「先生、私、決めました。黎明自由国の紅蓮ダンスカンパニーからのお誘いをお受けします」 電話の向こうで、恩師・水城晴(みずき はる)の声から、抑えきれない喜びが伝わってきた。 「ようやく決心がついたか。すぐに手配してやろう。俺の教え子なら、将来と男のどちらを選ぶべきかくらい、分かっていて当然だ。一週間だけ時間をやる。友人たちとしっかり別れを済ませておけ」 星野美玲(ほしの みれい)は小さく「はい」と答え、電話を切った。そして、二十年以上を過ごしてきた星野家と婚約者に、完全に別れを告げた。
View More「美玲、部屋の中の物には手を付けていない。お小遣いも毎年きちんと口座に振り込んである。父さんと母さんの顔を立てると思って、受け取ってくれないか」差し出された鍵束には、星野家の家中すべての鍵が揃っており、さらには花村家の鍵まで含まれていた。銀行カードも、美玲が以前から使っていたものだった。瑛斗の眼差しには、尽きることのない願いが込められていた。彼は星野家が美玲に与えた深い傷を理解していた。もはや美玲が星野家の一員として生きていくことを望むのは不可能だ。せめて時折でも顔を見せに帰ってくれれば――それで十分だった。「晴先生からも聞いていると思うけれど、私は永住権を得たの。瑛斗、私は孝司とも正式に交際を始めたわ。これからは黎明自由国で暮らしていくつもりよ」美玲は間接的に拒否した。孝司との関係を口にした瞬間、隼翔はとうとう耐えきれず、立ち上がって部屋を出て行った。これ以上美玲を煩わせるつもりはなかった。だが、黙って彼女が他の男と共にいる姿を見続けることもできなかった。星野家の兄たちもまた、二人の間を見比べていた。しかし彼らも理解していた。もはや美玲の決断に口を挟む資格など、自分たちには残されていないのだと。「美玲、星野家の本当の娘もここにいる。俺たちは……ただついでに、様子を見に来ただけだ」瑛斗は乾いた声で言った。その言い訳でもいい、少しでも長く美玲の姿を見ていたかった。――まさか星野家の実の娘がここにいるとは。美玲の胸には罪悪感が押し寄せた。長い間、自分がその娘の受けるべき愛情を奪っていたのだから。「もし見つかったら、私と会わせてもらえる?」「ああ」瑛斗は承諾し、病院を後にした。星野家の三人の男たちは車に乗り込み、黙ったまま煙草をふかした。立ちのぼる煙が、車内を白く曇らせていく。「瑛斗、お前、なぜはっきり『美玲を連れ戻せ』と言わないんだ」直哉は煙に紛らせるように、嗚咽を隠した。瑛斗は答えなかった。途切れ途切れに燃え尽きていく煙草の火と、繰り返し鳴るライターの音だけが響いた。――再び星野家からの連絡があったのは、ある午後のことだった。美玲は身支度を整え、星野家の本当の娘と会うために出かけた。そして対面した瞬間――互いの目は驚きと喜びに満たされた。「どうして、あなたなの?」美玲の目の前に
「孝司さん、どうしてあなたは、そこまでして押しかけて来るの?」孝司は顔を真っ赤にして、言葉を失ったままだった。美玲は視線だけで問い詰める。その時、小柄な少女がにこやかに手を差し出した。「初めまして。神谷明里(かみや あかり)と申します。私は小野家と長年提携して、専属の医療チームとしてプライベート医療を提供しております」「明里……?」美玲は信じられないというように見つめた。世間で「医術の名手」と噂される医者が、自分と年齢もそう変わらない少女だったとは。しかも、彼女の治療を受けた患者の治癒率は七割に達すると言われていた。二人はすぐに打ち解け、まるで旧知の友人のように心を通わせていった。