Alle Kapitel von サイズの合わない結婚指輪なんて、もういらない: Kapitel 1 – Kapitel 10

14 Kapitel

第1話

「もう暗いし、美咲を一人でタクシーに乗せるのも危ないから、俺が送っていくよ」亮は私の顔も見ずにそう告げると、美咲の手を引いて車の助手席に乗せた。美咲は振り返り、私に向かって愛らしく微笑む。「神崎さん、ごめんなさい。帰りはご自分でタクシーを呼んでいただけますか?」私は小さく頷いた。「大丈夫です。気をつけて帰ってくださいね」車のドアが閉まり、エンジンがかかると、赤いテールランプはあっという間に夜の闇へ消えていった。11月の夜風は、刃物のように頬を刺してくる。私はコートの前をかき合わせ、道端で15分ほど待って、ようやくタクシーを拾った。寒さに震える私を見て、運転手が不思議そうに尋ねてきた。「お客さん、こんな寒い日に彼氏さんは送ってくれなかったんですか?」「別の人を送っていきました」私が淡々と答えると、運転手は一瞬言葉に詰まり、それ以上は何も聞いてこなかった。マンションに帰り着くと、玄関で靴を脱ぎ、そのまま腰を下ろしてスマホを取り出した。そして、結婚式場に電話をかける。「お電話ありがとうございます。雲上ブライダルホールでございます」「1週間後に結婚式を予約している神崎唯と申しますが、挙式と披露宴をすべてキャンセルしたくお電話いたしました」電話の向こうで、数秒ほど沈黙が流れた。「神崎様、挙式まであと1週間ですので、契約上、頭金のご返却ができかねます……」「承知しています。返金は結構ですので、すべてキャンセルしてください」「かしこまりました。差し支えなければ、キャンセルの理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」私は少し笑って答えた。「結婚したくなくなったんです」夜の11時半、玄関の鍵が開く音がした。帰ってきた亮からは、甘ったるい香水の匂いが漂っていた。彼がいつも使っている香水ではなく、美咲がつけていたものと同じ匂いだった。パソコンに向かっている私を見て、亮は一瞬足を止めた。「まだ起きてたのか?」「作品集を整理してたの」亮はまだ私が機嫌を損ねていると思ったらしく、脱いだコートを無造作にソファへ放り投げた。「いつまでも拗ねるなよ。来週には結婚式なんだから、指輪のことくらい気にするなって」それだけ言うと彼は寝室へ向かい、着替えもしないままベッドに倒れ込む。私はパソコ
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第2話

「今夜は美咲の帰国祝いがあるから、お前も一緒に来いよ」寝室の入り口でカフスボタンを留めながら、亮は有無を言わせぬ口調で告げた。私はデザイン画の修正をしていたので、顔も上げずに答える。「今夜は仕上げなきゃいけない図面があるから行けない」「お前が来なかったら、俺が周りにどう思われると思う?」亮が近づいてきて、いきなり私のノートパソコンを閉じた。「周りに聞かれたら、俺は何て説明すればいいんだ?」「仕事で残業してるって言えばいいでしょ」彼は眉をひそめた。「唯、いい加減にしてくれ」「指輪の件はもう終わった話だろ。それに、お前は俺の婚約者なんだから、こういう集まりにはちゃんと顔を出してもらわないと困るんだ」私は亮を見つめ、急に何もかも馬鹿馬鹿しくなった。「わかった。行くよ」店に着くと、個室にはすでに何人か座っていて、亮の友人である吉岡拓真(よしおか たくま)の姿もあった。美咲は白いワンピースを着て、上座のすぐ隣に座っていたが、私たちを見るなり立ち上がる。「亮くん、神崎さん、来てくれたんですね」亮は美咲のために椅子を引いて座らせると、私の椅子も引いてくれた。ただし、そこは美咲から3席も離れた場所だった。注文を取りに来た店員からメニューを受け取った私は、ひととおり目を通してからナッツサラダを頼んだ。この店に来ると、必ず注文するお気に入りの一品だった。すると、注文されたメニューが書かれた店員のメモをのぞき込んだ美咲が突然、口元を手で覆う。「どうした?」亮がすぐに心配そうな顔をすると、美咲は申し訳なさそうにまばたきをした。「私、ピーナッツアレルギーがあって……ごめんね、私のせいで頼めないものがあって……」彼女はそう言ってから、私にちらりと目を向ける。「神崎さん、気を悪くさせてしまったらごめんなさい。でも、わざとじゃないんです」亮はたちまち不機嫌そうな顔になり、店員に向き直った。「ナッツサラダはキャンセルしてください」私は顔を上げた。「それ、私が頼んだんだけど」「美咲はアレルギーなんだぞ。テーブルにピーナッツの入ったものがあったら、安心して食べられないだろ」亮は苛立った口調で続ける。「ほかの料理に変えろよ」「彼女がアレルギーなら、食べなければいいだけでしょ。料理は十品以上あるん
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第3話

