麻奈の資料をクリアファイルに入れると、デスクの一番上の引き出しへ放り込んだ。……となると、社長だ。 何か奥様を使って仕事をしようとでもしているのかと推測した。考え難いが。あの奥様には社長が結婚して得られる社会的なメリットなど何もない。 早野は片手を伸ばして、プリントアウトされた写真を手に取った。 小さな教会。幸せに輝く花嫁と、誇らしげな花婿。二人に寄り添って晴れの日を祝う笑顔に溢れる人々。「……それにしても……似ている……」 早野の目は花嫁に釘付けになる。「……朝霧(あさぎり)……沙雪……。遠目で見ると麻奈奥様にそっくりだ」 デスクに頬杖をついて、その写真を眺める。「……社長の大学時代のことなど、それほど気にしたこともなかったが……」 手元のパソコンをクリックする。誰かのSNSが画面に現れた。そこには早野がプリントアウトした写真の他に、学生たちの思い出らしき写真がいくつも載せられている。だが、蒼生の写った写真は一枚しかなかった。「……学生
last update最終更新日 : 2026-08-14
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第22話 日常へ

 グァムから帰ると、蒼生はすぐに日常へ戻った。 瀟洒な建物が並ぶ高級住宅街の一番奥、周りに使用人たちの住む小さな家を従えた、広い庭の奥に建つ広大な邸宅。 6時に起きて自社メールとグループ会社メールをチェックし、朝食を食べながら新聞を広げ、デジタルニュースもチェックする。それが終わるとちらりとテレビのニュースを確認し、香り立つブルーマウンテンを一杯飲んだ後、立ち上がる。 ——行ってくるよ。 8時に早野の乗った黒塗りの車が迎えに来ると、車中で予定と優先事項の確認。その後は会議と報告書、残務処理、時に会食。土日もゴルフや会食でしょっちゅう潰れる。 ——ただいま。 帰宅時間はまちまちで、麻奈を一人で夕食の席に向かわせることもある。時には麻奈がベッドに入った後に帰宅することもあった。 蒼生は何でもないことのように、この忙しい生活へ埋没した。 一方で、麻奈には戻るべき日常がなかった。 神崎グループの若奥様を総務課一般社員として使うのは憚られる、と上司に言われ退職を決めた。住んでいたアパートも引き払い、通っていたジムも遠くなり過ぎた。アパートの周りに設定していたランニングコースも、もう実用的ではなくなった。 「……完璧」 初夏の陽が射し込む蒼生のいない広い家で、昼食を一口食べて麻奈は呟いた。 この家のプライベートシェフが作り上げた、味も栄養も完璧な食事。自分が作る素人料理ではたちうちできない。使用人は他にもいる。掃除から庭の手入れまで、自分の入り込む余地はない。 「……だけど」 麻奈は、暑くなり始めた気温に合わせて冷たく仕上げられ、上品に盛られた蕎麦と野菜の煮付けを覗き込んだ。 「足りない。タンパク質も食物繊維も、……量も」 目の前の食事をきれいに完食して、立ち上がる。食器を下げようと手を伸ばしたとき、家政婦の声がした。 「奥様、どうかそのままで。こちらで片付けますから」 「……あ」
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第23話 奥様の仕事

