All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 141 - Chapter 150

158 Chapters

第141話:終わりが近いという知らせ

ジャンが倉庫を出てから、三十分ほど経っていた。エマは、作業台に置かれた二つのグラスを見つめていた。片方には、まだ白ワインが残っている。八年ぶりの再会。誰にも明かせなかった秘密を、ようやく一人に打ち明けられた夜だった。『おかえり』ジャンの声が、まだ耳の奥に残っている。けれど、胸の内は不思議なほど落ち着かなかった。そのとき、スマホが震えた。ジャンからだった。『ホテルに戻って、もう一度情報を確認した。明日まで待つつもりだったけど、これは君に早く話さないといけない』続けて、着信が入る。「……もしもし」『エマ。まだ倉庫?』「うん」『今から戻るよ。直接話したい』その声に、いつもの軽さはなかった。「……何があったの?」電話の向こうで、ジャンが短く息を吐く。『組織の検挙が近いという情報が入ってる』エマは、言葉を失った。八年間、ずっと待っていた知らせだった。いつか終わる。名前を隠さず、過去を恐れず、誰かを巻き込む心配をせずに生きられる日が来る。そのために、エレナを死なせた。「……本当に?」『検挙に向けて動いているのは確からしい。ただ、時期までは分からない』「いつ頃なの?」『数週間かもしれないし、もう少しかかるかもしれない。僕が持っているのは捜査情報そのものじゃない。美術市場で起きている異変と、別のルートから聞いた話を合わせたものだから』エマは、ゆっくり息を吐いた。期待してはいけない。そう言い聞かせてきた八年間だった。あと少し。もうすぐ終わる。そんな言葉を信じて、何度も時間だけが過ぎていった。それでも、指先が震えていた。「……それなら、終わるの?」ジャンはすぐには答えなかった。『主要な人間が捕まれば、状況は大きく変わると思う』「……うん」『でも、組織が一日で消えるわけじゃない。資金も、外にいる協力者も残る。君の存在が知られれば、どうなるか』「分かってる」思ったより強い声が出た。電話の向こうが静かになる。「……ごめん。でも、分かってるから」八年前、嫌というほど説明された。危険がなくなったように見えるときほど、自分で安全を判断しないこと。エレナ・カワサキが生きているという事実は、最後まで慎重に扱うこと。「……ただ」エマは、中央に置かれたキャンバスを見た。「もう少しだったのに」『何が?』答
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第142話:もう一度、消える場所

翌朝。ジャンは、約束していた時刻より少し早く倉庫へやって来た。薄いニットにジャケットを羽織り、手には紙袋を提げている。「朝ごはん。まだ食べてないだろうと思って」「……よく分かったね」「昔から、考え事をすると食べなくなるから」エマは苦笑しながら紙袋を受け取った。中には焼きたてのパンと、温かいコーヒーが入っていた。昨夜の電話を切ってから、ほとんど眠れなかった。それでも、こうして目の前にジャンがいると、不思議と少しだけ安心する。「……昨日の話だけど」エマが切り出すと、ジャンは頷いた。「フェスティバルの件だね」作業台に資料を広げる。出資が決まってから、企画規模は大きくなった。開催期間も延び、海外から招く美術関係者も増えている。「この中に、仲介役として利用されている人間がいる可能性がある」ジャンは、欧州からの招待者一覧を指した。「展示そのものとは関係ない。世界中の美術関係者が集まれば、誰と会っていても不自然じゃないからね」「……ここで取引するの?」「分からない。ただ、買い手を探すだけなら十分あり得る」エマは、資料に並んだ名前を見つめた。自分たちが町のために大きくしようとしている催し。その中へ、八年前の事件に繋がる人間が入り込むかもしれない。「……玲は?」ジャンが顔を上げた。「やっぱり最初にそれなんだ」「ジャン」「分かってる」彼は小さく息を吐いた。「玲は今も、最後の一枚を追ってる」胸が強く鳴った。「どこまで?」「かなり近い。買い手として、話がまとまれば彼に渡る可能性がある」「駄目」考えるより先に声が出た。「絶対に駄目。玲には買わせないで」「僕もそのつもりだよ」「だったら——」「だから困ってる」ジャンの声が重なった。「玲は、エレナの作品のことになると異常なくらい執念深い」知っている。最後の一枚以外、公式に認められた作品をすべて手元へ集めた人。八年間、それでも最後の一枚だけを諦めなかった。「それに、今は君がいる」「……私?」「玲が君に夢中なのは、本人以外もみんな分かってるよ」エマは黙った。最近の玲は、以前よりずっと素直に気持ちを伝えてくる。会いたい。知りたい。近くにいたい。拒まれれば引くけれど、諦めたわけではないと分かる距離に、いつもいる。「もし最後の一枚と、エマと、エレナ
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第143話:いなくなる準備

