Short
歳月は易く過ぎ去り以後は会わず

歳月は易く過ぎ去り以後は会わず

By:  小豚狐Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
27Chapters
23views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

「先生、私、決めました。黎明自由国の紅蓮ダンスカンパニーからのお誘いをお受けします」 電話の向こうで、恩師・水城晴(みずき はる)の声から、抑えきれない喜びが伝わってきた。 「ようやく決心がついたか。すぐに手配してやろう。俺の教え子なら、将来と男のどちらを選ぶべきかくらい、分かっていて当然だ。一週間だけ時間をやる。友人たちとしっかり別れを済ませておけ」 星野美玲(ほしの みれい)は小さく「はい」と答え、電話を切った。そして、二十年以上を過ごしてきた星野家と婚約者に、完全に別れを告げた。

View More

Chapter 1

第1話

「先生、決めました。紅蓮ダンスカンパニーからのお誘いを受けます」

電話口の向こうから、恩師・水城晴(みずき はる)の声が弾み、抑えきれない喜びが伝わってくる。

「ようやく決心がついたか。すぐに手配してやろう。俺の教え子なら、将来と男のどちらを選ぶべきかくらい、分かっていて当然だ。一週間だけ時間をやる。友人たちとしっかり別れを済ませておけ。

それから、両親によろしく伝えておけよ。俺は先に渡航の準備を進めておく」

星野美玲(ほしの みれい)は小さく返事をして電話を切った。無意識に手首の金の腕輪へと指が伸びる。

その黄金の輝きの下には、ムカデのように醜くうねる傷痕が隠されていた。

選んだのは美玲ではない。男も家族も、彼女を切り捨てる道を選んだのだ。

化粧室の外から、控えめなノックが響く。

「美玲、入っていい?」

言葉より早く、星野瑠花(ほしの るか)が扉を押し開けた。大きく潤んだ瞳は、誰を見ても怯えた小動物のような無垢を装う。

白い首筋に浮かぶいくつかの赤い痕がいやでも目を引いた。

美玲の視線に気づいた瑠花は恥じらうように襟をかき合わせ、甘ったるい声で言う。

「もう、隼翔のせいなのよ。どうしても私に絡んでくるんだから」

美玲は冷ややかな表情しか返さない。

瑠花の口にする隼翔は、かつて美玲の婚約者だった。

しかし今では瑠花の婚約者である。

美玲は忘れていない。瑠花が家に戻ってきたばかりの頃、花村隼翔(はなむら はやと)は美玲を屋上に呼び出し、満天の星空を指差して誓った。

「俺が欲しいのは美玲だけだ。誰が戻ってきても、愛しているのは永遠に美玲だけだ」

――その熱烈で堂々とした愛は、わずか一年と三ヶ月しか続かなかった。

別の夜、同じような星空の下で隼翔は服装の乱れた瑠花を抱きしめ、星野家の大広間で膝をついた。

そして懇願したのだ。「婚約者を美玲から瑠花に替えてほしい」と。

この無垢そうな顔の奥に、どれだけの汚れと打算が潜んでいるのだろう。

だが幸いなことに、美玲はまもなく去る。

彼女は先ほど晴に海外行きを承諾し、紅蓮ダンスカンパニーのダンス顧問の仕事を受けると答えたばかりだった。

最後の国内公演を別れの舞台とし、美玲は二度とこの甘美な愛に酔う二人を邪魔することはない。

「美玲、今回の主役、私に譲ってくれない?お願い」瑠花は美玲の手を取り、甘えるようにせがむ。

長年その手で、美玲のものを次々と奪ってきた。

美玲はうんざりし、強く手を振り払った。「出て行って!」

「美玲……」

瑠花はその勢いで床に倒れ込み、細い手で白い脛を押さえる。瞳には瞬く間に涙があふれ唇を噛んだ。

そこへ隼翔が扉を開けて飛び込んできた。二歩で駆け寄り、まるで宝物を抱くように瑠花を支える。

整った眉を寄せ、心配そうに怪我の有無を尋ねる。

瑠花は弱々しく首を振り、か細い声で答えた。「大丈夫。美玲はわざとじゃないの。私がうまく立てなかっただけ」

その声は嗚咽に震え、とても「大丈夫」には聞こえなかった。

美玲は眉をひそめる。彼女は瑠花を突き飛ばしてはいない。ただ手を振り払っただけだ。こんな稚拙な演技を誰が信じるというのか。

だが隼翔は信じた。

冷たい眼差しを美玲に向け、低い声で言う。「美玲……俺はお前を、星野家に甘やかされたわがままなお嬢様だと思っていた。だが、気性が荒くても少なくとも正々堂々としていると信じていたんだ」

