LOGIN結婚指輪を選びに行ったとき、店員がダイヤの指輪を差し出すと、成瀬亮(なるせ りょう)は何の迷いもなく白石美咲(しらいし みさき)に渡す。 美咲の細く華奢な指には、その指輪が驚くほどよく似合っていた。 亮はしばらく見とれていたが、やがて店員に向き直った。 「12号で作ってください」 私・神崎唯(かんざき ゆい)は自分の手を差し出す。「私の指は14号だよ。12号じゃ入らない」 すると、亮は面倒くさそうに眉をひそめた。「手の大きさなんて大して変わらない。それに、美咲がつけて似合ってるんだから、それでいいだろ?」 隣にいた亮の友人が、笑いながら口を挟んだ。 「そこは大目に見てあげてくださいよ。亮が昔、美咲さんに夢中だったのは学校中が知ってましたから。亮の長年の夢を叶えさせてやると思って、ね?」 すると、亮は否定もせず、ただ一言だけ言った。「変に勘ぐるなよ」 私はふっと笑う。 これは亮が昔の夢を叶えるための時間だというのなら、もう好きにさせてあげようではないか。
View More3年後、私は深津市に家庭を築いた。俊平との間には娘が生まれ、桐生安奈(きりゅう あんな)と名付けた。ある週末、私たち家族三人はショッピングモールへ出かけた。歩けるようになったばかりの安奈は、私の手を振りほどくと、よちよちと前へ走り出した。俊平は慌てて腰をかがめ、転ばないように両手を広げて追いかける。私は安奈に買ってあげた風船を持ちながら、そんな二人を笑って見守っていた。俊平は安奈をひょいと抱き上げ、私を振り返った。「危ないなあ。唯、ちゃんと手をつないでてよ」「ふふっ、俊平にそっくり」「どこが?どう見ても唯似だろ。あの頑固なところとかさ」私は笑いながら安奈を受け取った。安奈は私の肩に顔を寄せ、楽しそうに髪を引っ張ってくる。途中でスイーツショップに立ち寄り、アイスクリームを3つ買った。安奈は自分で食べたがって、あっという間に口の周りをべたべたにしてしまった。俊平はティッシュを取り出し、手慣れた様子で拭いてやる。そんな父娘の姿を眺めていると、ふと思った。これから先も、こんな何気ない日々がずっと続いていくのだろう。急ぐ必要なんてない。一日一日を、大切に過ごしていけばいい。そのとき、道路の向こう側に亮がいたことを、私は知らなかった。亮はシャッターの下りた店の前に立ち、コンビニで買った値引き品のパンを袋に入れて提げていた。以前よりずっと痩せ、伸びた髪も切らないまま、色あせたジャケットを着ていた彼。そんな亮は、唯の姿を見つけた瞬間、その場から動けなくなった。なぜなら、唯が笑っていたから。しかも、自分が見たことのない笑顔で。5年間、亮は唯のいろいろな表情を見てきた。疲れた顔も、何かを我慢している顔も、機嫌を取ろうとする顔も、がっかりした顔も……けれど、こんな笑顔だけは見たことがなかった。誰かの顔色をうかがう必要もなく、ただ自然に、幸せそうに笑っている笑顔。「ママ!」安奈に呼ばれ、私は顔を寄せてその小さな額にキスをした。俊平は私の肩を抱き、車道から少し離れた側へそっと誘導してくれる。私は安奈を抱いたまま俊平の腕に手を添え、三人で歩いていった。道路の向こうにいる亮には、最後まで気づかなかった私。けれど、俊平は気づいていた。彼はふと足を止め、その方向へと視線を向ける。その視線に気づいた
亮が取締役会で解任されたと知ったのは、会社の給湯室でのことだった。スマホを見ていた同僚が、隣の人に話しかけていた。「成瀬グループ、社長が交代したんだって。前の社長が不信任決議で解任されたらしいよ」私はコップに水を注ぐと、そのまま自分の席へ戻った。詳しい話は、後から拓真が教えてくれた。取締役会は1時間半続き、投票結果は7対2で亮の惨敗だったという。議長席に座っていた亮は、結果を聞いてもしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、一言だけ口にした。「分かった。サインする」必要な書類に署名すると、デスクに残っていた私物を段ボール箱に詰め、一人で会社を出ていった。見送る者は誰もいなかった。以前なら、会社に出入りするだけでも秘書やアシスタント、運転手が付き従っていたというのに。その日は段ボール箱を抱えて一人でタクシーに乗り、古い集合住宅へ向かった。亮が借りたのは、家賃の安い小さな部屋。壁紙は剥がれ、水道管は錆びつき、窓もきちんと閉まらないようなところだったという。引っ越した初日、亮は酒を2ケース買い込み、部屋に閉じこもった。それから3日間、一歩も外へ出なかったらしい。意識がなくなるまで飲み、目が覚めればまた飲む。電話にも出ず、インターホンが鳴っても応じなかった。4日目になって、亮は段ボール箱の中を探っているうちに、ひとつのビニール袋を見つけた。中に入っていたのは胃薬。それは私が昔、毎月買ってストックしていたもので、使用期限はまだ半年残っていた。その隣には、灰色のマフラーも入っていた。付き合い始めて最初の冬、私が亮のために編んだもの。でも、編み目は不揃いで、決して上手な出来ではなかったため、亮には「ダサい」と嫌がられ、一度も巻いてもらえなかった。そして、袋の底には私が書いた小さなメッセージカード。【亮、お酒はほどほどにして、薬はちゃんと飲んでね。冬は寒いから、マフラーも忘れずに】亮は床に座り込み、マフラーを胸に抱えたまま、背中を丸めて長いこと動かなかった。薬は2年前に購入したもので、マフラーには毛玉ができていた。ずっと手元にあったものなのに、亮は一度も取り出して見ようとしなかった。拓真によると、その夜の亮はさらに酒をあおり、床一面に空き瓶を転がしていたらしい。深夜2時、彼は窓を開けて
