공유

第6話

작가: 葉月しおり
柊吾はそれを聞いても眉一つ動かさず、そのまま踵を返して書斎へ入っていった。

澄花がどう思っているのか、ここに残るのか出ていくのか、彼にはまるで興味がないようだった。

それなら佳代子にも言うことはない。

そもそも彼女だって、澄花の顔など見たくもなかった。

皆が立ち去ったあと、澄花は目を伏せ、自嘲するように小さく笑うと、二階へ上がって荷物をまとめ始めた。

スーツケースを引いて家を出ようとしたとき、柊吾の書斎の前を通りかかった。

扉は半開きになっており、中にはもう一人の姿が見えた。

御堂病院の医師・榊原直哉(さかきばら なおや)――柊吾の友人だった。

直哉は、このところ澄花が受けた検査の結果を柊吾に手渡していた。

柊吾が一枚ずつ目を通しているのを見て、思わず尋ねた。「どうした?ついにあいつのお腹の子が気になり始めたのか?」

柊吾はゆっくりと検査結果をめくりながら、淡々と答えた。「祖父に言われただけだ」

その答えに、直哉は莉央のためにもほっとしたようだった。

「だと思ったよ。お前があんな女を気にするわけないもんな。腹に子供がいるくらいで、あいつも自分を買いかぶりすぎだ。

まあ安心しろ。検査結果は毎回、俺が直接確認してる。

それに、ああいう女が子供を堕ろすわけないだろ?あれだけお前に惚れてるんだ。子供がいなくなれば、お前との繋がりまで完全に切れる。そうなって離婚されるなんて、あいつが受け入れる訳がない」

柊吾は最後の一枚、直近の検査結果まで目を通した。

そこには胎児の性別についても記載されていた。

まだこの時期では断定できないものの、男児の可能性が高いと記されていた。

「明日、検査を受けさせろ。終わったら結果は本邸にいる祖父と、青葉山の寺で祈願している祖母に届けさせればいい。俺のところには持ってこなくていい」

澄花はそれ以上聞かなかった。

スーツケースを引き、そのまま家を出た。

柊吾が彼女に無関心だったせいで、これまでの検査結果など、御堂病院側の医師がろくに診察もせず、形式的に作成したものばかりだった。

彼女をまともに診察した者など、ほとんどいなかった。

そのせいで、御堂病院には最新鋭の医療機器が揃っているにもかかわらず、双子であることすら見抜けなかった。

交通事故で流産し、別の病院へ運ばれて――そこで初めて、双子だったことを知ったのだ。

佳代子はまだ階下にいた。

澄花が本当に荷物を持って出ていこうとしているのを見ると、佳代子は、またいつものようにわざと騒ぎを起こし、周囲の気を引こうとしているだけだと思った。

そんな芝居に付き合う気などない。

「好きなだけ遠くへ行きなさい。あなたみたいな人間と一緒にいたら、御堂家の子供まであなたそっくりに、いちいち大騒ぎして人を振り回す、しつけのなっていない子になってしまうわ。お腹の子が生まれたら、莉央がきちんと育てて、母親になってくれるんだから!」