騒ぎを聞きつけ、星野家の三人の兄たちが駆けつける。

彼らは瑠花を囲んで気遣い、その視線は美玲に責めと失望を投げかけた。

「瑠花はずっとお前の代わりに苦しんできたんだ。少しくらい譲ってやれないのか?今回はもう舞台に出るな、瑠花に任せろ」

長兄・星野瑛斗(ほしの えいと)は、いつも最後に決定を下す存在だ。

その一言で、美玲の心は完全に砕け散った。

これは美玲にとって最後の舞台だ。彼女はただ愛するダンスをきちんと終え、皆にしっかりと別れを告げたかった。

なにしろ海外に出れば、美玲は二度と戻らないのだから。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

Comments

No Comments
27 Chapters
第1話
「先生、決めました。紅蓮ダンスカンパニーからのお誘いを受けます」電話口の向こうから、恩師・水城晴(みずき はる)の声が弾み、抑えきれない喜びが伝わってくる。「ようやく決心がついたか。すぐに手配してやろう。俺の教え子なら、将来と男のどちらを選ぶべきかくらい、分かっていて当然だ。一週間だけ時間をやる。友人たちとしっかり別れを済ませておけ。それから、両親によろしく伝えておけよ。俺は先に渡航の準備を進めておく」星野美玲(ほしの みれい)は小さく返事をして電話を切った。無意識に手首の金の腕輪へと指が伸びる。その黄金の輝きの下には、ムカデのように醜くうねる傷痕が隠されていた。選んだのは美玲ではない。男も家族も、彼女を切り捨てる道を選んだのだ。化粧室の外から、控えめなノックが響く。「美玲、入っていい?」言葉より早く、星野瑠花(ほしの るか)が扉を押し開けた。大きく潤んだ瞳は、誰を見ても怯えた小動物のような無垢を装う。白い首筋に浮かぶいくつかの赤い痕がいやでも目を引いた。美玲の視線に気づいた瑠花は恥じらうように襟をかき合わせ、甘ったるい声で言う。「もう、隼翔のせいなのよ。どうしても私に絡んでくるんだから」美玲は冷ややかな表情しか返さない。瑠花の口にする隼翔は、かつて美玲の婚約者だった。しかし今では瑠花の婚約者である。美玲は忘れていない。瑠花が家に戻ってきたばかりの頃、花村隼翔(はなむら はやと)は美玲を屋上に呼び出し、満天の星空を指差して誓った。「俺が欲しいのは美玲だけだ。誰が戻ってきても、愛しているのは永遠に美玲だけだ」――その熱烈で堂々とした愛は、わずか一年と三ヶ月しか続かなかった。別の夜、同じような星空の下で隼翔は服装の乱れた瑠花を抱きしめ、星野家の大広間で膝をついた。そして懇願したのだ。「婚約者を美玲から瑠花に替えてほしい」と。この無垢そうな顔の奥に、どれだけの汚れと打算が潜んでいるのだろう。だが幸いなことに、美玲はまもなく去る。彼女は先ほど晴に海外行きを承諾し、紅蓮ダンスカンパニーのダンス顧問の仕事を受けると答えたばかりだった。最後の国内公演を別れの舞台とし、美玲は二度とこの甘美な愛に酔う二人を邪魔することはない。「美玲、今回の主役、私に譲ってくれない?お願い」瑠花は美玲の
Read more
第2話
「お前の体にはまだ傷が残っている。今回くらいは譲ってもいいだろう。傷が癒えたら、いくらでも踊ればいい」次男・星野颯真(ほしの そうま)は眉間に皺を寄せて言った。三男・星野直哉(ほしの なおや)は、いつものように強気な口調で言い放つ。「美玲、もし瑠花と張り合うつもりなら、もう二度と舞台には立たせないぞ」胸が締めつけられるように苦しい。それでも美玲は必死に声を絞り出した。「長男様、この舞台は私にとって本当に大切なものなんです。だから、どうしても……」「星野家の力は分かっているだろう。俺たちはお前の家族だ。俺たちが反対すれば、誰もお前を舞台に立たせはしない」 長男・瑛斗の冷ややかな言葉が重なり、美玲の声は遮られた。美玲は苦笑する。――星野家が誇る強硬なやり方を、ついには自分に向けてきたのか。