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偽りの幻影 のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

60 チャプター

第31話 キス

レセプション会場を後にしてレストランへ向かうときも、麻奈は蒼生の腕をしっかり握っていたし、「何でも好きなものを食べたらいいよ」と蒼生に言われてお腹いっぱいに肉や魚を詰め込んだ後、レストランを出るときもまた蒼生の腕を求めた。 「お風呂に入って来るね」 自宅へ戻り、麻奈が浴室へ消えると、蒼生はネクタイを緩めてソファに体を投げ出した。 「……保守的な世界だからな。新参者を嫌う」 天井を見上げる。 ……可哀想に。俺がもっとしっかりそばにいてやらなきゃいけなかったのに。 ——蒼生、お前が沙雪を守れるんなら、俺は喜んで預ける。 ため息をついたとき、間宮の声が聞こえた。 ……ふざけるな。俺じゃダメなんだよ。沙雪にはお前しかいなかったんだ、間宮。お前だけ。生涯に……一人。 蒼生は目を閉じた。だいたい間宮、お前が思ってるほど楽な世界じゃない。今日みたいなことはいくらでもある。 ふと腕に麻奈の温もりを感じて、蒼生はそこに目をやった。今夜は、ずっと俺の腕を欲しがっていた。あんなふうに理由もなく侮辱されて。どれほど悔しかったか。俺の不注意で麻奈が傷ついた。 ……麻奈。俺がお前をこの世界に連れて来た。だから守ってやる。せめてもの……責任として。必ず。 閉じた瞼の奥でバーガンディの色が揺れた。翻るドレスと、きらめくゴールド。深いバラの色に塗られた唇。 「蒼生?」 目を開けると、麻奈が覗き込んでいた。白いナイトガウンを羽織って、束ねた洗い髪は背中に垂れている。 「……あ……ドレス、脱いじゃったのか」 少し残念そうな顔をして起き上がった蒼生に、麻奈は笑って体を預けた。両腕を首に回して、蒼生の胸に頭を預ける。 「お風呂に入るって言ったのに」
last update最終更新日 : 2026-08-23
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第32話 俺の麻奈

「……蒼生……?」 麻奈は目を開けた。唇を塞がれ、蒼生の腕に体ごと抱きとられて動けない。甘い疼きが背中を走った。 「……麻奈……」 吐息のような低い呟きを漏らすと、蒼生は麻奈の体を自分の体で包むように覆い被さった。蒼生の唇は今、麻奈の首筋を撫でるように滑っている。 「……あ……」 麻奈は蒼生の髪に指を入れた。抱きたいって思ってくれてる。最後までできなくても、それだけで嬉しい。 「蒼生……」 ……明日ちょっと大変だけど、少しだけ遅く起きて、いつもよりペースを上げて走ればいいのよね。 麻奈は目を閉じると、蒼生の腕に体を任せた。 「蒼生……蒼生……」 麻奈の声が寝室に静かに満ちる。小さく体を震わせて、蒼生の愛撫に導かれ、麻奈は体をのけぞらせる。両手が指を立てて、麻奈を愛しむ蒼生の背中を滑った。 蒼生は麻奈の頬を撫で、もう一度唇を重ねたあと、体を起こした。麻奈の膝の裏に手を入れ、大きく開く。 暗闇に薄く、真一文字に結んだ唇と熱を帯びた瞳が見えた。そのまま自分の体を麻奈の間に潜り込ませると、麻奈を見つめて少し屈みこむ。そこに押しつけられたものを感じて麻奈は息を飲んだ。 「……蒼生……?」 体を起こそうとしたとき、蒼生が麻奈をゆっくりと貫いた。 「……あ……!」 体の中に蒼生が入り込む。切なげな吐息を漏らし、蒼生は麻奈の耳元で囁いた。両腕でしっかりと麻奈を抱きしめる。 「……麻奈……可愛い……」 ……え? 蒼生? 問題があるんじゃなかったの? ダメだって…… その感覚に、麻奈の思考が途切れて行く。足先の痺れるような甘さ。自分を抱きしめる腕。胸元に押しつけられた熱い唇。 ……あ……私……蒼生でいっぱいになっちゃう……。 静かに部屋に満ちていた麻奈の声が次第に高くなる。艶やかな女の声。蒼生に合わせてその声は波を打った。
last update最終更新日 : 2026-08-24
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第33話 シトラスの朝