書斎は防音ではない。しかも扉まで半開きだ。

先ほど佳代子が澄花を罵り、手を上げたことも、今の言葉も、柊吾には当然すべて聞こえている。

それでも、彼は何もしなかった。

澄花ももう何も言わなかった。

そんな言葉を気にすることさえやめ、スーツケースを引いて出ていった。

ここには、もう二度と戻らない。

自分には御堂家など、初めから分不相応だったのだ。

寝室では、柊吾がクローゼットの前に立っていた。

以前なら、澄花が彼の服を一枚一枚手洗いし、丁寧に手入れをして、アイロンまでかけていた。

澄花が手入れした服のほうが、ほかの誰かが扱ったものより着心地がよかった。

柊吾自身はほとんど家に帰らなかったが、服だけは身の回りの世話をする家政婦に届けさせ、澄花に手洗いさせていた。

すべてがきちんと整えられていた。

少なくとも少し前までの澄花は、「妻」という役目だけなら非の打ちどころがなかった。

家政婦は柊吾の様子から何かを察したのか、自分から口を開いた。

「旦那様、今回の仕上がりがお気に召さないようでしたら、奥様が引っ越された先へ服を届けましょうか。私どもが回収してお持ち帰りします。

旦那様に自分が必要とされていると分かれば、奥様もきっとお喜びになるでしょうし、喜んで引き受けてくださると思います。そのままこちらへ戻ってこられるかもしれません」

「必要ない」柊吾の声にはわずかな苛立ちが混じっていた。

彼は不機嫌そうにクローゼットの扉を閉めた。

ちょうどそのとき、携帯電話から甘えるような声が聞こえてきた。

「柊吾、早く来て。今夜はサプライズを用意してるの。絶対気に入るから!」

柊吾がウォークインクローゼットから出て、寝室を出ようとしたとき、ベッドサイドテーブルに黒い箱が置かれているのが目に入った。

催促しに入ってきた直哉もそれに気づき、鼻で笑った。「絶対、あいつがお前の機嫌を取るために置いていったんだろ。ほらな。家出するとか言っておきながら、ちゃんと次の手を残してる。これをお前に見つけさせて、情にほだされたお前から迎えに来てもらうつもりなんだろ。いやあ、大した計算高さだよ」

家政婦が黒い箱を手に取り、柊吾の前へ差し出した。「旦那様、開けてご覧になりますか?奥様からのお気持ちかもしれません」

柊吾は中身が何なのか確認しようとすらしなかった。「捨てろ」

この二年間、一緒に暮らす中で、澄花のこうした駆け引きは何度も見てきた。

家出という芝居も、彼女は飽きていないのかもしれないが、柊吾のほうはとうに見飽きている。

以前なら、一週間もすれば自分から戻ってきた。

今は彼の子供を身ごもっている。

三日もかからないだろう。

その夜、柊吾は車を走らせ、水明苑を後にした。

……

タクシーの中で佳代子から送られてきたメッセージを見た澄花は、窓の外の暗い夜空に目を向けた。

自分が家を出た直後だというのに、彼はもう莉央のところへ向かった。

どうやら二人は一緒に暮らしているらしい。

あれほど莉央を愛しているのだから、彼女を一人きりにしておくはずもない。

そう思った瞬間、澄花の胸にやるせない痛みが広がった。

だが次の瞬間には、何のためらいもなく佳代子の番号を着信拒否に設定した。

子供はもういない。

離婚するのも時間の問題だ。

柊吾は自分を愛していないし、気にもかけていない。

彼がどこへ行こうと、誰と一緒にいようと、自分には止めることも、口を出す資格もなかった。

新しい部屋へ戻ると、ここ数日の疲労が一気に押し寄せてきた。まだ出血も続いている。

澄花はシャワーを浴びて着替え、清掃業者に部屋を清掃してもらうと、急いでベッドに横になった。

だが、なかなか眠れない。

何かとても大切なものを忘れているような気がした。

けれど思い出そうとすればするほど、何も浮かんでこない。

やがて強烈な疲労に襲われ、瞼を開けていられなくなった。

それ以上考える余裕もないまま、澄花は眠りに落ちた。

……

翌朝、智也からもう一度確認の電話がかかってきたころには、澄花はすでに技術展の会場前に到着していた。

今回の展示会に招待されているのは、いずれも業界で名の知れた人物ばかりだ。

澄花は五年間も第一線から離れていた。

だからこそ、この機会を軽く考えるわけにはいかず、かなり早めに会場へ来ていた。

「先輩……」携帯電話を握る澄花の手が、かすかに震える。「先生が……私に会いたいですか?」

その知らせを聞いた途端、胸の奥に苦いものが込み上げ、同時に緊張で心臓が強く脈打った。

智也にも、その理由は分かっていた。

澄花は、国内外で名高い阿部征宏(あべ まさひろ)教授の最後の弟子だった。

征宏は研究を何より愛し、生涯を航空宇宙技術の発展に捧げてきた。妻もいなければ、子供もいない。

だからこそ、澄花を実の娘同然に可愛がっていた。

自分の研究者としてのすべてを彼女に受け継がせるつもりで、澄花を連れて各地を回り、自ら築き上げた人脈まで惜しみなく紹介していた。

ところが澄花は、恋愛にのめり込んだまま戻ってこなくなった。

長い年月をかけ、心血を注いで育てた教え子が、一人の男のために輝かしい将来を捨て、御堂グループに入り、ただその男の目に留まりたいという理由だけで一介の社員として働いている。