「瑠花、行こう。お前、レゴが好きだったよな?直哉が組み立ててくれたぞ」兄たちに囲まれて宥められるうちに、瑠花は涙をぬぐい、隼翔の胸に身を預けて微笑む。「うん、ありがとう、直哉兄さん」「じゃあ、もう泣くのをやめよ」四人の男はまるで星が月を取り巻くかのように瑠花を守り、その場を去っていった。残された美玲は呆然と立ち尽くす。――この二十数年は、まるで儚い夢のようだった。夢の中で、美玲もまた兄たちと隼翔から惜しみない愛情と庇護を受けていた。当時、美玲は星野家ただ一人の小さな姫として、三人の兄と婚約者の隼翔がいつも彼女を中心に取り巻いていた。毎朝の食卓には美玲の前に四人分の朝食が並び、四人の男は期待と焦り、入り混じった眼差しで彼女を見守った。困ったように溜息をつく美玲を見て、両親は微笑んでいた。「星野家のお姫様には、これくらいの愛情を与えて当然だ」――みんながそう言った。六歳の頃、美玲は舞台で踊るダンサーに心を奪われた。両親は苦労をさせたくないと反対したが、四人の兄は小遣いを切り詰めて学費を工面し、美玲の夢を支えた。三男・直哉は学校で「一日限定の恋人」を引き受けるアルバイトまでして、ダンスの資金を稼いだ。隼翔はクラスメイト全員を使い、美玲のために人生初の舞踏会を開いた。拍手してくれた子には宿題を写させてやる、そんな取引までして。両親も花村家の両親も、その話を聞いて呆れながらも笑っていた。やがて皆が成長すると、隼翔は酒に酔
Read more
第3話
ドアを閉めた瞬間、美玲は世界から自分を切り離した。楽屋に戻り荷物の整理を始める。ダンスカンパニーに入って十年。取り出した品々が床一面を埋め尽くしていく。美玲は、精巧な置物や今ではもう手に入らないぬいぐるみを呆然と見つめる。子どもの頃から、彼女はふわふわしたぬいぐるみが大好きだった。新しいシリーズが発売されるたびに、兄たちや隼翔があの手この手で買ってきてくれたものだ。そして頭を撫でながら決まってこう言った。「うちのお姫さま、美玲には全部そろえてあげないとね」しかしその後、瑠花が現れると。美玲の部屋に新しいものが増えることは二度となかった。美玲自身も、まるで古びた物のひとつになってしまったかのように。今、彼女は去ろうとしている。過去の品々を残しておく意味も、もう失われた。美玲は回収業者に電話をかけ、すべて引き取ってもらうことに決めた。回収車を待つ間、ダンスカンパニーの仕事の引き継ぎに向かう。団の幹部たちは誰ひとりとして送別の舞踏会の話題を口にしなかった。美玲もまた、沈黙を選んだ。ここでは星野家の力に逆らうことはできない。そしてもう、彼らのために心を砕く気もなかった。自分の送別舞踏会など、星野家と瑠花への償いとして差し出せばいい。ダンスカンパニーを出ると、隼翔の車が行く手をふさいでいた。「美玲さん、隼翔さんがお待ちです。ハイアットホテルまでご同行を」「行きません」美玲は踵を返す。「美玲さん、俺たちを困らせないでください」四人の護衛が退路を塞ぐ。その顔は、皆見覚えのあるものだった。かつて隼翔が彼女を守るためにつけてくれた人間たち。なのに今は彼女を脅すために動かされている。美玲はうつむき、広い車内に身を滑り込ませた。「絶対に無理強いはしない」――隼翔のその言葉が、まだ耳に残っている。だが彼女はもう隼翔の婚約者ではない。特別に庇われる資格もない。――それでいい。こうして距離を置けば心も澄み渡る。車は「ハイアットホテル」に停まった。宴会場の入口には、祝賀の文字がいやに眩しく掲げられている。【祝・お姫さま瑠花、主役の座を奪取】会場の扉は開いており、四人の男が瑠花を囲んでいた。瑠花は、かつて美玲が立っていたその位置に立ち、甘やかに笑っている。美玲は皮肉げに小さく笑った。
Read more
第4話