会話の中で美玲は明里が幼い頃非常に苦しい生活を送っていたことを初めて知った。母を病で失った明里はその瞬間から「絶対に一流の医者になる」と心に決めたそうだ。他の子どもとは違い、幼い頃から医書を片時も手放さず、あらゆる機会を逃さずに医術を学び続けてきたのだ。「今の私があるのは、小野大和(おの やまと)さんのおかげです。あの方の援助がなければ、ここまで来ることは到底できませんでした」そして明里は小さくため息をつき、からかうように笑った。「そのせいで、大和さんは私を見るたびに言うんです。『お前が本当の娘なら、孝司のことで悩まずに済むのにな』って」容赦ない一言に、孝司はじろりと睨み返した。「美玲さん、明里の冗談なんか本気にしないで」「よし、もう顔見知りなら改めて紹介する必要もないな。明里先生、この生徒を頼む。必ずステージに戻してやってくれ」晴は大きな期待を寄せていた。明里は真剣な表情でうなずき、美玲に全身検査を行った。やがて結果が出ると、その顔に険しい影が落ちた。「美玲さん、本来ならプライバシーに踏み込むべきではありませんが……医療上どうしても確認が必要です。あなた、過去に暴行を受けたことはありませんか?」「これらの損傷は一度の外傷では説明できません。しかも、手段があまりに残酷です。美玲さん、正直に話してください。私なら何か手助けができるはずです」だが――あの半月の出来事を、美玲自身は覚えていなかった。医師によれば、大きな外傷を負った際、脳が防衛本能として記憶を強制的に封じ込めたのだという。美玲は穏やかに微笑んだ。「大丈
「それで?」美玲は充血した隼翔の目をまっすぐ見つめる。――それで?傷つくべきところはすでに傷つき、為すべきこともすべて終わっている。その短いひと言が、四人の男たちの口を閉ざした。「美玲……俺たち星野家は、お前に取り返しのつかないことをしてしまった」颯真の口から出たのは、謝罪の言葉だけだった。 しかし美玲は沈黙したまま、謝罪を受け入れることはない。本来、星野家が美玲に謝るべきことなどない。ただ、美玲自身が星野家に抱いてしまった複雑な感情が、彼女を苦しめているに過ぎないのだ。「もしあなたたちが、私を連れ戻すために来たのなら……どうぞ帰って」期待していた返事を避けたその言葉こそが、本心からの答えだった。美玲は彼らを恨んでもいなければ、許しているわけでもない。孝司が電話を掛けると、すぐに外から警備員たちが駆け込んできた。「瑛斗さん、まだ帰る気がないなら……あなた方に退いてもらうしかない。この黎明自由国じゃ、小野家だって侮れないぞ」四人の視線が一斉に美玲に注がれる。彼女は何も言わなかった。だがその沈黙こそが、孝司の行動を認める無言の肯定だった。孝司が指先で合図を送ると、警備員たちは四人を外へと連れ出した。多少強引ではあったが、ようやく楽屋に静けさが戻る。「美玲さん……あなたは、まだ俺のことを好きでいてくれる?」孝司はしゃがみ込み、美玲の腫れた足首にそっと指を這わせ、白い軟膏を丁寧に塗り広げる。美玲はいつだって、完璧な自分でありたかった。だが先ほど、疲れ切った姿を見られた瞬間、どうしても抑えきれずに隠してきた獰猛な一面をさらけ出してしまったのだ。その激しい性質を、孝司はずっと隠してきた。嫌われるのが怖かったから。けれど結局、美玲に知られてしまった。もし孝司に尻尾があったなら、今はしょんぼりと垂れ下がり、裁きを待つ子犬のように見えただろう。そんな孝司の犬の毛並みのような髪を見下ろしているうちに、美玲はむしろ「この孝司の方が愛らしい」と感じてしまった。彼女はそっと手を伸ばし、孝司の顎を軽く持ち上げ、不安げな瞳を見据えながらその唇に深い口づけを落とす。柔らかな感触に孝司は信じられず目を見開き、息さえ止めてしまう。――この夢が壊れてしまわぬように。だが我に返るや否や、彼は狂おしいほどの熱