「逃げる場所も、移動する方法も、君がエマとして暮らせる環境も、全部僕が用意する」ジャンは、迷いなく言った。エマは、作業台の向こうに立つ彼を見つめた。八年前なら、その言葉を聞いても信じられなかったかもしれない。けれど、今は違う。ジャンが一度決めたことを、どれほど執念深く実行する人間なのか知っている。「……どうして、そこまでしてくれるの?」ジャンは少しだけ困ったように笑った。「八年ぶりに会えた人に、もう一度死なれたくないから」胸の奥が強く締まった。「それと、僕にも下心はある」「……何?」「安心して。玲が嫌がるような意味だけじゃない」「だけじゃない、って何」「そこは今いい」「良くない」ジャンは笑い、背後のキャンバスへ視線を向けた。その瞬間、表情が変わった。昨夜、初めてこの絵を見たときと同じ、コレクターの目だった。「君の今の絵を、もっと見たい」エマは黙った。「エレナじゃない。朝倉エマが、この先何を描くのか」ジャンの目には、昔から変わらない強い好奇心があった。「僕が君を完全に隠す。その代わり、隠れた先でも描いてほしい」「……それが条件?」「一つはね」「まだあるの?」「あるよ」当然のように言い、ジャンは海の絵を指した。「これも欲しい」「駄目」即答だった。ジャンの眉が上がる。「早いね」「これは駄目」「玲が描いてあるから?」エマは黙った。その沈黙に、ジャンの口元が僅かに歪む。「……本当に面白くないな」「何が?」「何でもない」それでも、無理に交渉を続けようとはしなかった。「この町で描く最後の一枚になるかもしれないからね。君が決めていい」エマは、少し驚いた。「欲しいけど、君の意思を無視してまで手に入れたいわけじゃない」ジャンは、もう一度絵を見る。「これからの君の作品を、一番近くで見られるなら、それくらいは譲るよ」「……すごい自信」「あるよ」「玲に知られたら怒られるよ」「玲には言わないんだろう?」その言葉で、現実に引き戻された。そうだった。玲には言えない。自分がエレナであることも、最後の一枚が危険な場所で動いていることも。そして、この町を離れるかもしれないことも。エマは、長くキャンバスを見つめた。絵の中の玲は、何も知らない。自分がまた、いなくなろうとしていることも。「…
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第144話:待っていた名前

