さよならを告げたら、夫がすがってきました의 모든 챕터: 챕터 1 - 챕터 10

10 챕터

第1話

「御堂さん、すぐ子宮内容除去の処置を行う必要があります。ご家族は来ていますか?」看護師に何度もそう尋ねられ、御堂澄花(みどう すみか)は車椅子に座ったまま、自分の下半身を染める血を見つめ、それからスマートフォンに目を落とした。事故で潰れた車体に挟まれ、病院に救急搬送されるまでの間、彼女は夫の御堂柊吾(みどう しゅうご)に三十回以上も電話をかけていた。けれど、そのたびに返ってくるのは、無機質な呼び出し音か、通話を切られたあとの自動音声だけだった。今朝、澄花はタクシーで妊婦健診に向かう途中、赤いマセラティにぶつけられ、車は横転した末に川に転落した。相手の運転手は、すぐに迎えに来た者によって病院へ運ばれた。なのに澄花だけは、どうしても夫の柊吾と連絡がつかず、冷たい川の中に二時間も取り残された末、ようやく救助隊に助け出された。そして救助されたときにはすでに破水しており、お腹の中の胎児の心拍はすでに停止していた。澄花の涙はもう枯れ果て、泣くことさえできなかった。「御堂さん?」澄花は我に返った。全身は血と汚れにまみれ、下半身は羊水と血でぐっしょり濡れ、見るも無残な姿になっていた。唇を震わせながらも、彼女は最後の気丈さを保とうとした。「夫は……たぶん何か用事で忙しいんだと思います。私が自分で署名するのでは、だめですか?」「申し訳ありません。交通事故に遭われたうえ、軽い脳震盪も起こしています。手術後は安静にして経過を見る必要がありますので、ご家族の署名と立ち会いが必要なんです。もう一度連絡してみていただけませんか?」「分かりました。もう一度かけてみます」看護師が立ち去るのを見届けると、澄花は黒いロングダウンコートを手に取り、ふらつきながら立ち上がって羽織った。この病院がだめなら、家族の署名を必要としない別の病院に行くつもりだった。スマートフォンをポケットに入れようとしたとき、前回の妊婦健診の検査結果が指先に触れた。あのときはまだ、赤ちゃんは生きていた。病室を出た澄花の耳に、看護師たちの話し声が聞こえてきた。「ねえ、隣のVIP病室に誰が入院してるか知ってる?」「誰?」「九条家のお嬢様、九条莉央(くじょう りお)よ。金融、モータースポーツ、テクノロジーの各分野で、いくつもの名だたる賞を受賞してる人。
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第2話

澄花の顔は真っ青になった。妊娠してからというもの、彼女は御堂グループ傘下の病院で健診を受けるよう手配されていた。そして今日も、その健診に向かう途中で事故に遭った。柊吾がいつまで経っても電話に出なかったため、澄花は救助を待ち続けるしかなかった。そしてようやく救助されたときには、お腹の中の子供たちはすでに命を失っていた。ついさっきまで、彼女のお腹の中には、命を失った二人の子供がいた。その状態で病院に運ばれ、そこで目にしたのは、子供たちの命を奪う原因となった女を大切そうに守る柊吾の姿だった。それなのに彼は、澄花が自分のあとをつけて病院まで来たとでも思っているのだろうか。胸が締めつけられるように痛み、澄花は震える声で言った。「後をつけていたわけじゃない。あの病院にいたのは……」「くだらない小細工はやめろ。子供が生まれたら、お前とは離婚する。それで終わりだ」最後まで言わせることなく、男の淡々とした声が静かに遮った。澄花は一瞬、言葉を失った。離婚が避けられないことくらい、自分にも分かっていた。それでも柊吾本人の口から、これほどあっさりと告げられると、胸はどうしようもなく痛んだ。あれほど長い間彼だけを想い、何年もその背中を追い続けてきたのだ。今すぐ何も感じなくなれと言われても、そんなことができるはずがない。それでも澄花は、子供のことだけは伝えようと口を開いた。「そこまで待つ必要はない。今すぐ離婚できるから。だって……」子供はもう、いない。たったそれだけの言葉だった。けれど、その一言は一本の電話に遮られた。電話口から漏れ聞こえる声は、宗一郎のものらしかった。おそらく、澄花に本家に来て掃除をしろと催促しているのだろう。家政婦のように。案の定、柊吾は電話を切ると立ち上がり、澄花にもついてくるよう視線で促した。彼女は行きたくなかった。けれど、どうしても面と向かってはっきりさせておかなければならないことがある。もう二度と、本家で家政婦同然に働くつもりはなかった。あとを追って外に出ると、柊吾は運転席に乗り込んだ。澄花は反射的に助手席のドアに手を伸ばした。しかし、開けかけた瞬間、男の冷たい声が飛んできた。「後ろに乗れ」澄花は一瞬固まった。男にとって助手席に乗せるのは、特別な女だけ
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第3話