夜中、激しい腹痛で目が覚めた。冷や汗が止まらず、体にまったく力が入らない。本来なら家で休んでいるはずの亮もおらず、私は痛みに耐えながら、どうにか自分で119番に電話をかけた。「もしもし……急性胃腸炎みたいで、お腹が痛くて動けないんです。住所は桜葉台の3号棟、802号室です……」救急車はすぐに到着したものの、自分では歩けないほどだったため、救急隊員2人に担架で運び出された。病院に着くと、救急外来の照明がやけに白く、目に刺さる。血圧を測りながら、看護師が尋ねてきた。「ご家族の方は?お一人ですか?」「今、連絡してみます」亮に電話をかけると、何度目かの呼び出し音でようやくつながった。「こんな時間に何だよ?」声には露骨に苛立ちが滲んでいる。「今、病院の救急外来にいるの。急性胃腸炎で……来てもらえない?」電話の向こうが数秒ほど静かになったあと、美咲の声が聞こえてきた。「亮くん、早く水道管を何とかしないと、リビングまで水浸しになっちゃうよ」すると、亮の声色が、一瞬で焦りと優しさを帯びたものに変わる。「すぐ行く」そして私にこう言った。「美咲の家の水道管が破裂しちゃったから、先にそっちを片づけてくる。お前はとりあえず一人で何とかしてくれ。金なら送るから」「亮、私、病院にいるんだよ」「病院には看護師がいるだろ。それに、大した病気じゃないんだから、それくらい自分で何とかしろ」そこで電話は切れた。数秒後、ネットバンクアプリに4万円の送金通知が届く。私はスマホをベッドに伏せ、長い間、天井を見つめていた。しばらくすると看護師が戻ってきて、何枚かの書類を差し出してきた。「こちらに署名をお願いします……あれ、ご家族の署名欄が空欄ですが、ご主人は?」「結婚していませんので」看護師は私をちらりと見たものの、それ以上は何も聞かず、書類を持って立ち去った。その後も私は一人で受付を済ませ、診察料を支払い、採血を受けて点滴を打ってもらう。手の甲に針を刺す際には、血管が細くて入りにくいと言われ、2回目でようやく針が入った。私は無機質な病院のベッドに横たわり、左手には点滴、右手はお腹を押さえたまま、じっと時間が過ぎるのを待つ。同じ病室の隣のベッドには高齢の女性がいて、付き添いの夫がミカンの皮をむいてあげ
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第4話

