Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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20食目

 練習後の筋肉は、いつもより重く感じられた。 春の夕暮れ、練習場からマンションまでの道を歩きながら、蓮は無意識にポケットの中で指先を遊ばせていた。そこにあるはずの予備の鍵は、今はもうない。代わりに、自分ではない誰かが、あのドアの向こうで準備を整えているはずだった。 自宅の前に立つと、ドアの隙間から換気扇が回る低い振動音が聞こえてきた。いつもはしないはずの生活音。蓮は一度呼吸を整え、ノブに手をかけた。 カチャリ、と音がしてドアが開く。「ただいま」「おかえり。……ちょうど良かったわ。いま出発前のスムージーができたとこ」 リビングに入ると、キッチンには既に椿の姿があった。彼女は自分の制服の上にエプロンを締め、手際よくグラスをカウンターに置いた。 自分がいない間に彼女がこの部屋に入り、当然のようにキッチンに立っている。その光景を、蓮は合理的な安心感とともに受け止めていた。「助かる。……予定より帰るのが少し遅くなった」「いいわよ。……それより、これ。出かける前に必ず飲み干してね」 椿が差し出したのは、一杯の深い緑色の液体だった。ドロリとしていて、表面には細かな繊維が浮いている。部屋に漂うのは、野菜の青臭さと、わずかな柑橘系の酸味が混じった独特の匂いだ。「……なんだ、これ」「今日の調整。これから焼肉に行くんでしょ? 」 蓮はスポーツバッグを床に置き、ソファに腰を下ろした。加湿器の静かな蒸気が、練習で高ぶった神経を鎮めていく。しかし、目の前のグラスからは逃げられない。「脂質は極力控えるつもりだ。肉も赤身中心にする」「栄養的には正解だけど、せっかく行くなら最大限楽しまなきゃ損よ。天根くんが食事を楽しめるように、こうして作っているわけだしね。 だから、食物繊維を先に入れておくの。焼肉だと肉だけに偏りやすいし、タレや白米で糖質も入るでしょう。先に野菜と水分を入れておけば、食べ方も少し落ち着くし、胃腸への負担も減らせる」
last updateDernière mise à jour : 2026-08-11
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21食目

 駅前の商店街の一角にある焼肉店「十々」の暖簾をくぐると、むせ返るような肉の焼ける匂いと、威勢の良い掛け声が蓮を迎えた。 奥の座敷では、先に入っていたチームメイトたちが陣取っている。春先の冷たい外気で冷えた肌に、炭火の熱気が心地よくまとわりついた。「おっ、天根! 遅かったじゃねえか、こっち座れよ!」 桐生が、トングを片手に大きく手を振った。蓮はその隣の空いたスペースに滑り込み、手際よくおしぼりで手を拭いた。 テーブルの上には、既に数皿のタン塩と、山盛りのサンチュが並んでいる。網の上では薄切りのタンが弾けるような音を立て、脂が炭に落ちては小さな炎を上げていた。「すみません、少し遅れました」「いいってことよ。俺らもさっき入ったとこだ。そんなことより今日は祝勝会だ、たらふく食おうぜ!」 桐生がドサリと、焼き上がったばかりのタンを蓮の小皿に放り込む。 蓮は箸を取り、まずは椿の言いつけ通り、サンチュを一葉手に取った。その上にタンを乗せ、レモン汁を少量つける。 口に運ぶと、先に入れたスムージーのおかげか、空腹に任せてかき込む感じはなかった。タンの適度な弾力と、サンチュのみずみずしい苦味。レモンの酸味が脂を切り、驚くほど軽やかに喉を通っていく。「……美味いですね」「だろ? ここのタンは絶品なんだよ」 蓮は次々と肉を焼いていった。 これまでの自分一人だけの生活なら、脂質やカロリーを気にして箸を止めていたかもしれない。 だが今は違う。 椿が整えてくれた準備があるから、蓮は脂質や量を恐れるのではなく、食べ方を選べていた。 カルビやロース、ハラミといった重い部位も、椿に教わった通り、極力塩で味付けされたものを選び、必ず同量以上の野菜と一緒に口にする。 周囲では桐生たちが中学時代の遠征の思い出話や、次の大会に向けた展望を熱く語り合っている。蓮はその輪の中に加わり、時折頷きながら、プロを目指す上での規律とはまた違う、チームという集団が持つ独特の熱量を感じていた。 だが、宴が中盤に差し掛かった頃。
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22食目