それを知った征宏は、あまりのショックに一か月も寝込んだ。

そして、それ以来澄花に連絡を取ることはなかった。

澄花も申し訳なさでいっぱいになり、自分から先生に連絡する勇気を持てずにいた。

智也は電話の向こうでため息をついた。

「本当だよ。先生はまだお前を諦めてない。もう一度だけ、チャンスをやりたいって言ってる。水城、戻ってくる気になったなら、それでいい。展示会が終わったら紫月庵へ来てくれ。個室を取ってある。先生も来るから。

水城、今度こそ、もうみんなを傷つけないでくれ。じゃないと俺たちも、本当にもう……お前を迎え入れる勇気がなくなる」

「もうしない。絶対にしないから……今度こそ、この機会を大切にします」澄花は涙を滲ませ、声を詰まらせた。

けれど、その涙が頬を伝うことはなかった。

もう目は覚めた。

二度と同じ過ちは繰り返さない。

澄花は目を閉じ、しばらく気持ちを落ち着かせてから、会場へ入っていった。

その少し離れた場所で、誰かが彼女を見つけ、こっそり写真を撮っていたことには気づかなかった。

【誰を見かけたと思う?】

少人数のLINEグループに、隠し撮りされた写真が一枚送られた。

会場へ入ろうとしている女は黒いダウンコートを着ていた。顔も体もひどくむくみ、両目は赤く腫れている。泣いたあとだということは一目瞭然だった。

澄花以外の誰だというのか。

直哉は露骨に嫌そうな顔をして、舌打ちした。

「柊吾、この女、本当にどこまで計算高いんだよ。わざと無断欠勤して辞めるだの騒いで、今度は『流産した』なんて嘘までついてお前の気を引こうとする。

昨日は家出までしたのに、お前が追いかけてこなかったから、妊娠してる身で今日はわざわざここまで追ってきたってわけか。何が何でもお前の前に顔を出したいんだな」

柊吾の姿を見るなり、直哉は堪えきれずに不満をぶちまけた。

柊吾は冷淡な目で一度だけ直哉を見る。「行くぞ」

そこで直哉も、今日ここへ来た本来の目的を思い出した。

ちょうど莉央が自信に満ちた様子でこちらへ歩いてくる。

それを見ながら、直哉は言った。「たぶん、あいつはこのあと莉央がこんなに優秀なのを見たら嫉妬して、わざと騒ぎを起こすぞ。莉央は高瀬智也の会社に入って阿部教授に近づいて、いずれ弟子入りするつもりなんだろ?邪魔されないようにしたほうがいい」

そして、堪えきれないように続ける。「俺が今から行って、帰らせようか?あいつがここにいて何が分かるんだよ。お前にも御堂家にも恥をかかせるだけだろ」

柊吾が答えるより先に、莉央がやって来た。

今日の彼女は華やかで、自信に満ちていた。

準備も万全らしく、柊吾の前まで来ると笑顔で尋ねる。「何の話をしてたの?」

直哉は隣にいる柊吾をちらりと見た。

柊吾は答えず、ただ軽く顎を引いた。「始まるぞ」

柊吾が澄花のことを口にしなかったのを見て、直哉はすぐに察した。

きっと、これから壇上に立つ莉央の気分やコンディションを乱したくないのだろう。

何より、柊吾はそもそも澄花など眼中にないのだ。

当然だ。

薬まで使って男のベッドに潜り込んだような女のことを、自分たちほどの立場にある人間がわざわざ話題にする価値などあるはずもない。

ところが――

「はあ!?よくここまで図々しくなれるな!」

突然響いた罵声に、澄花は反射的に顔を上げた。

こんな場所で、いったい誰がそんな品のない言葉を口にしているのか。

そう思って目を向けた先にいたのは、柊吾だった。

そのそばには莉央と直哉もいる。

今の罵声を上げたのは、直哉だった。

まさかこんな場所でまで彼らに会うとは、澄花も思っていなかった。

そのまま視線を逸らし、見なかったことにしようとしたとき、直哉が自分のチケットを確認し、うんざりしたように額を押さえた。「勘弁してくれよ。本当にどこにでも現れるな」