予定していた結婚式まで、あと3日。シャツを探そうとクローゼットを開けた亮が、ふと手を止めた。「お前の服は?なんで半分も空いてるんだ?」私はリビングで図面を描きながら、顔も上げずに答える。「クリーニングに出したの」亮は特に気にする様子もなく、適当な上着を手に取って出かけようとしたが、玄関で思い出したように振り返った。「ああ、そうだ。結婚式では美咲にもお前から話しかけてやってくれよ。帰国したばかりで知り合いも少ないんだから、こっちから気を遣ってやらないと。冷たくされたと思われたら困るだろ」私はペンを置き、亮を静かに見据える。「どうして私が彼女に気を遣わなきゃいけないの?」亮は振り返り、露骨に不機嫌そうな顔をした。「俺の友達なんだぞ。その言い方はないだろ」「あなたが4年間も追いかけてた初恋の人でしょ?その人に、結婚式の主役である私が気を遣う?おかしいと思わない?」亮は眉をひそめ、声を冷たくした。「唯、またその話かよ。何度言えばわかるんだ?俺はもう美咲をそういう目で見てない。お前はお前、美咲は美咲だろ」「じゃあ、彼女を結婚式に呼ばないで」「もう招待状を送ったんだぞ。今さら断れるわけないだろ?」彼は腕時計に目を落とす。「こんなことで言い争ってる暇はないんだ。明後日には美咲の個展が始まるから、会場の準備も見に行かなきゃいけないし」そう言って、亮は出ていった。私はその場に座ったまま、廊下を遠ざかっていく足音を聞いていた。美咲の個展の準備には誰よりも熱心なのに、私のウェディングドレスの試着には、一度も付き合ってくれなかった。午後3時、インターホンが鳴った。配達員が運び込んできたのは、大きなユリの花束が2つ。真っ白な花が満開になっていて、たちまちリビングいっぱいに強い香りが広がる。私は思わず数歩後ずさった。すでに喉が締めつけられるような感覚がある。花束に添えられたカードには、こう書かれていた。【個展の成功を祈ってる。成瀬亮】そのカードを数秒ほど見つめているうちに、鼻の奥がむずむずし始め、肌には赤い発疹が浮かんできた。私がユリの花にアレルギーがあることは、付き合い始めて1年目に伝えていた。当時、同僚から花を贈られそうになったときも、亮が代わりに断ってくれたほどで、ちゃんと覚えていたは
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第5話

亮はその場に立ち尽くしたまま書類を受け取り、何度も読み返した。みるみる彼の顔から血の気が引いていく。「そんなはずない。俺は何も聞いてません」支配人は困ったような表情を浮かべた。「成瀬様、キャンセルされているのは間違いございません。本日は当初の予定に合わせて会場を確保しておりましたが、すでにご予約が取り消されておりますので、挙式、披露宴ともにサービスをご提供できない状況でして……」会場に集まった招待客たちが、ひそひそと話し始めた。亮は書類をテーブルに叩きつけると、そのまま会場を飛び出す。車を飛ばして桜葉台のマンションへ戻り、玄関のドアを開けた瞬間、足が止まった。リビングも、寝室も、書斎も、すっかり片づけられていたのだ。クローゼットには亮の服だけが残り、靴箱にも亮の靴しかない。洗面所に残っている歯ブラシもタオルも、すべて亮のものだけだった。引き出しはどれも空っぽで、壁に飾ってあった二人の写真もなくなっていた。それどころか、冷蔵庫にいつも入っていた、亮のお気に入りのヨーグルトまで消えている。まるで、この部屋から生活の温もりだけがごっそり抜け落ちてしまったかのようだった。そんな部屋のダイニングテーブルに、2つだけ物が残されていた。結婚式の招待状と、あの12号のオーダーメイドのダイヤの指輪。しかし、招待状には何も書かれておらず、ただ白紙のままだった。指輪を手に取り裏返してみると、内側に小さな文字が刻まれている。【亮&美咲 永遠の愛】おかしい。本来なら【亮&唯】と刻まれているはずだった。亮は指輪を握りしめ、取り乱したように唯へ電話をかけ始めた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」別の電話番号からかけ直しても、同じ案内が流れるばかりだった。30回以上かけ続けたが、一度もつながらない。亮は、あとを追ってきた美咲に顔を向けた。「お前のスマホからかけてくれ」美咲がスマホを取り出して唯に電話をかけると、呼び出し音が3回鳴ったところで、すぐに切られた。そして再びかけると、「おかけになった電話番号は、現在使用されておりません……」という無機質なアナウンスが聞こえてきた。亮の手からスマホが滑り落ち、鈍い音を立てて床に落ちる。美咲はそっと近づき、遠慮がちに亮の袖を引いた。「亮く
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第6話

