LOGIN私は佐伯春菜(さえき はるな)。彼氏の江口亮介(えぐち りょうすけ)と付き合って、もうすぐ五年になる。 ようやく亮介が「親に挨拶してもいいよ」と言ってくれたのに、食事会の途中で「会社から連絡が来た」と言い訳して、そそくさと店を出ていった。 私は無理やり笑顔を作って両親を見送り、ひとりになったところで、黙ってスマホを取り出す。 案の定、亮介の「異性のダチ」がまたインスタのストーリーを更新していた。 【結婚しろってプレッシャーかけられても、親に挨拶してくれる「神対応男子」がいれば余裕〜 ご褒美のキス一発、次もこの調子で~】 一枚目の写真は、亮介がその子と腕を組んで、年配の人たちにお酌しているショット。もう一枚は、女の子が彼の頬にぴったりくっついてキスしているアップ。 その投稿の下に、亮介の「いいね」がついていた。それに気づいた私は静かにインスタを閉じて、父さんに電話をかける。 「父さん、もう決めた。そのお見合い相手と、結婚してもいい。 うん……背中を押してくれたのは、あの人だった」
View More「先に悪いことしたのは、俺のほうだろ。」ビルの入口を見上げたまま、亮介が低く言った。「あんたが?あいつのどこに謝る必要があんの?親の金でふんぞり返ってるお嬢様に、本気なんてわかるわけないじゃん!」まさにそのとき、私は会社のビルから外へ出てきた。耳に飛び込んできたのは、ちょうどその一言だった。私に気づいた亮介は、反射的に美紗を押しのけて、一歩前に出てくる。美紗はすかさず彼の腕をつかんで、離すまいとした。「はる、ちょっとだけ話せないか……?」ほとんど懇願に近い声だった。美紗は鼻で笑う。「なにそれ、頭下げんの?この女ホントにあんたのこと愛してるならさ、こんな扱いはしないよ」私は立ち止まりもせず、そのまま待たせてある車のほうへ歩いていく。背後で突然、ドンっていう鈍い音と、もつれ合う足音が響いた。振り返ると、亮介が美紗を思いきり突き飛ばしているところだった。アスファルトに尻もちをついた美紗は、甲高い悲鳴をあげて立ち上がり、そのまま亮介の顔に爪を立てる。かつては「仲良し」と呼ばれていた二人が、今は会社のビルの前で、獣みたいに取っ組み合いのケンカをしている。あっという間に人だかりができ、やがて誰かが警察に通報した。パトカーが到着したとき、亮介の顔は爪痕で血まみれになっていた。それでも彼は、連れて行こうとする警察官の腕を振り切り、こっちに向かって叫んだ。「はる、ごめん!本当に悪かったって、今は心から思ってる!許してくれよ、頼むから!」私は、その光景を少し離れたところから静かに見つめていた。ふいに、一年前のことを思い出す。あのときも、ちょうどこんな夕暮れだった。亮介からのメッセージを、今でも鮮明に覚えている。【美紗がケンカして警察署に連れて行かれた。迎えに行かなきゃ。俺、ああいうまっすぐな性格、嫌いじゃないんだよな】——そう、彼は誇らしげに言っていた。あの夜、私はベッドの中で一晩中泣き続けていたのに、今こうして同じような光景を目にしている私の胸にこみ上げてくるのは、涙なんかじゃない。……ただ、「うるさいな」という感想だけだ。車に乗り込むと、すぐに悠真から電話がかかってきた。「今日、晩ごはん一緒にどう?」「うん、行く。」そう返事をしてから、ふと窓の外を見る。パトカーはもう遠く
しばらくのあいだは家にこもって、昔の出来事が本当に自分に何の影響も及ぼさなくなったって思えるまで、わざと外の世界から距離を置いていた。ざわつきがやっと静かになった頃、ようやく外に出て仕事を探してみようかなって悠真に話したとたん、彼は本当にうれしそうに私の頭をくしゃっと撫でてきた。「春菜も大人になったなあ。自分の考えを顔に出さないってことまで覚えたんだな」こっちはとっくに成人してるんだけど、悠真の中の私はいつまでも「昔のちょっと生意気で可愛い近所の女の子」のままらしい。だから、私がほんの少しでも成長したところを見つけると、それだけで全力で褒めてくれる。そんなふうにいつも甘やかされてきた日々のなか、「ひとつ仕事を用意したよ」と悠真が言ってくれたときも、私は結局それを断らなかった。ここ数年で、水川家の商売は一気に大きくなり、この街でもトップクラスの企業グループにまで成長したことくらい、私もわかっている。彼と結婚すると決めた以上、その家で仕事をもらうことに、いまさら変な意地を張る必要なんてない。……けど、その仕事が亮介と繋がっているなんて、夢にも思わなかった。というか、海外から帰ってきたばかりの悠真も、まさか亮介が自分の会社で働いているなんて、さすがにそこまでは知らなかったらしい。……入社初日、私はかなり早めに本社ビルに着いた。人事部長が手続き一式をてきぱきと済ませ、そのまま私を自分のフロアの部屋へと案内する。初めてそのガラス扉をくぐったとたん、その場に固まった男と目が合った。亮介だ。彼の手には、私に——つまり新しく着任した直属の上司のために用意されたらしいコーヒーカップが握られている。驚きすぎて、指先から滑り落としそうになっていた。あまりにもおかしい光景に、つい笑いがこみ上げる。昔の彼は、私の給料が安いだの、彼の仕事のしんどさをわかっていないだの、散々こぼしていたのに。その「給料の安い彼女」が、今は彼の直属の上司としてここに立っている。人事部長は、簡単に私の経歴を紹介した。父の話を出したとたん、亮介の顔色がさっと変わる。さらに「婚約者の水川悠真は、この会社のオーナー側の人間です」と一言添えられたとたん、彼は本気でふらつき始めて、今にもその場に崩れ落ちそうになった。それでも、なんとか平静を装