その日の夜、夕食が終わった頃に蒼生が戻って来た。今日は急な会食が入り、急遽家での夕食をキャンセルした。また麻奈を一人で食卓に向かわせてしまった。何か埋め合わせをしないと、と考えながら夫婦専用の居間へ入ると、麻奈は自分のノートパソコンを開いて、一心に何かを書いているところだった。 「何をしてるの?」 蒼生が覗き込むと、麻奈はにこやかに顔を上げた。 「あ、おかえりなさい。今ね、ロードワークコースを作ってるの」 開かれた地図アプリにはあちこちにチェックが入っている。 「毎日のルーティンコースと、長距離コース。後は高速のインターバルコースとか、脚力や体幹用のミドルジョグコースとか、オフ日用のヨガやストレッチメニューなんかも」 「本格的だな」 蒼生はぽん、と麻奈の頭に手を置いてからネクタイを緩めた。 「それで? コースは完成したの?」 「一応組み立てたけど、きちんと走って試してみなきゃ」 麻奈は椅子の上で背筋を伸ばして伸びをする。 「でも大まかにはできたわ。後は補食を作ったり、食事メニューの追加をしたり、ね」 「キッチンに入るってこと?」 蒼生が振り返った。今までの気軽な表情が消える。 「あ……ダメ……?」 「駄目とは言わない」 蒼生は麻奈の横に椅子を置くとそこへ腰かけた。 「補食や追加のメニューはできてるの? 俺にも見せて」 手を伸ばした蒼生にメニューを渡すと、蒼生はそれにざっと目を通して、麻奈に戻した。 「このメニューなら、うちのシェフが作れるよ」 「……でも……」 麻奈は戻されたメニューにもう一度目を通した。こんなこと、人に頼んでいいのかしら。 「あのね、麻奈」 蒼生は麻奈と目を合わせる。 「我が家はシェフを雇っていて、食事の管理は彼に任せてる。キッチンは彼の大事な職場なん
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第24話 互いに素

「1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……」 ベッドの中で身動きした麻奈が、蒼生のはだけた鎖骨に唇を押しつけた。ギクリと体を震わせて麻奈を見下ろす。だが、麻奈は何か楽しそうに唇を突き出して安らかな寝息を立てている。「……えーと……どこまでいったかな……」 あの夜から麻奈は積極的に蒼生を求めることはしなくなった。が、「一緒にいるだけで幸せ」と蒼生に寄り添って眠る。あれから好物のマグロカツに食指が動かなくなった蒼生は、フィボナッチ数列を数えることにしていた。「……この数列の利点は、進むにつれて暗算の難易度が増すところだが……」 蒼生は考える。「……まあ、最初からでも問題はない。1、1、2、3……」 麻奈の桜色の唇を見つめているうちに、何を数えていたのかわからなくなってしまった。「……あれ? 隣り合う数は互いに素のはずだが……」 考えながら、思考は別の方向へ流れて行く。……あれだけのトレーニングをこなすには、やはり相当なカロリーが必要なんだな。 麻奈の体を抱き直すと、蒼生は天井を見つめた。……シェフと打ち合わせるにしても、専門的な視点も必要かもしれない。早野に専属トレーナーのついたジムを探させようか。 麻奈が寝返りを打ち、ふわりと髪が香った。片手を蒼生の背中に回し、頬が胸に押しつけられる。……あまり孤立させたくない。俺が麻奈と一緒に走れたらいいんだろうが……素人の俺じゃ邪魔になるだけだろう。「……麻奈」 軽く開かれた唇に、蒼生はそっと口づける。「1、1、2、3、5……」 自分も何かトレーニングを始めようかと考えながら、蒼生はまた数列を数え始めた。「わ……あ……」 翌日の昼食に並んだものを見て、麻奈は思わず声を漏らした。午前中、トレーニングを控えて神崎家のプライベートシェフと打ち合わせをした後のこと。「少し調べただけですが、とりあえず試食をお作りしました。ご希望があればまた調整いたします」 シェフは丁寧に頭を下げた。彼が自ら押して来たワゴンの上にはいくつもの皿が並んでいる。大盛りのご飯、チキン胸肉のグリル、大量のローストした野
last update最終更新日 : 2026-08-16
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第25話 ルームランナー