それから3日後、拓真から短いラインが届いた。【亮がもうおかしくなってます】私は返信せず、そのまま通知を消した。それでも、その後の出来事は少しずつ耳に入ってきた。亮は桜葉台のマンションの管理会社に頼んで防犯カメラの映像を確認し、私が1週間も前から少しずつ荷物を運び出していたことを知ったらしい。その日の夜、亮は車を飛ばして私の実家へ向かったようなのだが、玄関のドアを開けたのは父だった。「唯を迎えに来ました」けれど、父は亮を家に入れようとせず、冷たい目を向ける。「唯はお前に会いたくないと言ってるから、もう来るな」それでも亮は玄関先から動こうとしなかった。「結婚式のことは俺が悪かったんです。もう一度、ちゃんと式を挙げ直しますから」すると、家の中から出てきた母が、亮の手に封筒を押しつけた。「この5年間、唯があなたのために使ったお金よ。全部で756万円。あの子が記録していたから、自分の目で確かめて」亮は封筒に目を落としたまま、何も言わなかった。父は亮の鼻先に指を突きつける。「うちの娘は5年間もお前と一緒にいたんだぞ。それなのに、いったい何だと思ってたんだ?5年間もあの子を粗末に扱っておいて、ようやく目が覚めたと思ったら、今さら何をしに来た!」父はそう言い放ち、亮の目の前で勢いよくドアを閉めた。亮はしばらく玄関先に立ち尽くしていたが、やがて車に戻り、そのまま街へ帰っていった。会社に戻ってからも、うまくいかないことばかりだったらしい。以前、私が整理していた顧客資料は、重要度ごとに色分けし、優先順位に沿って並べてあった。けれど、亮が自分で探そうとすると、書類はたちまちぐちゃぐちゃになってしまう。翌四半期の提案資料も、私がパワーポイントでレイアウトを整えていたが、元のデータは私のパソコンと一緒になくなっていた。秘書が水を一杯持ってくると、亮は一口飲んで眉をひそめた。「なんで冷たいんだ?」秘書はおそるおそる答える。「社長、以前はいつも神崎さんが、あらかじめ温かいものをご用意されていましたので……」亮ははっとしたように動きを止め、コップを持ったまま、長い間デスクの椅子に座っていた。そんな亮の様子を聞きつけ、自分から会社へ世話をしにやって来た美咲。美咲がコーヒーを淹れて差し出すと、亮は一口
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第7話

深津市に来て3週間目、私は入社後初めての大型案件を獲得した。クライアントは地元最大手の商業不動産グループ。当初はベテランデザイナーが担当する予定で、新人の私にはコンペに参加する資格すらなかった。それでも部長から予備案を2つ作るよう指示され、私は4日連続で徹夜し、最終的に5つの案を提出した。プレゼン当日、クライアントの責任者が3つ目の案を指さした。「これがいいですね。誰が作ったんですか?」部長は一瞬驚いた顔をしたあと、私を指した。「彼女です。まだ入社して1か月も経っていない新人なんですが」打ち上げは会社の上階にある隠れ家的なレストランで開かれ、チームの20人以上が一つの大きなテーブルを囲んだ。宴もたけなわになった頃、営業の渡辺慎也(わたなべ しんや)がグラスを持って近づいてきた。「神崎さん、乾杯しようぜ。今日は、神崎さんが会社の株を上げてくれたんだから」私はお茶の入ったグラスを持ち上げる。「すみません、アルコールアレルギーがあるので、お茶で乾杯させてください」「ビール一杯くらいなら大丈夫だろ」慎也はなかなか引き下がらなかった。私がもう一度断ろうとしたとき、横から伸びてきた手が、慎也のグラスをそっと遮った。「アレルギーがあると言っているんですから、無理に勧めるのはやめましょう」振り向くと、ダークグレーのシャツを着た、落ち着いた雰囲気の男性が立っていた。部長が慌てて立ち上がる。「桐生代表!」今回のプロジェクトにも出資し、さらには築・境キャピタルのパートナーでもある桐生俊平(きりゅう しゅんぺい)。彼は慎也のグラスをやんわりと押し戻すと、自分の前にあったお茶を手に取った。「では、僕が神崎さんとお茶で乾杯しよう。プロジェクトの受注、おめでとう」俊平は穏やかな口調でそう言い、私のグラスに軽く触れた。それ以上、特別なことを言うわけでもない。慎也は気まずそうに笑い、その場を離れていった。「桐生代表、ありがとうございます」私が小声で礼を言うと、俊平はちらりと私を見た。「アレルギーがあるのは、アルコールとユリの花だったよね?」私は驚いて顔を上げた。「入社時の書類に書いてあったから、少し目を通したんだ」俊平はそれだけ言うと、すぐにほかの人との会話に戻り、それ以上は話しかけてこなかった。会が
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第8話