 四月の朝の空気は、まだ肌を刺すように鋭い。  カーテンの隙間から差し込む朝日が、整然と片付けられたリビングを照らしていた。蓮は定刻に目を覚まし、軽く身体を動かして昨夜の状態を確認した。  胃に重さはない。むしろ、いつもより身体が温かく、エネルギーが満ちているような感覚さえある。昨夜の食事と、その前の準備が正しく機能した証拠だった。 午前七時。  玄関で、聞き慣れた金属の音が響いた。 カチャリ、と鍵の回る音がして、ドアが開く。「おはよう、天根くん。顔色は良さそうね」 入ってきたのは、学校の制服にカーディガンを羽織った椿だった。彼女は入ってくるなり、蓮の顔をじっと覗き込んだ。その目は、わずかな体調の変化も見逃さないほど真剣だった。「おはよう、橘さん。調子はいいよ。胃もたれもしてない」「そう。それならよかった  ……昨日の和え物、ちゃんと食べた?」「ああ。最後にあれを食べたおかげで、寝起きの口の中もスッキリしてたよ。ありがとう」 蓮が感謝を伝えると、椿はいつものノートに数値を書き込みながら、少しだけペンを動かすスピードを速めた。「そう。それは良かったわ。今日の朝食は、昨日の油の摂取を考慮して、消化に良くて栄養価の高い献立にするから。座って待ってて、すぐできるわ」 椿はキッチンへ向かい、手際よく準備を始めた。  まな板の上で青菜が刻まれる音。鍋から立ち上る、出汁の優しい香り。昨夜の店の熱狂とは正反対の、静かで規則正しい時間が流れていく。「橘さん、昨日は洗い物までしてくれたんだな。キッチン、綺麗だった」 蓮がリビングの椅子に座りながら声をかけると、椿の背中が一瞬だけ動いた。「当然でしょ。食材を放置して、生活環境を汚すわけにはいかないわ。それに、昨日のミキサーは洗うのが手間なのよ。天根くんが帰ってからやろうとすると寝る時間が遅くなっちゃうでしょ」「そうか、ありがとう。次は、俺がやるよ。橘さんにそこまでさせるのは違うしな」「いいわよ。あなたは自分の身体を最高の状態に保つことだけ考えてなさ
last updateDernière mise à jour : 2026-08-11
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23食目

 五月の午後の陽光は、すでに初夏の気配を孕んでグラウンドの人工芝を熱していた。 ピッチの上では、鋭いホイッスルの音と共に、肉体と肉体がぶつかり合う鈍い音が絶えず響いている。インターハイ予選を一ヶ月後に控え、Aチームの練習は実戦形式のメニューが組まれていた。 蓮は相手ディフェンスの網の目に身を置きながら、絶えず首を振って周囲をスキャンしていた。バイタルエリアにわずかな隙間が生じた瞬間、彼はそこへ滑り込み、味方からの縦パスを呼び込む。 足首に触れたボールは、複雑な回転を殺され、吸い付くようにその場に収まった。一瞬の静止。そこから放たれたラストパスは、ディフェンダーの視界の外を通り、走り込んだ味方の足元へ完璧な精度で届けられた。「ナイス、天根!」 声を上げたのは、二年生の桐生だった。ネットを揺らした桐生が、汗を拭いながら親指を立てる。蓮は短く頷き、すぐに自陣のポジションへと戻った。 彼の動きは、練習の終盤でも、蓮の判断は鈍らなかった。 足元の精度も、首を振る回数も、最初のメニューから大きく落ちていなかった。 同時刻。 西日が差し込む専門教室の窓際で、椿は一冊のノートに向き合っていた。 周囲では同じ課程を歩む生徒たちが、実習の片付けや放談に興じている。その喧騒を遮断するように、椿のペン先は迷いなく動いていた。そこには蓮から共有された今日の練習メニューと、それに基づき算出された推定消費エネルギー、そして脳のパフォーマンスを維持するための栄養管理の計画が、緻密に刻まれている。 その時、机の端に細長い影が落ちた。「つばき、最近ずっとそれやってるね? 放課後なのに熱心だねー」 声をかけてきたのは、友人の陽菜だった。吹奏楽部の練習に向かうべく楽器ケースを肩にかけた彼女は、覗き込むような仕草で椿の顔を覗き込んだ。「陽菜。……別に、ただの調べ物よ」 椿は表情を崩さず、静かにノートを閉じると、鞄の奥へ滑り込ませた。だが、陽菜の口角は面白そうに上がっている。悪意はないが、隠し事を見つけた時の子供のような純粋な好奇心がそこにはあった。
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24食目

