練習後の筋肉は、いつもより重く感じられた。 春の夕暮れ、練習場からマンションまでの道を歩きながら、蓮は無意識にポケットの中で指先を遊ばせていた。そこにあるはずの予備の鍵は、今はもうない。代わりに、自分ではない誰かが、あのドアの向こうで準備を整えているはずだった。 自宅の前に立つと、ドアの隙間から換気扇が回る低い振動音が聞こえてきた。いつもはしないはずの生活音。蓮は一度呼吸を整え、ノブに手をかけた。 カチャリ、と音がしてドアが開く。「ただいま」「おかえり。……ちょうど良かったわ。いま出発前のスムージーができたとこ」 リビングに入ると、キッチンには既に椿の姿があった。彼女は自分の制服の上にエプロンを締め、手際よくグラスをカウンターに置いた。 自分がいない間に彼女がこの部屋に入り、当然のようにキッチンに立っている。その光景を、蓮は合理的な安心感とともに受け止めていた。「助かる。……予定より帰るのが少し遅くなった」「いいわよ。……それより、これ。出かける前に必ず飲み干してね」 椿が差し出したのは、一杯の深い緑色の液体だった。ドロリとしていて、表面には細かな繊維が浮いている。部屋に漂うのは、野菜の青臭さと、わずかな柑橘系の酸味が混じった独特の匂いだ。「……なんだ、これ」「今日の調整。これから焼肉に行くんでしょ? 」 蓮はスポーツバッグを床に置き、ソファに腰を下ろした。加湿器の静かな蒸気が、練習で高ぶった神経を鎮めていく。しかし、目の前のグラスからは逃げられない。「脂質は極力控えるつもりだ。肉も赤身中心にする」「栄養的には正解だけど、せっかく行くなら最大限楽しまなきゃ損よ。天根くんが食事を楽しめるように、こうして作っているわけだしね。 だから、食物繊維を先に入れておくの。焼肉だと肉だけに偏りやすいし、タレや白米で糖質も入るでしょう。先に野菜と水分を入れておけば、食べ方も少し落ち着くし、胃腸への負担も減らせる」
最後更新 : 2026-08-11 閱讀更多