亮が会社から追い出されて3日後、また現れた。今回はオフィスに乗り込んできたわけじゃなく、退勤時に私が必ず通る交差点で待ち伏せしていた。オフィスビルを出ると、手には小さな箱を握りしめながら道端に立つ亮の姿が遠くからでも見えた。私が近づくと、亮は大きく息を吸い、突然その場に片膝をつく。「唯、もう一度だけチャンスをくれ」開いた箱の中には、以前とまったく同じデザインのダイヤの指輪が入っていた。ただ、サイズだけは明らかに大きくなっている。「街中の職人を探し回って、作り直してもらったんだ。14号。今度こそ、お前のサイズだ」通行人が次々と足を止め、スマホを向ける人まで現れた。彼は地面に膝をついたまま、目を赤くして私を見上げている。「今までは全部俺が悪かった。指輪のサイズも、お前がどれだけ大切な存在だったかも、わかってなかったんだ。今度はちゃんとした指輪を用意した。もう二度と間違えない」私は目の前の指輪を見下ろしたが、心は少しも動かなかった。「立って、亮」「お前が頷いてくれるまで、俺は立たない」その頑なな目を見ていると、急にどっと疲れが押し寄せてきた。「指輪はそれで合ってる。でも、相手が違うよ」差し出された亮の手が宙で止まり、唇がかすかに震えた。「どういう意味だ?」「指輪のサイズは直せても、人はそう簡単に変わらないってこと」それだけ告げて私が背を向けると、亮はもう追いかけてこなかった。交差点のそばには黒いマイバッハが停まっていて、後部座席の窓が半分ほど開いていた。乗っていたのは俊平で、私が近づくと、車のドアを開けてくれた。「乗って」私が乗り込み、ドアが閉まると、俊平は窓越しに、まだ地面に膝をついている亮をちらりと見た。けれど何も言わず、車内の暖房を少し強めただけ。車が走り出し、バックミラーに目をやると、亮はまだその場に跪いていた。開いた指輪の箱を掲げたまま、大勢の野次馬に囲まれている。亮があれほど大勢の前で恥をかいたのは、きっと初めてだっただろう。5年間も私の心をつかんで離さなかったその人は、今ではもう、道端にぼんやりと見える人影でしかなかった。俊平が温かいコーヒーを差し出してくれた。「手が冷えてる」受け取ったカップに指先が触れると、心地よい温かさが伝わってくる。
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第9話