澄花の顔から、さっと血の気が引いた。部屋を出ると、着替えるよう嘘をついた家政婦が、口元を押さえてくすくす笑っているのが目に入った。澄花は何も言わず、手を上げるなりその頬を平手打ちした。「パシン!」乾いた音が響く。「何するんですか!」信じられないといった顔をする家政婦を、澄花は冷ややかに見つめた。この家政婦が柊吾の母・御堂佳代子(みどう かよこ)の息のかかった人間で、普段から陰で澄花の悪口を散々言っていることは知っている。だが今の澄花には、もう何もかもどうでもよかった。「好きなだけ告げ口してくればいいわ!」そう言い捨てると、澄花は踵を返した。背後で家政婦が悪態をつきながら、柊吾に言いつけてやると喚いていたが、まるで気にも留めなかった。……翌朝。柊吾は家に帰ってこなかった。澄花はもう慣れていたし、気にすることもなく、起きると会社へ向かった。退職願を印刷し、御堂美玲(みどう みれい)に提出した。美玲は柊吾の社長補佐であり、妹でもある。澄花を含む秘書やアシスタントたちを取りまとめている人物だった。「辞めるの?」美玲は退職願にざっと目を通しただけで、さほど気にも留めなかった。それどころか、どこか可笑しそうですらあった。会社に長く勤める古参社員なら誰でも、二年前、澄花が柊吾と一夜を共にしたことをきっかけに社長夫人の座を手に入れたことを知っている。今度はお腹に子供ができたのをいいことに、仕事を辞めて家で悠々自適の奥様生活でも送るつもりなのだろうか。容姿も平凡なくせに恥知らず。皆に嫌われるのも当然だった。「退職手続きと引き継ぎは一週間以内に終わらせて。それが済めば辞めていいわ」一週間では長すぎる。ただ御堂グループは、ほかの会社とは事情が違った。柊吾が御堂グループを引き継いだ当時、会社はすでに立て直しようがないほどの惨状に陥っていた。彼は御堂グループに戻ると、大胆な改革に乗り出した。わずか半年で混乱していた状況を立て直したばかりか、資産を倍増させ、さらには複数の大手上場企業を傘下に収めるまでになった。たった一年で、御堂グループの事業は海外にまで拡大した。当時の澄花は、その実績を知れば知るほど彼への憧れを募らせ、ますます好きになっていった。だが、その華々しい実績の
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第4話