 五月の柔らかな夜気が、マンションのベランダを吹き抜けていく。 四〇一号室のダイニングでは、食後の静かな時間が流れていた。 シンクでは、蓮が蛇口をひねり、慣れた手つきで食器を洗っていた。スポンジが皿をなでる音と、蛇口から流れる水の音。椿はカウンターの傍らで、蓮から共有されたタクティクスボードの図面を見つめながら、明日の練習強度を再確認している。後片付けを終えた蓮が、濡れた手を拭きながら椿の隣に腰を下ろした。「……やっぱり、明日も陽菜が何か言ってくるかしら」 椿は、水の音が止まった静寂の中で独り言のように漏らした。 蓮は視線をボードに向けたまま、短く応じる。「気になるなら、釘を刺しておけばいい」「それができれば苦労しないわよ。陽菜は、私がムキになればなるほど面白がるタイプなんだから」「なら、放っておけばいいんじゃないか?プロを目指すためにサポートを受けるのは、欧州では当たり前の選択肢だ。それがたまたま隣人で、同じ高校の生徒だというだけだろ。説明がつかないことは何もない」「それを世間では、たまたまで済ませないのよ……」 蓮の言うことは正しい。しかし、彼の理屈は、陽菜のような勘で動く人間には通用しないことを椿は知っていた。 翌日。 放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、椿はいつものように教室を後にした。 校門を抜け、駅前の大きなスーパーへ向かう。今日は、練習の強度が徐々に上がっている蓮のために、良質なタンパク質と鉄分を補給できるカツオを仕入れる予定だった。 自動ドアをくぐり、カゴを取ろうとしたその時、背後から軽やかな足音が近づいてきた。「つーばき! やっぱりここだ」 振り返ると、吹奏楽部の練習があるはずの陽菜が、楽器ケースを肩にかけたまま立っていた。「陽菜。……練習は?」「今日は個人練習だけだから、ちょっとサボり。それより、椿の買い出しに興味あってさ。付き合っていいでしょ?」 陽菜は拒否する隙を与えず、椿の隣に
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25食目

 午後の日差しが、アスファルトの熱を孕んで肌にまとわりつく。校門を出た椿の隣には、弾むような足取りの陽菜がいた。吹奏楽部の練習を完全に休み、軽装で歩く彼女からは、好奇心の昂ぶりが隠しようもなく漏れ出している。対照的に、椿の指先はエコバッグの持ち手を無意識に強く握りしめていた。「ねえ椿、そんなに緊張しなくても減るもんじゃないし。私はただ、噂の天才プレーヤーさんを支える献立の裏側を拝みたいだけだよ」「……その言い方、本当にやめて。別に、そんな大層なものじゃないわよ」 椿は前を見据えたまま、短く応じる。言葉とは裏腹に、彼女の脳内ではすでに今日の献立のシミュレーションが始まっていた。インターハイ予選まで一ヶ月。昨日の蓮の動きには、わずかながら判断の遅れが見えた。それは肉体的な疲労だけでなく、司令塔として戦況をスキャンし続ける脳の疲労の現れ。今日の夕食は、練習後でも箸が進むことと、寝る前に身体を重くしすぎないことを優先する必要があった。 スーパーの自動ドアが開くと、冷気が一気に二人を包み込む。椿はカゴを手に取り、精肉コーナーの奥深く、内臓肉の棚へと迷いなく足を向けた。「え、ちょっと椿。最初に行くのそこ? 普通、ひき肉とかバラ肉とかじゃないの」 陽菜が眉をひそめて覗き込んだ先には、パックに詰められた鮮烈な赤色の鶏レバーがあった。椿はそれを一つずつ手に取り、蛍光灯に透かして色味を確認する。「……今日はこれが必要なの。練習強度が上がっているから、鉄分とビタミンB群は意識して補っておきたいの。これ以上に効率的な食材はないもの。見て、こっちの方がハリがあって色が明るいでしょ? 鮮度が命なのよ」「うわぁ……。レバーの鮮度を熱弁する女子高生、初めて見たかも。でも、それって下処理とか大変じゃない?」「それが私の仕事だから」 椿は淡々と答え、次に野菜コーナーへ。小松菜の束を手に取り、茎の太さと葉の色の濃さを吟味する。カルシウムと鉄分を補強し、レバーのクセを抑えるための名脇役だ。さらに、疲労感のある日でも箸が進むよう、香りの強いニラと、辛味の穏やかな
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26食目

