風よ、我を遠くに連れて行って
瀬戸未玖(せと みく)は、これが何度目になるのか――もう、数えるのをやめてしまった。
夫である瀬戸海斗(せと かいと)が求める反応を、返してあげられないことへの無力感に、未玖はただ打ちひしがれていた。
けれど、今日の検診で、医師の言葉は確かなものだった。治療の効果が現れ、聴覚神経が回復し始めていると。間もなく、失われた音の世界は完全に戻ってくるだろう、と。
もうすぐ、また普通に話せるようになる。もう二度と失望させたり、興醒めさせたりせずに済む――!
希望に胸を震わせ、未玖は口を開いた。けれど、喉から最初の声が漏れた途端、海斗は不快そうに眉をひそめた。
「先に寝てて。な?おやすみ」
冷たく言い残し、彼は去っていく。
未玖は胸を締め付けられるような申し訳なさを抱えながら、それでもこのいい知らせを伝えたくて、書斎へと彼を追った。手話ならば、正確に伝えられるはずだから。
書斎の扉は、わずかに開いていた。
手をかけて押し開けようとした、その時だ。
扉越しに、くぐもった音が聞こえた。海斗の声だ。パソコンに向かい、「声を聞かせてくれよ」と甘えている。
隙間から覗き込むと、画面の中には女性の姿があった。
露出の多い、扇情的なキャミソールを身に纏い、唇に妖艶な笑みを浮かべている。「かしこまりました、海斗さん~。専属声優の荻野香奈(おぎの かな)、今日はたっぷりとご奉仕させていただきますね」
海斗の手が、熱を帯びた自身へと伸びている。その瞳には、未玖が一度も向けられたことのない、生々しい情欲が宿っていた。
「俺の名前を呼んでくれ!」
「海斗さん、あぁ、海斗さん……っ!」
甘く、脳を溶かすような蠱惑的な声が、何度も何度も耳にこびりつく。その場に立ち尽くす未玖の全身が、凍てついた水底へと沈んでいくようだった。
さっき、急いで寝室を出ていったのは、仕事があるからではなかった。彼にはもう、他の女がいたのだ。
そういうことなら――
あなたの望み通りにしてあげる。離婚して、約束通り――あなたを、一文無しにしてやるわ!