ずっと待ち望んでいたセリフのはずなのに、いざ耳にしてみると、どんな顔をしていいのかわからなかった。膝をついている亮介を見下ろしながら、私はふと思う。かつて私の心をズタズタにしたこの男が、今はひどく遠い他人みたいに見える。これで裏切りが帳消しになると思っているの?ひとりで朝まで泣き明かした夜の数々まで、「スターリースカイ」の指輪一個でチャラにできると本気で信じているの?もしその答えが「はい」だと思ってるなら、それは相当な勘違いだ。張りつめた沈黙の中、私は小さく息を吐いて、視線をそらした。少し離れた街路樹の陰に向かって、わざと普段どおりの調子で声をかける。「ねえ、あなた。いつまでそこで見物してるつもり?」……「……あなた!?」その一言が響いた瞬間、そこにいた全員の動きが止まった。一斉に、私が見つめている街路樹のほうへと視線が向く。まさか、私の口から「あなた」なんて出てくるとは、誰も思っていなかったのだろう。木陰から、ひとりの男性がゆっくりと姿を現した。白いシャツに金縁のメガネ。袖はラフにまくり上げて、両手をポケットに突っ込んだまま。口元には、笑っているのかいないのかわからない、淡い笑み。悠真だ。「こんな面白いショー、最後まで見ずに出ていくわけないだろ、ダーリン」そう言って、彼はごく自然な仕草で私の腰に腕を回した。「……え?」その呼び方に、亮介の目が思わず見開いた。みるみるうちに、その顔から血の気が引いていく。さっきまで「ちょっと拗ねているだけだ」と勝手に決めつけていたくせに、目の前に「結婚相手」本人が現れたとたん、ようやく事態を飲み込んだようだった。「こいつは……?」かろうじて絞り出した声は、わずかに震えている。それでもまだ、どこかで「嘘だ」と信じたがっているのが丸わかりだ。悠真は軽く会釈し、私を抱く腕に少し力を込めた。「初めまして。春菜の婚約者、水川悠真と申します。二ヶ月後に結婚しますので、そのときはぜひ披露宴にいらしてください」その一言を聞いた瞬間、亮介の目から光が消えた。手に持っていたリングケースが、「パチン」と情けない音を立てて地面に落ちた。「なんで……なんで一度もそんなこと言わなかったんだよ……」「何度も言ったよ。あんたが聞かなかっただけ」私は悠真の
亮介の言葉を聞いた瞬間、頭の中が一気に「?」で埋め尽くされた。なんでそんな馬鹿げた質問ができるのか、本気でこの人の脳みそを取り出していじってみたい。だってこの前、「他の人と結婚する」って内容のメッセージは、ちゃんと送っておいたはず。それなのに、今ここで「俺のことどうでもいいのか」なんて真剣な顔で聞いてくる。あと少し来るのが遅かったら、私、子どもでも抱きながらここを歩いていたかもしれないんだけど。「私たち、もう別れたよね。今さら何してんの?引き止め?」声は、自分でも驚くくらい冷たかった。余計な期待を一ミリも持たせないように、きっぱりと言い切る。「悪いけど、もう手遅れよ」「俺は認めてねえんだよ!」亮介は本気でムッとして、声を上げた。「俺は『別れよう』なんて一言も言ってねえからな!まだみさのこと怒ってんなら、アイツにちゃんと謝らせるからさ。はる、もう拗ねるなって。一緒に帰ろうぜ?俺たち、もうすぐ結婚する予定だったんだろ?」私はこくりとうなずいてから、淡々と返す。「付き合うには同意がいるんだけど、別れるのにあんたの許可なんていらないよ。あんたの言うとおり、私はたしかに結婚するつもりだけど、残念ながら相手はあんたじゃない」「そんなくだらねえ意地張ってんじゃねえよ!俺以外に誰がいるんだよ」くだらない質問に答える価値なんてない。そんなうぬぼれた男と、これ以上口をきく時間がもったいない。私はそのまま彼の手を振り払い、階段を上がった。踊り場に差し掛かったところで、背後から叫び声が追いかけてくる。「俺は、お前を諦めねえからな!はる、見てろよ。世界で一番お前を愛してるのは、この俺だって証明してやる!」亮介の言葉を、正直そのときは少しも本気にはしていなかった。まさかその「証明」があんなに早くやってくるなんて、夢にも思わずに。……翌朝。私は階下から聞こえてくる妙にざわついた声で目を覚ました。ベッドからむくりと起き上がり、カーテンを少しだけ開けて下をのぞき込む。視界に飛び込んできたのは亮介、その横に美紗、それから見覚えのある「つるんでる連中」が何人か。メガホンを手にしたあいつらは、どう見てもサプライズ系の何かをやらかす気満々だった。……心の底から、悠真が医者でよかったと思った。朝から病院に出勤していて、本当に助