莉央もチケットを確認し、それからわざと動こうとせず座ったままの澄花を見た。「柊吾、席を替えてもらう?」

しかし柊吾は淡々と答えた。「必要ない」

この技術展の座席は、あらかじめ指定されている。

ここに招かれているのは、いずれも業界を代表するような人物ばかりだ。そんな場で席を替わってほしいと要求するのは、あまりにも失礼だった。

澄花は自分の座席を確認した。

最前列の5番席。

間違っていない。

だが彼らの反応を見る限り、まさか席が隣同士なのだろうか。

そう思った次の瞬間、柊吾が澄花の隣の席に腰を下ろした。

そして莉央も一瞬ためらったあと、澄花のそばまで歩いてきた。

そのとき、柊吾の冷淡な声が命令するように響いた。

「席を譲れ」

이 작품을 무료로 읽으실 수 있습니다
QR 코드를 스캔하여 앱을 다운로드하세요

최신 챕터

  • さよならを告げたら、夫がすがってきました   第10話

    征宏は、やつれた澄花の顔を痛ましそうに見つめ、少し言葉を詰まらせてから、また口を開いた。「君は本当に……馬鹿なことをしたな……!」征宏の目から、悲しみの涙が止めどなく溢れた。彼はずっと、澄花を実の子供のように思ってきたのだ。澄花は隠そうとはせず、静かに首を振ってから言った。「先生、先輩……私、子供を亡くしました」あまりにも小さな声だった。それなのに、その一言は巨大な石が水面に叩きつけられたかのような衝撃をもたらした。一瞬にして、個室は静まり返り、聞こえるのは息遣いだけになった。どれほどの時間が経ったのか。最初に我に返ったのは智也だった。「何を言ってるんだ?どうしてそんなことになるんだ?」征宏もすぐに問いかけた。「澄花、どういうことだ。ちゃんと話してくれ。君、もう妊娠四か月だったんじゃないのか?」先生と先輩、二人が心配そうに自分を見つめているのを見て、澄花はあの交通事故について話した。すべてを聞き終えた征宏は、怒りのあまり全身を震わせた。「御堂柊吾という男は……どうしてそこまで冷酷になれるんだ!」智也は慌てて薬を取り出し、先生に飲ませると、その肩を支えながら澄花を見た。「お前が言ってた御堂柊吾の愛人……名前は何ていう?」澄花も急いで水の入ったグラスを手に取り、先生に飲ませながら答えた。「九条莉央です」その瞬間、智也の顔色が一変した。征宏に至っては、怒りのあまり顔色を変え、椅子に倒れ込むようにもたれたまま、言葉すら出せなくなってしまった。「先生、大丈夫ですか!?」澄花はひどく慌てた。「先生、ごめんなさい。全部私が悪いんです。こんなこと、先生に話すべきじゃなかった……!」智也は急いで外へ出て、スタッフを呼んだ。「お前のせいじゃない。先生はもう……いや、今はいい。先に先生を病院へ連れていく。お前も流産したばかりで体がもたないだろうから、無理して急ぐな。落ち着いてあとから来い。あとでお前に聞きたいことがある!」澄花は先生の様子を見つめながら、先輩が途中で飲み込んだ言葉が何を意味しているのか、なんとなく察していた。下腹部には、かすかな痛みが残っていた。流産してからというもの、ずっとこんな調子だった。それでも澄花は強く頷いた。「分かりました!」ほんの少し息を整えると、澄花はすぐに慌ただしく立ち

