音楽や舞台の話を交えると、崇徳天皇の和歌は想像以上に現代の創作シーンに寄与していると感じる。私が関わるサブカルチャー領域でも、崇徳の〈
怨み〉や〈哀しみ〉といった情緒は、劇や楽曲の情感を作る素材として頻繁に用いられる。『百人一首』のような古典選集に登場する和歌がポピュラーに流布している事情も手伝って、崇徳の歌の断片が現代の歌詞やナレーションに溶け込むことが多いのだ。
個人的には、ある舞台作品を観ているときに崇徳の一首を思い出して、演出の意図がより深く理解できた経験がある。和歌の凝縮された感情表現は、現代の短い媒体──たとえばCDのブックレットや劇のワンシーン──で非常に強い効果を発揮する。さらに、現代詩や短歌を嗜む若い世代の創作者が、崇徳の
表現技法を取り入れて新しいリズム感を模索しているのも興味深い。
結局、私にとって崇徳の和歌は過去の遺物ではなく、感情の訓練場であり続ける。和歌が生む緊張と余韻は、舞台や音楽の世界で現代的なエモーションを生む源泉になっていると実感している。