藍色の空の端が紫色に滲む。その下に金色の太陽の気配が漂った。頭上の星はまだ健気に瞬いている。 「……麻奈……」 蒼生の裸の胸にしっかりと抱きしめられたまま、麻奈が目を覚ましたとき、蒼生が囁いた。 「起きてるの……?」 見上げた麻奈の声には気づかないまま、蒼生は寝息を立てている。 「……やだ、寝言?」 くすぐったい気持ちで麻奈は蒼生の頬にキスした。こんなに満ち足りた朝を迎えたのはいつ以来だろう。 「何時かな……」 まだ暗い部屋の中で麻奈は時計を探す。そろそろ気温の上昇が凄まじくなる。陽が昇り切る前に朝のロードワークを終わらせないと。 時計を確認してもう少し眠ろうと目を閉じたとき、麻奈を抱きしめる蒼生の腕に力がこもった。 「……起きたの? 麻奈」 「あ、起こしちゃった? ごめんなさい」 蒼生の優しい目に、つい顔がほころぶ。 「おはよう、蒼生」 首に手を回すと、蒼生は麻奈にキスを落とす。 「おはよう、麻奈」 優しいキスは少し長く続き、だんだん熱を帯びて来る。 「……蒼生」 肌に直接感じる蒼生の暖かさが心地良くて、麻奈は体をすり寄せる。 「……もしかして……俺が欲しい?」 麻奈を覗き込むと、少しからかうように蒼生は麻奈の頬にキスした。 「……ん……昨日、素敵だったから……」 麻奈が小さくうなずくと、蒼生は大きな手で麻奈の顔をそっと包んだ。 「……俺も。そう思ってた」 麻奈がロードワークから戻り、蒼生が優しいキスを残して仕事に出て行くと、家政婦がダイニングテーブルに朝食を並べた。 「奥様、どうぞ」 「ありがとう」 麻奈はテーブルにつくと、野菜サラダを頬張る。今日のロードワークは少しきつかった。だが、抜け
last update最終更新日 : 2026-08-26
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第34話 どうかしている

……麻奈といると俺は狂う。わからなくなってしまう。 蒼生は自社ビルの高層階にある社長室から、階下を見下ろした。ビルの間をけしつぶのような人々が行き交うのが見える。 ……抑えられない。……欲しい。 昨夜を思い出して、蒼生はうなだれる。 ……抱きたかった。でも、抱くつもりじゃなかった。あんなに……何もかも忘れるなんて……。 天井から足元まで、はめ殺しの透明な一枚ガラスで仕切られた宙に浮いたような空間の中で、蒼生は唇を噛む。 ……引きずられる。いけないと思いながら、自分を抑えられない。 蒼生は首を振った。 ……プロポーズだってそうだ。いけないと思いながら、やめなければと考えながら……。 ——はい。 迷いながら、もうこれで最後にしようと思いながら、食事に誘い、デートを重ねて。麻奈をタクシーに乗せ、一人になった帰り道にはどうしようもなく後悔して。だが、しばらくするとまた会いたくなって。 麻奈を求めているのか、沙雪を望んでいるのか、自分でもわからないまま、沙雪の好みの服を贈り、それを麻奈が着ているのを見るのが嬉しくて。……同時に苦しくて。 俺はどうかしている。 「……歪んでいる。……わかっている」 うなだれて呟く。俺はどうしたいんだ? このままでいいのか? このまま……麻奈に溺れても……いいのか……? ——はい。 とうとう結婚したいと言ってしまったとき、顔
last update最終更新日 : 2026-08-27
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第35話 どうして?