***午前六時半。ニューヨークとの会議を終えた玲は、眼鏡を外して机に置いた。ノートパソコンには、投資先の財務資料と契約条件が並んでいる。夜明け前から続いた会議のせいで、目の奥に鈍い疲れが残っていた。窓の向こうでは、朝日を受けた海が白く輝いている。港町に滞在するようになってから、この景色にも随分慣れた。最初は、仕事の拠点としては不便だと思っていた。東京ならもっと条件のいい場所はいくらでもある。それでも、この町を選んだ理由は一つしかない。玲は、机に伏せていたスマートフォンへ視線を落とした。秘書からの連絡、財団の資料、フェスティバル関係者からの確認事項。その中に、探している名前はなかった。自分でも少し呆れながら、画面を伏せる。その直後、短く振動した。反射的に手に取ったものの、表示されていたのはニューヨークの弁護士だった。「……まったく」思わず笑ってしまった。仕事の連絡を待っていた頃は、こんなことはなかった。今は通知が鳴るたびに、たった一人の名前を探している。朝食を取りながら、届いたメッセージを確認した。その中に、昨夜ジャンから送られてきた連絡がある。『明日、少し時間が取れるようになった。美術館の件で話しておきたいことがあるから、直接会えないかな。帰国は一日延ばすことにしたよ』玲は、もう一度読み返した。珍しい。ジャンは一度決めた予定を、滅多に変えない。まして、ヨーロッパでの仕事を後ろへずらしてまで、この町に残るとは。何か気になる作品でも見つけたのだろうか。そう考えたところで、玲は小さく笑った。ジャンなら十分あり得る。彼は気に入った作品のためなら、飛行機の便を変えることくらい平気でする男だった。『分かりました。午後なら時間を取れます』返信を送り、予定表へ目を戻す。美術館の件であれば、直接話す方が早いこともある。それ以上、気に留めなかった。八時を過ぎる頃には、日本側の秘書との打ち合わせが始まった。国内案件、財団、フェスティバルの進捗確認。夕方からは欧州との会議も入っている。東京にいた頃より、むしろ予定は詰まっていた。移動がない分、会議と会議の間に次の仕事を入れられる。ニューヨークが終われば日本、日本が終わる頃にはヨーロッパが動き出す。気づけば一日中、誰かと話していた。それでも、不思議と以前ほど疲れ
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第145話:退屈ではなくなった日々

昼過ぎ、秘書から翌週の予定について確認が入った。「木曜日の夕食ですが、東京へ戻られるのであれば——」「戻りません」玲は即答した。相手が僅かに言葉を止める。「承知しました。では、オンラインへ変更します」電話を切り、予定表を眺めた。この町に滞在し続ける合理的な理由は、少なくなっていた。財団の出資も決まり、フェスティバルの準備も順調に進んでいる。ほとんどの仕事は東京からでもできる。それでも、帰るという選択肢は一度も頭に浮かばなかった。エマがいる。それだけで十分だった。少し前なら、こんな自分を非合理だと判断しただろう。一人の人間に、これほど時間を使う理由などない。けれど今は、その非効率ささえ悪くないと思っている。玲は、窓の外に広がる海を見た。エレナがいなくなってから、仕事以外の時間はあまりにも均質だった。良いホテルに泊まり、良い食事を取り、世界中の人間と会う。誘われれば食事に出かけることもあったし、誰かと親しくなることもあった。けれど、翌日になればほとんど何も残っていない。昨日と今日を、区別する必要がなかった。それを退屈だとすら思わなかった。人生とは、そういうものなのだと受け入れていたから。今は違う。今日はエマから写真が届いた。昨日は、いつもより少し長く話せた。その前の日は、カフェで彼女の敬語が一瞬だけ崩れた。たったそれだけのことが、日々をまったく違うものにしていた。「……随分、簡単だったんですね」誰もいない部屋で、小さく呟く。自分の人生を、退屈ではなくすることは。午後のフェスティバルの打ち合わせでは、子どもの展示スペースについて確認が行われた。「こちらは朝倉さんからも意見をいただいています」その名前だけで、玲の視線が資料へ向いた。「どこですか」担当者が該当箇所を示す。子どもの作品を、大人の目線に合わせて並べすぎないこと。作品を見るために、大人が少し屈む高さも残すこと。子ども自身が、自分の作品を大人と同じ高さから見る必要はない。短い提案だった。玲は何度か読み直した。「これで進めてください」「承知しました」「本人にも、最終確認をお願いします」担当者が頷く。「朝倉さんへお送りします」「僕にも共有してください」言ってから、少しやりすぎかと思った。けれど、撤回しなかった。自分が出資
last updateLast Updated : 2026-10-21
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第146話:明日、会いに行きます