美玲の突然の落ち着き様に、四人の男たちは戸惑った。思わず名前を呼びかけようとしたが、いつの間にかその名が口にしづらくなっていることに気づく。「隼翔、私たちも中へ入りましょう」瑠花が腕に絡みつくと隼翔はようやく我に返った。胸の奥に渦巻く言葉にならない感情を無理やり押し込み、顔を伏せて小さく答える。「ああ」その仕草はまるで恋人同士のように親密だった。「隼翔! 美玲がまだここにいるのよ!」瑠花がわざと甘えた声を出す。美玲はその意図を察したが、取り合う気はなかった。宴の流れは始まる前からすべて彼女の予想の範囲内だった。二十年以上、彼らはいつも美玲のために宴を開いてきたのだから。そして今、三人の兄たちは約束通り、かつて美玲に与えたものを一つ残らず瑠花に与えようとしている。「瑠花、これを見てみろ。俺からの贈り物だ」颯真が箱を開けると、中には夢のように美しい水色の舞踏ドレスが収められていた。宝石一つひとつが目も眩むほど高価で、まるで匠の手によって妖精の衣装ラックから盗み出されたかのような仕上がりだった。美玲は見覚えのあるそのドレスを見つめ、無意識に爪を掌に食い込ませる。それは二年前、美玲が金賞を受賞した時、二番目の兄・颯真が数か月を費やして仕立ててくれたものだった。あの日の授賞式で、颯真は皆の前でこう言った。「このドレスを着られるのは、我が星野家のお姫さまだけだ」その言葉は瞬く間に話題となり、ネットでも「シスコンの極み」と揶揄された。今、瑠花がそのドレスを抱きしめて爪先立ちする姿を目にし、美玲は胸に手を当てた。――離れれば、忘れれば、もう痛まないと思っていた。だが胸に散りばめられた無数の痛みは、容赦なく彼女を苛む。「美玲、隼翔が言ってたの。このドレスにはお揃いのネックレスがあるって。貸してくれる?私、小さい頃に家を離れたけど、美玲みたいに最高の舞踏家になりたいの」瑠花は小首をかしげ、悪戯っぽく手を差し伸べる。その眼差しは暗に語っていた。――美玲は私の人生を奪った泥棒。――金賞を取れたのは、星野家の後ろ盾のおかげ。「瑠花に渡せ」隼翔が強引に口を挟んだ。その冷たい眼差しには、強烈な威圧が宿っている。またしても、その視線が美玲の心を鋭く突き刺す。あのネックレスは隼翔が
Read more
第5話
四人の男たちは、一瞬にして美玲のそばから離れた。隼翔の冷たい眼差しも瑠花に向けられると柔らかく、慈しみに満ちたものへと変わる。「美玲、お前の容態は大したことはないだろう。宴が終わってから、みんなで一緒に行こう。時には楽しく過ごした方が、体にもいい」颯真がそう言って結論を下した。彼らは結局、瑠花と美玲の間で――瑠花を選んだのだ。「要らない」美玲は背を向けた。施しのような愛情など欲しくはなかった。ホテルを出ると携帯が立て続けに鳴った。三人の兄からは「病院に行け」という念押しの連絡、そして隼翔からは病院の予約票。一文字ずつに込められた「心配」を目にして、美玲はただ笑いたくなった。――いったい何の芝居をしているの?この体がこうなったのは、まさに彼らのせいなのに。三か月前、美玲と瑠花を襲ったのは星野家のライバルだった。誰もが知っていた。奴らは死を覚悟しており、美玲と瑠花に良い結末などあるはずがないと。犯人たちは二つの住所を残し、星野家が戦力を分散させるよう仕向けた。だがそれは誤算だった。全員が瑠花のもとへ向かい――美玲を助けに来る者はひとりもいなかった。犯人たちは憤りのすべてを美玲にぶつけた。彼女は冷たい床に引きずられ、刃物で少しずつ皮膚を切り裂かれた。容赦のない拷問の果てに、彼女は流産を強いられた。希望は恨みへと変わり、やがて希望すら消え失せるまで――美玲にとっては、半月という短い時間で十分だった。だがその時間はまるで一生にも等しかった。半月後、警察に救い出された。その時には、すでに人の形をとどめないほど痛めつけられていた。それでも美玲は星野家に戻った。だがそこで彼女が見たのは、無傷でただ怯えただけの瑠花を取り囲む人々の姿。誰一人として、美玲が半月も行方不明だったことに気づきもしなかった。彼女が子を失ったことなど、なおさら。頬にねっとりとした感触を覚え手で触れた瞬間、顔中が涙で濡れているのに気づいた。――あの子に、申し訳ない。数か月前の美玲は、まだ隼翔と星野家に希望を持っていた。けれど瑠花の帰還によって、二人の間に溝が生まれた。隼翔を狙う女は少なくなかった。だが以前は美玲が常に彼の傍にいたため、誰も行動には移せなかった。あの日の舞踏会で、隼翔は