数日が過ぎた。太陽が地上を支配する時間が増え、気温はどんどん上がった。麻奈は夜明け前に起きてロードワークへ出るようになった。 「……今日も暑くなりそう」 走るうちに夜が明けて来る。麻奈はこの時間が大好きだった。太陽が顔を出し、世界が夜から朝へと塗り替えられる。 まだ残っているひんやりとした空気を吸い込みながら、規則正しく吐き出す。腕を振り、ストライドをキープし、前へ。 体がなんとなく重い。スマートウォッチでタイムを確認する。それほど落ちてはいない。ただ、気怠さが抜けきらない。 「仕方ないわよね。……蒼生ったら」 麻奈は姿勢が崩れないよう気をつけながら、ストライドを少し大きくする。 あの日から、蒼生はほとんど毎晩麻奈を抱くようになった。麻奈自身もそれを求めた。嬉しい。蒼生に抱かれること、蒼生を感じること。耳元で囁く蒼生の甘い、低い声。 「麻奈……」 その声を思い出して、つい大きく息を吐く。少しリズムが狂った。 「……やだ、邪魔しないで、蒼生」 口元をほころばせる。蒼生の腕、蒼生の体、自分を見つめる深い色の目。 「セクシーだわ。身体の問題なんてまるっきりなかったみたいに」 坂道にさしかかり、少しペースが落ちる。麻奈は呼吸を整えた。走る。走る。ただ前へ。足を踏み出す。家と家の間から、一瞬のぞいた太陽がきらりと麻奈を射した。 ——ほんとに……? ふと、初めて抱かれた夜を思い出した。 「……身体の問題って、そんなに急に、簡単に治るものなの……?」 少し調べたところでは、一度の成功で自信を取り戻すこともある、と書いてはあった。 「……だけど……」 あれから蒼生は一度も失敗しな
last update最終更新日 : 2026-08-28
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第36話 戸惑い

「ただいま」 高級住宅の並ぶ静かな郊外に建つ瀟洒な自宅へ戻ると、工藤がにこにこしながら出迎えた。 「奥様、ジムの案内が届いておりますよ」 「……ジム?」 麻奈が首を傾げると、工藤はうなずいた。 「この家から通えるジムが必要ではないかと、旦那様がおっしゃって」 「……あ」 ……そうだ。結婚式や新婚旅行や……引越しやなんかで全然探せてなかった。行ってもいいか蒼生に聞こうと思ってたのに。 「設備もしっかりして、パーソナルトレーナーもいる所を幾つか早野さんが選んでくださいました。奥様がお選びになれば、後は早野さんが手続きをしてくださいます」 「パーソナルトレーナー?」 「はい。トレーニングだけではなく、食事なども相談できるそうですよ。心強いことですね」 工藤は先に立ってダイニングへ歩いて行く。 ダイニングテーブルの上には、シェフ試作のスペシャルドリンクのグラスと、パンフレットが何冊か置いてある。 「どうぞ。ドリンクは、胃の負担を考えて酸味を抑えてあるそうです。シェフが奥様のお体に合わせて調整をしたいと申しておりました」 麻奈はグラスを取った。口元に運ぶと華やかな甘い香りが麻奈を包んだ。一口飲むと、柑橘系特有の芳醇な甘味が広がり、爽やかな後味がそれを追う。 「……美味しい」 「酸味はいかがですか? お腹への負担はございませんか?」 「うん、大丈夫」 工藤に微笑んで、もう一口飲む。 「美味しい。……うん、元気が出ちゃう」 グラスをテーブルへ戻すと、麻奈は少しうつむいた。 「ようございました」 工藤はにこりと笑うと、テーブルの上のパンフレットを指差す。 「こちらにジムの案内がございますから。お読みになって、奥様が一番気に入った所をお選びくださいませ」 「あ……りがとう……」
last update最終更新日 : 2026-08-29
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第37話 始まりへ