麻奈が新居の周りにロードワークコースを作り上げ、神崎家のシェフが麻奈の好みを把握した上で完璧な食事メニューを組み上げた頃、大きな荷物が届いた。 「……これ、なに?」 使用人たちが早速広いサンルームへ運び込み、荷物を解き始めるのを麻奈は眺める。現れたのはルームランナーだった。 「うわ……あ……」 目を輝かせた麻奈に、家政婦がにこやかに言った。彼女は最近少し笑顔を見せる。 「旦那様がお使いになるそうですよ」 「蒼生が?」 目を丸くして、麻奈は目の前のルームランナーを見る。 「……これ、すごくいいものだわ。私も使えそう。最高速度も大きいし、傾斜は電動で付けられるし」 単調で孤独なトレーニングの気晴らし用に大きなディスプレイまで付いている。速度や負荷から心拍数まで表示できる上に、動画やテレビも見られる。 「ここならお庭の景色を眺めながらお使いになれます。お天気のいい日は気持ちがいいでしょうね」 「……雨の日は私も借りちゃおうかな」 ふと見ると、ルームランナーの傍らにトレーニングウェアやランニングシューズが入った箱も置いてある。 「……このシューズ、私のよりいいものだわ」 シューズを取り出して麻奈は目の前にぶら下げた。 「いいなあ。こういうの、私も欲しかったけど……高くて」 「ご注文なさるならお申し付けくださいませ。奥様お好みの色やサイズなどを伝えてくださればご用意いたしますよ」 使用人たちを取り仕切る工藤が言った。柔和な顔、頭にはそろそろ白いものが混じり始めている。 「本当? いいの?」 「もちろん」 工藤はうなずいた。
last update最終更新日 : 2026-08-17
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第26話 疑念

「あー、あったかい。一日の終わりのお風呂、最高」 浴室で暖かい湯に体を沈めながら、麻奈は満足げに息をついた。「蒼生……一緒に走ろうとしてくれてるのかな」 照明を反射してきらきら光るお湯に肩まで浸かり、麻奈はくすりと笑う。「……でも、まだ一緒に走るのは無理。蒼生には負荷が高すぎるもん。今はまだ歩くだけ、ね」 真面目な顔をしてルームランナーの上で歩いていた蒼生を思い出すと、つい顔がほころぶ。「……でも……そのうちきっと……」 ゆったりと手足を伸ばし、ちゃぷん、とお湯を跳ねさせて、麻奈はにこりと笑った。 浴槽から出ると丁寧に髪を洗い、トリートメントをするとそれが髪に浸透するのを待つ間にゆっくりと体を洗う。右足から始め、左足、左手、右手、と洗って行く。すぐに全身が泡だらけになった。それをシャワーできれいに洗い流す。「全然モテなかったってほんとかな。絶対モテてたと思うわ。蒼生、カッコいいのに」 くすっと笑いながら、サンルームで見た蒼生のトレーニングウェア姿を思い浮かべる。「今日のウェア、似合ってたな……。ジムで初めて会った時に着てたのより、ずっと素敵だった。あれも買ったばかりに見えたけど」 あの時の蒼生を思い出すと、つい顔がほころんでしまう。……蒼生を見たのはあの時が初めてだったけど。まだ慣れてなかったのよね。おどおどしてた。 くすくす笑いながら髪につけたトリートメントを洗い流すと、丁寧に顔を洗う。最後に鏡を見て、全身を確かめてからもう一度浴槽へ体を沈める。「……蒼生、忙しいもんね。朝から夜までずっと仕事で……。運動なんてする暇ないくらい」 雨の日には自分もあのルームランナーを使わせてもらおう、そう考えてにこっと笑ったとき、麻奈の脳裏にもう一度あの日のことが蘇った。 初めて蒼生に会った日。自分の通っていた小さなジムで、おどおどしていた蒼生。……ジムに通ってたのよね。 照明を反射して揺れるお湯を見つめる。……だから出会ったのよね、私たち。 はたと顔を上げる。「……あの時着てたトレーニングウェア、どうしたのかな……」……トレーニングウェアやシューズ
last update最終更新日 : 2026-08-18
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第27話 準備