  • さよならを告げたら、夫がすがってきました   第9話

    智也は、それ以上言葉を続けられなかった。澄花がこんなことをしているのも、結局はわざと距離を置いて柊吾の気を引き、自分を意識させようとしているだけなのだと、彼は思っていた。少し間を置くと、もどかしさを滲ませた声で言った。「男の心にお前がいないなら、どれだけ努力したって結末は変わらない。まして相手は、御堂柊吾みたいな冷酷で情の薄い、利益第一の資本家だ。あいつがビジネスの世界で何て呼ばれてるか知ってるか?『生きた閻魔』だぞ。ああいう人間に情けや同情を期待するだけ無駄だ」澄花は、先輩が自分を誤解していることに気づかなかった。その言葉を聞くと、胸の奥が少しだけ温かくなり、素直に頷いた。「先輩、分かってます」政府とのプロジェクトさえ無事に進められれば、父と兄の件についても政府側の関係者に相談し、必要な支援を求められる。柊吾の顔色をうかがう必要もなくなるし、子供を失ったことで柊吾が自分や父、兄にまで報復してくるのではないかと怯える必要もなくなる。しかし智也は、澄花の「分かってる」という言葉をまったく信じていなかった。その後は道中、この話題に触れることはなかった。それに彼は、柊吾の気を引くためなどという気持ちを抱いたまま、澄花が会社に戻って好き勝手することも許すつもりはなかった。あそこは研究をする場所だ。男を口説くための足がかりではない。だからこそ、智也は淡々と言った。「会社では今、新しい人材を入れようとしてる。俺が目をつけてるのは、聖陵大学から帰国した博士だ。かなり目立った実績と研究成果があって、昔のお前にも引けを取らない。それに、先生にも一度会わせてみようと思ってる。先生に最後の弟子として迎えてもらえるかどうか、相談するつもりだ」澄花は呆気に取られた。その言葉が何を意味しているのか、分からないはずがない。先輩は自分に失望し、もう自分を必要としていないのだ。「……誰なんですか?私も知ってる人ですか?」智也の声は硬かった。「学界の新星だ。かなり優秀な女の子だよ。お前はここ数年、くだらない日常のことばかりにかかりきりだったんだから、名前を言ったところで分からないだろ」もともと智也は、もし澄花が本当に目を覚まして戻ってくる気になったなら、莉央を会社に入れ、澄花の下につけて補佐をさせてもいいとさえ考えてい

  • さよならを告げたら、夫がすがってきました   第8話

    美玲から送られてきたメッセージを証拠としてスクリーンショットを保存し、続いて社長室から届いた通知もスクリーンショットに残した。家に戻ったら、先輩に頼んで弁護士を紹介してもらい、対応を任せるつもりだった。そこまで済ませると、澄花は周囲のことをすべて頭から追い出し、余計なことを考えず、展示会のほかの重要な内容に集中した。少し離れた場所から澄花を見た直哉は、嫌悪を隠そうともせず吐き捨てた。「厚かましくついて入ってきた挙げ句、莉央を陥れるのに失敗したら、今度はもっともらしくペンを持ってメモなんか取ってる。あいつ、本当に内容が理解できてるのか?」そこで言葉を切ると、呆れ果てたように続けた。「事情を知らない奴が見たら、あいつまで研究に参加するつもりなのかと思うだろ。お前の気を引くためなら、本当に何でもありだな。恥も外聞もない!」柊吾は澄花を見ることも、直哉の言葉に応じることもなく、ただ冷淡に言った。「お前はしゃべりすぎだ」だが、その視線の端では、客席で真剣に話を聞いている澄花の姿を捉えていた。――俺の気を引くため?もしそうなら、この数日、彼女の様子がおかしかったことにも説明がつく。直哉もそれ以上は何も言わなかった。ちょうど莉央が戻ってきたからだ。「さっきの発表内容が公開された直後に、SMテクの高瀬社長から協業の申し出が来たの。それに、高瀬社長の恩師である阿部教授も私の発表を見てくださったらしくて、一度会ってみたい、できれば最後の弟子として迎えたいって。展示会が終わったら、私が食事をご馳走するわ。みんなでお祝いしましょう!」莉央の口調は、先ほどの不愉快な一幕など最初からなかったかのように、軽やかで明るかった。直哉も、それでいいと思った。澄花のような女など、彼らがわざわざ気に留めるほどの存在ではない。澄花を大した人間だと思っているのは、ほかならぬ本人だけだ。――馬鹿馬鹿しい。……展示会が終わると、智也が自ら澄花を迎えに来た。澄花が話を聞きながらかなりの量のメモを取っていたのを見て、彼は思わず満足げに頷いた。――ようやく、少しは研究者らしくなってきたな。褒めてやろうとした、そのときだった。智也は、少し離れた場所から大勢に囲まれて出てくる一団に気づいた。ほかの人間まではよく見えなかったが、先頭に