澄花が会社を出るとき、背後から美玲の耳を塞ぎたくなるような罵声が聞こえてきた。きっと柊吾のところへ行って、告げ口するつもりなのだろう。以前の澄花なら、柊吾に少しでも悪く思われたくなくて、美玲や佳代子にどれほどいびられ、陰で悪口を言われても、黙って耐えていた。それどころか、自分からへりくだって機嫌を取ることさえあった。けれど、もうそんなことをするつもりはない。ただ、柊吾を五年間も愛してきたのだ。手放そうと決めたからといって、そう簡単にすべての想いを消し去れるわけではない。涙も出るし、苦しくもなる。それでも、もう二度と彼を愛さない。先輩と約束していた場所へ着くと、澄花はすぐに、彼が何度も入口のほうを気にしていたことに気づいた。手を振ってみたものの、彼はそれにすら気づかなかった。「先輩」澄花はそのまま智也のそばまで歩いていき、声をかけた。智也はようやく入口から視線を戻し、目の前に立つ黒いダウンコート姿の澄花を見た。しばらくじっと顔を見つめ、確かめるように何度か目を瞬かせた。信じられないという顔で固まったあと、ようやく口を開いた。「お前……水城か?」澄花は自嘲するように笑った。窓ガラスに映った自分は、体つきもすっかりふっくらとして、顔はやつれ、血色も悪い。頬には妊娠によるシミまでいくつも浮かんでいた。先輩が分からなかったのも無理はない。今の彼女を見て、かつて京央大学で一番の美人と評判だったと言っても、誰も信じないだろう。「はい、水城です」智也は驚きを隠せなかった。あの頃の澄花は自信に満ち、誰よりも生き生きと輝いていた。それが、数年会わないうちに、こんなにも所帯じみて、疲れ切った姿になっている。だが、それ以上に込み上げてきたのは、彼女を不憫に思う気持ちだった。柊吾と別れて、自分たちが一緒に立ち上げた会社へ戻り、副社長として働かないか――そう言いたかった。だが、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。柊吾をこれほど愛し、彼のためにここまで自分をすり減らした澄花が、どうして簡単に柊吾のもとを離れられるだろう。ましてや今は、柊吾の子供まで身ごもっている。智也は歯がゆさを覚えながらも、ひとまず機密研究プロジェクトの契約書を差し出し、署名するよう促した。澄花も迷うことなく署
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第5話

澄花は分かっていた。お腹の子はもういない。けれど周囲の目には、彼女はいまだ妊婦のままだった。今の彼女は体つきもふっくらしており、見た目だけなら妊娠六、七か月と言われてもおかしくない。お腹の子に何かあってはまずいと皆が気にしていたうえ、何より柊吾本人がその場にいる。柊吾本人に敬意を抱いていなくても、その立場を無視するわけにはいかず、警備員たちも強引に止めることはできなかった。澄花は一生分の勇気を振り絞り、柊吾の前まで歩いていった。だが、男の口から返ってきたのは、情け容赦のない一言だった。「異議があるなら、グループの顧問弁護士団と話せ」澄花はその場に凍りついた。御堂グループは毎年六百億円もの巨費を投じ、柊吾が自ら集めた精鋭弁護士団を抱えている。彼が御堂グループを引き継いで以来、その弁護士団は国内外で数万件もの訴訟を手がけ、一度も敗訴したことがない。名実ともに業界トップのチームだった。そして今、柊吾はその弁護士団を、彼女一人に差し向けようとしている。それはつまり、たとえ澄花が誰かに陥れられ、濡れ衣を着せられていたとしても、自分は一切関与しないと明言しているのと同じだった。彼は澄花のことなど気にしていない。だから当然、彼女が濡れ衣を着せられているかどうかにも関心はない。ましてや彼女が妊娠中かどうか、そのことでお腹の子に何かあろうと、どうでもいいのだ。澄花の目元が無意識に赤くなり、握りしめた手は、指の関節が白くなるほど力が入っていた。そこまで言うのなら――柊吾がエレベーターに乗り込もうとした、そのとき。澄花は顔を上げ、震える声で、残っていた勇気をすべて振り絞るように告げた。「流産しました。私たちの子供は、もういません」だからもう、離婚できる。その瞬間、エレベーターの到着を告げる音が鳴った。だが、誰一人としてすぐには中へ入らなかった。広いロビーもしんと静まり返った。しかし柊吾は眉一つ動かさなかった。澄花を一瞥することすらなく、そのままエレベーターへ乗り込んだ。すると、どこからか「ぷっ」と吹き出す声が聞こえた。それをきっかけに周囲の人々も次々と笑い始め、笑い声はどんどん大きくなっていった。澄花が振り向くと、皆の顔には嘲笑と軽蔑が浮かんでいた。分かっている。誰もが、身の程知らずな
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第6話