俊平の仕事は、思っていた以上に早かった。翌日の午前中には、クライアントからの残金の支払いが再開されるという通知が会社に届いた。部長が慌ただしく私の席にやってくる。「神崎さん、成瀬グループが出資を引き揚げたそうだ。経営戦略の見直しが理由らしい」私は驚くこともなく、うなずいた。けれど、話はそれだけでは終わらない。その日の午後、成瀬グループの株価は4%下落。主力の不動産事業でも、築・境キャピタルに重要な2つの土地の入札権を奪われたという。業界では、亮が怒らせてはいけない相手を敵に回したという噂が広まっていた。もっとも、私にはもう関係のない話だった。しかし3日目の夜、見知らぬ番号から着信が入る。「唯、俺だ」亮の声は、誰かも分からないほどかすれていた。「桐生社長にもう手を引くよう言ってくれ。俺、もう限界なんだ……」私はベッドの背もたれに寄りかかったまま、淡々と答える。「かけ間違いじゃないですか?成瀬さん」「俺を恨んでるのはわかってる。でも、ここまで追い詰める必要があるのか?」思わず笑ってしまった。「クライアントからの支払いを止めて、私の会社の仕事を潰そうとしたのは誰?私を失業させて、戻ってこさせようとしたことについてはどうなの?」亮が黙り込む。「亮、私がこの電話に出たのは、ひとつ忠告しておきたかったから。白石さんのマンションを買ったときの記録も、その購入資金を会社の経費に紛れ込ませた証拠も、全部残してあるから」電話の向こうで、亮の呼吸が急に荒くなった。「……何が言いたいんだ?」「これ以上しつこくするなら、証拠をしかるべきところに提出するだけってこと」「お前にそんなことできるわけないだろ」「そう思うなら、試してみれば?」私は電話を切り、その番号を着信拒否にする。手は震えなかったし、鼓動が速くなることもなかった。5年間の付き合いの中で、初めて亮の顔色をうかがわずに済んだ気がした。あとになって、拓真からその夜の話を聞いたのだが、亮は午前3時まで会社に残っていたらしい。翌朝、秘書がオフィスのドアを開けると、亮はデスクの下で体を丸めて倒れ込んでいて、口元には血の跡まであったという。持病の胃痛が、またひどくなったのだ。以前なら、発作が起きるたびに私が夜中でも起き出して牛乳を
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第10話

美咲が逃げようとした。そう教えてくれたのは拓真で、その声には、どこかいい気味だと言わんばかりの響きがあった。亮が入院している間、美咲はひそかに不動産会社へ連絡し、亮に買ってもらったマンションを売りに出そうとしていたという。マンションの名義は亮のままだったが、美咲は売却手続きを代行できる委任状を持っていた。その委任状というのは、去年、酔っ払った亮が内容も確かめずに署名したものだったらしい。ところが、不動産会社が物件情報を掲載した途端、亮のスマホに通知が届き、彼は点滴を自分で外し、病院からタクシーでマンションへ向かった。玄関を開けると、美咲はリビングで荷造りの真っ最中だった。スーツケースが2つ開かれ、ローテーブルには不動産関係の書類や仲介契約書が広げられている。亮は玄関に立ったまま、その光景を険しい顔で見つめた。「何しているんだ?」美咲は一瞬手を止めたが、すぐに平静を装う。「亮くん。この部屋はあなたのものだから、もう住めないと思って出ていくだけ」「だったら、売りに出してるのはどういうことだ?」美咲は口をつぐんだ。亮がテーブルの契約書を手に取ると、売却希望価格は、相場を大幅に下回る金額で、すでに買い手から手付金まで受け取っていた。「マンションまで勝手に売るつもりだったのか?」美咲は突然立ち上がり、目に涙を浮かべる。「亮くん、今のあなたは会社も大変なことになって、自分のことで精いっぱいじゃない!そんなあなたと一緒にいて、私に何の未来があるの?私だってこんなことしたくなかった。でも、あなたがそうさせたんでしょ!」亮は、まるで知らない人を見るかのように、呆然と美咲を見つめた。「マンションも車も買ってやったし、毎月40万円も口座に振り込んでた。それなのに、俺のせいだって言うのか?」美咲は答えず、テーブルの上にあったパスポートと航空券を取ろうと、手を伸ばす。亮はその手を押さえた。「どこにも行かせない」美咲は勢いよく手を振り払い、数歩後ずさったかと思うと、誰も予想しなかった行動に出た。テーブルの灰皿をつかみ、自分の額に思い切り叩きつけたのだ。前髪の下から血が流れ、美咲は床にへたり込むと、金切り声を上げる。「殴ったわね!私を殴ったわね!」騒ぎを聞きつけた隣人が通報し、間もなく警察官が駆け
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