Read more
第6話
美玲は神や仏を信じる人間ではなかった。けれど耳にしたことがある――生まれてこられなかった子は、あの世でいじめられるのだと。彼女は指先を針で突き、血をにじませながら、一針一針縫って小さなお守りを作る。あと三日で美玲はここを去る。去る前にこのお守りを寺へ納め、あの子のために祈ってやりたいのだ。その日、彼女は一日中部屋にこもっていた。星野家の誰とも顔を合わせたくなかったし、外に出る時間もない。そして深夜になってようやくお守りが出来上がった。翌朝、美玲は早くに目を覚ました。星野家の誰にも気づかれぬよう、別荘地から歩いて地下鉄駅へ向かい、そこから業務窓口のあるビルへ。ちょうど職員が出勤してくるところだった。パスポートを受け取り、立ち去ろうとした時肩をぽんと叩かれる。「美玲! あなたも来てたのね!」振り返ると、中村千代(なかむら ちよ)がにっこりと笑っていた。笑うと頬に小さなえくぼができる。千代は美玲の一番の親友で、星野家の向かいに住んでいる。「なんで送別舞踏会を中止したの?私、チケット買って応援するつもりだったのに!」千代は気さくに美玲の肩を抱き寄せる。二人は普段から何でも言い合える仲だ。だがこの時ばかりは、美玲はどう説明すればいいか分からなかった。星野家には育ててもらった恩がある。三人の兄を矢面に立たせるようなことは、口にできない。美玲の沈黙に、千代の笑顔が消える。「もしかして、あの女のせい?」美玲は薄く笑ったが、答えはしなかった。千代はすぐに察し、正義感に駆られて憤る。「最初から怪しいと思ってた!貧しい家の出だって言いながら、どうやって星野家のDNAを手に入れたの?星野家って――」「もういいの」美玲は千代の手を握った。「星野家がどう選ぶかは、星野家の問題。私には、私の選ぶ道がある」星野家のことにはもう関わりたくなかった。それは彼らの問題であり、美玲とは無関係なのだ。千代も口をつぐむ。大きな家の事情に、彼女たちが口を挟む余地はない。「美玲、この間ずっと姿を見せなかったから、みんながあなたを心配してたのよ。私たち仲間の令嬢たちは、みんなあなたの味方だから。必要なときは、遠慮なく言って」千代は両手を広げた。美玲はその抱擁を受け入れ、互いに背中を軽く叩き合う。目の縁が熱くなる。
Read more
第7話
道中、隼翔と美玲は一言も交わさなかった。まるで、すでに赤の他人になってしまったかのように。赤信号で止まり、再び走り出したとき隼翔が口を開いた。「寺へ行って、何をするつもりだ?」「祈願よ」美玲は淡々と答える。隼翔はさらに問いかけた。「誰のために祈るんだ?」美玲は顔を上げ、バックミラー越しに隼翔の横顔を見つめた。――あの夜のことを、本当に覚えていないの?――二人の間にできた子どものことを、本当に気にしていないの?「数か月前、ホテル・ルミナスでのこと、覚えてる?」隼翔の眉間に皺が寄る。彼は覚えていた。あのとき招待してきたのは小さな取引先で、先代の紹介状がなければ隼翔はそもそもその宴に出席しなかった。そして案の定、宴席で薬を盛られた。その夜、隼翔は瑠花と関係を持ってしまった。その借りを返すために、婚約者を入れ替える話を持ち出したのだった。――だが、今さらなぜそのことを?「婚約を解いたのは俺自身の問題だ。お前とは関係ない。だから気にする必要は――」言いかけたところで、隼翔の携帯が鳴った。それは瑠花が特別に設定した着信音だった。一度鳴っただけで、隼翔は即座に出た。「隼翔、今忙しい?来てくれる?