  • さよならを告げたら、夫がすがってきました   第7話

    どれほど鈍い人間でも、それくらいは分かる。柊吾は澄花に席を譲らせ、莉央を自分の隣に座らせようとしているのだ。それを聞いた莉央も、もう座ろうとはせず、ただ澄花の前に立ったまま、彼女が席を立つのを待っていた。まるで澄花のほうが自分の席を横取りしたかのように、当然の顔をしていた。澄花は無表情のまま、まっすぐ前を見つめた。――私は、誰にも何も負い目はない。「耳でも聞こえないのか?席を譲れって言ってるんだ」会場にはますます人が集まってきていた。直哉は冷たい声で、さっさと立つよう澄花に命じた。澄花はただ、馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。「席を変えたいなら、御堂社長と榊原さんが九条さんと一緒に運営スタッフへ相談すればいいでしょう!ここは私の席ですし、先に来て座っていたのも私です。どうして私が譲らなきゃいけないんですか?」柊吾がわずかに眉を上げ、澄花へ視線を向けた。彼にじっと値踏みするように見られているのが、澄花にも分かった。長年、人の上に立ち続けてきた者は、ほんの一瞥だけで、余計な言葉などなくとも周囲を圧倒する威圧感を放つ。澄花は彼が怖かった。心の奥底に、柊吾そのものへの恐れがあり、そして彼が持つ、圧倒的な権力にも畏怖を感じていた。それでも、どうして自分ばかりが何度も譲らなければならないのだろう。もうすぐ、二人は何の関係もなくなるというのに。澄花は顔を上げ、真正面から柊吾の目を見返した。柊吾の眼差しが冷たくなる。彼が怒り始める前触れだということを、澄花は知っていた。そのとき、莉央が一歩前へ出た。「柊吾、私は大丈夫よ。席ひとつくらい、彼女に譲ってあげてもいいじゃない。私のために、関係のない人に腹を立てたりしないで。ね?」「関係のない人」と口にしたとき、莉央は澄花を一瞥した。彼女は以前から澄花という存在そのものは知っていた。しかし澄花がどんな人間なのかを知ったのは、先日、美玲が殴られた一件があってからだった。まさか、こんな女だったとは。莉央は、妊娠で体つきがふっくらし、顔にはシミまで浮かんでいる澄花を眺めた。そんな彼女と張り合う気などないと言わんばかりに、寛大な口調で続ける。「妊娠しているんだから、あまり出歩かないほうがいいわ。今は赤ちゃんが一番大事でしょう?こういう技術に興味があ