柊吾はそれを聞いても眉一つ動かさず、そのまま踵を返して書斎へ入っていった。澄花がどう思っているのか、ここに残るのか出ていくのか、彼にはまるで興味がないようだった。それなら佳代子にも言うことはない。そもそも彼女だって、澄花の顔など見たくもなかった。皆が立ち去ったあと、澄花は目を伏せ、自嘲するように小さく笑うと、二階へ上がって荷物をまとめ始めた。スーツケースを引いて家を出ようとしたとき、柊吾の書斎の前を通りかかった。扉は半開きになっており、中にはもう一人の姿が見えた。御堂病院の医師・榊原直哉(さかきばら なおや)――柊吾の友人だった。直哉は、このところ澄花が受けた検査の結果を柊吾に手渡していた。柊吾が一枚ずつ目を通しているのを見て、思わず尋ねた。「どうした?ついにあいつのお腹の子が気になり始めたのか?」柊吾はゆっくりと検査結果をめくりながら、淡々と答えた。「祖父に言われただけだ」その答えに、直哉は莉央のためにもほっとしたようだった。「だと思ったよ。お前があんな女を気にするわけないもんな。腹に子供がいるくらいで、あいつも自分を買いかぶりすぎだ。まあ安心しろ。検査結果は毎回、俺が直接確認してる。それに、ああいう女が子供を堕ろすわけないだろ?あれだけお前に惚れてるんだ。子供がいなくなれば、お前との繋がりまで完全に切れる。そうなって離婚されるなんて、あいつが受け入れる訳がない」柊吾は最後の一枚、直近の検査結果まで目を通した。そこには胎児の性別についても記載されていた。まだこの時期では断定できないものの、男児の可能性が高いと記されていた。「明日、検査を受けさせろ。終わったら結果は本邸にいる祖父と、青葉山の寺で祈願している祖母に届けさせればいい。俺のところには持ってこなくていい」澄花はそれ以上聞かなかった。スーツケースを引き、そのまま家を出た。柊吾が彼女に無関心だったせいで、これまでの検査結果など、御堂病院側の医師がろくに診察もせず、形式的に作成したものばかりだった。彼女をまともに診察した者など、ほとんどいなかった。そのせいで、御堂病院には最新鋭の医療機器が揃っているにもかかわらず、双子であることすら見抜けなかった。交通事故で流産し、別の病院へ運ばれて――そこで初めて、双子だったことを知
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第7話

どれほど鈍い人間でも、それくらいは分かる。柊吾は澄花に席を譲らせ、莉央を自分の隣に座らせようとしているのだ。それを聞いた莉央も、もう座ろうとはせず、ただ澄花の前に立ったまま、彼女が席を立つのを待っていた。まるで澄花のほうが自分の席を横取りしたかのように、当然の顔をしていた。澄花は無表情のまま、まっすぐ前を見つめた。――私は、誰にも何も負い目はない。「耳でも聞こえないのか?席を譲れって言ってるんだ」会場にはますます人が集まってきていた。直哉は冷たい声で、さっさと立つよう澄花に命じた。澄花はただ、馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。「席を変えたいなら、御堂社長と榊原さんが九条さんと一緒に運営スタッフへ相談すればいいでしょう!ここは私の席ですし、先に来て座っていたのも私です。どうして私が譲らなきゃいけないんですか?」柊吾がわずかに眉を上げ、澄花へ視線を向けた。彼にじっと値踏みするように見られているのが、澄花にも分かった。長年、人の上に立ち続けてきた者は、ほんの一瞥だけで、余計な言葉などなくとも周囲を圧倒する威圧感を放つ。澄花は彼が怖かった。心の奥底に、柊吾そのものへの恐れがあり、そして彼が持つ、圧倒的な権力にも畏怖を感じていた。それでも、どうして自分ばかりが何度も譲らなければならないのだろう。もうすぐ、二人は何の関係もなくなるというのに。澄花は顔を上げ、真正面から柊吾の目を見返した。柊吾の眼差しが冷たくなる。彼が怒り始める前触れだということを、澄花は知っていた。そのとき、莉央が一歩前へ出た。「柊吾、私は大丈夫よ。席ひとつくらい、彼女に譲ってあげてもいいじゃない。私のために、関係のない人に腹を立てたりしないで。ね?」「関係のない人」と口にしたとき、莉央は澄花を一瞥した。彼女は以前から澄花という存在そのものは知っていた。しかし澄花がどんな人間なのかを知ったのは、先日、美玲が殴られた一件があってからだった。まさか、こんな女だったとは。莉央は、妊娠で体つきがふっくらし、顔にはシミまで浮かんでいる澄花を眺めた。そんな彼女と張り合う気などないと言わんばかりに、寛大な口調で続ける。「妊娠しているんだから、あまり出歩かないほうがいいわ。今は赤ちゃんが一番大事でしょう?こういう技術に興味があ
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第8話