結婚式は、深津市が一年で最も過ごしやすい10月に決まった。俊平は海の見えるホテルを丸ごと貸し切り、花から照明に至るまで、すべて私の好みに合わせて準備してくれた。ユリの花も、派手な装飾もない。会場を彩るのは、白いバラとかすみ草だけ。結婚式当日の朝、私は鏡の前に立っていた。オーダーメイドのウェディングドレスはウエストの位置もぴったりで、どこにも窮屈さがない。入り口で待っていた俊平は、私の姿を見るなり数秒ほど言葉を失った。「……すごくきれいだ」「ありがとう」俊平はそばに来ると、ベールの形をそっと整えてくれた。「緊張してる?」「ううん、してない」それは本心だった。以前、亮と挙げるはずだった結婚式では、緊張のあまり、予約の段階で2回も吐いてしまった。けれど今日は、不思議なくらい心が穏やかだった。挙式が始まる前、俊平がひとつ教えてくれた。「成瀬さんにも、招待状を送っておいた」私は顔を上げて彼を見た。「あなたが送ったの?」「うん。差出人の名前は書かずに、日時と場所だけ知らせた」少し考えてから、私はうなずいた。「そっか。わかった」結婚式は滞りなく進み、会場は大勢の招待客でにぎわい、あちこちで祝福の声とグラスの触れ合う音が響いていた。父に手を引かれバージンロードを歩き、俊平と指輪を交換したときも、手は少しも震えなかった。指輪は14号。私の指に、ぴったりだった。私が壇上で笑顔を見せると、会場の大きなスクリーンに私たちのウェディングフォトが映し出される。写真の中の私は、どれも心から楽しそうに笑っていて、5年前、亮と撮った写真とはまるで違っていた。あのときの写真は終始笑っていたけれど、心からの笑顔は一つもなかった。けれど今日の笑顔は、どれも、心からの笑顔だった。きっと亮がこの光景を見ることはないだろう。けれど後になって、亮はそのすべてを見ていたのだと、拓真から聞かされた。亮がホテルに着いた頃には、すでに挙式が始まっていた。以前と同じ紺色のスーツを着ていた亮は、ホテルの入り口で二人の警備員に呼び止められる。「お客様、招待状を拝見できますか?」亮が差出人の名前のない招待状を取り出すと、警備員はそれを確認してから首を横に振った。「申し訳ございません。こちらの招待状ではご
業界関係者が集まる晩餐会は、深津市でも指折りの高級ホテルで開かれることになっていた。市内のデザイン業界で名の知れた人たちが、こぞって出席するという。私は深緑色のロングドレスを着て、髪をアップにまとめた。耳元には、俊平から贈られた真珠のピアスが揺れている。隣に立つ俊平は、黒いスーツ姿で私に腕を差し出した。「準備はいい?」私はその腕にそっと手を添えた。「ええ、大丈夫」明るい照明に照らされた会場へ足を踏み入れると、あちこちに見知った顔があった。私に声をかけてくる人もいれば、俊平をちらちらと見て、興味深そうな顔をする人もいる。そして、シャンパンのグラスを手にクライアントと少し話し、振り返ろうとしたとき、入り口付近に立つ人影が目に入った。それは、亮だった。紺色のスーツを着ていたが、ネクタイは曲がり、シャツの襟元のボタンも一つ外れている。手に持っていたのは、コンビニで売っているような紙カップのホットミルクだった。ずいぶん痩せているようで、頬骨が浮き出て、目も落ちくぼんでいる。1か月前、私の職場に押しかけて騒ぎを起こしたときとは、まるで別人のようだった。亮はずっと私を見ていて、私が動くたび、その視線もついてくる。俊平も気づいたらしく、少しかがんで私の耳元で囁いた。「来てるね」「うん、見えた」「僕が対応しようか?」「大丈夫。何もできないと思うから」そう答えたものの、私は亮がどこまで見境をなくしているのか、まだわかっていなかった。スイーツコーナーへケーキを取りに行ったとき、亮が突然、人混みの中から姿を現した。周囲の人たちも気づき、会場が一瞬静まり返る。亮は私の前まで来ると、持っていたホットミルクを差し出した。「唯、胃が悪いだろ。これでも飲みなよ」私は受け取らない。「何しに来たの?」「お前に会いたかったんだ」「じゃあ、もう会えたでしょ。帰って」それでも亮は動かなかった。次の瞬間、膝を折り、その場に跪く。会場がどよめいた。「唯、もう一度だけチャンスをくれ。悪いところは全部直す。これからは何でもお前の言うとおりにするから……」亮はホットミルクを差し出したまま、惨めなほど必死に私を見上げていた。周囲ではひそひそと話す声が広がり、スマホを構える人も出てきた。私はただ、足元に跪
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