「麻奈……」 耳元で蒼生が囁く。麻奈の体を軽々と意のままに翻弄し、己を刻み込む。 「……蒼生……」 のけぞる麻奈の腰を蒼生の腕が絡め取る。逃げられない。身動きも取れない。ただ飲み込まれて行く。……蒼生に。 「蒼生……蒼生……」 切なげに眉を寄せ、目を閉じて麻奈は小さく首を振る。 「や……溶けちゃう……」 「……可愛い」 蒼生の声が耳に響く。 「……麻奈、可愛い……」 「蒼生、蒼生」 麻奈は蒼生の体にしがみついた。 「蒼生、愛してる。……愛してる」 「麻奈、俺の……麻奈」 蒼生の体がひときわ深く麻奈を貫いた。 「……離さない。どこにも……行かせない」 蒼生の唇が押しつけられる。 「お前は……俺のものだよ」 ……拒めない。あれからずっと。蒼生に翻弄されたまま。 陽が高く昇っていた。太陽はもう力を増して、世界が白く見えるほどに照りつける。 麻奈は、サンルームに置かれたルームランナーの前で座り込んでいた。周りにはジムのパンフレットが散らばっている。 「もう気温が高いから、ロードワークはほどほどにね。ルームランナーを使っていいから」 朝、仕事に出かける蒼生が言った。 「ジムは決めたの? 俺か工藤に言えばいい。後は早野が手続きするから」 ……信じていいの……? 麻奈は落ちているパンフレットを一つ手に取る。ずっと憧れていたジム。こんな所に通えたら、と願っていた。
last update最終更新日 : 2026-08-30
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第38話 内緒の話

「はい?」 スタッフは口をぽかんと開けた。「やだな、桐谷さん、そんな個人情報、漏らせるわけないじゃないですか」「……あ、そりゃそうよね」 慌てて麻奈はうなずく。「そんなこと、言えるわけないわよね」 スタッフはくすりと笑った。カウンターに頬杖をついて気安げに麻奈を見上げる。「桐谷さん、あの人に会ったことあるんですか? あの背の高い金持ちっぽいイケメンさん」 麻奈は曖昧にうなずく。「え? まあ……。うん、そうね。ここで会ったの」「え? ほんとに?」 スタッフは目を丸くして椅子から立ち上がった。カウンターの向こうから周りを窺うように見回し、麻奈に体を寄せて囁く。「それ、幸運ですよ。ここであの人を見たの、俺を含めて数人だけなんです」「え?」 麻奈が見返すと、スタッフはうなずいた。「受付の俺と、あの時トレーニングルームにいたお客さんとトレーナーだけ。……そうか、桐谷さんもいたんだ」 打ち明け話をする人特有の親しみを込めて、スタッフは麻奈に笑いかける。「めちゃくちゃ高そうなスーツを着てたのに、着替えたウェアはその辺で売ってる安物丸出しで違和感ハンパなくて」 思い出したようにくすくすと笑い出しながら、彼は麻奈を見た。「……ね?」「……ええ……、そうよね……」 紅茶のペットボトルを手に取り、麻奈はぐいとキャップを捩った。プチリ、とキャップが捩じ切れる。「もうね、そのイケメンさんに会いたいって女子まで出て来ちゃって。みんな待ってたんですけど……ね」 突然スタッフが笑い出した。「あの人がここへ来たの、あの日だけなんです」「……え?」 紅茶を飲もうとした麻奈の手が止まった。「……あの……内緒ですよ」 スタッフはもう一度周りを見回して小声になった。「俺、覚えてるんですよね。ほんと変わった人だなあって。なんか慌てて入って来て、今すぐ入会したいって。すぐ手続きをしてくれって」 特大の秘密を打ち明けるように、スタッフは声を一層ひそめる。「……それで。出したのが。ブラックカード……!」
last update最終更新日 : 2026-09-01
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第39話 白い日