 常盤台高校サッカー部のグラウンドを包む夕闇は、練習の終盤、最も密度を増す。  照明が灯り、白いボールが放物線を描く中、練習の締めくくりとなるミニゲームが佳境を迎えていた。  Aチームの攻撃陣。右サイドの深い位置で動き直した桐生は、マークを外す一瞬のステップを踏みながら、中央のバイタルエリアへと視線を送った。そこには、ディフェンスの網の目に沈むようにして、天根蓮が立っている。(……まだ、出ねぇか) 桐生は一瞬、走り込むコースを探した。だが、相手ディフェンスの寄せは速い。ボランチとセンターバックの間に、針の穴を通すような隙間が一瞬だけ生まれた、その刹那だった。 ――来た。 思考よりも早く、視界の端で白い閃光が走った。 地を這うような鋭いグラウンダー。芝を切り裂く音が聞こえてきそうなほど、回転の効いた重いパスだ。(速い……ッ!) 桐生は反射的に身体を投げ出すように走り込んだ。 何度も受けてきた、蓮のパスだ。だから、通ることだけは確信できる。 だが、今の一本は、桐生の筋肉が走り出す、その直前。すでにボールは、彼が向かうはずのスペースへと送り出されていた。  桐生は吸い付くようなトラップで勢いを殺し、そのまま反転してシュートを叩き込む。 バシュッ、と小気味よい音が響き、ゴールネットが激しく揺れた。「ナイス、桐生さん!」「今のパス、エグいな……」  周囲から上がる歓声。桐生は軽く手を上げて応えたが、その視線はすぐにパスの出所――センターサークル付近で、呼吸一つ乱さず立っている天根蓮へと向けられた。 全体練習が終わり、各自がボールやマーカーを片付け始める時間。桐生は首にタオルをかけ、ベンチでスパイクを脱いでいる蓮に歩み寄った。「天根」「……はい?」  蓮が顔を上げる。その表情は相変わらず鉄面皮で、激しいミニゲームの後だというのに、肌には
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27食目

 六月。インターハイ予選が始まった。 県営スタジアムのスタンドには、常盤台高校の応援が広がっていた。太鼓の音、拍手、名前を呼ぶ声。初夏の熱を含んだ人工芝の照り返しが、ピッチの上に立つ選手たちの足元を白く浮かび上がらせている。 その端で、椿は膝の上にノートを広げていた。  視線の先にいるのは、天根蓮ただ一人。 試合そのものを見ていないわけではない。けれど、椿が追っているのは、ボールの行方よりも、その前後にある身体の動きだった。 接触を受けた後の立ち上がり。  パスを出す直前の首の振り方。  スプリントの後、次のプレーへ移るまでの間。  気温、風、給水のタイミング、汗の量。 サッカーの戦術は、まだ分からないことの方が多い。相手の守備が何を狙っているのか、蓮がどの場所を空けようとしているのか、すべてを正しく読めるわけではない。 だから、分かるものだけを見る。 後半二十分を過ぎても、蓮の首は止まらない。  後半三十分を過ぎても、パスの前に置く足の角度は大きく崩れない。  相手に肩を当てられた後も、立ち直りの一歩目が遅れない。 椿はペン先で、小さく印をつけた。 補食のタイミングは、大きく外していない。  水分量も、今のところ足りている。  ただ、後半に入ってから、右へ切り返した後の沈み込みが一度だけ深くなった。 椿はそこにも、短く丸をつけた。 疲労か。  踏み方の癖か。  それとも、連戦に入る前から少し残っていた張りなのか。 まだ判断するには早い。 けれど、見なかったことにしていい差ではなかった。 試合は常盤台が押し込んでいた。 蓮が中央で受けるたび、相手の守備が一瞬だけ止まる。そこから左右へ逃がすのか、桐生へ縦に差すのか、自分で運ぶのか。蓮が選択する前に、相手は選ばされている。 後半、蓮のスルーパスが桐生の足元へ通った。 桐生がそのまま抜け出し、ゴールネットを揺らす。スタンドが大きく揺れ、隣の生徒が立ち
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28食目