「……蒼生」 ナイトガウンに身を包み、麻奈が寝室へ入ると、蒼生が振り返った。 「そうだ、麻奈。今度レセプションがあるんだ」 「レセプション……?」 麻奈は首を傾げた。 「外資系のIT企業なんだけど、展示会後にホテルでレセプションパーティーがあるんだ。招待されたから麻奈も来て」 「……私? 行ってもいいの?」 浴室での疑念も忘れて麻奈は蒼生を見上げた。そんなところ、行ったことがない。 「外資系はね、パーティーと言えば夫婦同伴が基本だよ」 蒼生は麻奈を抱き寄せると、少し笑った。 「ドレスコードは正装。麻奈のドレスも準備しておいて」 「……ドレス……?」 麻奈は頭の中でクローゼットを開ける。どんなものを着ればいいんだろう。どれが正装なの……? 「あの……グァムで買ってもらったあの若草色のツーピースは? あれならどう?」 蒼生の表情が消えた。麻奈の背中に回していた手をそっと外すと、くるりと背中を向ける。 「……あれは……ドレスコードに合わない。カジュアルすぎる」 「……そう……なの?」 「うん、俺は黒のフォーマルスーツを着るから、麻奈はそれに合わせて何か用意しておいて。工藤に相談すればいいよ」 「……あ……うん……」 レセプション、フォーマルスーツ、ドレスコード。今まで全く縁のなかった世界を聞かされて、麻奈の体に緊張が走る。 ……聞きたかったこ
last update最終更新日 : 2026-08-19
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第28話 レセプションへ

レセプション当日、蒼生は自宅へ戻ると準備されていたフォーマルスーツに着替えた。早野から麻奈のドレスの色はバーガンディだと聞いていたから、ネクタイはそれに合わせるよう工藤に言っておいた。 「……バーガンディか……」 用意された深いワインレッドのネクタイを結びながら、蒼生は鏡を見る。この色なら、麻奈に沙雪の影を重ねることもない。 「沙雪……」 最近は、自分の中の沙雪の影が薄れ始めている。それに気づいたとき、蒼生は背筋が冷たくなるような感触を覚えた。 ——恐怖。 「……諦めなきゃいけないと思った。だが、諦めるのと忘れるのは違う」 軽く首を振って、蒼生は鏡に背を向ける。 生涯沙雪だけだと思っていた。愛したのは沙雪だけ。他にはいない。それが愛なんじゃないのか? 本当に愛するということじゃないのか? ……生涯に一人。 手元が乱れてネクタイが少し曲がった。舌打ちをしてネクタイを解く。 ……それなのに、俺は忘れ始めているのか? 今まで、どんな女性と会っても、忘れないことなど簡単だったのに。 「……だけど」 部屋の向こうから物音が聞こえる。穏やかな誰かの声と、明るい笑い声。工藤の手配した美容師が、別室で麻奈のヘアメイクをしているはずだ。 「……だったら結婚しなきゃよかったんだ」 もう一度鏡に向かい、慎重にネクタイを結び直す。 ……この後悔も繰り返した。何度も何度も。 あのジムで麻奈と会い、お茶に誘い、食事に誘い、会うたびにもう終わりにしよう、もう会うのはやめようと思いながら、どうしても手放せずに…… 「蒼生」 振り返ると麻奈が立っていた。 「……どう? 似合う?」
last update最終更新日 : 2026-08-20
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第29話 気にしない