午後五時二十分。珍しく、一時間だけ予定が空いた。玲は時計を確認した。カフェまで車なら、それほどかからない。十九時からの欧州との会議にも、十分間に合う。ノートパソコンを閉じ、立ち上がろうとしたところで、スマートフォンが鳴った。ジャンだった。『今日は行かない方がいい』玲は眉を寄せた。『何がですか』すぐに返事が来る。『カフェ。エマは今日は休みだよ』玲の指が止まった。『体調ですか』『違う。浜中さんのところでフェスティバルの作業をしてると思う』体調が悪いわけではない。それならいい。そう思った直後、別のことが引っかかった。『なぜジャンが知ってるんですか』既読がつく。少し時間が空いてから、返事が届いた。『奏に聞いた』玲は画面を見つめた。ジャンがエマの予定を知っている。奏も、当然のように知っている。自分だけが知らない。胸の奥に、小さなざらつきが生まれた。以前なら、そんな感情を抱くこと自体が無駄だと思っただろう。今は違った。嫉妬する。会えないことを残念に思う。自分より彼女に近い人間がいることを、少し面白くないと感じる。そんな感情が動くことさえ、どこか新鮮だった。玲はスマートフォンを置いた。今日は行かない。会えないなら、仕事をすればいい。そう思ったのに、五分後にはまたエマとの画面を開いていた。何か送る理由を探している自分に気づく。以前、必要のないときには連絡しないと約束した。けれど最近は、エマの方から海の写真を送ってくれる。仕事とは関係のないことも、少しずつ話すようになった。なら、自分からも理由なく連絡していいのだろうか。そんなことを真剣に考えている。玲は額に手を当てた。「……何をしてるんだろう」けれど、笑っていた。結局、その日は連絡しなかった。十九時からパリ、二十時半からロンドン。二十二時にはニューヨークから追加の確認が入った。最後の会議を終えたのは、二十三時を過ぎた頃だった。玲は窓を開け、テラスへ出た。湿った風が頬を撫で、暗い海から波の音が届く。昔、エレナと海の綺麗な港町へ行ったことがある。その記憶を思い出しても、以前ほど苦しくはなかった。今は、思い出の中から現在へ戻ってこられる。その現在に、エマがいる。玲はスマートフォンを開いた。二十三時十八分。もう遅い。画面を閉
last updateLast Updated : 2026-10-22
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第147話:待っていた人

午後四時を少し過ぎた頃、カフェの窓から差し込む光が、ゆっくりと傾き始めていた。昼間の賑わいが落ち着き、店内には窓際に二組、カウンターに一人だけ客が残っている。コーヒーミルの低い音と、食器が触れ合う乾いた音が、穏やかな午後の空気に溶けていた。エマは洗い終えたグラスを棚へ戻しながら、また入口へ目を向けた。自分で気づくたびに、少し嫌になる。別に、待っているわけではない。昨日、玲から来てもいいかと聞かれ、仕事が終わるならと答えた。それだけのことだった。それなのに、入口のベルが鳴るたび、無意識に顔を上げてしまう。カウンターに置いたスマートフォンが震えた。反射的に手を伸ばしたものの、画面に表示されていたのはフェスティバルの連絡だった。「……何してるの?」背後から声がして振り返ると、仕入れ先との電話を終えた奏が、面白そうにこちらを見ていた。「何が?」「さっきから入口ばっかり見てる」「お客さんが来るからでしょう」「そういうことにしておくよ」奏はそれ以上追及しなかったが、口元には明らかに笑みが残っていた。「……その顔、やめて」「どの顔?」「今の」「難しいな」エマが呆れて目を細めたところで、入口のベルが鳴った。身体が先に反応した。顔を向けると、そこに玲が立っていた。白いシャツに薄手のジャケットを羽織り、片手には仕事用のバッグを持っている。店内を見渡した彼は、カウンターに立つエマを見つけると、僅かに目元を和らげた。その変化が、今のエマにはよく分かる。人前で見せる洗練された笑顔とは違う。ただ、自分に会えたことが嬉しいのだと伝わってくる顔だった。「こんにちは」カウンターへ近づいてきた玲が、いつもの落ち着いた声で言った。「……こんにちは」「本当にいましたね」「いるって言ったでしょう」「はい。なので来ました」あまりにも素直な答えに、エマは思わず視線を落とした。「仕事、終わったんですか?」「終わらせました」「本当に?」「エマさんが条件にしたので」「条件にはしてません。仕事を放り出して来ないでください、という意味です」「分かっています。だから終わらせました」玲は穏やかに笑った。以前なら、もう少し遠回しな言い方をしたはずだった。今は、会いたかったことも、そのために時間を作ったことも、少しも隠そうとしない。「…
last updateLast Updated : 2026-10-23
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第148話:離せなかった袖