 準決勝も、常盤台が主導権を握った。  相手は昨年のインターハイ予選準優勝校。県内でも守備の組織力に定評があり、前線から無理に奪いに来るのではなく、最終ラインの前に人数をかけて、蓮から出る最後の一本を消しにきた。 蓮に触らせないのではない。  蓮に触らせた後を、消す。 桐生への縦。  両サイドの背後。  ボランチが上がる内側の道。 常盤台が使いたい場所に、相手は先回りして人を置いていた。  それでも、試合は常盤台のものだった。 蓮が中央で受ける。相手の一人が前を塞ぎ、もう一人が桐生への線を切る。左サイドが絞れば、右が空く。右が閉じれば、足元に下りたボランチが前を向く。 一ヶ月前なら、そこで誰かが迷っていたかもしれない。  けれど今の常盤台は、蓮の足元だけを見ていない。 桐生は、ボールが出る前に走る。  両サイドは、蓮が顔を上げる前に幅を取り直す。  ボランチは、蓮が潰される前提で次の受け口を作る。 来るかもしれない、ではない。  来る前提で動く。 その一拍の早さが、相手の守備を少しずつずらしていった。 前半二十八分。  中央で蓮が受けた瞬間、相手の守備は桐生への縦を消した。蓮は一度そちらを見た。相手のセンターバックが半歩下がる。その半歩で、左サイドの選手が内側へ入る道が空いた。 蓮の左足が、ほとんど振り抜かれないまま動いた。  低く、速いボールが、相手ボランチの背中側を抜ける。 左サイドから中へ入った選手が、ペナルティエリアの角でそれを受け、ワンタッチで折り返す。桐生が潰れ役になって相手センターバックを引きつけ、その後ろに飛び込んだ二列目が合わせ、ネットが揺れた。 スタンドのあちこちから、短い驚きの声が漏れた。「なんだよあれ……チートだろ」 「好き勝手動くFWとそこに合わせるトップ下とか、どうなってんだよ」 「あんなん県内で止められる高校いないだろ……」 このゴールで常盤台は二対〇とリー
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29食目

 前半十分。  蓮に最初の楔が入る。 誠和の中盤が一気に寄せた。背後にはセンターバックが待っている。桐生への線は閉じられ、右サイドへの逃げ道も塞がれている。 蓮は無理に前を向かなかった。 右足でボールを止める。  身体を半分だけ開く。  寄せてきた相手の足が届く前に、後ろへ落とす。 受けたボランチが、逆サイドへ展開した。  誠和の守備が横へ動く間に、蓮はもう次の場所へ移動していた。 前半の常盤台は、焦らなかった。  誠和が蓮を警戒するなら、その分だけ別の場所が空く。蓮に三人分の意識が向けば、どこかで一人が余る。 蓮がすべてを決める必要はない。  蓮がいることで、周囲が先に動ける。 前半二十四分。 右サイドでボールを持ったウイングが、縦へ行くと見せて内側へ戻す。そこに蓮がいた。誠和の二人が寄せる。桐生への線は切られている。 蓮は顔を上げた。  ほんの一瞬、桐生を見た。 誠和のセンターバックが、半歩だけそちらへ重心を寄せる。  その裏で、左サイドの選手が外から内へ入っていた。 蓮のパスは、相手の視界の外を通った。 受けた左サイドが折り返す。  桐生がニアへ走り、相手を引きつける。  ファーへ入ったボランチが押し込む。 一対〇。 常盤台が先制した。  スタンドが揺れ、テレビカメラが得点者を追う。 椿は、変わらず蓮を見ていた。 得点に絡んだ後の戻り。  給水までの呼吸。  接触後の立ち上がり。 前半の終盤になっても、首を振る回数は大きく落ちていない。判断の前に、身体が止まっていない。 椿はノートに書き込む。  ――前半終了時、集中維持。給水量、予定通り。 後半に入っても、常盤台は主導権を渡さなかった。 後半二十一分。 蓮が中央で背負う。相手が背中から張りつく。前は切られてい
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