私、チワワに引っかかれちゃって……ごめんなさい、いつも迷惑ばかりかけて」甘えて哀れを誘うような声が、電話の向こうから響く。隼翔は思わず美玲の方を見やった。「隼翔、私もどうしても伝えたいことがあるの。聞いてくれる?」美玲はお守りを握る手に力を込めた。隼翔は眉をひそめる。「後にしてくれ。瑠花が怪我をしてる」「……分かった」その瞬間、美玲の心は完全に崩れ落ちた。彼女はすぐさまドアを開け、振り返ることもなく車を降りた。あまりにあっさりとした様子に、隼翔の方が戸惑った。――今回は、これまでと違う。美玲は本当に、自分の世界から消えてしまうのかもしれない。説明のつかない焦燥が胸を締めつける。問いかけたい言葉は喉まで出かかった。だが結局、口から出たのは「すまない」の一言だけだった。黒い車は砂煙を巻き上げながら走り去った。やがて砂が収まったときには、美玲の姿はもうそこになかった。静水寺は街外れにある。隼翔が美玲を降ろした場所からでは車も拾えない。美玲は歩いて寺まで辿り着いた。
Read more
第8話
美玲の胸は張り裂けそうなほど緊張していた。何も顧みず、小犬に飛びかかりお守りを取り戻そうとする。だが、その足を瑠花が伸ばして引っかけた。「きゃっ!」背後で悪びれる様子もなく足を出した瑠花は転び、美玲も石に手を打ちつけ、鋭い痛みに思わず声を漏らした。それでも――美玲はお守りを取り戻した。――ごめんなさい、私の子。私が守り切れなかった……美玲はお守りをぎゅっと握りしめ、胸に押し当てる。掌の傷から血が滲み、布を真っ赤に染めていることにも気づかずに。「瑠花!」その光景を見て、隼翔は手にしていた電話を放り出し、駆け寄って瑠花を抱き起こした。電話はスピーカーモードのままで、助手の賢吾の声が漏れ聞こえる。「花村社長、ホテル・ルミナスの件、整理した資料をメールでお送りしました」だが三人の耳には、もう届かなかった。隼翔は切迫した顔で瑠花の怪我を確かめる。瑠花はか弱く隼翔の腕に身を預け、すすり泣いた。「隼翔、どうして美玲はこんなに私を嫌うの?私が美玲の居場所を奪ったから?でも、そんなつもりじゃなかったのに……」「違う」隼翔は痛ましげに、青くなった瑠花の脚を撫でる。その瞳に宿る憐れみが、美玲に向いた瞬間、冷え冷えとした陰りへと変わった。「謝れ」――笑わせる。奪ったのは瑠花の方。転ばせたのも瑠花。それが見えないの?隼翔には。美玲は苦笑を浮かべ、隼翔をじっと見据えた。その壊れかけのような表情に、なぜか隼翔の胸は締めつけられるように痛み、息が詰まるほどだった。だが美玲は何も言わず、踵を返す。「隼翔……」声をかけようとした隼翔の背後から、瑠花の弱々しい泣き声が響いた。「美玲、謝れ!」「そのまま行くなら――もう二度と会わない!」美玲の足が一瞬止まった。――なら、それでいい。再び歩き出す足取りは先ほどよりも強く、確かなものだった。小さくなっていく美玲の背中を見つめるうち、隼翔は不意に胸騒ぎを覚える。大切なものが、自分の手から永遠に離れていく――そんな予感がした。星野家を出てから、美玲はようやく掌の激しい痛みに気づいた。お守りは血で真っ赤に染まり、傷口に貼りついている。剥がそうとすると、肉ごと裂け、血が溢れ出した。――瑠花の脚の痣など、比べものにな
Read more
第9話
美玲の飛行機が離陸したとき、国内の劇場ではちょうど幕が上がったばかりだった。そのとき、助手の賢吾から隼翔に電話が入る。「花村社長、ホテル・ルミナスの件で手がかりが見つかりました。どうやら我々の想定とは少し違うようで……」「すぐ戻る。待っていろ」隼翔が立ち上がろうとした瞬間、着替えを終えた瑠花が服の裾を掴み、潤んだ瞳で哀れを誘うように見上げた。「隼翔……私、今日が初めての主役なの。ずっとここで見ていてくれない?」「手を放せ」――隼翔の声は冷えきっていた。あまりに突然の態度の変化に、瑠花は呆然と立ち尽くす。「瑠花、前にも言ったはずだ。お前は俺を助けるために清白を失った。