演目は予定通り幕を開けた。長い治療を経て、美玲は再び舞台に立ったのだ。高度な技を披露することはできなかったが、その一挙手一投足に込められた感情は、観客一人ひとりの心を揺さぶるには十分だった。終幕の時、長い静寂が続いたのち、ついに割れんばかりの拍手が沸き起こった。美玲と孝司は目を合わせ、そろって深々と礼をした。その姿はまるで欠けるところのない玉のように、美しく調和していた。舞台を降りた瞬間、孝司は美玲を抱き上げた。彼女の足首はすでに腫れ上がっている。それでも美玲を包んでいたのは、花束と拍手の嵐だった。だが――視線が瑛斗の姿を捉えた瞬間、美玲の心は強く締め付けられた。まるで宿題をやらずに遊びに出かけた子どもが、ばったり先生に出くわした時のように。瑛斗は長兄であると同時に、美玲にとって父親のような存在でもあった。「もう会わない」と決意していても、姿を見れば本能的に怯えてしまう。「俺が美玲さんを舞台に立たせたんだ。叱るなら俺を叱ってくれ」孝司は美玲を庇うように抱き寄せた。彼ら仲間は皆、子どもの頃に瑛斗に叱られた経験がある。誰かが美玲を連れ出して遊んだ時には、必ず瑛斗の厳しい罰を受ける覚悟をしなければならなかった。しかし今回は、瑛斗の目に涙が浮かんでいた。「美玲……俺にさえ会ってくれないのか?」震える声でそう告げた。電話で「会わない」と言われた時、瑛斗は信じられなかったのだ。美玲は目を伏せ、小さく声を絞り出した。「瑛斗……あなたは永遠に私の大切な兄よ。星野家が私を育ててくれた恩は、決して消えない。でも私はその恩をまだ返せていない……だからこれ以上、あなたの前に立って、辛い思いをさせたくないの」「みんなが言う通り私が手にしたものは、本来私のものではなかった……それでも、あの時間をもらったことに、私は感謝しているわ。これから先は、もう迷惑はかけないから」「もちろん、星野家に何かあれば養女としての責任は果たすつもりよ」美玲が放つ一言一言に、瑛斗の心は重く沈んでいった。かつて瑛斗は、美玲が「分別をわきまえ、自分を困らせないこと」を望んでいた。だが今は――ただ、以前のように自分を頼ってくれる美玲が戻ってきてほしいと願うばかりだった。喉が上下し、込み上げる想いを必死に飲み込む。「中に入れてくれ
「用件があるなら、電話で話して」美玲は隼翔と会う必要などないと思っていた。電話の向こうはしばし沈黙したが、やがて隼翔が口を開いた。「瑠花は星野家の実の娘じゃない」美玲は思わず背筋を伸ばした。当時、瑠花が「星野家の娘」として迎えられた時の騒ぎは、社交界全体を揺るがした。DNA鑑定の結果から美玲の母・星野静香(ほしの しずか)に瓜二つの容貌まで、そのすべてが瑠花こそ星野家の実子だと示していた。そうでなければ、星野家ほどの家庭が容易に外部からの娘を認めるはずもない。だが今さら瑠花もまた星野家の娘ではないと言うのか。隼翔は続けた。「瑠花が属していた一味は、上流階級の『行方不明になった子ども』を装ってのし上がることを生業にしていた。DNAは本物の星野家の令嬢から盗んだものだ。容貌は整形、嗜好もすべて、裏で探り出した情報に合わせて作られていた。組織ぐるみの犯行だったからこそ、星野家を欺くことができたんだ」「それから……瑠花のお腹の子は、俺の子じゃない」二人の間に一瞬の沈黙が流れ、美玲は淡々と「ええ」とだけ応じた。