美玲から送られてきたメッセージを証拠としてスクリーンショットを保存し、続いて社長室から届いた通知もスクリーンショットに残した。家に戻ったら、先輩に頼んで弁護士を紹介してもらい、対応を任せるつもりだった。そこまで済ませると、澄花は周囲のことをすべて頭から追い出し、余計なことを考えず、展示会のほかの重要な内容に集中した。少し離れた場所から澄花を見た直哉は、嫌悪を隠そうともせず吐き捨てた。「厚かましくついて入ってきた挙げ句、莉央を陥れるのに失敗したら、今度はもっともらしくペンを持ってメモなんか取ってる。あいつ、本当に内容が理解できてるのか?」そこで言葉を切ると、呆れ果てたように続けた。「事情を知らない奴が見たら、あいつまで研究に参加するつもりなのかと思うだろ。お前の気を引くためなら、本当に何でもありだな。恥も外聞もない!」柊吾は澄花を見ることも、直哉の言葉に応じることもなく、ただ冷淡に言った。「お前はしゃべりすぎだ」だが、その視線の端では、客席で真剣に話を聞いている澄花の姿を捉えていた。――俺の気を引くため?もしそうなら、この数日、彼女の様子がおかしかったことにも説明がつく。直哉もそれ以上は何も言わなかった。ちょうど莉央が戻ってきたからだ。「さっきの発表内容が公開された直後に、SMテクの高瀬社長から協業の申し出が来たの。それに、高瀬社長の恩師である阿部教授も私の発表を見てくださったらしくて、一度会ってみたい、できれば最後の弟子として迎えたいって。展示会が終わったら、私が食事をご馳走するわ。みんなでお祝いしましょう!」莉央の口調は、先ほどの不愉快な一幕など最初からなかったかのように、軽やかで明るかった。直哉も、それでいいと思った。澄花のような女など、彼らがわざわざ気に留めるほどの存在ではない。澄花を大した人間だと思っているのは、ほかならぬ本人だけだ。――馬鹿馬鹿しい。……展示会が終わると、智也が自ら澄花を迎えに来た。澄花が話を聞きながらかなりの量のメモを取っていたのを見て、彼は思わず満足げに頷いた。――ようやく、少しは研究者らしくなってきたな。褒めてやろうとした、そのときだった。智也は、少し離れた場所から大勢に囲まれて出てくる一団に気づいた。ほかの人間まではよく見えなかったが、先頭に
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第9話