その借りとして花村家の妻という座は与えられる。だが――それ以上はない。その座に満足できないのなら、取り上げることもできるぞ」隼翔の瞳には氷のような冷たさが宿っていた。頭の中には賢吾の言葉が繰り返されていた。――想定とは違う?――あの夜の相手は一体誰だったのか?車に乗り込んだ隼翔は、不意に思い出す。あの日、美玲が問いかけてきた言葉を。「ホテル・ルミナスのこと、覚えてる?」その続きを口にしようとした美玲の声は、瑠花からの電話で遮られたのだった。苛立ちが胸をかすめる。助手席――美玲が座っていた場所に視線をやりながら、隼翔はアクセルを踏み込んだ。――花村グループ本社ビル。賢吾は削除されていた監視映像を復元していた。画面には、薬で朦朧とした隼翔が部屋に運び込まれた直後、美玲が扉を押し開けて入ってくる姿が映っていた。そして夜明け近く、彼女はようやくふらつきながら部屋を出て行く。その時、隼翔は薬のせいで狂ったように彼女を求めていた。去っていく美玲は壁に手をつき、足取りは弱々しかった。美玲が去った直後、瑠花がこっそり部屋に入り――そのまま隼翔に抱えられて出てくる映像が続く。隼翔は椅子に崩れ落ちた。――あの夜、狂おしいほどに抱き合った相手は瑠花ではない。美玲だった。隼翔は――致命的な過ちを犯していた。何度も美玲の番号を押し、パソコンの画面では映像を繰り返し再生する。だが電話は繋がらなかった。映像も止まらなかった。すべてが隼翔に突きつけていた。この過ちを積み重ね、取り返しのつかないものにしたのは、他なら
Read more
第10話
隼翔は賢吾に連絡を入れ、美玲がどこへ行ったのか調べるよう指示した。携帯を置いた隼翔は、美玲がいつも座っていた椅子にもたれて崩れ落ちた。力も気力も、すべて吸い取られてしまったかのようだった。直哉は床に座り込み、美玲が暮らしていた部屋を呆然と見つめている。瑛斗と颯真もいつもの席に腰を下ろす。普段は冷静沈着を装う二人だが、落ち着きなく動くその手が胸の内の狼狽を隠しきれなかった。その沈黙を破ったのは、甲高い着信音だった。隼翔の携帯から、瑠花の声が漏れ出す。「隼翔、あなたもお兄様たちもどこにいるの?私、さっき踊ってて足を捻っちゃって……すごく痛いの、ほんとに……」「死ぬほど痛めばよかったのに」隼翔の声は震えを帯び、低く鋭い怒りに満ちていた。電話の向こうで、瑠花の声がぴたりと止まる。「隼翔……」隼翔は乱暴に通話を切った。振り上げた手は、最後には静かに降ろされる。ここは美玲が暮らしていた部屋――隼翔には、この空間の何ひとつとして壊す勇気はなかった。だが、その拍子に引き出しが少し開き、中から二枚の紙が静かに顔を覗かせる。――妊娠の診断書。隼翔は震える手でそれを取り上げる。検査の日付は三か月前。妊娠の推定日は、奇しくも隼翔が婚約変更を求めたその日だった。そして二枚目は――流産の診断書。隼翔の脳裏に、あの日、携帯に残されていた数えきれない不在着信が蘇る。それは美玲と瑠花が拉致された日。必死に掛けてきた美玲の電話を、隼翔はひとつずつ無情に切り捨てていった。それは隼翔自身の手で――子の命を断ち切ったことに他ならない。隼翔の子は、隼翔自身によって死刑を宣告されたのだ。「ふざけるな!美玲と関係を持ちながら、他の女と婚約だと!」背後から直哉の怒号が響く。診断書を目にした瞬間、抑えていた感情が爆発した。直哉の拳が隼翔の頬を打ち抜く。隼翔も即座に反撃し、直哉の顔面に拳を叩き込む。「なら、あの日お前はなぜ美玲を助けに行かなかった!」あの日、二人の少女が人質に取られた。隼翔は婚約の義務に従い瑠花を助けに走った。星野家の人間が美玲を救い出すはずだと信じて――。だが、誰も行かなかったのだ。診断書がこの部屋に残されている。それなのに、誰一人として美玲を救おうとはしなかった。彼女が犯人の手に落ち、
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status