夕方になり、店内の客が少しずつ減っていった。奏が奥から戻り、時計を見ながらエマに声をかけた。「休憩、行ってきていいよ」「まだ大丈夫」「朝からちゃんと休んでないでしょう。三十分くらい外に出てきなよ」エマが言い返そうとすると、奏はカウンターに残った食器を引き寄せ、もう話は終わりだという顔をした。「……分かった」エプロンを外していると、隣で玲が立ち上がった。「僕も少し外へ出ます」「どうしてですか?」「エマさんが休憩なので」当然のように言われ、エマは思わず彼を見た。「それ、ついてくるって意味ですか?」「嫌なら、ここで待っています」すぐに返ってきた答えに、言葉が詰まった。玲は決して無理に踏み込んでこない。近づこうとするたび、必ずエマが断れる余地を残す。そして最近は、エマが本当には嫌がっていないことも、少しずつ分かり始めている。「……海まで行くだけですよ」「はい」「三十分しかありません」「十分です」嬉しそうに答える玲から目を逸らし、エマは先に店を出た。外には、夕方の柔らかな光が広がっていた。昼間の暑さは和らぎ、潮を含んだ風が通りを抜けていく。海へ続く坂道には長い影が伸び、遠くで漁船のエンジン音が聞こえた。二人は並んで歩き始めた。玲は肩一つ分ほど距離を空けている。近づきすぎないように、意識しているのだろう。その気遣いに気づいた瞬間、エマの胸が痛んだ。あと何度、こうして歩けるのだろう。ジャンには、玲の注意を自分へ向けておいてほしいと言われている。最後の一枚から遠ざけ、危険に近づかせないために。だから、少しくらい距離を縮めても理由はある。そう考えながら、エマは歩幅を僅かに横へずらした。二人の距離が狭くなる。玲も気づいたのだろう。ほんの少し歩調が変わったが、何も言わなかった。やがて、歩く拍子に手の甲が触れた。一度だけの、偶然のような接触だった。玲の指が僅かに動く。エマも手を引かなかった。「……玲さん」「はい」「最近、遠慮がなくなりましたよね」玲がこちらを見る。「嫌ですか?」「すぐそれを聞きますね」「大事なので」真っ直ぐな答えだった。「嫌なら、やめます」エマは前を向いた。夕日を受けた海が、細かな光を散らしている。「……嫌とは言ってません」隣が静かになった。気になって横を見ると、玲
last updateLast Updated : 2026-10-24
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第149話:明日も、会いたい