  • さよならを告げたら、夫がすがってきました   第6話

    柊吾はそれを聞いても眉一つ動かさず、そのまま踵を返して書斎へ入っていった。澄花がどう思っているのか、ここに残るのか出ていくのか、彼にはまるで興味がないようだった。それなら佳代子にも言うことはない。そもそも彼女だって、澄花の顔など見たくもなかった。皆が立ち去ったあと、澄花は目を伏せ、自嘲するように小さく笑うと、二階へ上がって荷物をまとめ始めた。スーツケースを引いて家を出ようとしたとき、柊吾の書斎の前を通りかかった。扉は半開きになっており、中にはもう一人の姿が見えた。御堂病院の医師・榊原直哉(さかきばら なおや)――柊吾の友人だった。直哉は、このところ澄花が受けた検査の結果を柊吾に手渡していた。柊吾が一枚ずつ目を通しているのを見て、思わず尋ねた。「どうした?ついにあいつのお腹の子が気になり始めたのか?」柊吾はゆっくりと検査結果をめくりながら、淡々と答えた。「祖父に言われただけだ」その答えに、直哉は莉央のためにもほっとしたようだった。「だと思ったよ。お前があんな女を気にするわけないもんな。腹に子供がいるくらいで、あいつも自分を買いかぶりすぎだ。まあ安心しろ。検査結果は毎回、俺が直接確認してる。それに、ああいう女が子供を堕ろすわけないだろ?あれだけお前に惚れてるんだ。子供がいなくなれば、お前との繋がりまで完全に切れる。そうなって離婚されるなんて、あいつが受け入れる訳がない」柊吾は最後の一枚、直近の検査結果まで目を通した。そこには胎児の性別についても記載されていた。まだこの時期では断定できないものの、男児の可能性が高いと記されていた。「明日、検査を受けさせろ。終わったら結果は本邸にいる祖父と、青葉山の寺で祈願している祖母に届けさせればいい。俺のところには持ってこなくていい」澄花はそれ以上聞かなかった。スーツケースを引き、そのまま家を出た。柊吾が彼女に無関心だったせいで、これまでの検査結果など、御堂病院側の医師がろくに診察もせず、形式的に作成したものばかりだった。彼女をまともに診察した者など、ほとんどいなかった。そのせいで、御堂病院には最新鋭の医療機器が揃っているにもかかわらず、双子であることすら見抜けなかった。交通事故で流産し、別の病院へ運ばれて――そこで初めて、双子だったことを知

  • さよならを告げたら、夫がすがってきました   第5話

    澄花は分かっていた。お腹の子はもういない。けれど周囲の目には、彼女はいまだ妊婦のままだった。今の彼女は体つきもふっくらしており、見た目だけなら妊娠六、七か月と言われてもおかしくない。お腹の子に何かあってはまずいと皆が気にしていたうえ、何より柊吾本人がその場にいる。柊吾本人に敬意を抱いていなくても、その立場を無視するわけにはいかず、警備員たちも強引に止めることはできなかった。澄花は一生分の勇気を振り絞り、柊吾の前まで歩いていった。だが、男の口から返ってきたのは、情け容赦のない一言だった。「異議があるなら、グループの顧問弁護士団と話せ」澄花はその場に凍りついた。御堂グループは毎年六百億円もの巨費を投じ、柊吾が自ら集めた精鋭弁護士団を抱えている。彼が御堂グループを引き継いで以来、その弁護士団は国内外で数万件もの訴訟を手がけ、一度も敗訴したことがない。名実ともに業界トップのチームだった。そして今、柊吾はその弁護士団を、彼女一人に差し向けようとしている。それはつまり、たとえ澄花が誰かに陥れられ、濡れ衣を着せられていたとしても、自分は一切関与しないと明言しているのと同じだった。彼は澄花のことなど気にしていない。だから当然、彼女が濡れ衣を着せられているかどうかにも関心はない。ましてや彼女が妊娠中かどうか、そのことでお腹の子に何かあろうと、どうでもいいのだ。澄花の目元が無意識に赤くなり、握りしめた手は、指の関節が白くなるほど力が入っていた。そこまで言うのなら――柊吾がエレベーターに乗り込もうとした、そのとき。澄花は顔を上げ、震える声で、残っていた勇気をすべて振り絞るように告げた。「流産しました。私たちの子供は、もういません」だからもう、離婚できる。その瞬間、エレベーターの到着を告げる音が鳴った。だが、誰一人としてすぐには中へ入らなかった。広いロビーもしんと静まり返った。しかし柊吾は眉一つ動かさなかった。澄花を一瞥することすらなく、そのままエレベーターへ乗り込んだ。すると、どこからか「ぷっ」と吹き出す声が聞こえた。それをきっかけに周囲の人々も次々と笑い始め、笑い声はどんどん大きくなっていった。澄花が振り向くと、皆の顔には嘲笑と軽蔑が浮かんでいた。分かっている。誰もが、身の程知らずな

더보기
좋은 소설을 무료로 찾아 읽어보세요
GoodNovel 앱에서 수많은 인기 소설을 무료로 즐기세요! 마음에 드는 작품을 다운로드하고, 언제 어디서나 편하게 읽을 수 있습니다
앱에서 작품을 무료로 읽어보세요
앱에서 읽으려면 QR 코드를 스캔하세요.
DMCA.com Protection Status