「いってらっしゃいませ」 会場の外で車を降りた早野が頭を下げた。蒼生は軽くうなずき、麻奈はにっこりと笑みを返す。早野は二人に笑みを残し、車に乗ると帰って行った。 早野を見送ると、麻奈は蒼生の腕を取った。少しだけ、その手に力が入る。「緊張しないで」 蒼生が麻奈の耳元で優しく囁いた。「俺はあちこちで名刺交換するから。麻奈は俺が紹介したら軽く笑顔で挨拶するだけでいい。聞き役に徹すれば大丈夫」「……うん」 蒼生は歩き出しかけて、はたと麻奈を見る。「あ、お酒は……あまり飲まないで。食べ物も軽く、ね。食事はここのレストランを予約しておいたから、後で食べよう」「……うん」 ぎゅっと蒼生の腕を握る。蒼生は麻奈の体をそっと抱き寄せると、もう一度麻奈に囁いた。「大丈夫。俺の傍にいればいい。麻奈、素敵な奥様だよ」「……うん」 曖昧な笑みを見せると、麻奈は腕を貸す蒼生と一緒に歩き始める。 煌びやかな光が漏れる会場が近づいて来る。微かなざわめきが聞こえる。笑い声や話し声。麻奈はごくりと唾を飲み込むと、一歩踏み出した。  会場に入ると、先に来ていた招待客たちの視線が一斉に二人に注がれた。蒼生はそのうちの何人かが感嘆の声を漏らすのを聞いた。口元が少し緩み、そっと麻奈を抱き寄せる。 麻奈の方は、背筋をしっかりと伸ばし、軽く微笑みながら、それでも蒼生の腕に乗せた手にはぎゅっと力が入ったまま、蒼生に抱き寄せられて少しバランスを崩す。バーガンディのサテンが鈍く輝きながら麻奈を包んで揺れた。「ようこそ」「……ああ、お招きありがとう」 蒼生がバランスを崩した麻奈を慌てて支えなおしたとき、主催者らしき銀髪の男性か笑顔を浮かべて声をかけた。 蒼生は英語混じりで少し会話をする。それが終わると、麻奈に視線を移して微笑んだ。「こちらは私の妻です。She is my better half.」「お会いできて嬉しいです。It's a pleasure to meet you.」 英語に混じった流暢な日本語と気さくな物腰に、麻奈の笑顔が深くなる。「神崎の妻、麻奈でございま
last update最終更新日 : 2026-08-21
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第30話 大好き

蒼生は頻繁に名刺を交換し、麻奈を紹介する。その度に麻奈はにっこり笑って「神崎の妻でございます」を繰り返した。そのうちに蒼生は誰かと話し込み始めた。また一人になった麻奈は、今度は余裕をもって会場を一通り眺める。 ……そういえばグラスは片手に持ってなきゃ、なのよね。飲んじゃいけないけど。 読んで来たマナーブックに書いてあった。飲み物の入ったグラスを片手に。でも飲んだりしないで、上品に持つだけにすること。食べ物には口をつけないこと。 ……飲まないのに飲んでる空気を出すって無駄じゃない? などと考えながら麻奈はグラスを取りに行った。きっと美味しいお酒なのに。これ、捨てるのかしら。もったいない。 シャンパングラスに手を伸ばしたとき、背後からくすくす笑いが聞こえた。振り返ると、四、五人の取り巻きを従えた女性がこちらに会釈をする。柔らかなクリーム色のドレスに大粒のダイヤモンドが光っている。 「こんばんは」 麻奈が微笑み返すと、夫人も笑った。 「素敵なお召し物ね」 「あ……りがとうございます」 麻奈は少しはにかんだ笑顔を見せた。 「よくお似合いだわ。神崎社長も安心なさったんじゃないかしら」 取り巻きの一人がうなずいた。 「こういうところはお慣れになってないでしょうにねえ」 「ご立派ね」 口々に言ってくすくす笑う。 「お育ちが……その、わたくしたちとは少し違いますでしょ? ご苦労がおありなのでしょうねえ」 麻奈の笑顔が消えた。手にしたグラスを握りしめる。 「いいえ。そうでもありませんよ」 「あら、しっかりなさって」 くすくす笑いが一段大きくなった。 「変わったご趣味をお持ちなのですって?」 「ランニング、ですよねえ? ヨガでもダンスでもなくて、ただ走るだけ」 「でも、おかげでとてもスリムでいらして、姿勢もお
last update最終更新日 : 2026-08-22
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