……一度しか来ていない。 麻奈は歩いていた。バスには乗らない。タクシーも使わない。今は自分の足で体を運びたかった。誰かに連れて行かれるのではなく。 それでも、歩いていても何も聞こえない。何も目に入らない。 ただうつむいて、ぼんやりと足先を見つめ、頭上に広がる都会の喧騒が耳に入るまま歩く。 車の行き交う騒がしいビル街を抜け、住宅地に抜けるアスファルトの道路を挟んだ小さな商店街に差し掛かったとき、麻奈は足を止めた。……私を追いかけて来たということ? 昼下がり、ほとんど人のいない道路に立ち尽くし、照りつける太陽がぎらつく空を見上げる。容赦なく降り注ぐ光はほとんど空までも白い熱で覆い尽くしていた。……初めから……私がターゲットで、出会いを仕組んだということ? 風のない茹だるような暑さの中、再びうなだれて蒸れた熱気を立ち昇らせるアスファルトを見つめる。暑さとは裏腹に体は小刻みに震えた。しばらくして、また歩き始める。——腹筋を……鍛えたいな、と。 顔を少し赤らめていた蒼生。私は、可愛い、なんて思って……。——お茶でもいかがですか。……あの時。私がうなずいたから、蒼生はもうあのジムへ来る必要はなくなった。その後は私と直接連絡を取ればいいから。「どうして?」 麻奈は空を仰いだ。「どうして? 私、神崎蒼生なんて人、知らなかった。あんなに素敵な大会社の御曹司だもん、一度でも会ったら覚えてる。でも、一度も会ったことない。絶対に」 拳を握りしめたとき、ペットボトルを握ったままなのに気がついた。それは熱気と麻奈の体温でもう暖かくなっている。麻奈は立ち止まってそれを見つめた。……じゃあ、蒼生はどこで私を知ったの? 私があそこにいるってどうして知ってたの? 両手が震える。「……まさか……私のこと……いろいろ調べていたんじゃ……」 過去に何度も出たマラソン大会を思い出す。市民ランナーとしてはそこそこ上位だった。沿道から応援してくれる人もいた。名前を覚えてくれた人も。写真を撮る人もいた。スポーツブラと薄手のタンクトップ、ショートパンツ。中には、そのスタイルを狙ってカメラを向ける不届き者もいる。
last update最終更新日 : 2026-09-02
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第40話 帰宅

「おかえりなさいませ、奥様」 午後遅く、陽が傾く頃になって、麻奈はようやく自宅へと戻った。ジムを抱え込んだ都会の喧騒から、樹々が揺れ、柔らかな風が吹くこの高級住宅街まで、どうやって戻ったのかよく覚えていない。ただ、真っ白な光と青い空の断片だけが脳裏に貼り付いていた。「……ただいま」 うなだれたまま玄関を入り、部屋履きに足を入れると、迎えに出た工藤が覗き込んだ。「奥様、どこから歩いて来られました?」「え?」 麻奈が顔を上げると、工藤は眉を寄せる。「随分と汗をかいておいでですから。この気温です。帽子や日傘もなしで外をお歩きになるのは危険ですよ」「あ……そうね。うん、気をつける、ありがとう」 麻奈が握りしめていた紅茶のペットボトルを工藤は指差した。「それはお預かりしましょう。お着替えになったら、ダイニングへお越しください。冷たいものをご用意いたしますから」「……あ」 握りしめていたペットボトルを見つめる。忘れていた。ずっと握ったままでいたことも。 硬く強張った指をペットボトルから引き剥がすのに少し苦労しながら、麻奈は少し笑った。可笑しいわね。指がこんなになるまで気づかなかったなんて。 こんな時、誰かがいてくれることがどんなに嬉しいものか、ずっと忘れていた。「ありがとう。すぐに行くわ」 汗で濡れた服を着替え、ダイニングへ入ると、テーブルの上に細長いガラスのコップが置かれていた。手に取ると、氷がガラスにぶつかる涼しげな音が響く。火照った麻奈の手のひらにグラスの冷たさが心地いい。 一口飲むと、優しい炭酸が弾け、マンダリンオレンジの豊かな香りが広がる。その奥からきゅっと微かな塩味が顔を出した。「……美味しい……」「シェフが用意いたしました。微炭酸にひとつまみの塩とライム、マンダリンオレンジの皮を捻って香り付けをしております」 工藤がカットした桃を載せた皿を置きながら、麻奈の手にしたドリンクを見て微笑む。「あ……」 私が……オレンジが好きと言ったから……?「どうぞ。まだお顔が赤いです。少しお体を冷やすとよろしいですよ。ご夕食は旦那様がお戻りになってか
last update最終更新日 : 2026-09-03
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