隼翔はなおも別の言葉を期待していた。だが無機質な通話音が、その望みを少しずつ打ち消していった。「美玲……星野家の兄たちが君に会いたがっている。せめて――」言葉を言い切る前に、台所から孝司の小さな声が響いた。「どうしたの?」美玲が携帯を離して振り向く。孝司は指を噛み、涙をにじませながらも微笑んでいた。「大丈夫だよ、美玲さん……ちょっと手を切っただけ。大丈夫、大丈夫だから」「切るわ。私は会わないから」美玲は慌てて電話を切り、薬箱を取り出すと、孝司の指に慎重に薬を塗った。彼女が少しうつむくと、長い髪がさらりと肩からこぼれ、花の香りがふわりと漂った。その仕草一つ一つに孝司の胸は高鳴った。「美玲さん……数日後に舞台に上がることになったんだ。俺のパートナーになってくれない?」美玲の手が止まった。――この壊れた身体で、まだ舞台に立てるのだろうか。自分が踊れる舞は、果たして舞と呼べるのか。そんな資格があるのか。「大丈夫。俺、最高の医者を探したから。この期間しっかり治療すれば、必ず間に合う」孝司は必死に美玲の顔を覗き込んだ。拒まれることが何より怖かった。孝司の言葉に、美玲は顔を上げ
電話がつながると、隼翔の声は震えていた。「美玲……どうして瑠花が君に電話したことを、俺に言わなかった?」電話の向こうで美玲は黙り込み、その場にいた賢吾までもが言葉を失った。美玲はこれまで何度も隼翔に伝えてきた。――だが隼翔は、一度でも信じたことがあっただろうか。いや、美玲でなくとも、たとえどんな単純な生き物であっても、何度も裏切られ失望させられれば、二度と振り向くことはないだろう。「隼翔、私たちはただの幼なじみよ。瑠花が勝手に誤解しているだけ」「それに、あなたの言う通り。瑠花は幼い頃から何も与えられなかった。私が彼女の立場も愛情も奪ってしまったから。だから、少しくらい譲るのは仕方のないことなのでしょう?」静かな美玲の声が電話の向こうから響いた。――それは、かつて隼翔自身が美玲に言い放った言葉だった。大雪の日、隼翔は瑠花を抱き寄せ分厚いコートを彼女に掛けながら、冷ややかな目で美玲を見つめた。あの時隼翔は言ったのだ。「婚約は解消した、俺たちはただの幼なじみで、瑠花は誤解しているだけなんだ、瑠花は幼いころから何も与えられなかった。お前が彼女の立場を奪ったのだから、少しくらい譲ってやるのが当然だろう」と。あの日、美玲は雪の中に立ち尽くし、砕け散った氷の結晶のように心を打ち砕かれた。胸が痛んでも隼翔は自分に言い聞かせた。冷酷に振る舞えば、美玲は現実を受け入れ、星野家の養女として大人しく留まるだろう、と。だが結局、隼翔は芝居にのめり込みすぎて美玲は星野家から、そして彼のもとから逃げ出したのだ。静まり返った電話の向こうから、男の声が聞こえてきた。「美玲さん、服を持ってきてくれない?あと、ボディソープがもう切れちゃった」美玲は小さく返事をした。「隼翔、用がないなら切るわ」隼翔の答えが届く前に通話は無情にも切れ、無機質な音だけが響いた。画面を見つめる隼翔の胸は、煮えたぎる炎のように荒れ狂った。孝司が美玲にボディソープを頼んだ。――つまり、孝司は今美玲の家で風呂に入っている!風呂から上がった後、二人はいったい何をするというのか!?隼翔は衝動的に手を振り上げ、スマートフォンを叩き割った。そばに立つ賢吾は身を震わせ、影に沈んだ隼翔を見て、必死に自分の存在を小さくした。「帰国する」隼翔はか
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