憂いを払いし春風
帝都の社交界では、神崎駿(かんざき しゅん)は桜庭絵理(さくらば えり)のために生きていると囁かれていた。
幼稚園の頃、駿は鉛筆の先から絵理をかばい、思春期には彼女の昼寝を邪魔する蝉を追い払うため木に登った。
成人してからは、絵理の「春っていいね」という何気ない一言のために、世界中の春の名所に十数軒の別荘を購入し、いつでも春のデートに誘えるよう備えた。
記憶を失って道を踏み外した時期もあったが、駿は人生のほとんどを絵理に捧げてきた。
結婚後、絵理がALSと診断され、周囲が離婚を勧めても、彼は黙って意識を失った彼女を背負い、石碑が並ぶ山寺を額を地につけて一歩一歩巡り、「生」の字が刻まれた石を彼女の手で撫でさせ、ただひたすら延命を祈った。
彼の愛を疑うことなどなかった――絵理が死を宣告された、あの厳冬の夜までは。
駿は絵理を抱きかかえたまま、一晩中座り続けた。額を彼女の頬に寄せ、低く囁く――
「絵理……俺はこの人生で君への責任を全うした。もし来世があるなら、俺と彼女を結ばせてほしい」