多面的に見れば、原作と映画で
ケヴィンの役割が変わる理由はかなり明確だと感じる。小説版の構造が母親の内面を通してケヴィンを語らせる形式だったため、読者は彼を「観察される存在」としてしか受け取れない。母の手紙というフィルターを通した描写は、ケヴィンの意図や心情をあえて曖昧に残し、悪意の根源を問い続ける装置になっている。その結果、ケヴィンは物語上で犯人であると同時に、親子関係や責任論を象徴する抽象的な存在にもなる。
映画版ではそのフィルターが取り払われるぶん、ケヴィンの具体的な行動や表情が前面化する。映像は観客に直接的な手がかりを与えるため、彼の振る舞いはより「物語の動力源」として機能するようになる。原作の曖昧さが信頼できない語り手の問題を生み出していたのに対し、映画は視覚的手段で緊張や恐怖を直截に演出する――その差が、ケヴィンの役割を単なる記号から生きた対立者へと変える。
そういう違いを踏まえると、自分はどちらの表現もそれぞれの意図を持っていると思う。原作は問いを残すことで読後感を長く引きずらせ、映画は瞬間的な衝撃と共感の揺れを作り出す。ケヴィンがどう「機能するか」はメディアごとの語法に強く依存している、という結論に落ち着く。