海沿いの低い防波堤まで来たところで、エマはようやく玲の袖から手を離した。玲は何も言わなかったが、離れた場所を一度だけ見ていた。その仕草が少し可笑しくて、同時に胸が痛んだ。二人は防波堤のそばに並び、夕暮れの海を眺めた。沖へ向かう小さな船が、光の帯を横切っていく。水平線の近くでは空が淡い橙色に染まり、波が寄せるたび、濡れた石の表面が静かに輝いた。「綺麗ですね」玲が言った。「今日は特に」エマも頷く。「この町に来てから、海を見るようになりました」玲は穏やかに続けた。「東京でも見られるでしょう?」「そういう意味ではなくて。以前は、わざわざ見ようと思わなかったんです」エマは横顔を見た。「今は?」「見ます」「どうして?」玲の視線が、海からエマへ移った。聞くべきではなかった。そう思ったときには、もう遅かった。「エマさんが見るので」胸が強く鳴った。「あなたが綺麗だと言うものを、僕もちゃんと見てみようと思うようになりました」エマは何も言えなかった。愛しているという言葉よりも、ずっと深く胸に届いた気がした。誰かの存在が、一人の人間の世界の見え方を変えてしまう。自分は玲にとって、またそんな存在になり始めている。そして玲もまた、エマの世界を変えていた。以前なら、海は一人で眺めるものだった。静かな暮らしの中で、誰にも知られずに過ごすための場所。けれど今は、この景色を見せたい相手がいる。同じ夕日を眺め、綺麗だと伝えたい人がいる。それが、どれほど危ういことなのかも分かっていた。「……玲さん」「はい」「私……」言いかけて、止まった。いなくなる。その言葉が、喉の奥まで上がってきていた。ごめんなさい。それも、まだ言えない。「何でしょう?」玲は急かさず、続きを待っている。エマは目を伏せた。「最近、あなたが私に本当に好意を持っていることが、伝わります」玲の表情が僅かに変わった。数秒の沈黙のあと、口元が柔らかく緩む。「良かったです」予想外の返事に、エマは顔を上げた。「良かった?」「はい。隠していないので」玲はあっさり答えた。「むしろ、伝わっていなかったら困ります」「……普通、少しは恥ずかしがるところじゃないですか?」「かなり好きなので」「玲さん」「はい」「今、言わなくていいです」「すみません
last updateLast Updated : 2026-10-25
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第150話:知らない距離

ジャンとの打ち合わせは、午後三時からだった。フェスティバルの開催まで、残り一か月半を切っている。財団からの出資が決まったことで企画の規模は広がり。海外から招聘する美術関係者も当初の予定を大きく上回っていた。作品の輸送や保険、展示室の警備体制に加えて。会期中のレセプションや招待客の調整まで、確認すべきことは増える一方だった。海沿いの美術館に設けられた会議室では、窓の外から午後の光が差し込み、長いテーブルの上に広げた図面を白く照らしていた。「ここの照明、前より落とした?」向かいに座るジャンが、展示図面の一角を指した。「黒木さんから提案があったそうです。実際の空間を見たら、僕もこちらの方がいいと思いました」「うん。作品の輪郭が綺麗に出ると思う」ジャンは赤いペンで小さく印をつけ、次のページを捲った。それからも打ち合わせは順調に進んだ。作品の配置、来場者の動線、海外から到着する作品の搬入日程。ジャンは仕事になると細部まで妥協せず、玲も同じだった。互いに必要以上の説明をしないため、判断は早い。それなのに、玲は途中から妙な違和感を覚えていた。ジャンの態度は普段と変わらない。図面を見るときに少し首を傾ける癖も、玲の意見が気に入らなければ遠慮なく指摘するところも、いつも通りだった。何が違うのだろう。資料を捲りながら考えて、ようやく気づいた。エマの話をしない。この町へ来てから、ジャンは何かにつけて彼女の名前を出していた。作品の選び方が面白いだとか、フランス語で話すと遠慮がなくなるだとか。玲が知らないエマの一面を見つけるたび、わざわざ報告してくるようなところさえあった。そのたびに玲が面白くない顔をするのを、ジャンも分かっていたはずだ。だからこそ、余計に話していたのかもしれない。ところが、ここ数日は一度もエマの名前が出てこない。玲は図面から顔を上げ、ジャンの横顔を見た。何かあったのだろうか。仲違いでもしたのなら、自分にとっては悪い話ではない。そう考えた直後、別の可能性が浮かんだ。あるいは、逆なのかもしれない。わざわざ自分に話す必要がないほど、二人の間で何かが変わったのだとしたら。胸の奥に、小さな不快感が生まれた。くだらない。そう思いながらも、簡単には消えてくれなかった。エマとの距離は、確実に縮まっている。昨日は彼
last updateLast Updated : 2026-10-26
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