智也は、それ以上言葉を続けられなかった。澄花がこんなことをしているのも、結局はわざと距離を置いて柊吾の気を引き、自分を意識させようとしているだけなのだと、彼は思っていた。少し間を置くと、もどかしさを滲ませた声で言った。「男の心にお前がいないなら、どれだけ努力したって結末は変わらない。まして相手は、御堂柊吾みたいな冷酷で情の薄い、利益第一の資本家だ。あいつがビジネスの世界で何て呼ばれてるか知ってるか?『生きた閻魔』だぞ。ああいう人間に情けや同情を期待するだけ無駄だ」澄花は、先輩が自分を誤解していることに気づかなかった。その言葉を聞くと、胸の奥が少しだけ温かくなり、素直に頷いた。「先輩、分かってます」政府とのプロジェクトさえ無事に進められれば、父と兄の件についても政府側の関係者に相談し、必要な支援を求められる。柊吾の顔色をうかがう必要もなくなるし、子供を失ったことで柊吾が自分や父、兄にまで報復してくるのではないかと怯える必要もなくなる。しかし智也は、澄花の「分かってる」という言葉をまったく信じていなかった。その後は道中、この話題に触れることはなかった。それに彼は、柊吾の気を引くためなどという気持ちを抱いたまま、澄花が会社に戻って好き勝手することも許すつもりはなかった。あそこは研究をする場所だ。男を口説くための足がかりではない。だからこそ、智也は淡々と言った。「会社では今、新しい人材を入れようとしてる。俺が目をつけてるのは、聖陵大学から帰国した博士だ。かなり目立った実績と研究成果があって、昔のお前にも引けを取らない。それに、先生にも一度会わせてみようと思ってる。先生に最後の弟子として迎えてもらえるかどうか、相談するつもりだ」澄花は呆気に取られた。その言葉が何を意味しているのか、分からないはずがない。先輩は自分に失望し、もう自分を必要としていないのだ。「……誰なんですか?私も知ってる人ですか?」智也の声は硬かった。「学界の新星だ。かなり優秀な女の子だよ。お前はここ数年、くだらない日常のことばかりにかかりきりだったんだから、名前を言ったところで分からないだろ」もともと智也は、もし澄花が本当に目を覚まして戻ってくる気になったなら、莉央を会社に入れ、澄花の下につけて補佐をさせてもいいとさえ考えてい
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第10話

征宏は、やつれた澄花の顔を痛ましそうに見つめ、少し言葉を詰まらせてから、また口を開いた。「君は本当に……馬鹿なことをしたな……!」征宏の目から、悲しみの涙が止めどなく溢れた。彼はずっと、澄花を実の子供のように思ってきたのだ。澄花は隠そうとはせず、静かに首を振ってから言った。「先生、先輩……私、子供を亡くしました」あまりにも小さな声だった。それなのに、その一言は巨大な石が水面に叩きつけられたかのような衝撃をもたらした。一瞬にして、個室は静まり返り、聞こえるのは息遣いだけになった。どれほどの時間が経ったのか。最初に我に返ったのは智也だった。「何を言ってるんだ?どうしてそんなことになるんだ?」征宏もすぐに問いかけた。「澄花、どういうことだ。ちゃんと話してくれ。君、もう妊娠四か月だったんじゃないのか?」先生と先輩、二人が心配そうに自分を見つめているのを見て、澄花はあの交通事故について話した。すべてを聞き終えた征宏は、怒りのあまり全身を震わせた。「御堂柊吾という男は……どうしてそこまで冷酷になれるんだ!」智也は慌てて薬を取り出し、先生に飲ませると、その肩を支えながら澄花を見た。「お前が言ってた御堂柊吾の愛人……名前は何ていう?」澄花も急いで水の入ったグラスを手に取り、先生に飲ませながら答えた。「九条莉央です」その瞬間、智也の顔色が一変した。征宏に至っては、怒りのあまり顔色を変え、椅子に倒れ込むようにもたれたまま、言葉すら出せなくなってしまった。「先生、大丈夫ですか!?」澄花はひどく慌てた。「先生、ごめんなさい。全部私が悪いんです。こんなこと、先生に話すべきじゃなかった……!」智也は急いで外へ出て、スタッフを呼んだ。「お前のせいじゃない。先生はもう……いや、今はいい。先に先生を病院へ連れていく。お前も流産したばかりで体がもたないだろうから、無理して急ぐな。落ち着いてあとから来い。あとでお前に聞きたいことがある!」澄花は先生の様子を見つめながら、先輩が途中で飲み込んだ言葉が何を意味しているのか、なんとなく察していた。下腹部には、かすかな痛みが残っていた。流産してからというもの、ずっとこんな調子だった。それでも澄花は強く頷いた。「分かりました!」ほんの少し息を整えると、澄花はすぐに慌ただしく立ち
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